下賜されまして ~戦場の餓鬼と呼ばれた軍人との甘い日々~

星森

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下賜されまして ~戦場の餓鬼と呼ばれた軍人との甘い日々~

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 馬車の扉が開くと冷たい風が、18歳の少女ソフィアの頬を撫でた。  

 石畳の先、屋敷の玄関に立っていたのは、漆黒の髪に金の瞳を持つ大柄な軍人──グラッド・エルグレイムだった。  
 その体格はまるで戦場の壁。黒い軍服の肩には騎士爵の紋章が光る。
 まだ若い、ソフィアの6歳上の彼は、年齢に似合わない威厳があった。

 出迎えの言葉も、視線もない。  
 ソフィアが踏み出すと、彼は無言で金貨の詰まった袋を差し出した。

「これで好きにしろ」  
 それだけ言って、背を向けた。

 後に残されたソフィアのもとへ、ひとりの男が静かに歩み寄る。  
 灰色の髪に淡い青の瞳、整った身なりの家令──セルジオだった。  
 彼は2つしかないトランクを手に取り、無言のまま屋敷の中へと先導する。

「旦那様は極度の人嫌いで使用人がおりません。自分のことは自分でしてください」

 通された部屋は広く、調度品は整っていたが、どこか冷たく感じられた。   
 王宮では当たり前だった侍女の手も、気配も、ここにはない。  



 夜も深まり、廊下は静まり返っていた。  
 途方に暮れるソフィアの元へ、足音が近づいてきた。

「着替えもしないで──何をしてたんだ」

 入室してきたグラッドの声は低く、しかし鋭かった。  
 ソフィアは驚いて振り返り、言葉を詰まらせる。

「あ……その……」

「俺に触れられるのが嫌で、夜の支度をしなかったのか」

「え、いえ、ち、違います」

 その瞬間、扉が静かに閉まる。  
 部屋の空気が、重く沈んだ。

 ソフィアは、窓の外を見つめながら、ぽつりと呟いた。

「陛下──なぜ、このような仕打ちを……」

 その声は誰にも届かず、夜の波に吸い込まれていった。




 1歩も部屋から出ないまま、1日が過ぎた。
 ソフィアは初日に着ていたままの薄いドレスの裾をぎゅっと握りしめたまま、動けなかった。

「食事を摂られませんと」  
 家令がパンを載せた皿を差し出す。
 彼の顔には心配と困惑が混じっている。

 ソフィアはその皿を見ずに視線を机の上へ落とすと、ぽつりと言った。

「それよりも裁断ハサミを」

 家令は戸惑いながらも、ハサミを取って戻ってきた。
 音もなく彼が差し出すのを受け取り、ソフィアは鏡の前に座ると無言で髪に手をかけた。

 ジョキジョキと刃が髪を断つ音だけが、静まり返った室内に響く。
 切り落とされた長い茶髪が肩に散り、ソフィアの表情は淡々としていた。

「なんてこと……」  
 家令の声が震えた。

「このままでいて一体誰が洗い、誰が結うの」  
 ソフィアは鋭く言い放つ。言葉に冷たさはないが、決意の熱がこもっていた。

「っ」  
 家令は言葉を詰まらせ、目をそらす。

「次は服を切るから出ていって。夫以外に肌を見せるわけにはいきません」

 命令めいた言葉に、家令はゆっくりと深く息を吐いた。
 彼は皿を机に戻し、静かに部屋の外へ出て行った。



 昼の廊下に、水の跳ねる音がかすかに響いていた。  
 ソフィアはネグリジェの上にガウンを羽織り、両手でバケツを抱えて歩いていた。

 ふと、重い足音が近づいてきた。
 振り返ると、グラッドが無言でバケツを取り上げた。

「勘違いをして悪かった。しかし、服が脱げないなら脱げないと言えばいいものを」

「至らずに申し訳ありません」

 ソフィアは頭を下げたまま、声を絞り出す。

「……ここは君が怒る場面だろう」

「夫に声を荒げる、などという教育は受けておりません。それよりも、はしたない格好で部屋の外に出たことを、お許しください」

 グラッドは、しばらく黙っていた。金の瞳が、彼女の細い肩を見つめる。

「……王は、そんなにも高圧的だったのか」

「まさか。陛下はいつも優しく、慈しみを持って接してくださいました」

「ならば、何故そうなんだ?」

「そう、とは?」

 ソフィアは首をかしげ、金の瞳で見上げる。

「お気に召さない部分があれば、ご指摘ください。すぐに直します」

「もういい」  
 グラッドは短く言い、バケツを持ったまま廊下を歩き出す。  
「先ほど、1人で脱ぎ着できる服を用立てるようにセルジオに言った。直に来る」

 ソフィアはその背を見送りながら、胸の奥に小さな波紋が広がるのを感じていた。  
 夫の言葉は、叱責でも命令でもなかった。



 ソフィアはひとりで体を拭いていた。  
 湯浴みできるほどの量の水を運べず、バケツに浸した布で拭くしかなかった。

 そのとき、扉の外から控えめなノック音が響いた。

「服をお持ちしました」
 家令の静かな声が扉越しに届く。

「そこに置いておいて」
 ソフィアはそう返し、扉の向こうの気配が遠ざかるのを待った。

 新しい服に着替え、セルジオが持ってきたパンをひと口かじると、ソフィアは屋敷の外へ出た。  

 馬車留めに向かい、物置のような建物にも足を運んだが、どこにも人の気配はない。

「本当に使用人がいないのね……」

 呟いた声が、石壁に吸い込まれていく。

 屋敷の裏手でようやくセルジオを見つけたソフィアは、まっすぐに言った。

「馬車を出して欲しいの」

「どちらへ」

「銭湯と美容室と買い物よ」

 セルジオは一瞬だけ目を見開いたが、すぐに頷いた。

「では伝書鳥で辻馬車を呼びます」

「つ、辻馬車?!」

 ソフィアの声が裏返る。

「まさか乗ったことないと仰る?」

「え、ええ。乗り方を教えて貰えるかしら」

 セルジオは、小さくため息をつきながら頷いた。 



 夕方、屋敷の門が重く開いた。  
 騎士団の一団が、ソフィアを馬車から降ろして屋敷へと送り届けた。  
 その背後には、銭湯での騒ぎの余波がまだ漂っていた。

 グラッドは玄関で彼らを迎え、無言で事情を聞いた。  
 騎士団長が簡潔に報告する。

「入浴中に夫人が金貨を盗まれ、騒ぎとなりました。最初は自作自演を疑われましたが、私達が元側室であることを確認。捜査に切り替えました」

 グラッドは眉をひそめたが、何も言わず頷いた。  
 騎士団が引き上げると、ソフィアは深く頭を下げた。

「申し訳ありません。ご迷惑をおかけしました」



 その夜、ソフィアは伝書鳥に要件を託した。  
 翌朝、屋敷に商人が訪れる。

 ソフィアは数少ないドレスと宝石をすべて並べ、静かに言った。

「これを売りたいのです」

 セルジオが目を見開く。

「なぜ、お売りに?」

「金貨を盗まれてしまったから」

「残りは? 旦那様から、まとまったものを受け取ったはずです」

「全て盗まれたわ」

「……あれを全部?! なぜ必要な分だけ持っていかなかったのです」

「いくらかかるか知らないもの」
  
 セルジオは言葉を失い、ただ静かに商人の手続きを見守った。



 美容師が礼を述べて屋敷を後にすると、部屋には静けさが戻った。  
 鏡の前に座るソフィアの髪は、先ほどまでのザンバラ頭から、すっきりとしたショートカットに変わっていた。  
 その姿は、どこか幼さと覚悟が混じっていた。

 扉が開く。  
 黒髪の軍人──グラッドが入ってくる。  
 彼はソフィアの頭を見て、しばらく黙っていた。

「……」

 そして、懐から金貨の袋を差し出す。

「王宮に持参金を、こちらへ送るよう手紙を出す予定です。もしかして、もう届きました?」

 ソフィアは金貨を受け取りながら尋ねる。

 グラッドは首を振った。

「そうですか……では、こちらは持参金が来るまでお借りします」

「やったものを返されても困る」

「しかし、私のミスですので」

「いや、俺のミスだ」

「え」

 ソフィアが目を見開く。

「貴族夫人に護衛もつけず、辻馬車に乗せたのは俺だ。俺が悪い。服も、髪も、金貨も」

「旦那様というのは、間違わないものですわ。私が勉強不足だったのです。申し訳ありません」

 その言葉に、グラッドは眉をひそめ、苛立ちを隠すように背を向けた。  
 何も言わず、足音だけを残して部屋を出ていく。

 ソフィアは静かに金貨の袋を握りしめた。  
 それは、謝罪でも贈り物でもない。  
 ただ、2人の距離を測るための重さだった。




 ソフィアはキッチンに立っていた。  
 だが、調理器具の名前も配置も分からず、戸棚を開けては閉じ、鍋を持っては戻す。  

 結局、図書室に足を運び、料理書を広げて勉強することにした。

 翌朝、屋敷に食材が届いた。  
 ソフィアは早速料理に取りかかる。  
 だが、最初の卵を割ることすらうまくいかず、ボウルの縁で殻を砕こうとして中身を床にこぼしてしまう。  
 火を使えば火力が強すぎて、小さな炎が鍋の縁から跳ね上がった。

 その場に現れたセルジオが、静かに問いかける。

「……何を作ろうとなさったのですか」

「コンソメジュレの冷製テリーヌ。鴨のロースト・赤ワインソース。トリュフ入りスクランブルエッグ。アーモンドのクロカンブッシュ」

 ソフィアは真面目に答えるが、セルジオは目を伏せて言った。

「卵もうまく割れなかったのですよね?」

 その言葉にソフィアは、何も返せず俯いた。


 午後、親しくしていた貴族たちからカヴァネスの依頼が届いた。  
 ソフィアは手紙を読み、返事を出そうと立ち上がったが、足元がふらつき、そのまま倒れ込んだ。

 ちょうど彼女の部屋へ向かっていたグラッドが、廊下で倒れたソフィアを見つける。  
 すぐに医者を呼び、屋敷は一時騒然となった。

 診断は、栄養失調と過労。  
 医者は、グラッドとセルジオを厳しく叱責した。

「貴婦人に使用人をつけないなど、正気の沙汰ではありません!」

 グラッドは黙って叱られながら、ベッドで眠るソフィアの顔を見つめていた。  
 その表情には、怒りでも後悔でもない、ただ静かな焦りが滲んでいた。  
 彼女の髪は短く、頬は少しこけていた。  


「やはり、陛下の側室だった方に使用人をつけないなど無理なのです」

 医師が引き上げた後。
 セルジオの声は静かだが、確かな重みがあった。  
 グラッドは腕を組み、しばらく黙っていたが、やがて短く答えた。

「うむ……やむを得ん。下働きの募集を」

 そのとき、ベッドの上でソフィアがゆっくりと目を開けた。  
 顔色はまだ薄いが、意識ははっきりしている。

「気付いたのか」

 グラッドが近づく。

「私のことでしたら、お気になさらず」

「倒れたんだぞ」

「ご迷惑おかけして、申し訳ありません。住み込みのカヴァネスを受けますので、どうぞそれまでの間だけ置いてください」

 グラッドは深く息を吐いた。

「彼女の食べられそうなものを」

「すぐに」

 セルジオは頷き、静かに部屋を出ていった。




 翌日。
 ソフィアはベッドから起き上がり、手紙の束を手に取った。  
 彼女の部屋に滞在したままだったグラッドが、眉をひそめる。

「どこへ行く?」

「手紙を取りに来てもらうのです」

「カヴァネスの依頼?」

「ええ」

「昨日、倒れたばかりだというのに何を言っている」

「1日お休みさせていただいて、すっかり良くなりました」

 その言葉を聞いた瞬間、グラッドはソフィアの腰に手を回し、軽々と抱き上げた。

「きゃっ、な──」

 ソフィアの声が跳ねる。  
 彼は何も言わず、そのまま彼女をベッドへ戻した。  
 その動きは荒々しくも優しく、まるで彼自身が何かを確かめるようだった。

「すでに1人、下働きが来て掃除を始めた。食事はセルジオがつくる。だから君が働く必要はない」

 ソフィアはガウンの裾を握りながら、少しだけ顔を伏せた。

「旦那様は人嫌いだとか。私がいなくなれば、そのように人を雇わず済むのでは」

「君には君の仕事がある。妻としての」

「……パーティーなどはなさらないようですが?」

 その言葉に、グラッドはソフィアの肩を押し、彼女の体をベッドに沈めた。

「夜伽の務めがあるだろう」

 ソフィアは目を見開き、口をパクパクと動かすが言葉が出てこない。

「嫌なら止める」

「め、滅相もございません」

 グラッドは彼女の首筋に顔を寄せる。  
 ソフィアは慌てて言葉を継いだ。

「だ、だ、旦那様、湯浴みもしておりませんし、香もたいてません。着替えに、薄化粧も!」

 グラッドは小さく息を吐いた。

「はぁ……王とは難儀だな」

「え? あっ……」




 ベッドに差し込む光が、白からオレンジに変わっていた。
 グラッドは腕の中にいる妻の髪を撫でながら、少しだけ声を落とした。

「体は平気か? 湯浴みの準備をさせよう」

「非処女でなければ、きっと股が避けて死んでおりました」

 その言葉に、グラッドは吹き出した。

「あ、いや、すまない。慣れるまでは辛いだろうが、辛抱してくれ」

 ソフィアは頬を赤らめながら、そっと目を伏せた。 


 湯気が立ちこめる浴室の中、ソフィアは湯船の縁に座っていた。  
 グラッドが桶に湯を汲み、彼女の背にそっとかける。  
 その手つきは荒々しくも、どこか慣れていない優しさが滲んでいた。

「だ、旦那様、そのようなことなさらなくても、私が自分で」

 ソフィアは慌てて言葉を継ぐが、グラッドは静かに言った。

「何もできないのだろう?」

「それは……」

 ソフィアは言葉を詰まらせる。  
 湯の音だけが、ふたりの間を埋めていた。

「王宮で君についていたメイドは、どうした?」

「ここへ来た時……突然、訳もわからず馬車に乗せられ、陛下の勅命書を受け取りました」

 その言葉に、グラッドは湯を止め、しばらく黙っていた。  
 そして、低く呟く。

「やはりな」

 その声には、確信と怒りと、少しの哀しみが混じっていた。  
 ソフィアは湯の中で指を組み、目を伏せた。  
 王宮の華やかさと、この静かな屋敷の間にある断絶が、湯気の向こうにぼんやりと浮かんでいた。




 夕暮れの光が食卓に差し込む。  
 テーブルの中央には、切り分けられていない巨大なサンドイッチがどんと置かれていた。ナイフもフォークも見当たらない。

「どうした。食べ方がわからないのか。このままかぶりつけばいい」

 グラッドが腕を組みながら言う。  
 ソフィアは目を丸くして、パンの端を見つめた。

「あ、その……」

 グラッドはふっと笑った。
 そして椅子を引いてソフィアを膝に乗せ、サンドイッチを口元に持っていく。

「だだだ旦那様?! な、なぜ膝に──」

「さっさと食べろ。敵が来たら、どうする」

「敵ですか? 暗殺者が?」

 ソフィアは驚きながらも、どこか冷静だった。

「なんだ、あまり驚かないな。そうか。王宮にいれば、そうなるか」

「毒は盛られましたが、物理攻撃は滅多にされませんでした」

 グラッドは声を上げて笑った。

「はっは、頼もしいな。では訓練だと思って噛みつけ」

 ソフィアは戸惑いながらも、サンドイッチにそっと口を寄せた。 




 夜の静けさが、ソフィアの部屋を包んでいた。  
 ベッドの上、月の光が薄く差し込む中、グラッドは静かに問いかけた。

「君は何が好きだ。観劇か、買い物か、植物園か。どこに行きたい?」

 ソフィアは少しだけ目を伏せ、言葉を探すように口を開いた。

「あの……」

「俺と出掛けるのは嫌か?」

「どれも行ったことがありません」

「は?」

 グラッドの声がわずかに低くなる。

「子供の頃は実家から、嫁いでからは王宮から、ほとんど出たことはありません。茶会と夜会くらいです。結婚してからは、それも禁止されましたが」

 その言葉に、グラッドはしばらく黙った。  
 ソフィアの瞳は、遠くを見つめるように揺れていた。

 彼女にとって“外”は憧れでも冒険でもなく、ただの未知だった。  
 グラッドは静かに奥歯を噛みしめた。





 植物園の小道を、ふたりは並んで歩いていた。  
 ソフィアは足を止めるたびに、花の名前や育て方をぽつぽつと語る。

「これは夜香草。夕方になると香りが強くなるんです。肉体疲労にも効きます」  
「こちらは銀葉アカシア。乾燥に強くて、王宮の南庭にもありました」

 グラッドは驚いたように彼女を見た。

「植物に詳しいんだな。宮殿の庭にはえてたか?」

 ソフィアは少しだけ笑って、でもその瞳はどこか遠くを見ていた。

「……本音を言える相手が、草花だけだったのです」

 その言葉に、グラッドは何も言えなかった。  
 風がそっと吹いて、花の香りがふたりの間を通り抜ける。


 温室の奥、珍しい薬草の区画でソフィアが立ち止まる。

「……あんなところに高麗人参が」

 グラッドが眉をひそめる。

「なんだそれ?」

「すごく元気になるんです。滋養強壮、疲労回復に効果があって──」

「よし。買って帰って、2人で夜過ごす前に飲もう」

「そ、そういう意味で言ったのではありません! 戦うことの多い旦那様に、と思って……」

 グラッドは少し驚いたように彼女を見つめる。

「俺のため?」

「迷惑でしたか?」

「いや……嬉しい」

「え」

「なんだ、俺をオートマタと思ってるのか」

 ソフィアは慌てて首を振る。  
 グラッドはふっと笑った、その瞬間──

「火事だ!」

 遠くから叫び声が響き、煙が温室の天井を這うように広がってきた。
 警報の鐘が鳴り響く。  
 人々が叫びながら出口へと走る中、グラッドはソフィアの手を取ろうとした。

「急げ!」

 けれど、ソフィアは立ち止まっていた。  
 視線の先には、展示棟の隅で泣きながら座り込む小さな子供。

「……あの子、ひとりです」

「待て、危ない──!」

 グラッドの声を背に、ソフィアは迷わず駆け出した。  
 煙の中、子供の前に膝をつき、優しく声をかける。

「大丈夫よ。怖くない。私と一緒に行きましょう」

 子供は涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げ、ソフィアにしがみついた。

 その瞬間、背後からマントがふわりと覆いかぶさる。

「……なぜ逃げなかった」

 グラッドが無言でふたりを抱え、出口へと走り出す。  
 煙の中、ソフィアは子供をしっかりと抱きしめたまま、ただ前を見ていた。



 子供を管理者に引き渡すと、緊急対応の人々が走り回る気配の中で、グラッドはソフィアの肩に手を添えた。

「今はこの場を離れよう。怪我はないな?」

 ソフィアはこくりと頷いた。煙の匂いがまだ髪に残っている。



 馬車の中は静かだった。車輪の音だけが遠くで規則正しく続いている。

「身に覚えは?」

 不意に落ちた言葉に、ソフィアは顔を上げる。グラッドはその視線を受け止めて、短く息をついた。

「君は……いや、事態がもう少しはっきりしてからにしよう」

「私が……狙われているのですか?」

「まだ分からない。だが、心配しなくていい」

 グラッドは窓の外に目をやり、低く続けた。

「火の出どころが不自然だった。温室の通路が1番混む時間に、出口側から煙が回り込んでいた。偶然かもしれないが、偶然にしては出来すぎだ」

 ソフィアは指先に残る薬草の香りを確かめるように、そっと手を握りしめた。

「もし私が原因なら──」

「原因じゃない。君は救った。それだけだ」

 言い切る声は、鋼のように揺るがない。

「王宮で狙われたことがあると言っていたな。詳しくは、今は聞かない。だが、今後はすべて俺の警護の範囲に入る。出先の道順、乗り物、席の位置、同行者──全部、俺が決める。いいな」

 ソフィアは少しだけ戸惑い、やがて静かに頷いた。

「……はい」

「それと」

 グラッドは彼女の手元を見て、淡く笑った。

「高麗人参は、後で煎じ方を教えてくれ。夜に飲むのは、ほどほどにしておく」

 ソフィアの頬が、熱に溶けるように赤くなる。

 馬車が石畳を滑り、屋敷へ向かう。  
 外の空はまだ明るいが、ふたりの間には、火の気配とは違う熱が静かに残っていた。





 昼下がりの陽が、カーテンの隙間から差し込んでいた。  
 ベッドの上、シーツが乱れ、木枠がギシギシと軋む音が部屋に響く。

 そのとき──

「旦那様! 火急のご用件です!」

 扉の向こうから、家令の声が響いた。

 グラッドは小さく舌打ちし、ソフィアにそっとシーツをかける。

「動かなくていい。すぐ戻る」

 彼はベッドを離れ、バスローブを羽織って扉を開けた。

「なんだ」

 家令は顔を真っ赤にしながら、早口で言った。

「陛下がいらっしゃいました! 早く服を──!」

「……誰だと?」

「陛下です。国王です!」

 グラッドの眉がぴくりと動く。

 やがて深く息を吐き、扉の奥に目をやる。  
 ソフィアはシーツにくるまりながら、目を丸くしていた。




 客間の扉が静かに開き、ソフィアが姿を現すと王は目を見開いた。
 30を過ぎたばかりの美しい王──ジェイキンスの金の目を。

「単刀直入に言う。今回の下賜は手違いであった。側室を返してもらう」

 室内の空気が凍る。  
 グラッドは1歩前に出て、静かに、しかしはっきりと答えた。

「断る」

 一同が息を呑む。

「散々抱いた。もう俺のものだ。今さら返せと言われても、受け入れない」

 王の顔が険しくなる。

「余以外に肌を許したのか」

 ソフィアが小さく震える。 

「妻を責めるのは、おかど違いだ。夫に従ったまでに過ぎない」

 王は彼女に向き直り、声を低くした。

「バカな……。ソフィア、王宮に戻りたいだろう?」

 そのとき、グラッドが鋭く切り込んだ。

「──“手違い”の原因は何だ。王妃ではないのか」

 王の口元がわずかに動き、しかし言葉は出なかった。

「やはりな。尚更、そんな場所には返せない」

 沈黙が落ちる。  

 王が次の一手を出す。

「しかし──その髪と服は何だ。そのほうが、ソフィアを大切にしているようには見えない」

 ソフィアの髪は肩にも届かないショートカット。  
 身にまとっているのは、平民の仕立てによるシンプルなワンピース。  
 王宮の華やかさとは程遠い。

 グラッドは一瞬だけ視線を落とし、そして静かに言った。

「それに関しては、詫びよう。こちらの待遇に不手際があった。だが──このような状況を作ったのは、一体誰だ?」

 王は目を細め、しばらく沈黙したあと、深く息を吐いた。

「……ふう。今日は引き下がろう」

 その言葉に、室内の緊張がわずかに緩む。  
 しかし、王は最後に一言を残した。

「ただ──もしもソフィアが余の子を孕んでいた場合は、王命で取り戻す。よいな」


 王が去った後、屋敷の空気は一変した。  
 廊下の隅で掃除をしていた下働きが、腰を抜かして座り込む。

「ま、まさか王自ら、この屋敷に……」

 家令も顔を青くして呟いた。

 グラッドは腕を組み、静かに言った。

「俺の予想が当たったな」

 ソフィアは首を傾げる。

「王の不在を狙って、王妃が勅命を偽造したんだ。下賜の手違いは、意図的だった」

 ソフィアは目を伏せ、しばらく黙ったあと、ぽつりと答えた。

「……それも、考えてはいました」

「城で王妃から嫌がらせを?」

「表立ってはされませんが、恐らく……」

 グラッドは目を細め、低く言った。

「暗殺しようとしてた」

「それは、あり得ます」

 沈黙。  
 グラッドは深く息を吐いた。

「すぐには片付きそうにない」

 ソフィアは静かに言った。

「私が王宮に帰れば、少なくともこちらは平和になるのではないのですか」

 グラッドは彼女を見つめ、そしてすぐに目をそらした。

「戻りたいのか? ……いや、待て。愚問だった。メイドすらいないこの屋敷では、比べ物にならない」




 数日後。
 舞踏会の招待状と共に、屋敷に大きな箱が運び込まれた。  
 中には、豪華なドレス、繊細なウィッグ。そして──メイド。

「お久しぶりです、ソフィア様! サラです。王宮から参りました!」

 ソフィアは目を見開いた。

「サラ!」

「はいっ! 王宮でずっとお仕えしてましたね。今回の舞踏会、陛下から“ぜひ元の姿で”とのことで──」

 サラは明るく笑いながら、ドレスを広げて見せる。

「これ、ソフィア様にぴったりです! ウィッグも、以前の髪型に合わせてあります!」

 ソフィアはドレスに触れながら、少しだけ戸惑いの表情を浮かべる。

「……懐かしい」

 サラはそっと手を添えて言った。

「大丈夫です。私がついてますから。王宮でも、ここでも、ソフィア様はソフィア様です」

 グラッドはドレスを一瞥し、低く言った。

「針が仕込まれてないか、確認しておけ」

 家令が、すぐに頷く。

「はい、旦那様」

 サラは目を丸くした。

「そんな……王宮からの贈り物ですよ?」

 グラッドはサラを見ずに言った。

「だからこそだ」

 空気がぴりつく中、ソフィアが静かに口を開いた。

「サラ、私の部屋へ案内するわ。寝泊まりは……」
と、夫を窺う。

「部屋は無限にある。好きに使え」

「なら、私の近くの部屋へ」

 その言葉に、グラッドがふっと笑う。

「いいのか。喘ぎ声が聞こえても」

「なっ……!」

 顔を真っ赤にして、サラはドレスで顔を隠した。




 応接間には、外商が並べたドレスがずらりと並んでいた。  
 絹、レース、宝石の刺繍──どれも騎士爵という身分を考えると、贅沢な品。

 ソフィアは、目を丸くして言った。

「こんなにたくさんドレスを買って、どうするのです?」

 グラッドは椅子に腰かけ、腕を組んで答える。

「メイドがいるんだから、着替えれるだろう。脱がすのは俺だが」

「っ……こ、このようなことばかり仰る方なのですか!? もっと……」

「もっと?」

「いえっ!」

 グラッドはふっと笑って言った。

「俺が“戦場の餓鬼”と呼ばれてることは、知っている。もっと武骨かと思ったか?」

 サラは顔を真っ赤にして、ドレスの陰に隠れながら言った。

「充分、武骨です。そして変態です!」

 グラッドは声を立てて笑った。

「褒め言葉だな」

 ソフィアはため息をつきながら、ドレスの袖を撫でる。

「……旦那様は、戦場でもこんな調子だったのですか?」

「戦場ではもっと静かだった。喋る暇がないからな」




 屋敷の廊下を、ソフィアとサラが並んで歩いていた。  
 夕方の光が窓から差し込み、古びた絨毯の色を淡く照らしている。

「それにしても、どこもかしこも汚いですね」

 栗色の三つ編みを揺らしながら、サラが眉をひそめる。
 王宮にいた彼女にとって、この屋敷の空気は耐えがたいものだった。

「サラ! 
はぁ……これでもマシになったのよ」

 ソフィアが、肩をすくめて答える。  
 彼女の表情には、どこか諦めと慣れが混じっていた。

「これで?」

「私が来てすぐ倒れて、下働きが1人増えたの。それで、マシに」

「うわ……これは倒れますよね。食事も鳥の餌みたいなのばっかり」

「サラ! 
……でも、そうね。このままだと旦那様の体にも悪いわ」

 ソフィアはふと立ち止まり、廊下の先にある食堂を見つめる。  
 そこには、かつて“戦場の餓鬼”と呼ばれた黒髪金眼の軍人──グラッド・エルグレイムが、無造作に椅子を引いて座っていた。

「奥様は旦那様が、お好きなのですね」

「え、なんで?」

「普通、こんな汚いところに住んでるエロ魔人に優しくしませんよ」

「お、夫なのよ?」

「ご自身が望んだわけではないでしょうに」

 サラの言葉に、ソフィアは言葉を詰まらせた。  





 昼下がりの光が、廊下の埃を照らしていた。  
 ソフィアは袖をまくり、古びた窓枠に布を当てていた。

「ソフィア、何をしてる」

 背後から低い声が響く。夫が、腕を組んで立っていた。

「掃除です」

 ソフィアは振り返りながら答える。

「そんなことしなくていい。下働きがいるだろう」

 グラッドの言葉に、サラがすかさず割り込んだ。  

「このお屋敷は広く古く、しかも何年もまともに掃除されてなかったのです。  
下働き1人では、どうにもなりません。さ、旦那様もお暇だったら、一緒にやってください」

「俺が?!」

 グラッドは目を細め、信じられないものを見るような顔をした。  
 サラはにっこり笑って、モップを差し出す。

「“戦場の餓鬼”なら、ホコリとの戦もお得意でしょう?」

 ソフィアは思わず吹き出しそうになりながら、そっと布を絞った。  
 その笑いは、屋敷に少しだけ柔らかな波を広げていた。




 浴室の湯気が、静かに天井へと立ちのぼっていた。  
 湯船の中、グラッドは肩まで浸かりながら、ぼそりと呟いた。

「あのメイドには参った。まさか1週間も、続けて掃除させられるとは。おかげで筋肉痛になりそうだ」

 ソフィアは湯の中で目を丸くする。

「旦那様が筋肉痛? まさか」

「戦いに使う筋肉と、掃除に使う筋肉は違う。今回、初めて分かったが」

「それでしたら私など、どこの筋肉を何に使うのか、未だに何も分かりません」

 グラッドはふっと笑った。  
 湯の音に混じって、低く響くその笑いは、どこか優しげだった。

「ベッドで、たくさん仰け反ってるではないか」

「そういうことばかり……」

 ソフィアは頬を赤らめ、湯の中で視線をそらす。  
 グラッドは湯船の縁に腕を置きながら、ぽつりと続けた。

「どうせなら、あの男に見せつけてやりたい」

「まさか、陛下に?」

「もう1人だ」

 ソフィアは首を傾げる。  
 湯気の向こう、グラッドの金の瞳が静かに揺れていた。

 



 舞踏会の朝。  
 寝室のカーテン越しに、淡い光が差し込んでいた。

 ソフィアはベッドの上で身を起こし、眉をひそめた。

「……サラが来ない」

 ドレスの確認で騒がしいはずの時間。  
 今日は、静かすぎた。

「君のメイドは?」

 隣で着替えを始めていたグラッドが、低く問いかける。

「体調が悪いのかもしれません。見てきます」

 ソフィアはガウンを羽織り、寝室を出た。  
 私室の居間に入った瞬間──

「……っ!」

 悲鳴を聞いたグラッドが、すぐに駆けつける。

「どうした」

 ソフィアは震える指で、床を指さす。  
 そこには、舞踏会用に用意されていたドレスが、裂かれ、踏みつけられ、ボロボロになっていた。  
 ウィッグも切り刻まれ、金茶の髪が無惨に散らばっている。

 グラッドは眉をひそめ、クローゼットを開ける。  
 外商から買った予備のドレスは、無事だった。

 そのとき、セルジオが居間に入ってくる。

「旦那様、何か──」

「メイドは、どこだ。探せ」

 グラッドの声は低く、鋼のように冷たい。  
 ソフィアはウィッグの切れ端を拾いながら、唇を噛みしめていた。

 舞踏会の波は、まだ始まっていなかった。  
 だが、すでに屋敷の中には、誰かの悪意が静かに渦巻いていた。


 居間の空気は重く、誰も言葉を発せずにいた。  
 セルジオが静かに口を開く。

「手回り品、貴重品が消えていることからして──サラは自発的にいなくなったと思われます」

 ソフィアは目を伏せ、ウィッグの切れ端をそっと机に置いた。  
 グラッドは腕を組み、低く呟く。

「……王妃の手先だったか」

「陛下に、このことを伝える手紙を書きます。舞踏会は欠席するしか──」

「本日は全ての貴族が集まります」

 セルジオの言葉に、ソフィアは顔を上げる。

「でも……」

「出るしかない。今から美容師と針子が手配できないか、あたってくれ」

「かしこまりました」

 セルジオが足早に部屋を出ていく。  
 ソフィアはドレスの残骸を見つめながら、ぽつりと呟いた。

「サラのおかげで快適になったのに……こんなこと」

「俺の警戒心が足りなかった」

 グラッドの声には、悔しさが滲んでいた。  
 ソフィアはそっと彼を見つめ、静かに言う。

「旦那様はいつもご自分を責めますが、これは王室側が悪いのです」

 グラッドは目を細め、しばらく黙ったあと低く言った。

「……君は、かなり自分の意思を持つようになったな」

「申し訳──」

「違う、褒めている」

 ソフィアは目を見開き、そしてそっと頷いた。  
 その瞳には、かつて王宮で見せたことのない、確かな光が宿っていた。



 舞踏会の大広間。  
 煌びやかなシャンデリアの下、貴族たちのざわめきが波のように広がっていた。

 そのざわめきの中心に、ソフィアがいた。  
 騎士爵夫人にしては上等な、しかし既製品とすぐにわかるドレス。  
 髪は肩にも届かないショートカット。  
 王宮の華やかさとは程遠い姿。

 黒い軍服のグラッドが、彼女の手を取り、堂々と広間へと歩み出す。  
 金の瞳が、周囲の視線を一切気にせず、ただ前を見据えていた。

「俯くな。前を見ろ」

 グラッドの声は低く、しかし確かにソフィアの耳に届く。

「そのままで充分美しい。何が来ようと、俺が守る」

 ソフィアは小さく息を吸い、顔を上げた。  
 ざわめきの中、彼女の姿は、誰よりも静かで、誰よりも強かった。


 大広間の奥、玉座の前。  
 王と王妃が並んで座るその場に、グラッドとソフィアが歩み寄った。

「両陛下に、ご挨拶申し上げます」

 グラッドが深く頭を下げる。  
 ソフィアもその隣で、静かに礼を取った。

 王ジェイキンスの金の瞳が、ソフィアの姿を見据える。

「ソフィアを大事にしていないと忠告したはずだ。このザマは何だ」

「私の不徳の致すところです」

 グラッドの声は低く、しかし揺るがなかった。  
 王は眉をひそめ、冷たく言い放つ。

「ならば返してもらおうか」

 その瞬間、王妃セラフィムが金の瞳を剥き、声を張った。

「なりません! 混乱を招きます。
2人、本日は十分に楽しんでいくように」

 その言葉に、王はしばらく沈黙し、やがて視線をそらした。  

 グラッドは再び礼を取り、ソフィアの手を取って玉座から離れた。  
 ソフィアの金の瞳は揺れていたが、言葉はなかった。


 舞踏会の喧騒から少し離れた、会場の隅。  
 ソフィアは壁際に立ち、静かに周囲を見渡していた。

 誰も声をかけてこない。  
 視線だけが、遠巻きに彼女をなぞっていく。

「飲み物を取ってくるから、ここで待つように」

 グラッドがそう言い残し、会場の奥へと歩いていった。  
 その背が見えなくなった瞬間──

「まあ……」

 冷たい声が背後から降ってくる。  
 振り返ると、クーラシア伯爵夫妻が立っていた。  
 ソフィアの実家。かつての“家族”。

「このような格好で舞踏会に来るなんて」

 ソフィアの母亡き後、家に入った夫人が眉をひそめ扇子で口元を隠す。  
 伯爵も苦々しげに言葉を続けた。

「言ってくれれば、ドレスの用立てくらいしたのに。なぜ恥をかかせた」

 ソフィアは目を伏せ、静かに頭を下げた。

「申し訳ありません」

 その声は小さく、けれど確かに震えていた。  

 会場の隅で、ソフィアは伯爵夫妻の言葉に耐えていた。  
 そのとき、柔らかな声が背後から響く。

「お困りのようですね、ソフィア様」

 振り返ると、カウベル子爵が立っていた。  
 王妃派の貴族。優雅な身振りで、手を差し伸べる。

「こちらに、少し静かな場所をご用意しております。お疲れでしょう」

「……ありがとうございます」

 ソフィアは戸惑いながらも、その手に触れようとした。  
 その瞬間──

「待て」

 グラッドが戻ってきた。  
 手にはグラスを持ち、金の瞳が鋭く光っている。

「どこへ連れて行くつもりだ」

「旦那様、これはただの気遣いです。お疲れのようでしたので──」

「ならば、俺が連れて行く。夫だ」

 空気がぴりつく。  
 カウベル子爵が1歩前に出ようとしたそのとき──

「やめよ」

 玉座の方から、王の声が響いた。  
 会場が一斉に静まり返る。

「建国記念の舞踏会で、このような格好で訪れ、揉め事を起こすなど赦しがたい」

 ジェイキンスが、ソフィアを見据える。

「ソフィアは、側室に戻す」

 その言葉が落ちた瞬間──

「反対です!」

 王妃が玉座の前に立ち、声を張った。  
 緑髪の揺れが、場の空気を切り裂く。

「今ここで側室に戻すなど、国政を乱します。陛下、どうか──」

「もうこんな茶番はやめないか、兄さん達」

 グラッドの声が、会場に響いた。  
 その言葉に、貴族たちのざわめきが一瞬止まる。

「ソフィアを奪うなら、王位に異議を唱える」

 静寂。  
 誰もが、彼の言葉の意味を測ろうとしていた。

「俺はヴェルディア王家、第3王子。そして王妃は第2王子──そうだろう?」

 会場の貴族たちは、互いに顔を見合わせながら、言葉を失っていた。

「何を馬鹿なことを! 私が男だなど──跡取りのユリオもいるというのに!」

 王妃セラフィムの声が、会場に響き渡った。  
 緑髪が揺れ、金の瞳が怒りに燃える。

「本当に、自分で産んだのか?」

 グラッドの言葉に、空気が凍る。  
 その瞬間、会場の扉が静かに開いた。

 ティオ・クレイフィルが、やつれた女性を連れて入ってくる。
 エリシア・スカイフィル侯爵令嬢。

「!」

 王妃の瞳が大きく見開かれる。

 グラッドはゆっくりと前へ出て、会場全体に語りかけるように言った。

「王家は代々、跡目争いを避けるために、長男以外は養子に出される。  
俺はエルグレイム公爵家へ。セラフィム兄さんはノルディア公爵家へ」

 ざわめきが広がる。

「セラフィム兄さんは、産婆が間違えて女児と伝えた。 間違いがわかった時には 、すでに公女として発表された後だったため訂正できなかった。  
しかし──秘密を知らない人間のところに嫁ぐわけにはいかない。それで、ジェイキンス兄さんが娶った」

 沈黙。  
 誰もが、言葉を失っていた。

 王妃の肩が震え、静かに頭を下げた。

「そして7年前──後継者をつくるために白羽の矢を立てたのが、俺の婚約者である従姉のエリシアだ」

 グラッドの声は、静かに、しかし確かに会場全体に響いた。

「彼女を無理やり自分のものにし、子供を産ませた。  
それに異を唱えた俺の義家族を、“クーデターを企てた”として処刑した」

 ざわめきが広がる。  
 王妃は顔を歪め、叫ぶように言った。

「嘘よ! 嘘よ嘘! このような場所で、そのような戯言──どこに、そんな証拠があるの!」

 グラッドは1歩前に出て、金の瞳をまっすぐ王妃に向けた。

「ならば──服を脱いでみろ。裸になれば、わかることだ」

 会場が凍りついた。  
 誰もが息を呑み、視線を交わすことすらできなかった。

 王妃の肩が震え、唇がわななく。  

「不敬よ! 謀反だわ! 衛兵、捕らえなさい!」

 王妃の叫びが、会場に響き渡った。  
 玉座の左右から、衛兵たちが一斉に動き出す。

 グラッドは、ふっと笑った。

「俺の異名を忘れたのか」

 その瞬間──

 彼は最前列の兵の剣を、まるで風を掴むように奪い取った。  
 そして、舞踏会の床に響く音とともに、次々と衛兵たちを薙ぎ倒していく。

 剣が閃き、足が動き、空気が裂ける。  
 10余りの衛兵が、あっという間に床に伏した。

 会場は沈黙した。  
 誰もが、ただその姿を見つめていた。

 “戦場の餓鬼”──その異名が、今、王宮の中心で証明された。


 倒れ伏す衛兵たちの間を抜け、グラッドはまっすぐ王妃へと歩み寄った。  
 その手には、なおも血に濡れた剣。

 王妃が1歩退いた瞬間──  
 鋭い音とともに、剣の切っ先が彼女の喉元に突きつけられた。

「っ……!」

 会場が息を呑む。

「やめよ」

 王の声が、静かに響いた。  
 その顔には、深い疲労と、諦めの色が滲んでいた。

「皆、混乱しているだろう。だが──この者の申すことは、事実だ」

「陛下……!」

 王妃の声が震える。  
 だが、王はその視線を逸らさず、静かに言葉を重ねた。

「悪あがきはよせ。ここまでするということは、すでに証拠を揃えているのだ」

 王妃の瞳が揺れ、足元が崩れる。  
 その場に膝をつき、肩を震わせながら彼は崩れ落ちた。
 舞踏会の光が、静かに彼のドレスを照らす。  

「王妃とは離縁──ソフィアを、新たに王妃に迎える」

 王の声が、会場に響いた。  
 その言葉に、貴族たちのざわめきが一気に広がる。

「馬鹿な! 自分の娘を、王妃に据えるなど!」

 崩れ落ちた王妃が、震える声で叫んだ。  
 その言葉に、さらに会場がざわめく。

「娘……?」

 ソフィアが、震える声で呟いた。  
 王は静かに頷き、言葉を続ける。

「ソフィアは、19年前──閨教育係との間にできた子だ」

 その瞬間、ソフィアの瞳が大きく見開かれる。  
 足元がふらつき、視界が揺れる。

「っ……」

 倒れかけた彼女を、グラッドがすぐに抱き止めた。  
 その腕は強く、しかし優しく彼女を支えていた。

「自分の娘と子作りした、というのか──獣め!」

 グラッドの声が、鋭く会場に響いた。  
 その腕の中で、ソフィアはまだ意識が揺れていた。

 王は静かに、しかし揺るがぬ声で答えた。

「それを言うなら、その方も姪を抱いたのだ」

 ざわめきが再び広がる。  
 王の瞳は、誰にも動じることなく、まっすぐグラッドを見据えていた。

「仕方なかろう。そうする以外──ソフィアを王族にすることが、叶わなかったのだ」

 その言葉は、冷たく、そして重かった。  
 王家の構造。血の継承。名のための犠牲。

 グラッドは唇を噛み、ソフィアを抱きしめる腕に力を込めた。  
 その瞳には、怒りと哀しみ、そして決意が宿っていた。

 波は、もう倫理の岸を越えて、深海へと沈み始めていた。


「近親婚などありえません!」

「いや、古代の王族は違う。血が薄くならないよう、近親婚を繰り返していた。王家の血が続くのであれば、王に従うべきだ」

 貴族たちの声が、会場に波のように広がる。  
 その中で、グラッドは静かにソフィアを見つめた。

「君は──どう生きたいんだ?」

 ソフィアは、揺れる瞳で彼を見返す。  
 そして、王の声が割り込んだ。

「ソフィアに、何かを決める意志などない。これまで通り、余の言う通りにしておればいい」

 その言葉に、ソフィアはゆっくりと顔を上げた。

「いいえ。私はグラッド将軍と添い遂げたいと思います」

「何だと? 吹き込まれたか」

「陛下──いえ、父上。  
私は将軍に嫁いで、ようやく自分の意思を持てたのです。  
私はこれからも、閣下を支えていきたい」

 王の顔が、言葉を失ったように歪む。  
 そのとき、グラッドが静かに跪いた。

「俺も──君に出会って、投げやりだった人生から抜けることができた。  
君が俺を選んでくれるなら、生涯かけて守ると誓う。  
この先も、一緒に生きてほしい」

 ソフィアは、涙を浮かべながら頷いた。

「はい」

 ざわめきの中、ふたりの誓いだけが、静かに波の上に立っていた。





 朝の光が、寝室の厚いカーテン越しに差し込んでいた。  
 グラッドは、ソフィアの肩にそっと濡れた布を当てながら微笑む。

「今日は、俺が昼食を作ろうか。それとも、出掛けようか」

「旦那様──そろそろ、お仕事なさいませんと」

 ソフィアが眉をひそめる。  
 グラッドは、少しだけ唇を尖らせた。

「いいだろう、新婚なんだから」

 そのとき、扉の向こうからセルジオの声が響く。

「旦那様、本日もお会いしたいと貴族が大勢」

「はぁ……騒がしい。こんなことなら、王になどなるんじゃなかった」

 グラッドはため息をつき、ふと思い出したように言った。

「そう言えば、セラフィムの処刑が決まったが……一緒に見に行くか?」

 ソフィアは、そっと首を振った。

「私は、憎しみの中で生きたくないのです」

 グラッドはしばらく黙り、そして優しく頷いた。

「そうか。ならば──いつも通り、俺の帰りを待っていてくれ」

「承りました」

 朝の光が、ふたりの間に静かに広がっていた。  
 波はもう、穏やかに岸辺で揺れていた。
 2人の人生は、今また新たに始まっていく。






□完結□





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