黒騎士団の娼婦

イシュタル

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黒騎士団の娼婦

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 門前の石畳は、冷たい朝霧に濡れていた。ヨシノ・トミーカー前男爵夫人こと好乃(ヨシノ)は、1歩踏み出したところで背後から強い腕に押され、尻餅をついた。
 ドレスの裾は泥をはね上げ、小さな石が背中に食い込む。
 彼女の焦げ茶の髪は霧に濡れて束になり、頬に貼りついている。 

「お前のせいでトミーカー男爵家は破産寸前だ、この疫病神!
だから俺は異邦人なんぞ、家に入れたくなかったんだ。
兄さんが死んだのも、お前のせいだ!」
 好乃の義弟ガイシの声音は乾いていて、強い言葉に苛立ちがこもっている。 
 彼の顔は青白く、薄く笑ったような軽蔑がその瞳の端に宿っていた。

 好乃は土を払おうとする手を止め、ゆっくりと顔を上げた。自然と出たのは、いつもの低い声だった。震えているのを必死に押し殺しながらも、言葉には理性が残っている。

「出ていけって……こちらに身寄りがないこと、知ってるでしょう。息子だってまだ小さいのに」

 ガイシの瞳が冷たく光った。背の高い男は嘲るように鼻を鳴らし、片手で彼女の顎を掴む仕草にも似た軽い仕草をした。

「心配しなくても、ハルトは跡取りだ。こちらで育てる」

 その言葉は、刃のように刺さった。好乃の胸の中で何かが音をたてて崩れる。 
 まだ6つにも満たない息子。夜ごとに眠りを妨げる熱や、薄い毛先が頬に触れる感触。彼女の指先が痛くなるほどそれらを思い出す。

「そんな、私の子です。会わせてください」
 声は小さく、それでも消えはしなかった。好乃は膝の泥を払い、立ち上がろうとする。けれどガイシは冷たく笑い、そっと財布めいたものをポケットから取り出す風を装った。

「会いたければ金を払え。こちらで育ててやるんだ。養育費を出せば面会させてやる」
 言い終えると、男は不用意に手を大きく振った。
 鉄の扉が勢いよく閉まる音が響き渡る。

 ──ガシャン。

 その金属音は、好乃の胸の奥で何か大切なものを鎖で打ちつけたように響いた。門の向こう、屋敷の影が長く伸びる。石造りの門扉の隙間からは、幼い声がかすかに聞こえたような気がして、好乃は振り返った。
 だが門はもう閉ざされ、彼女の言葉は届かない。

 唇を噛みしめ、好乃はゆっくりと手を握りしめた。泥のついた膝を支えにして立ちながら、彼女の目には決意の光が宿り始める。泣いたところで何も変わらない。

 冷たい朝風が髪を乱し、門前に残された足跡がしだいに薄れていく。好乃は胸の痛みを握りしめたまま、彼女は街の方向へと歩き出した。

 石畳を歩くたび、靴底から冷たい音が響いた。
 好乃は、かつて働いていた食堂の前に立った。

 扉には錆びた鎖が掛かり、木の看板は風に晒されて色を失っている。
 窓から覗いた店内は空っぽで、卓上の蝋燭台さえ取り払われていた。
 ──もう、誰もいない。

 胸の奥で、音を立てずに何かが沈んでいく。
 あの店の女将が拾ってくれなければ、中世ヨーロッパに似たこの世界に突然転移してしまった自分は、とうに飢え死にしていたはずだ。
「……仕方ない」
 かすかに唇が動く。声は掠れて、自分の耳にすら届かなかった。

 行くあてもない。
ならば、せめて助けを求めよう。
 食堂で客の噂に聞いた「黒騎士団」の詰め所なら、困窮者の保護もしているという。
 彼女は、霧の濃い街路を歩き出した。

 だが、角を曲がった先で、三人の男が行く手をふさいだ。
 彼らの衣は薄汚れ、歯の間には酒の匂い。
「おや、貴族様じゃねえか」
「いい服だな。ひと晩付き合えば通してやるよ」
 肩を掴まれ、好乃は反射的に身をよじった。

「やめて! 私は──」
 言い切る前に、腕を強く引かれた。布が裂け、胸元に冷たい風が触れる。
 次の瞬間──

 鋭い金属音が、夜を裂いた。

「そこまでだ」
 低く響く声。
 通りの先から、黒ずくめの騎士たちが現れた。
 彼らの甲冑は煤け、光を吸い込むように鈍く光っている。
 先頭に立つ男──灰青の瞳を持つ長身の騎士グラウスが、静かに剣を抜いた。

「女に手を上げる者は、名も名誉も要らぬ外道だ」

 瞬きの間に、男たちは逃げ出していた。
 残されたのは、風の音と、好乃の荒い息だけ。

「大丈夫か」
 声は思ったよりも優しく、震えていた。
 彼女は胸を押さえながら、目の前の騎士を見上げた。

「……ありがとうございます」

 その言葉に、黒騎士たちは一様に固まった。
 沈黙。
 鎧の金具が、ぎこちなく鳴る。

「礼を……言われた、ぞ?」
 大柄な赤毛の騎士バルドが、思わずというように言った。

「聞き間違いじゃないのか」
 バルドほどではないものの、平均よりずっと身長の高いセランが、冷静に分析した。

「俺たちに……?」
 体格はいいが、まだ若く忠犬のような面立ちのメイグは愕然と呟いた。

 まるで未知の儀式を目撃したように、彼らは互いを見合った。
 好乃は意味がわからず、少し首を傾げた。
 その仕草に、騎士たちはさらに狼狽する。

(……こんなに格好いい人たちばかりなのに……)

 異世界に来てからずっと、“美しい”の基準が違うことは気づいていた。
 けれどこの騎士たちは──彫りの深い顔、無骨な鎧姿。
 好乃の目にはまるで映画の中の俳優のように見えた。

 しかし彼らにとっては、逆だ。
 このような容姿は「気味が悪い」と忌避され、町では目を合わせる者もいない。
 礼を言われた経験など、1人としてなかったのだ。
 そう、ここは日本とは顔の美醜に対する概念が逆転した世界。

 団長と呼ばれたグラウスが口を開いた。
「……憲兵に引き継ごう。これ以上、我らの顔を見るのは苦痛だろう」
「いえ、まさか! そんなことありません」

 灰青の瞳が静かに揺れる。
「……事情を聞かせてくれ」

「夫を亡くして、行き場がありません。
 家に戻れば、娼館か奴隷商に売られるかもしれない」
 この国では当主権限が強く、当主は身内を合法的に売り飛ばすことができる。

 彼は短く息を吐いた。
「……そうか」

 その表情は、怒りとも哀れみともつかない。

「安心しろ。今夜は、保護する」

 好乃は小さく頷いた。
 冷たい夜の中、彼女は初めて──この世界で“守られた”と感じた。



 城の裏手にある小門を抜けると、夜風が肌を刺した。
 グラウスが馬の手綱を引きながら言う。
「ここから先は、騎士団の管轄だ」

 好乃は馬に乗せられ、振り返る。王宮の尖塔が遠く、霞んでいく。
「そんなに……遠いんですか?」
「普通の人間なら、途中で引き返す距離だ」
 彼は淡々と答え、しばし黙る。

 林の奥から、獣の遠吠えのような音が微かに響いた。けれど、それは獣にしては低すぎる。人の声にも似ていたが、言葉にはなっていない。

 好乃は思わず男の背にしがみついた。彼の背中は甲冑越しでも温かく、頼れるものがそれしかないように思えた。

 グラウスは最初、同じ馬に乗るのを避けようとしていた。
「……狭い。俺の顔が近いと、不快だろう」
 低く呟かれたその言葉に、好乃は首をかしげた。
「気になりませんけど?」
 その瞬間、団長の表情がわずかに揺れた。
(この女は……女神か、それとも詐欺師か)

 林を進むと、空気が変わる。
 湿った土の匂い、遠くで獣の鳴き声。
 王都の明かりも届かない、原始の闇。
 やがて木造平屋の建物が現れた。

「ここが……黒騎士団の屯所?」
 好乃が呟くと、グラウスは静かに頷いた。
「王宮の華やかさは、ここにはない。だが、守る力はある」

 馬から降りて1歩踏み出すと、周囲の空気がざわついた。
 訓練中だった団員たちが手を止め、遠巻きにこちらを見ている。現代日本の基準では美男ばかりだ。
「女だ……」「団長が連れてきた?」
 囁きが闇に溶けていく。

 だが誰も近づこうとはしない。
 グラウスが振り返り、短く言った。
「彼女は俺が保護する」

 その声が響いた瞬間、全員が沈黙した。
 彼らの間に漂うのは警戒でも敵意でもない。
 “信じられない”という驚きだった。

 黒騎士に、女が怯えず礼を言い、隣に座るなど。
 そんなこと、この世界のどこにも存在しなかった。



 客室と呼ばれた部屋に案内された瞬間、好乃は息を呑んだ。
 床は埃で灰色、窓は曇り、寝台には誰のものとも知れぬ毛髪が散っている。
 桶の水は濁っており、壁には黒いカビ。
 ──臭い。ひどく。

 眠るどころではなかった。
 彼女はため息をひとつつくと、袖をまくった。

 夜通し、雑巾を絞り、ほうきを振るった。
 桶の水を何度も替え、窓を磨き、古い布を裂いて掃除に使う。
 廊下も、階段も、手の届く範囲すべて。
 外では風が唸り、遠くで狼が鳴いた。

 夜明け。
 ようやく窓が光を取り戻したころ、好乃は座り込み、ぐったりと息をついた。
 それでも眠る気にはなれず、うっすら明るむ空を見上げながら微笑んだ。
「……これで、少しは息ができる」



 昼過ぎ。
 ノックの音とともに、ユリオが盆を抱えて入ってきた。
 黒髪を無造作に束ねた青年──24歳。切れ長の濃紺の瞳は無表情で、何を考えているのか読み取れない。 
 長身痩躯で、黒騎士団の制服を着崩すことなく、静かに立つ姿はまるで影のようだった。

「ん」
 差し出されたのは黒ずんだスープと、固いパン。
 一口食べた好乃は、顔をしかめた。
「……えっと、素材の味が……しすぎますね」
「……煮たのは俺だ」
「うん。とても、頑張った味です」

 言葉を選びながら、好乃はスプーンを置いた。
 そして立ち上がり、廊下へ向かう。
「団長さんに、お願いがあります」


 執務室に呼ばれた彼女は、まっすぐにグラウスを見据えた。
「私を、黒騎士団の家政婦として雇ってください」
 その場の空気が止まった。

 傍らにいた副団長とメイグが顔を見合わせる。
 黒髪に茶色の瞳のメイグは、精悍な顔立ち。
  25歳で中堅の彼は、凛々しい眉をひそめ低く呟いた。
「……そんな都合のいい話があるか?」
 割り当てられた予算はあるものの町の嫌われ者である黒騎士団の屯所で働きたい者など、今までいたためしがない。
 まして女である。それも、まだ20代の、この世界では見目が良い部類とされる女だ。

「スパイかもしれん。拘束して吐かせた方が早い」
 好乃をここまで案内したユリオが、剣の柄に手をかけかけたのをグラウスは手で制した。

「理由を聞こう」
 低く落ち着いた声。
 好乃は胸を張って言った。
「部屋が汚すぎて眠れませんでした」

 一瞬、誰も声を出せなかった。
 その間に外から別の団員の声が響く。
「なんか、屯所が……きれいになってねぇか?」
「窓から、うっすら外が見えるぞ?」

 グラウスがゆっくりと息を吐く。
「……夜のうちに自分でやったのか」
「はい。汚れすぎて、落ち着かなかったので」

 黒騎士達は顔を見合わせ、完全に気圧されていた。
「……泳がせてみるか?」
 黙っていると笑って見える柔和な顔──藤色の髪に薄紫の瞳。副団長セランは30歳。
 彼はその中性的な顔を引き締めた。

「そうだな。補助をつけて監視も兼ねよう」
 団長が頷くと、好乃の黒騎士団“仮採用”が決まった。


 補助役として選ばれたのは、若手である17歳ノア、20歳トル、19歳カイル。
 彼らが休みの日には、24歳ユリオ、28歳・特攻隊長バルド、彼の子分25歳メイグ、が交代する。

 彼女は微笑んだ。
「よろしくお願いします。今日から、ここをもう少し“人の住む場所”にしましょう」
 騎士たちは目をそらしながらも、なぜか胸の奥がざわついていた。

 黒い鎧に囲まれた木造りの屯所に、初めて“生活の匂い”が戻り始めたのだった。


 一通り挨拶が終わると好乃は、勇気を出して執務室を再び訪ねた。
「……あの、団長。少しだけ、お願いがあるんです」

 机の上に報告書を並べていた団長グラウスが顔を上げる。
「どうした」
「給料の前借りって、できますか?」
 淡々とした口調だったが、好乃の指先は緊張でこわばっていた。

「前借り?」
「はい。……身1つで追い出されたもので、着るものが無くて」

 その瞬間、グラウスの手が止まった。
 まるで槍で突かれたかのように動揺が走る。
 彼女がこの屯所に来てから、寝床と食事のことは気にかけたが──服のことなど、頭から抜けていたのだ。
 訓練用の練習着があるので、団員達は日頃それを適当に着ている。

「……すまなかった」
 低く、誠実な声だった。
 彼は椅子を離れ、懐に手を入れる。
 革袋から数枚の金貨を取り出し、机の上に置いた。
「これで、必要なものを揃えろ」

 好乃は目を見開く。
「え、でも……こんなに」
「問題ない。団の経費からだ」
 ──嘘だった。実際は彼自身のポケットマネー。
 だが、それを言うのは無粋だとわかっていた。


  
 好乃は団員と連れ立ち、町へ買い出しに出た。

 最年少ノアは明るい茶髪に緑の瞳。笑顔が多く、弟系の親しみやすさがある。  
 日本なら“爽やかイケメン”として雑誌の表紙を飾っていてもおかしくない。

 トルは水色の髪が陽に透け、跳ねた毛先が風に揺れる。青い瞳は澄んでいて、どこか少年のような憧れを宿している。  

 カイルは短めの金髪に長めの前髪がかかり、濃い青の瞳は冷静で鋭い。  
 制服を着崩しているが、所作の一つひとつに品があり、無口で皮肉屋な雰囲気が逆に“王子様”のような美しさを際立たせている。 

 団長から渡された金貨の入った革袋が、掌の中でわずかに重い。  
 彼の真面目な横顔を思い出すたび、胸の奥が温かくなる。

 石畳の通りに入ると、昼過ぎの市場は活気に満ちていた。  
 パン屋の香ばしい匂い、果実の彩り、そして人々のざわめき。  
 だが、その喧騒の中で、ひときわ冷たい視線が彼らを突き刺した。

「……来たぞ、黒いのが」  
「うわ、縁起でもねぇ」  
「子ども、こっちに寄るんじゃない!」

 好乃が思わず足を止めた瞬間、空を切る音。  
 ──カン、と石が鎧に当たった。  
 振り向けば、子どもが親に手を引かれて逃げていく。

 カイルの肩がわずかに動く。怒りに近い反射だった。  

「放っておけ、面倒は御免だ」  
 トルが短く言った。 

 彼らにとっては、いつものことだったのだ。  
 だが好乃の胸には、鈍い痛みが広がっていた。

「どうして……」  
「俺たちの顔が、気持ち悪いらしい」  
 ノアが軽く肩をすくめる。   
「慣れてる。けど、君が気にするのは意外だな」  
「気にしますよ。こんな優しい人たちを、誰が悪く言えるの」  

 ノアは一瞬だけ言葉を失い、顔をそらした。  
 その横顔に、好乃はふと“この世界の美醜”の歪みを思った。  
 ここでは、彼らの彫りの深い整ったm顔立“異形”とされる。  
 けれど日本人の感覚では──彼らは、まるで映画俳優のように見えるのだ。


 市場の奥に進むにつれ、好乃は目を輝かせ始めた。
「石鹸とその材料、それから重曹と酢……あ、アルコールも高濃度のがいる。消臭に使うハーブは……香辛料も買って行こう」
 慣れた手つきで店を巡り、品を確かめていく。
 彼女の知識は、まるで魔法のようだった。
「それ、何に使うの?」
「消臭と殺菌です。あと、洗濯にも」
「……洗濯って、そんなに道具がいるのか」
「ええ、“臭くない部屋”の第1歩ですから」

 馬車の荷台には、樽に入った液体や瓶詰めの粉が次々と積まれていく。
 騎士たちは終始ぎこちない。
 言葉を探しては沈黙し、返そうとして噛む。
 唯一ノアだけが、年子の姉妹がいるおかげで比較的まともに好乃と会話できた。

「……で、その液体も洗剤?」
「違います。これは化粧水。これがないと、すぐしわくちゃになっちゃう」
「なるほど、女の子は大変だ……」
 ノアは少し笑った。


 買い物も一段落した頃。
 好乃は小声で言った。
「……少しだけ離れてもいいですか? 女性用品を買いたくて」
「わかった。通りの向こう側な。気をつけて」

 彼女はひとり、小さな仕立て屋の奥に入っていった。
 下着や布を選んでいると、背後から聞き慣れた声が響いた。

「まあ、これはこれは。トミーカー前男爵夫人じゃなくて?」
 振り返ると、婚家の隣領地の夫人が立っていた。
 絹のドレスに真珠をまとい、唇には侮蔑の笑み。

「こんな店でお買い物? お金は、まだ残っていたのね」
「……ご無沙汰しております」
「あなたが貧乏くじを引くとは思っていなかったわ。パーティーにも茶会にも顔を出さないから、てっきり……ああ、もう婚家に捨てられたのかしら?」

 店内の空気が凍る。
 好乃は唇を噛んだ。答える言葉が見つからない。

「私が再婚先を紹介して差し上げますわ。あなた、それなりに美人だもの。成金の年寄りなら、異邦人であっても貰ってくれるはず──」

 その瞬間、店の扉が勢いよく開いた。
 ノア、トル、カイルが立っていた。
 漆黒の鎧、鋭い視線。
 店内の客たちが一斉に後ずさる。

「ヨシノ!」
 ノアがすぐ彼女の傍に駆け寄る。
 夫人が青ざめて一歩引いた。
「ひっ……黒騎士……!」

 トルが無言で扉を押さえ、カイルが睨む。
「ここで何か問題でも?」
「い、いえっ、なにも……!」
 夫人は顔を引きつらせたまま、店を飛び出した。

 静寂。
 ノアが、軽く息をつく。
「……平気?」
「ええ。ありがとう。……助けてくれて」
「礼はいい。護衛は仕事だから」

 だがその言葉とは裏腹に、ノアの頬はわずかに赤い。
 カイルも咳払いしながら言った。
「……闇討ちしてやる」
「バレないようにしろよ」
 トルが慌ててカイルに釘を刺した。

 好乃が笑った。
 その笑みにつられるように、彼らもほんの少し、表情を緩めた。


 黒騎士団の屯所に戻ったその夜、好乃は食堂の戸口で立ち尽くした。
 ……腐臭。
 生ゴミに近い、酸っぱくて鼻を刺す匂いが漂っている。

「これは……」
 戸棚を開ければ、干し肉は白く変色し、野菜はどろりと溶けていた。
 パンには青いカビ。
 使えるのは、ほんの一握りの穀物と根菜くらい。

 彼女は眉をひそめつつも、袖をまくった。
「放っておいたら全部ダメになる。……やるしかない」


 夜の厨房に、包丁の音が響く。
 腐りかけた部分を切り落として煮沸。
 重曹を溶かした水で野菜を磨く。
 ──前の世界で培った衛生知識を、ここで総動員した。

 煮立つ鍋に香草を落とすと、さっきまで鼻を突いていた匂いが、ほんの少しだけ和らぐ。
 焦げたパンを砕いてスープに沈め、味の深みを出す。
 厨房の隅で手伝っていたノアが、感嘆の声を漏らした。
「……本当に食べれるの、それ」
「ええ。少し工夫すれば、何でも食べられます」
「魔法みたい」


 屯所の広間に、久しく嗅いだことのない匂いが満ちた。
 香ばしいスープと焼き立ての根菜。
 音を立てて食べる者、呆然と匙を止める者。

「……うまい」
「味がする……」
「腹が、あったかい……」

 そんな声があちこちから漏れた。
 黒騎士たちは、町の食堂に入れない。
 料理人が顔を見ただけで逃げ出すか、客が騒いで追い出す。
 だから、まともな食事を口にしたのは誰もが久しぶりだった。

「おいノア、これ誰が作ったんだ」
「ヨシノだよ」
「うそだろ……人間の飯だぞ、これ」

 笑いながら食べる者もいれば、黙って涙ぐむ者もいた。
 ──それほどに、“普通の食事”は遠いものだったのだ。


 深夜。
 副団長セランが報告書を片手に、団長グラウスの執務室を訪れた。
「団員の士気が異常です。原因は──飯」
「……飯?」
「例の女、腐りかけた食料を捨てずに使ったとか。誰も腹を壊していない」
「……なるほど」
 グラウスは指先で机を叩き、目を細める。

 セランが少し顔をしかめた。
「団長、気をつけた方がいい。あの女、俺たちを怖がらない」
「怖がらなかった?」
「ええ。厨房で俺と目が合っても、顔色ひとつ変えなかった。
 まるで、俺たちが人間だと信じてるみたいに」

 静かな沈黙。
 グラウスはしばらく考え込み、低く呟いた。
「……“彼女は怖がらなかった”か」



 噂は、黒騎士団の中に瞬く間に広がった。

 「団長が連れてきた女は、俺達を見ても悲鳴を上げない」
 「顔を見ても逃げなかった」

 まるで伝説のように、ひとり歩きを始める。


 そして──翌昼。
 食堂で、黒騎士たちは再び好乃の作った食事を囲んだ。
 誰もが口を揃えて言う。

 「やっぱり、今日も旨いな」

 好乃は照れくさそうに笑いながら、木のスプーンを手に取った。
 腐った食料が、温かな団欒へと変わったその瞬間──
 黒騎士団の夜に、初めて人間らしい温もりが戻ってきた。


 昼食後、好乃は執務室を訪れた。

「団長、お願いがあります」

 グラウスは書類から目を上げる。  
 彼女の真っ直ぐな目を見て、わずかに眉を動かした。

「……どうした」

「掃除です。私ひとりじゃ無理です」

 その言葉に、室内の空気が止まった。  
 好乃は1歩踏み出し、言葉を続ける。

「床の泥は何十年も積もっていて、削らないと取れません。  
壁も腐ってるし、天井は雨漏りで穴だらけ。  
これは、団員全員でやらないと無理です」

 グラウスは静かに立ち上がる。  
 窓の外では、夕陽が屯所周りの石壁を赤く染めていた。

「……君は、家政婦として雇われたばかりだ。 団員を動かす権限はない」

「でも、団員たちも“ここが住む場所”だと思ってるはずです。  
だったら綺麗にする責任は、みんなにあると思います」

 沈黙。  
 団長の灰青の瞳が、じっと彼女を見つめる。

「……君は、俺たちを“住人”だと思っているのか」

「はい。だって、ここで食べて、寝て、働いてる。  
それなら、ここは“家”です」

 その言葉に、グラウスの胸の奥で何かが揺れた。  
 彼はゆっくりと頷き、執務机の横にある鐘を鳴らす。

 ──カン。

 音が響き、廊下にいた副団長が顔を出す。

「団員を集めろ。掃除だ」

「……掃除?」

「この屯所を、“住む場所”にする。  
 全員で、だ」


 集まった黒騎士団員は剥がし棒、鍬、シャベルを手にした。
 誰もが戸惑いながらも、好乃の指示に従って動き始める。

 直談判から2時間。
 黒騎士団の屯所は、かつてないほどの騒がしさに包まれていた。

「床だ! 床が見えたぞ!」
「……ここ、板だったのか?」
「俺、入団して10年だけど初めて本物の床を見たぞ」

 廊下の端で、団員が埃と油と血の層を削りながら叫ぶ。
 その厚みは指の関節ほどもあり、削るたびに黒い塊がべりべりと剥がれ落ちる。
 鼻をつく鉄とカビの匂いが立ちのぼり、窓を開けても追いつかない。

 好乃は手ぬぐいで額の汗を拭いながら、指示を飛ばした。
「まずは徹底的に削るのよ!」

 ノアがバケツを抱えて走り、トルが天井の梁を布で拭く。
 カイルは黙々と壁の染みを削っている。
 ──その姿は、まるで戦場だった。

 団員たちは最初こそ半信半疑だったが、好乃に圧倒され次第に表情を変えていった。
 命令ではなく、必要を語る人の声。
 彼女の「動けば結果が出る」やり方は、脳筋哲学に共通していた。

「このヘドロ取れない!」
「お前が立ちションしたせいだ!」
「いや、お前が酔って吐いたからだろ!」
「泥だらけで帰ってくるからだ!」
「誰だよ、この穴開けたの!?」
「やめろ、喧嘩するな!」

 怒鳴り声と笑い声が交錯し、屯所は奇妙に活気づいていた。

「団長、ここ一帯すべて木の床だったようです。1/3が腐ってます」
「……」

 報告を受けたグラウスは静かに頷くと、手袋を外して自ら鍬を取った。
 その動作に、周囲の団員たちが一瞬息を呑む。

「団長が……床を剥がしてる」
「嘘だろ、あの人が……」
「俺もやる! 俺も!」

 次々と手が挙がり、農機具の取り合いが始まる。
 慌てて止めようとする好乃の声も、もう誰の耳にも届かない。

 黒い床が、少しずつ明るい木の色に変わっていく。
 その光景に、好乃はふと笑みをこぼした。

「今日は“床に見えた記念日”ですね」

 その言葉に、誰かが笑い、別の誰かが涙を拭いた。


 夜。  
 屯所の広間では、団員たちが勝手に祝賀会を始めていた。

「屯所の床って、木だったんだな……」
「俺、泥だと思ってた」

 パンとスープを囲みながら、誰もが笑っていた。  
 その笑いは、戦場のものではなく、生活のものだった。

 好乃はその中心で、静かにスープをかき混ぜながら思った。

 血と泥にまみれても、誰かを守るために動く人たち。  
 その手を、誰も握ろうとしなかった世界で── 彼女は、初めてその手を取った。



 好乃はまだ少し埃臭さをまといながら屯所の扉を開けた。
 昨日の掃除で床は見えるようになったが、壁や天井の腐敗はまだ残っている。雨漏りも相変わらずだ。

 可愛い系ノア、心配性なトル、無愛想なカイルが待ち構えていた。
「おはようございます、今日も頑張ります」
「……いや、俺も頑張る」
 ノアは少し照れくさそうに手を伸ばし、掃除道具を受け取る。
 好乃は微笑み、道具を手渡すと「よし、今日もやるぞ」と声をかけた。

 外では団員たちが壁板や梁を運び、雨漏り箇所に応急処置を施している。
 好乃は自分の知識で、木材の乾燥や泥の処理、腐敗防止のためのアルコール除菌を指示した。
 団員たちは黙々と動くが、時折互いの顔を見合わせて笑った。
 ──この笑い声は、屯所に久しぶりに響く“生きた音”だった。


 昼を過ぎ、休憩の時間になるとグラウスがやって来た。
「……君、よくやっているな」
「団長、今まで誰もまともに掃除したことなかったんです。放っておけませんでした」
 好乃の言葉に、団長は目を細める。
「放っておけない……か」
「はい。だって、ここにいる人たちは……私を怖がらなかったでしょう? 私は異邦人と呼ばれ、差別されることも少なくありませんでしたから」

 団長は一瞬、言葉を失った。
「……なるほど。だから君は、俺たちを怖がらなかったのか」
「はい。それに、みんな……黙々と働いていても、誰も手を抜いていない」

 その目は、普段の冷静な団長のものではなく、ほんの少しだけ感情が揺れた光を帯びていた。
 好乃はそれに気づき、微笑む。
「団長、あなたも疲れてます。無理しないでください」
「……どうして、わかる?」
 団長は驚きと戸惑いを隠せず、手を少し緩めた。
「気づいてほしかったんでしょう?」
「え?」
「あなたは、普段は誰にも褒められないのでしょう?」
 団長の頬が赤くなる。
「……っ……そ、そんなこと……」
「私にはわかりますよ」

 言い終えると、好乃は再び作業に戻った。グラウスは少しの間、その場で立ち尽くす。
 しかし、黙って手を伸ばし、修繕用の工具を手に取り、好乃の近くで作業を始めた。

 夕方、屯所の中央広間。
 ようやく床板の腐敗部分が張り替えを終え、壁の半分が修繕された。
 好乃は汗でぐっしょりになりながらも、達成感に胸が高鳴る。
 ノアが隣で「……君、すごいな。商人相手に塗料の交渉までして」と小声でつぶやく。
 好乃は笑って肩を叩く。
「あなたたちも、ちゃんとできるんですよ」

 団長は好乃の背中を見ながら、心の中で静かに誓った。

 ──彼女を守る。ヨシノは黒騎士団にとって必要な人間だ。



「団長、お願いがあります」

 好乃の声に、グラウスが静かに顔を上げる。シルバーブロンドの長髪が束ねられ、灰青の瞳が闇の中で光った。

 いつもの執務室、と言っても好乃がやって来てまだ1週間しか経っておらず、改築(復旧?)作業は続いている。

「今度は何だ?」

 好乃は少し顔を背け、手に抱えたタオルと石鹸を握り直す。

「バルドさんを……洗ってください」

 一瞬の沈黙。団長の眉がぴくりと動いた。その場に立つ黒騎士団の面々も、ざわめきを隠せない。

「それは……命がけの任務になる」

「俺がやるのか……?」
「いや、5人がかりでも無理だろ」
「10年分の汚れって、もはや呪いじゃないか?」

 選抜されたのは、寡黙なユリオ、静かに皮肉を言うカイル、冷静なメイグ、水色髪のトル、そして弟系のノア。

 好乃は覚悟を決め、裏林の一角に設けられた雨水をためた簡易浴場に向かった。

 バルド=グレンツが上半身の衣を脱ぐと、赤髪短髪に金の瞳、傷だらけの筋骨隆々の背中が現れる。鍛え上げられた肉体だが、その背には年月の“生活の堆積”が厚く張り付いていた。

「……これは、洗うんじゃない。削るんだ」

 好乃の言葉に、団員たちは息を飲む。まさに岩盤のような汚れの層。鍛錬の汗、返り血、獣脂、垢、泥、酒、吐瀉物……。10年分が一体化していた。

 好乃はスクレーパーを手に取り、丁寧に層を剥がす。
「まず、表面の層を剥がします。石鹸は……3日目です」

 ユリオは無言で道具を差し出す。切れ長の濃紺の瞳が冷静に観察している。

 カイルは淡い青の瞳で皮肉を漏らす。
「これ、洗浄っていうより拷問だな」

 メイグとトルは黙々と井戸から水を運び、ノアは好乃の指示に素直に従う。

「うわっ! これ、皮膚じゃなくて……層だ!」
「動かないで! 今、肩甲骨の“第3層”を削ってます!」
「指が……! 捻った! 誰か交代して!」

 負傷者が出ても、好乃は止まらなかった。

「ここまで汚れてるのに、誰も文句言わず働いてる。すごい人たちだと思う」

 赤髪のバルドは黙して背中を差し出す。湯気が立ち、堆積した汚れの層の奥で、皮膚がようやく呼吸を始めたかのようだった。


 その夜、好乃は団長に報告する。

「初日は削り終えました。明日から、洗えます」

 グラウスは沈黙のまま頷いた。黒騎士団・最年長の落ち着いた顔に、微かな安堵が混じる。

「……君は、奇跡を起こす人だ」




 ◆初日

 皮膚の表面を削る洗浄。返り血と獣脂が層になっており、指骨折と手首捻挫の負傷者が2人。

 好乃は呟いた。
「これ、皮膚じゃなくて鎧じゃない?」


 ◆2日目

 重曹と酢で発泡洗浄。バルドが泡を指で弾きながら叫ぶ。

「泡が動いてる!」

 団員たちは本気で怯えた。

「これ、魔法じゃないのか?」


 ◆3日目

 香料とハーブで仕上げ。バルドは湯気の向こうで、ぽつりと呟いた。

「……風、通るな」




 翌日、町の人々は黒騎士団を見て足を止めた。

 「……あれ? 臭くない……?」

 10メートル先から逃げていた者たちが、初めて彼らを“人間”として認識した瞬間だった。

 好乃は微笑みながら言う。
 「これで、少しは優しくしてもらえるかも」

 団員たちは黙って頷く。その瞳に、ほんの少し光が差していた。




 「うちに来る食料、誰が指示してるんですか?」

 黒騎士を全員を洗うことに成功した好乃の問いに、食堂に集まった団員たちは顔を見合わせる。
 赤髪のバルドは眉をひそめ、筋骨隆々の腕を組んだまま沈黙する。藤色の髪のセランは口元に微笑を浮かべながらも冷静な目で好乃を見つめ、黒髪のユリオは無表情で視線を床に落とす。

 カイルは淡い青の瞳を細め、静かに舌打ちした。
「王宮の補給係だが……詳しくは知らない」

「調べてください。下手に告発すると毒を盛られるかもしれないから、主犯を城から追い出しましょう」

 その言葉に、団長グラウスが静かに頷く。シルバーブロンドの長髪が束ねられた頭が、かすかに動いた。

「いや……現金支給に切り替えよう。食料は、君が管理してくれ」


 好乃は即座に動き出した。
 屯所を出て、商人たちに直接交渉する。長い木の机を挟み、商人たちは警戒の目を光らせる。

 「黒騎士には売らない? こちらが王宮直属の警邏組織と知って、言ってるのですか? 国家反逆罪の疑いがあります」

 好乃の言葉に、商人たちの態度が一変した。汗を拭いながら、赤ら顔で言う。

 「……そ、そんなことは……いや、売ります、売ります!」
 「では、この値段で売ってください」

 その場に立つ団員たちは目を丸くした。
 バルドは両手を開き、思わず呟く。
「……この人、何者なんだ……」

 ユリオは無表情のまま目を細め、カイルは軽く舌打ちした。
「俺たち、今まで搾取されてたのか……」


 好乃はさらに行動を続ける。
 保存食の製法を教え、種を買い、屯所前や林に畑を作る準備を始めた。
 団員たちは黙って従う。赤毛のバルドは手を腰に当て、目の前で動く好乃の手際の良さに感心したように息を吐いた。

「自給自足できるようになるまで、保存食を増やしましょう。周囲に悪意ある人間が多すぎて、油断なりません。
それと、小作人兼雑用係を雇います。あなた方と同類なら、仕事に困っているはずです」

 森に狩りに行くのも“訓練”と称して許可された。長剣や斧を持つ団員たちが、初めて肩の力を抜き、自然の中で自分たちの生活を取り戻す。

「……俺たち、生活してる……」
「生きてるって、こういうことだったのか……」

 夜、焚き火のそばでユリオが静かに呟いた。
 「あれは……女神だ」

 その言葉に森の闇の中で、他の団員たちも小さく頷いた。微かな灯火のように、心の奥に希望が差し込む夜だった。




 夕方の執務室。  
 団長グラウスは報告書をまとめながら、ふと好乃に目を向けた。

「君が来てから、助かっている」

 好乃は少し驚いて、手を止める。

「……そうですか?」

「医療費が減った。特に肺を患ってた奴らが急速に回復した。衛生面と食事の質が上がったのが大きい。  
食費は減ったが──被服費は100倍に増えた。
散髪にする者も増えた」

 好乃は思わず笑ってしまう。

「それは……すみません」

「謝ることではない。 君のおかげだ」

 好乃は少しだけ目を伏せる。

「私は、何も……」

 そのとき、グラウスの袖に目が留まった。

「……あ、ほつれてますね」

 好乃は自然な動作で、彼の袖に手を伸ばす。  
 そのまま針と糸を取り出して、ほつれを直し始める。

 グラウスは一瞬、動きを止めた。  
 そして、耳まで真っ赤になった。

「……大丈夫ですか? 風邪でも?」

「問題ない」

 好乃はくすっと笑いながら、最後の糸を結ぶ。

「はい、できました」

 グラウスは袖を見つめ、それから、ぽつりと呟いた。

「……一生、大事にする」

 好乃が驚いて顔を上げると、 団長はすぐに目を逸らした。

「……いや、別に……その……」

 その耳は、やっぱり真っ赤だった。

 好乃は何も言わず、静かに微笑んだ。

 ──その袖には、小さな縫い目がひとつだけ。  
 誰にも気づかれない“感謝の証”が、そっと刻まれていた。





 黒騎士団の屯所に来て1ヶ月半。  
 好乃は、まだ“遠巻きに見られる存在”だった。  
 団員たちは彼女に近づこうとせず、ただ距離を保ったまま、様子をうかがうだけだった。

 でも、ノアだけは違った。  
 彼は好乃を積極的に手伝い、食事の味に素直に感動し、何より“普通に話しかける”ことができた。  
 その姿は、他の団員たちにとって眩しすぎた。

 訓練場には汗の匂いと鉄の擦れる音だけが響く中、団員がぽつりと切り出す。

「ノア、どうして彼女と話せるんだ?」  
「ヨシノは我慢してるだけで、心の中では気持ち悪いと思ってるんじゃないか?」

 ノアは模擬刀の刃先を交わしながら答えた。  
「そういう人じゃないですよ。話すとまっすぐ返してくれる」

「どうやって話しかけるんだ? 俺は女と話したことがない」

 ノアは少し考えた。  
「話すのが難しいなら、プレゼントすればいいですよ。
ヨシノ、子どもに会うために節約して自分の物は、ほとんど買ってない。だから、ちょっとした贈り物で距離は縮まるはずです」

 一瞬の沈黙の後、50人ほどいた団員達はいそいそと片付けを始めた。

 そんな中、最初に動いたのは──

「ヨシノ!」

 声の主はバルドだった。彼は汚れた訓練着のままズカズカ食堂に入り、大きな手で金貨の詰まった袋を乱暴に机に置いた。動作は派手だが、顔は真剣そのものだ。

「金ならある。だから……その──」

 バルドの台詞は、そこで詰まり周囲が静まる。  
 好乃がバルドの子分であるメイグとトルを見ると、2人は慌てて目を逸らした。
 彼らは好乃と家事をしているから少しは馴れているが、こうしてバルドと一緒に公然と財布を差し出すとなると話は別である。

「お、俺も特別扱いして欲しい」
 メイグは冷静を保とうとしているが、手の震えを隠せず、声も小さくなる。  

「……僕も」
 トルは頬を真っ赤にして、言葉がまとまらず視線は頻繁に床に落ちる。

「何を……して欲しいんですか? 私に」

 その言葉に、バルドの大きな手がふと震え、メイグとトルはさらに赤面する。 
 周囲の視線が集まり、空気が一段と熱を帯びた。



 後日。
「俺に特別な差し入れをしてくれて感謝する。ついでに手の甲にキスさせてくれ。歯は磨いた」

 好乃が戸惑いながら頷くとバルドは手の甲に、ゆっくりと唇を落とす。

「……本気で嬉しかった」

 その瞬間、食堂が静まり返る。

「えっ……今、キスした?」  
「手に……?!」  
「そんなの、ありなのか?!」

 団員たちがざわつき、空気が一気に波立つ。

 その場にいたトルが、顔を真っ赤にして1歩前に出る。  
 視線は定まらず、手は小刻みに震えている。

「あの、ぼ、僕も……えっと……」

 好乃が優しく微笑むと、トルはさらに混乱しながら叫ぶように言う。

「庭を……2人で……散歩してほしいです!」

 好乃が「いいですよ」と答えると、トルは顔を真っ赤にして「ありがとうございます!!」と叫び、そのまま1人で庭に走っていき秒で戻ってくる。

「……あの、もう満足しました……」

 団員たちが「早っ!」「秒で帰ってきた!」「1人?」とざわつく中、好乃はくすっと笑う。

「次は俺だな」  
 メイグが静かに立ち上がる。  
 黒髪を撫でつけ、落ち着いた声で言う。

 だがその瞬間、隣から声が割り込んだ。

「俺が先だ」  
 セランが椅子の背にもたれながら、涼しい顔で言い放つ。 藤色の髪が肩にかかり、薄紫の瞳が好乃を見つめる。

「なっ……!」  
「副団長権限だ」  
「くっ……!」

 団員たちが「副団長ズルい!」と小声で騒ぐ中、セランはゆっくりと好乃の前に立つ。

「少し、話をしてもいいか?」  
 その声は、いつもより少しだけ低い。

 好乃が頷くと、セランは1歩近づいた。  
 その手が、彼女の肩にそっと伸びる。

「……肩に触れても? もちろん、礼はする」

 好乃が「はい」と答えると、セランの指先が彼女の肩に触れた。  
 その瞬間、彼の瞳がほんの少し揺れた。

 団員たちがざわつく。
「俺も肩に触れたい……!」

 メイグが悔しそうに唇を噛んで、忠犬系の顔が歪む。
「……次は、絶対俺だ」

 セランは好乃を促して廊下に出た。
 扉が閉まる音が、広間のざわめきを切り離す。

「困ってることはないか」

 その声は、先ほどよりも低く、どこか慎重だった。

「今のところは。皆さん良くしていただいてます」

 好乃が微笑むと、セランは一瞬だけ目を伏せた。そのまま、少しだけ歩き出す。廊下の窓から差し込む光が、彼の髪に淡く反射していた。

「無理してないならいいが」

「まさか。むしろ必要とされて嬉しいのですよ。無理してるように見えます?」

「いや……充実して見える」

 セランは立ち止まり、窓の外に視線を向けた。風が木々を揺らし、葉の影が床に揺れている。

「亡くなった夫は『女は黙って家にいて働くべきでない』と言っていて、何もさせてくれなかったので」

 セランの眉がわずかに動く。彼は少しだけ顔を横に向けた。

「それは君を大切にしていたのでは?」

 好乃は一瞬、言葉を止めた。その沈黙は、ほんの数秒だったが、冷たい風のように二人の間を通り抜けた。

「それなら何故、身寄りのない妻と幼い我が子を置いて自死したのでしょう。私の生まれた国では、女性の社会進出が進んでいましたが……」

 セランの目が伏せられる。彼の指先が、無意識に手袋の縁をいじっていた。

「……すまない、余計なことを言った」

「いいえ、私の方こそ余計なことを……失礼します」

 好乃が軽く頭を下げると、セランは何か言いかけてやめた。そのまま、彼女の背中を見送る。


 廊下の窓から差し込む光が、床に淡く広がっている。その角に、ひとりの影が立っていた。

 カイル。壁にもたれ、前髪で目元を隠しながら、静かに言う。

「……子供のこと、どうしたいんだ?」

 好乃は足を止める。その声が、あまりにも自然で鋭かったから。

「聞いてたの?」

「……通りすがりに、な」

 カイルは視線を向けたまま、動かない。その横顔は、まるで彫像のように静かだった。

「一緒に暮らしたいだけか?  
それとも現トミーカー男爵を追い出して、息子の後見として男爵家に戻りたいのか」

 その言葉は、まるで刃のようだった。  
 好乃は少しだけ目を伏せ、答えを探す。

「……一緒に暮らしたい。  
でも、あの家に戻るのは……怖い。  
ハルトを守るためなら、何でもするけど……」

 カイルは短く息を吐いた。  
 その瞳には、わずかな苛立ちと、何かを押し殺すような光が宿っていた。

「ツテを頼れば、あるいは……何とかできないこともない」

 好乃は驚いて顔を上げる。  
 カイルは目を逸らしながら、続ける。

「……だが、それは俺にもリスクがある」

 沈黙。  
 廊下の風が、2人の間を静かに通り抜ける。

「ただ──君が、俺だけのものになるなら。考えなくもない」

 その言葉は静かで冷たくて、でもどこか切実だった。  
 好乃は何も言えず、ただ彼を見つめる。

 カイルは目を伏せ、壁から離れる。

「……答えは急がなくていい。  
でも、俺は“選ばれる準備”だけはしておく」

 そう言って、彼は食堂とは逆の方向へと歩き出した。  
 その背中は誰よりも孤独で、誰よりも誇り高かった。


 廊下の空気がまだ張り詰めている中、好乃はゆっくりと歩き出した。  
 カイルの言葉が胸に残っていて、足取りは少し重い。

 そのとき──

「ヨシノ!」

 明るい声が響いた。  
 振り返ると、ノアが両手を振りながら駆け寄ってくる。

「疲れたでしょ? ちょっと休もうよ」

 好乃が驚いて笑うと、ノアはにっこり笑って、彼女をひょいっと持ち上げた。

「ほら、食堂の隅に座って。俺、なんか甘いの持ってくるから!」

「そんな、気を遣わなくても……」

「気を遣ってるんじゃなくて、俺がそうしたいだけ!」

 その言葉に、好乃はふっと肩の力を抜いた。  
 ノアの笑顔は、黒騎士団の中で唯一“まっすぐな光”のようだった。

 食堂の隅に座ると、ノアが持ってきた果物の蜜煮を差し出す。

「これ、昨日の残りだけど、ちょっと甘いよ。元気出るって、姉ちゃんが言ってた」

 好乃が一口食べると、ほんのりした甘さが広がる。  
 その味に、胸の奥の緊張が少しだけほどけた。

「……ありがとう、ノアくん」

「ううん。俺、ヨシノが笑ってる方が好きだから。
後片付けもやっておくね」

 その言葉に、好乃はもう一度笑った。  
 そして、ノアの隣でほんの少しだけ目を閉じた。

 ──その時間は、黒騎士団の中で最も穏やかなひとときだった。




 白騎士団が屯所に現れた。  
 純白の制服、整った髪、冷たい視線。  
 ただし好乃から見ると破滅的に不細工な顔立ち──つまり、この世界では絶世の美男。
 その中の1人、白騎士団長であるレイヴが、好乃を見て鼻を鳴らす。
 居丈高だが、身長は日本女性である好乃とそこまで変わらない。

「……本当に女がいるとはな。女装した男かと思っていた」

 黒騎士たちがざわつく。  
 ユリオが1歩前に出ようとするが、黒騎士団長グラウスが手で制する。

「やめろ。無駄だ」

 白騎士団長は書類を投げるように差し出す。

「仕事の引継ぎだ。  
厄介な事件の後処理、薬物処理、暗殺、死体処理、疫病区域の巡回──  
お前らの得意分野だろ?」

 好乃が目を見開く。

「……まさか、いつもこんなことばかりさせられてるんですか?」

 レイヴは笑う。

「こいつらは醜いから、汚いことが似合う。
この容姿で高給取りになりたければ、この手の仕事するしかない。分相応さ」

 その言葉に、黒騎士たちの表情が凍る。  
 グラウスが静かに言う。

「誰かがやらなきゃいけない。  
 なら、俺たちがやる」

 好乃は、彼らの手を見つめる。  
 傷だらけで、泥と血にまみれた手。  
 でも、その手は──誰よりも優しかった。

「……あなたたちの手は、誰よりも綺麗です」

 その言葉に、黒騎士たちが息を呑む。

「俺たちの手は、汚れてる」  
「触れたら、君まで汚れる」  
「だから、俺たちは……」

 好乃は、何も言わずグラウスの手を取った。  
 その手を、両手で包み込むように握る。

「汚れてなんかいません。  
この手が、私を守ってくれたんです」

 レイヴが冷たく言う。

「その女を俺たちに寄越すなら、役割分担を変えてやってもいい。
女──目だけは美しい。他は凡庸だが。まあ、この程度なら我らの景観を損なわないだろう」

 その瞬間、黒騎士たちが一斉に立ち上がった。

「帰れ!」  
「ここは俺たちの場所だ」  
「彼女は、俺たちの光だ」  
「お前らに触れさせるかよ」

 黒騎士団長グラウスは静かに言う。

「彼女は、俺たちの誇りだ。お前らの手には渡さない」

 白騎士たちは何も言わず、 冷たい視線を残して去っていった。

 その夜、黒騎士団の広間には“汚れた誇り”が、静かに輝いていた。




 夜。
 任務を終えた黒騎士たちが、泥と血にまみれて屯所に戻ってくる。
 剣の鞘がぶつかり合い、靴底が濡れた石床を軋ませる音。疲労と死の匂いが混ざり、空気は重く沈んでいた。

 けれど、広間の奥に好乃の姿を見つけた瞬間、空気が変わった。
 灯火のもとで微笑むその姿は、戦場帰りの男たちにとって灯のようだった。

「お帰りなさい、疲れたでしょう」

 その声に、最初に反応したのはバルドだった。
 血と泥で固まった髪をかき上げながら、彼は不器用に視線を逸らす。

「……ヨシノ、髪、洗ってくれないか」

「え?」

 好乃が驚くと、彼は耳まで赤くして頭を差し出した。

「泥と血で、もう自分じゃわからん。君の手なら、落ち着く」

 彼女が頷くと、途端に他の団員たちが騒ぎ出した。

「俺も!」
「俺もだ!」
「俺も洗ってもらいたい!」

「ええい! うるさい! そんなにたくさんで来たらヨシノが疲れるだろ! 散れ!」

 バルドの怒声に、団員たちは蜘蛛の子を散らすように去っていく。

 好乃は浴室に移動すると、桶の湯を掬い、そっと彼の髪を撫でるように洗い始めた。

 湯気の中、泡立つ白が夜の影を溶かしていく。
 バルドは目を閉じ、静かに息を吐いた。
 その顔には、戦場では見せない穏やかな表情が浮かんでいた。


 次にやって来たのはメイグ。
 彼は無言のまま、広間の角で繕い物をしていた好乃の前で膝を折る。

「……膝、貸してくれ」

「え?」

「何も言わないから。ただ、乗るだけ」

 好乃が戸惑いながらも頷くと、メイグはそっと彼女の膝に頭を乗せた。
 乱れた黒髪が広がり、その顔には安堵と切なさが入り混じっていた。
 誰よりも冷静で、誰よりも仲間を思う男の、その弱さが覗いた。

 そこへトルも近づき、無邪気な笑みを浮かべながら手を差し出す。

「僕、手を繋ぎたいです」

 好乃がそっと手を握ると、トルは子どものように笑い「これで、もう少し頑張れる」と呟いた。


 最後に副団長セランが現れる。
 肩で息をしながら、かすれた声で言った。

「……食事、食べさせてくれ」

「え?」

「疲れてフォークが持てない。君が食べさせてくれたら、味がする気がする」


 好乃が食堂へ移動すると、豆スープに浸したパンを静かに彼の口元へ運ぶ。
 セランはそれを受け取り、ゆっくりと噛み締めた。

「……うまい」

 その一言に、広間の空気がやわらいだ。
 鎧の軋みが止み、笑い声もなく、ただ静かな“安堵”だけが満ちていく。

 ──その光景を、団長グラウスは遠くから見ていた。
 石壁の影に立ち、拳を強く握る。

 彼女が笑えば、皆が救われる。
 その存在だけで、傷も痛みも和らぐ。

(彼女は──俺たちの光だ)

 闇に沈む騎士団の中で、ひとつの決意が静かに燃え上がった。

 誰にも、渡さない。




 夜の廊下。

 好乃がひとりで廊下を歩いていると、  
 突然、背後から腕を掴まれる。

「っ……!」

 振り返る間もなく、壁際に引き寄せられる。  
 石壁に背を押しつけられ、目の前には緊迫した表情のユリオ。

 黒髪が揺れ、濃紺の瞳が真っ直ぐに彼女を射抜いている。

「……誰にでも、触れさせるのか」

 低く、掠れた声。  
 普段喋らない彼が、絞り出すように言った。

 好乃は驚きながらも、目を逸らさない。

「皆、優しいから……」

「俺は……優しいとは言えない」

 ユリオの手が、彼女の腕を強く握る。  
 けれど、その力は“痛み”ではなく“焦り”だった。

「……俺にも、触れてほしい。  
でも、誰かと同じじゃ、意味がない」

 好乃が息を呑む。  
 ユリオは壁際で、彼女の髪に指を伸ばす。

「君が、俺にだけ笑うなら。
それだけで、俺は……」

 言葉が途切れる。  
 けれど、瞳がすべてを語っていた。

「……私は誰のものでもない。あなたのものでも、他の誰でも。敢えて言うなら、ハルト──息子のもの」

 その瞬間、ユリオの手が少しだけ緩む。  
 そして、何も言わずに彼女から離れ、静かに闇の中へと消えていった。

 好乃は壁に手をついたまま、胸の鼓動を落ち着けた。

 廊下に、冷たい風が流れた。  
 好乃は窓の隅で、静かに夜空を見上げる。

 その背後から、今度は団長・グラウスが歩いてくる。

「……屯所が安全とはいえ、深夜に1人でいるとは。冷えるだろう」

 好乃は振り返り、微笑む。

「みんなと一緒に生活するうちに、夜行性になってしまって」

 グラウスは少しだけ口元を緩める。

「それなら──茶でもしないか」

「え?」

「嫌ならいい」

「……いいえ。是非」

「良かった。俺が淹れる」


 執務室。  
 窓辺に置かれた小さな茶器。  
 団長が不器用な手つきで湯を注ぎ、好乃の前に差し出す。
 これまで黒騎士団の屯所に茶葉などなかったのだ。

「今更だが、聞いてもいいか。  
君は──異邦人だろう」

 好乃は少しだけ目を伏せる。

「はい。日本という国から来ました。  
気づいたら、ここにいて……拾ってくれた食堂の女将に助けられて。  
でも、その店ももうなくて」

 団長は黙って聞いている。

「働いてる時、結婚しました。  
夫はナイーブな人でした。亡くなって…… 義弟に追い出されて、息子とも引き離されました」

 グラウスの瞳が静かに揺れる。

「裁判しては、どうか。費用なら、用立てる」

 好乃は首を振る。

「……義弟が、自暴自棄になるかも。  
もし、裁判で追い詰めたら──息子に何かするかもしれない。  
それが怖くて、動けないんです」

 沈黙。  
 茶の香りが、静かに部屋を満たす。

 グラウスは、カップを見つめながら言った。

「君は、強いな」

「……強くなんて、ないです。  
ただ、泣いても何も変わらないから」

 その言葉に、団長はそっとカップを置いた。

「君は黒騎士団の誇りだ。
君のためなら、みんな何だってする」

 好乃は驚きながらも、静かに頷いた。

 2人の間に流れたのは、言葉よりも深い、静かな信頼の波だった。


 団長の執務室から戻ると、好乃の部屋の前にノアがしゃがんでいた。  
 膝を抱えて、ぼんやりと天井を見ている。

「……遅かったね」

「どうしたの?」

「ちょっと、用事が……」

「?」

 ノアは立ち上がり、手を差し出す。

「朝焼けが綺麗なんだ。屋根、登ろう」


 屋根の上。  
 王都の空が、淡い桃色に染まり始めていた。  
 遠くの尖塔が光を受けて、静かに輝いている。

「……本当、綺麗」

「君の方が綺麗だ」

「え?」

「なんて。はい、これ」

 ノアが小さな箱を差し出す。  
 中には、銀のネックレス。  
 月の形をしたペンダントが、朝の光を受けて揺れていた。

「またプレゼント? もういいって言ってるのに」

「俺が好きで買ってるんだよ」

「いつも貰ってばかりで、悪いわ」

 ノアは少しだけ目を伏せて、呟く。

「……なら、キスを。褒美に。嘘、冗談」

 好乃は、静かに答えた。

「……構わない」

 沈黙。  
 風が、屋根の上を通り抜ける。

 ノアはゆっくりと顔を上げ、好乃の頬に手を添える。

「……ほんとに、いいの?」

「うん」

 その言葉に、ノアは切なげに顔を寄せた。  
 そして、そっと唇を重ねる。

 朝焼けの中、2人の影が寄り添う。

 それは、黒騎士団の中で初めて交わされた“愛の物語”だった。





 王都の市場は、今日も華やかだった。  
 果物の香り、香辛料の刺激、薬草の青い匂い。  
 好乃はバルド、ノア、トルと共に、屯所の生活を支えるための買い出しに出ていた。

 通りの角を曲がった瞬間、空気が変わる。  
 ざわめきが起こり、視線が一斉に向けられる。

 ──白騎士団。

 純白の制服に身を包み、完璧な立ち姿で通りを進む彼らに、民衆は歓声を上げた。  
「キャー! レイヴ様!」
「リュカ様、今日も麗しい!」  
 その声援は、まるで推しを讃えるようだった。

 長すぎる輪郭と強すぎる眉、開いてるかわからない目。  
 純白の制服がレイヴの“造形”を際立たせ、視界が歪むほどの存在感を放っていた。  

 リュカは、細長い輪郭に団子鼻、小さな口。目と目の間が離れすぎていて感覚がバグる顔。

 そこへ──黒騎士団の3人と好乃が通りに現れた。

 バルドは赤髪短髪、金の瞳。傷のあるゴツめ(日本人から見ると)美形で、筋肉が鎧のように盛り上がっている。  

 ノアは明るい茶髪に緑の瞳。アイドルのように輝く笑顔と、弟系の親しみやすさを持つ。  

 トルは水色の跳ねっ毛に青い瞳。心配性で気が小さいが、懸命に歩く姿が健気だった。脳筋団の中では儚い(日本人から見て)美しさを保っていた。

 だが、彼らが現れた瞬間──市場の空気が冷えた。  
「うわ、黒騎士団だ……」「なんか汚い」
「最近、臭くなくなったけど、やっぱり醜い」  
 民衆の口から、ブーイングが漏れる。

 その中で、白騎士・副団長ゼルドが、柔和な笑顔を浮かべながら言った。空豆に似た輪郭で、こちらも立派な一重だ。
「僕ぁ癒し系美男って言われるけど、こういうの見ると、やっぱり俺たちの方が“美”だよなぁ」

 白騎士団長レイヴが、好乃を見て鼻を鳴らす。  
「……黒騎士団専属の娼婦か。随分と汚れた趣味だな」

 その言葉に、空気が凍った。

 バルドの拳が震える。  
「……てめぇ、今なんて言った」

 子分のトルが慌てて腕を掴む。  
「やめてください、兄貴! 今ここで暴れたら団が潰れる!」

 リュカが細い体を折って笑う。
「黒騎士団はさぁ、むかし婆の立ちんぼと団員同士で済ませてたせいで、全員アレが紫になったって伝説だよな」  

 同じく白騎士団員・丸い体型にスキンヘッドのダリオが続く。
「そうそう。娼館に入れて貰えないから婆の立ちんぼだったのに、それすらダメって哀れだな。死人まで出て」

 バルドの瞳が燃える。  
 その言葉は、黒騎士団の過去をえぐるものだった。

 ──容姿差別による娼館の出入拒否。  
 ──組織内での性病の流行。  
 ──病気による死者の発生。  
 ──王宮からの“娼婦禁止令”。

 それは、黒騎士団が“人間扱いされなかった歴史”だった。

「……黙れ」

 ノアが低く呟いた。

「黙れって言ってんだよ」

「ああん? うるさいな、不細工」

 リュカが鼻で笑った瞬間──

 金属音が、空を裂いた。

 ノアの剣が抜かれ、長身の彼の肩をかすめる。  
 血が滲み、周囲が悲鳴を上げる。

「ノア!! やめろ!」  
 トルが叫ぶ。  

 だが、すでに遅かった。

 白騎士団が剣を構え、黒騎士団は包囲される。  


 騒ぎは王宮に届き、即座に処分が下された。

 ──ノア、追放。  
 ──黒騎士団、謹慎。

 その夜、屯所は沈黙に包まれていた。  
団員たちは誰も口を開かず、広間の灯りは落とされたまま。

 好乃は、ノアの部屋の前で立ち尽くしていた。  
 扉の向こうには、もう誰もいない。

 団長は執務室で報告書を握りしめ「……守れなかった」と呟いた。

 その言葉は、誰にも届かなかった。




 あくる日の屯所。  
 好乃は、廊下の角で足を止めていた。  
 執務室の扉は少しだけ開いていて、中から団長グラウスと副団長セランの声が漏れてくる。

「……ノアが、山賊団に加わったらしい」  
「グラヴフンデか?」  
「そうだ。ザグの元にいる。まだ正式な構成員ではないが動きは共にしている」

 好乃は息を呑んだ。  
 ノアが──あの優しい笑顔の少年が──山賊に?

「……戻す気は?」  
「今は動けん。謹慎中だ。下手に接触すれば、王宮に目をつけられる」

 好乃は何も言えず、ただその場に立ち尽くした。



 その夜、好乃は荷物をまとめていた。  
 最低限の水と食料、地図の切れ端。  
 山賊団の居場所は、食堂で聞いた噂を頼りにする。

 ──誰にも迷惑をかけずに、ノアを迎えに行く。  
 それが、彼女の決意だった。

 だが、屯所の裏門を抜けようとした瞬間──

「どこへ行くつもりだ」

 石壁の影から、カイルが現れた。  
 金の前髪の隙間から覗く瞳が、夜の光を受けて冷たく光る。

「……ちょっと、外に」

「荷物持って『ちょっと』はないだろ」

 好乃は言葉に詰まる。  
 カイルは1歩近づき、低く言った。

「ノアに会いに行くんだろ。グラヴフンデに」

 沈黙。  
 好乃は目を伏せる。

「……バレたら、クビかも」

「その時は、俺も山賊になる」

 その言葉に、好乃は顔を上げる。  
 カイルは目を逸らさず、静かに言った。

「君が行くなら、俺も行く。  
団長に報告する気はない。  
ただ、俺が一緒に行く理由は──“護衛”じゃない」

 好乃は何も言わず、ただ頷いた。



 夜明け前。  
 2人は王都の裏手に広がる山道を歩いていた。  
 霧が濃く、足元の石が湿って滑る。

「……この先に、山賊団の拠点があるはずです」  
「噂では、旧鉱山跡地だな。地図には載ってない」

 好乃は黙々と歩き続ける。  
 カイルは後ろから、無言でその背を見守っていた。

 途中、獣の鳴き声が響き、好乃が足を止める。

「怖いか?」

「……少し。でも、ノアくんの方が、もっと怖い思いしてるかも」

 その言葉に、カイルは目を細める。

「君は、強いな」

「違う。怖くても、動かないと──誰も迎えに行ってくれないから」



 山賊の1人が奥へ走った直後──  
残された男たちが、好乃とカイルをじっと睨んでいた。

「……騎士の制服だ」  
「黒騎士団か? 偵察かもしれん」  
「女を連れてるのが怪しい」

 その声が広がると同時に、剣が抜かれた。

「待て、俺たちは──」  
 カイルが言いかけた瞬間、男たちが一斉に襲いかかる。

「囲め!逃がすな!」

 だが、声は霧に吸われて届かない。  
 カイルは剣を抜き、瞬く間に数人を薙ぎ払う。

「下がってろ!」

 好乃は岩陰に身を寄せる。  
 カイルの剣は鋭く、動きは冷静だった。  
 だが──

「数が多すぎる……!」

 山賊たちは地の利を活かし、背後からも回り込んでくる。  
 カイルの肩に刃がかすめ、好乃が悲鳴を上げる。

「やめて!彼は敵じゃない!」

 その叫びも届かず2人は縄で縛られ、 山賊の拠点の奥へと連れていかれた。






 石造りの広間。  
 焚き火の煙が漂い、壁には古びた武器が並んでいる。

 お頭ザクが椅子に腰掛け、鋭い目で2人を見下ろす。  
 黒髪オールバックに濃い眉、髭を蓄えた顔は野獣のような威圧感を放っていた。

「騎士が女連れで山に来るなんざ、どう考えても怪しいだろうが」

 カイルは睨み返す。  
 前髪長めの金髪が目元を隠し、濃い青の瞳が静かに光る。  
 黒騎士団の制服を着崩しているが、所作は気品がある。

「俺たちは偵察じゃない。彼女が、ノアに会いたいと言っただけだ」

 ザクは眉をひそめる。

「ノア? ……あのガキに?」

 その瞬間、広間の奥から足音が響いた。

「ヨシノ……?」

 ノアが現れた。  
 明るい茶髪が少し伸び、緑の瞳は変わらず優しい。  
 少し痩せた頬が、彼の心労を物語っていた。

「……来てくれたんだ」

 好乃は涙をこらえながら頷く。

「会いたかった。ずっと、謝りたかった。守れなくて……」

 ノアは首を振る。

「謝ることなんてないよ。俺が勝手に動いたんだ。皆に迷惑かけてしまって……でも、来てくれて嬉しい」

 その空気を裂くように、もう1人の男が現れる。

「……カイル?」

 柔らかい金髪が肩まで揺れ、淡い青の瞳が遠くを見ている。  
 ルオン──カイルの兄だった。  
 仕立ての良い服を山賊風に偽装しているが、優雅さと野性が混ざった“逃亡貴族”の色気が滲んでいた。

「何してるんだ、こんなとこで?」

 カイルは目を逸らす。

「……俺の勝手だ」

「勝手で済むか。実家に言伝てしたのか? 大変なことになるぞ!」

 ザクが腕を組んで唸る。

「兄弟か……面倒だ」

 好乃は、ノアの隣で静かに言った。

「あの、彼は私を守ってくれました。  
 私が、ノアくんに会いたいって言ったから──一緒に来てくれたんです」

 その言葉に、ルオンは目を細める。

「……君が、弟を動かしたのか」

 ノアは好乃の手を握る。

「俺は、戻りたい。……でも、今はまだ、戻れない」

 ザクは焚き火に薪をくべながら言った。

「話は聞いた。だが、ここは山賊の縄張りだ。  勝手に入った以上、ただでは帰せねぇ」

 好乃は一歩前に出る。

「なら、働かせてください。  
掃除でも、料理でも、何でもします。  
ノアくんがここにいるなら、私もここで──」

 その言葉に、ザクは目を見開き、ルオンは深く息を吐いた。

「……面倒な女だな」

 カイルは、縄を引かれながら呟いた。

「……だから、俺も山賊になるって言ったんだ」

 焚き火の音が、静かに広間を満たしていた。  
 その夜、霧の山で交わされた言葉は誰の心にも、深く沈んでいった。



 昼。  
 山賊団の拠点の一室。  
 好乃が身支度を済ませると、カイルが寝返りを打ち、ぼそっと呟く。

「……腹、減った」

 ちょうどそのタイミングで、扉がノックされる。  
 10cmのハイヒールと赤いミニスカートを履いたミラが脛毛全開で、盆を持って現れた。  
 紫髪ウェーブに長い睫毛、華やかな顔立ちは異世界では“恐怖枠”だった。

「昼食よ。……味は保証しないわ」

 盆の上には、黒ずんだスープと、硬すぎるパン。  
 好乃は一口食べて、そっとスプーンを置いた。

「……えっと、素材の味が……しすぎますね」

 カイルも眉をひそめる。

「これは……拷問か?」

 好乃は少し考えてから、ミラに尋ねる。

「作り直してもいいですか?」

「……え? 別にいいけど。材料はあるわ」



 厨房。  
 好乃は袖をまくり、鍋を洗い直す。  
 野菜を磨き、香草を刻み、干し肉の焦げを削って煮込み直す。

 カイルは壁にもたれながら、ぼんやりとその様子を見ていた。

「……君、ほんとに異世界人か?」

「ええ。日本でも、食堂で働いてました」

「……なるほど。異世界の魔法は、鍋から始まるのか」


 数十分後。  
 香ばしい匂いが、拠点の廊下に広がり始める。

「……なんだ、この匂い」  
「昼飯、終わったはずだろ?」  
「でも、腹が……鳴る……!」

 山賊たちがぞろぞろと厨房に集まり、鍋の中を覗き込んで、唾を飲む。

「どうぞ。おかわりもありますよ」

 好乃の言葉に山賊たちは歓喜の声を上げ食後なのに、また追加で食べ始めた。

「うまっ!」  
「腹いっぱいなのに、箸が止まらねぇ!」  
「これ、魔法か?!」

 カイルはスプーンを口に運びながら、ぼそっと呟く。

「……君、山賊団の胃袋を制圧したな」



 その頃──黒騎士団の屯所。

「ヨシノがいない!?」  
「部屋にいないぞ!」  
「まさか、攫われたのか!?」  
「王国最強の黒騎士団の屯所で?!」

 騎士たちの声が広間に響き、ざわめきが波のように広がっていく。  
 その中心に、団長グラウス=ヴァルディアが静かに執務室から現れた。灰青の瞳が騒ぎを一瞥し、低く言い放つ。

「落ち着け。まず部屋を確認する」

 副団長セランが好乃の部屋へ向かい、扉を開ける。  
 中は、団員たちからの貢ぎ物で埋め尽くされていた。サイズの合わない服、ゴツい宝箱、似てない似顔絵、金塊、手紙、果物、謎の彫像、泥──その中に、ぽつんと1枚の紙が置かれていた。

「……置き手紙だ」

 セランがそれを手に取り、グラウスへ渡す。  
 団長は黙って受け取り、目を通すと、静かに読み上げた。

「『しばらく実家に帰ります。
ご迷惑をおかけします。ヨシノ』」

 一瞬、空気が止まった。

「……ニッポン?」
と、団長がぽつりと呟く。

 セランは肩をすくめる。
「いや、明らかに嘘だろ」

 騎士たちがざわつき始める。

「実家って、山の中か?」  
「団長、迎えに行きますか?」  
「いや、もう行く気満々の顔してる!」

 グラウスは静かに拳を握った。  
 その瞳には、決意の光が宿っていた。

「……“実家”がどこであろうと、彼女は俺たちの家族だ」

 その言葉に、騎士たちは一斉に立ち上がる。  
 床が軋み、剣が鳴る。空気が変わった。

 ──その頃、山では香りが満ちていた。  
 黒騎士団では、波が立ち始めていた。



 昼食後。  
 焚き火のそばで、山賊たちが武器の手入れをしていた。  
 ザグ親分は大剣を研ぎ、ディートは地図を広げて密談中。

 ディートは銀髪をきっちり撫でつけ、切れ長の目に眼鏡をかけた参謀。 仕立ての良い黒衣に、腰には毒薬入りの小瓶が揺れている。 その姿は、山賊の中では異質でありながら、誰よりも冷静で、誰よりも恐れられていた。

 その隣で、斧を磨いていた若手がぽつりと呟く。

「……あの女、おかしいな」

「ん?」

「俺たちの顔見ても、悲鳴あげねえ。  
思い切って話しかけたら、普通に返事された」

 別の山賊が頷く。

「俺なんか、皿渡したら“ありがとう”って言われたぞ。  
あれ、幻覚じゃねえよな?」

 ディートが眼鏡を押し上げながら言う。

「幻覚なら、全員見てることになるな。  
……つまり、現実だ。あの女は“俺たちを人間扱いしてる”」

 ザグ親分は黙って刃を研ぎながら「……女は強ぇな」と呟いた。



 その頃、厨房では──  
 好乃が食器を片付けながら、ノアとカイル兄弟に指示を出していた。

「この棚、傾いてるから直して。  
あと、床の泥が層になってるから、削る道具を探してきて」

 ノアは笑いながらバケツを抱え、カイルとルオンは無言で棚を持ち上げていた。

「……君、ここでも床を剥がすのか?」

「ええ。住む場所なら、綺麗にしないと」


 夕方。  
 好乃は焚き火の前に立ち、ザグ親分に頭を下げた。

「お頭、お願いがあります」

「……またか」

「掃除用品を買いたいんです。  
雑巾、重曹、酢、アルコール、あと石鹸も。  
このままだと、拠点が腐ります」

 ザグは眉をひそめる。

「下山して商人を呼ぶのは面倒だ」

 好乃は少しだけ口を引き結ぶ。

「香辛料があれば、もっと美味しい料理が作れます。ケチャップ、ウスターソース、デミグラスソースは瓶詰めすれば日持ちします」

 お頭の眉がピクピク動く。

「伝書鳥を使って商人に言伝てして、物資だけ届けてもらえればいいんです」

 沈黙。  
 ザグは焚き火に薪をくべながら、低く言った。

「……伝書鳥、飛ばしておけ。  
床を剥がすなら、人手がいるだろう。団員を集めろ」

 ディートが口の端を上げて笑う。

「山賊団、衛生革命だな。前から俺も汚いと思っていた」


 その夜。  
 好乃は再び、床を剥がしていた。  
 ノアが泥を運び、ルオンとカイル=金髪兄弟が板を外す。

「……この床、何層あるんだ?」  
「黒騎士団よりはマシ。でも、獣脂が染みてるから厄介」

「君、どこまで掃除する気だ?」

「全部。ここが“住む場所”なら」

 その言葉にノアが笑い、カイルが黙って頷いた。ルオンは不思議そうに2人を見た。

 焚き火の煙の向こうで、山賊たちがざわついていた。

「……あの女、やっぱり魔法使いじゃねえか?」  
「いや、魔法じゃない。生活だ」

 その夜、山賊団の拠点に“人間らしい匂い”が、ほんの少しだけ戻ってきた。





 夜霧が、山の稜線を白く覆っていた。
 月は薄く、風の音だけが鋭く通り抜けていく。

「謹慎中でも、彼女は俺たちの仲間だ」
 団長グラウスの声が低く響く。

「夜道は危険だが……行くしかないな」
 副団長セランが肩に外套を掛け直し、頷いた。

「実家が山の中って、どういうことだ……」
 誰かがぼそりと呟き、他の団員たちが苦笑する。

 それでも、誰1人として足を止めなかった。
 馬を避け、足音を殺し、黒騎士団は霧の山道を登っていく。
 湿った土と苔の匂いの中に、仲間を思う焦燥が混ざっていた。



「騎士だ! 騎士が来たぞ!!」
 見張りの山賊が叫ぶ。

「武装してる! こっちに向かってる!」
「お頭! 武器を!」

 ざわめく拠点。
 焚き火が消え、鉄の音が一斉に鳴り響く。

 ザグ親分が煙管を口から外し、低く吐き捨てた。
「……来やがったか」

 山賊たちは武器を構え、拠点の前に陣取る。
 霧の向こう、黒騎士団が現れた。
 漆黒の鎧が朝の光を受け、静かに鈍く光る。

 両陣営の視線がぶつかり合う。
 一触即発の空気。

 そのとき──

「待ってください!」

 澄んだ声が霧を裂いた。

 山賊と騎士の間に、好乃が立ちはだかる。
 後ろにはノアとカイルが続いた。

「彼らは敵じゃない!」
 ノアが叫ぶ。

「……俺の仲間だ」
 カイルが短く言い切る。

 好乃は息を整え、団長を真っ直ぐに見上げた。

「私を迎えに来てくれたんですよね? 嬉しいです。
 でも、まだ帰れません。この人たちを、ちゃんと洗ってからじゃないと──」

「……洗う?」
 グラウスが眉をひそめる。

 だが、すぐに副団長が鼻を鳴らして言った。

「……いや、意味はわかる。臭いが……周囲に獣の気配がない。
耐えられないんだ、獣の嗅覚では」

 団員たちが顔をしかめ、納得したようにうなずく。

 好乃は背筋を伸ばし、静かに告げた。
「あと3日。香草湯まで終わったら、戻ります。それまで、待っててください」

 しばしの沈黙。
 霧の中で、鎧の擦れる音だけが響く。

 やがて、団長グラウスがゆっくりと頷いた。

「……わかった。
なら、俺たちは1度戻る。
君たちが帰ってくるなら、俺たちは迎える」

 好乃は深く頭を下げた。

「ありがとうございます。
必ず、綺麗にして帰ります」

 風が山を渡る。
 霧の中、黒騎士団は踵を返し、静かに山を下りていった。

 彼らの背中を見送りながら、好乃は胸の奥で誓う。

 ──この手で、全ての汚れを落としてみせる。
 そして、胸を張って帰るのだ。




 ◇1日目。
 裏山の滝。
 水は氷の刃のように冷たく、霧が白く煙っていた。
 その前に立つのは、好乃。タオルと包丁を手にしている。
 その視線の先には、20年以上入浴していない──伝説の山賊9人。

「まず、虫を落とします。10分、滝に打たれてください」

 好乃の指示に、山賊たちは顔を見合わせた。
「滝って……入るのか?」
「死ぬぞ……」
「もう死んでるようなもんだろ……」

 覚悟を決め、彼らは雄叫びを上げて滝壺に突入した。

「うわあああああ!!」
「冷てぇ!! 皮膚が割れる!」
「でも……なんか、軽くなってきた……!」

 轟音の下、滝水は濁り、泡立ち、虫の死骸とともに黒い粒が浮かび上がる。
 ノアが鼻を覆いながら記録を取った。

「9人あたりダニ……240万匹以上。ノミ……150万匹以上。
……これはもう皮膚じゃなくて、生態系だった」

 滝行を終えた山賊たちは蒼白になりながらも、妙な清々しさを帯びていた。

 好乃は湯を沸かし、全員を湯に浸けてふやかす。
 そして包丁を構えた。

「第1層、剥がします。これは“人間の皮膚”を取り戻す作業です」

 カイルが隣で鍬を構え、無言で削ぎ落とす。
「……まだ、奥にいる」

 湯面には、黒く濁った層がゆらゆらと漂った。

 その夜、山賊たちは焚き火のそばで毛布にくるまり、震えながら呟く。
「……風が通る」
「皮膚が……静かになった……でも寒い」



 ◇2日目。
 朝。
 好乃は両手にデッキブラシを構えて立っていた。

「今日は、デッキブラシです。石鹸はまだ早い。物理で、汚れを落とします」

 山賊たちは青ざめ、列をなす。
「デッキブラシって……武器だったのか……?」
「俺、皮膚が燃えてる気がする……!」

 そして──洗浄開始。

「うわあああああ!!」
「痛い! でも……ダニが逃げた! ノミもいない!」

 ノアが再び記録を取る。
「ダニ、残り3万匹。ノミ、数百。……虫帝国、崩壊中」

 カイルは無言で自分の腕を磨きながら、低く言った。
「……第2層、完了。敵は退却している」

 その夜。
 山賊たちは湯に浸かり、目を閉じて呟いた。
「俺……皮膚が静かだ……」



 ◇3日目。
 朝。
 好乃は石鹸と香草を抱え、浴場に立つ。

「今日は、仕上げです。
 香草湯で、匂いを整えましょう」

 9人の山賊たちは、どこか誇らしげな表情で並んでいた。

「俺、昨日から痒くない」
「ダニ……いない。ノミも、いない」

 11回洗ったところで、ようやく白い泡が広がった。
 香草の香りが湯気とともに立ちのぼり、浴場いっぱいに広がる。

「……これ、魔法か?」
「いや、生活だ」

 ノアが記録する。
「ダニ、0。ノミ、0。……帝国、完全崩壊。人間、復活」

 その夜、好乃は焚き火のそばで微笑んだ。
「これで、みんな人間に戻れましたね」

 ザグ親分は静かに頷く。
「女は……強ぇな」

 こうして、山賊団の“皮膚革命”は完了した。
 ダニ帝国は滅びた。



 香草湯の儀式が終わった。
 3日間にわたる地獄の浄化を経て、山賊たちは──まるで別人のようだった。
 皮膚は清潔、匂いは爽やか。
 ノミも、ダニも、もういない。

 彼らは湯上がりの肌を撫でながら、ぽつりぽつりと口を開く。

「……ヨシノ、帰るのか?」
「いや、まだ壁の張り替え終わってないぞ」
「お頭、引き留めてくれ!」

 その声は、どこか名残惜しさを含んでいた。

 ザグ親分は腕を組み、短く唸った。
「……あの女がいなくなったら、また臭くなる」

 好乃は困ったように眉を下げた。
「でも、黒騎士団のみんなが心配してると思うんです。伝書鳥、飛ばしてもらえませんか?」

 ザグ親分は面倒くさそうに溜息をつきながらも、巣の上で眠っていた伝書鳥を捕まえ羽を撫でる。

「しょうがねぇな……」

 好乃が紙を差し出すと、彼はぶっきらぼうに書きつけた。

「好乃は元気。まだ掃除中。
 返すかどうかは未定。
 山賊団より」

 伝書鳥は山風に乗って飛び立ち、霧の向こうへ消えた。



 数時間後──黒騎士団・屯所。

「……伝書鳥だ。ヨシノから……いや、山賊からだ」
 副団長セランが巻物を開き、無言で団長へ渡す。

 団長グラウスはそれを一読して、表情を固めた。
「『返すかどうかは未定』……どういうことだ……?」

 メイグが小声で報告する。
「団長、謹慎中に脱走したのバレました。見張りついてます」

 ユリオが肩を落としながら言う。
「減給も決定しました。飯、干し芋だけです」

 広間の空気が、ずしりと沈んだ。

「……僕たち、何のために騎士やってるんだろ……」
 トルが、うなだれる。

 副団長セランも頭を押さえた。
「ヨシノがいないだけで、空気が腐ってる……」

 バルドが苦々しい顔で言った。
「シーツは臭いし、飯も不味いし、誰も笑わない……」

 グラウスは拳を握りしめ、かすれた声で呟いた。
「……ヨシノ、帰ってきてくれ……」



 その頃、山の上では──。

 好乃が桶の前にしゃがみ込み、山賊たちの服を洗っていた。
 手は泡だらけ、顔には小さな笑みが浮かんでいる。

「黒騎士団のみんな、ちゃんと食べてるかな……」

 ノアが隣で布を絞りながら答える。
「たぶん、干し芋だけ」

 ルオンが焚き火をくべながらぼそりと呟く。
「……俺たち山賊の方が、今は人間らしい」

 ザグ親分は腕を組み、湯気の向こうでしみじみと呟いた。
「女は……強ぇな」

 焚き火がぱちぱちと弾ける。
 泡の香りが漂う山の空気は、かつてないほど清らかだった。

 こうして、山賊団は清潔に、人間らしく。
 黒騎士団は──絶望と干し芋の中に沈んでいった。




 2週間が経った。
 好乃は山賊団の生活を完全に立て直していた。
 拠点は清潔、肌は滑らか、匂いは爽やか。
 もはや“山賊”というより“山の共同体”だった。
 だが──帰れる気配は、まるでなかった。

「いい加減にしなさいよ!!」

 香料の瓶が宙を舞い、ミラの怒声が森に響く。
 焚き火の前で、ザグ親分が面倒くさそうに眉をひそめた。

「……なんだ」

「『なんだ』じゃないわよ!」
 ミラは髪を逆立て、怒りのまま指を突きつける。
「あの女に決まってるでしょ! さっさと黒騎士に返しなさいよ!!」

 ザグ親分は煙をゆっくり吐き出しながら、ぼそりと呟いた。

「……ヤキモチかよ。面倒くせえな」

「はぁ!? ちっがう! あの女は黒騎士団の姫なのよ!!
このまま置いておいたら、総力戦で来るってば!!」

 ザグ親分は肩をすくめ、どこか達観したように言った。

「…………あれは俺の妻にする」

「はああああああああああああ!?!?!?」

 その絶叫をかき消すように、見張りの声が山を裂いた。

「敵襲!! 敵襲!! 騎士団が来たぞ!!」

 ザグ親分が舌打ちする。

「……タイミング最悪だな」

「だから言ったのよ!」
 ミラは頭を抱え、地団駄を踏んだ。
「どうすんのよ、王国最強の黒騎士団相手に!?」

 山賊たちが一斉に武器を構える。
 だが、木々の向こうから現れたのは──黒ではなく、白。

 白銀の鎧。純白のマント。
 そして、旗に刻まれた王国の紋章。

「……黒じゃねえぞ!? 白だ!!」
「白騎士団!? なんで来てんだ!?」

 ミラが顔をしかめる。

「黒騎士団が動けないから、代わりに白騎士団が来たのよ!」

「そんな親切じゃないぞ、あいつら」
 騒ぎを聞いて出てきたカイルが、眉間に皺を寄せる。

 ノアは白騎士の姿を目にして、拳をギュッと握った。

「……面倒くせえな」
 ザグ親分が小声でつぶやいた、その時だった。

 白騎士団長レイヴが前に進み出る。
 鎧の輝きがまぶしく、声は冷ややかに響いた。

「我々は、王国の命により、トミーカー前男爵夫人を迎えに参った。
山賊団よ、速やかに身柄を引き渡せ」

 ザグ親分は斧を肩に担ぎ、挑むように答えた。

「……あれは俺の妻にする。返す気はねぇ」

「そのような私的感情で、王宮所属騎士団の勤め人を拘束するとは──国家への反逆と見なす」

「だから言ったでしょ!? もう戦争よ!!」
 ミラが半泣きで叫ぶ。

 だが、その場を割って出てきた声があった。

「待ってください!!」

 好乃が物陰から飛び出し、両手を広げて叫ぶ。
 白騎士たちの視線が、一斉に彼女へ向けられた。

「私は、まだ掃除が終わってません!!」

「……掃除?」
 レイヴが眉をひそめる。

「この人たちを、ちゃんと人間に戻してからじゃないと、帰れません!!」

「……人間に?」

 ノアが真顔で補足した。
「根城の話です」

 カイルが続ける。
「ダニは、もういません」

 沈黙。風が、森を渡る。

 白騎士団長は額を押さえ、無言で空を仰いだ。

 ザグ親分は煙管をくわえながら、ぽつりとつぶやく。

「女は、強ぇな。でも、俺も譲らねぇ」

 レイヴは好乃をじっと見据えた。

「君は……そう言うように脅されているのだな」

 好乃は一瞬、言葉を失った。

「……は?」

 ディートも眉を寄せ、レイヴの真意を測ろうとした。

「どういう話の流れで……?」

「うるさい、開戦だ」

 レイヴが手を挙げると旗が翻り、剣が鋭く抜かれる。白騎士団は整列のまま前進し、山賊団も斧や棍棒、槍を握り締めて応戦態勢に入った。

 白騎士団99名+王国軍200名──対、山賊66名

 白騎士団の白銀の鎧は朝の光を反射し、まるで神話の戦士の群れのように見えた。
 しかし、その目はただひとつ。好乃を連れ帰ること。

 一方、山賊団は清潔になった誇りを胸に、全力で迎え撃つ。ザグ=ヴォルカンは斧を振り上げ、雄叫びを上げた。

「女は……強ぇな!!」

 ミラ=グレイヴァは香草スプレーを乱射し、白騎士団の顔面を直撃させる。

「鼻焼けろぉぉぉぉ!!」

 白騎士団のダリオは、くしゃみを抑えつつ鋭く剣を振るうが、目の前の泡の壁と香りの濃度に戸惑い、攻撃のタイミングを失う。

 カイルは好乃を守ることだけに集中して戦った。剣先は白騎士の間を縫い、彼女への距離を確保するために動く。

 ノアは短剣を握り、ミラの横で補助の攻撃を加える。斬撃は白騎士の鎧をかすめ、泡と香草の匂いの混ざる戦場に、小さな軌跡を描いた。

 ディートは戦いながらも頭を抱える。

「いや、ほんとにどういう流れ!?」

 戦場は混沌としていた。白騎士団は秩序を掲げて戦っているはずなのに、全員の目は好乃に向けられ、彼女の存在が戦局を左右していた。山賊たちは清潔になった自尊心を盾に、何度も国軍の突撃を跳ね返す。

 斧と剣が激突し、槍が飛び交い、香草湯の泡が飛び散る。好乃の持つ鍋は、まるで魔法のバリアのように戦場の流れを一瞬止める。

 ザグ親分は大斧を振り回し、斬撃ごとに白騎士の盾を粉砕していく。

「これが……俺の全力だ!!」

 ミラは宙に舞いながら、白騎士の間を縫い、香草のスプレーを撒き散らす。香りの渦に巻き込まれた若手騎士たちは目をしばたたき、動きが鈍る。

 しかし、白騎士団の隊長レイヴは冷静だった。陣営内で副団長と共に高みの見物を決め込んでいた。

「有名な山賊団だと言うから期待していたのに、たいしたことないではないか」

「有名というのは、強いからでなく醜いからです」

 副団長ゼルドの回答に満足したレイヴの口端が、ニヤリとつり上がった。



 戦闘は夜明けまで続いた。山賊団の地の利を生かした抵抗も激しかったが、白騎士団の統率力と数には及ばず、ついに山賊団は敗北する。

 ザグ親分は斧を奪われ、膝をついた。ディートは口を封じられ、指一本も自由に動かせない。ミラは香草スプレーを投げ尽くし、疲労でその場に倒れ込む。

「……皮膚は綺麗になったのに」

 ザグ親分は拘束されながら、ぽつりと呟く。

「誇りは、守れなかったな」




 謹慎解除の朝。
 黒騎士団の屯所には久々に人の声が戻っていた。
 磨かれた剣が陽を反射し、訓練場に鉄の音が響く。

「団長、謹慎明けです。全員、出動可能です」

 副団長が報告を終えた、その時──簡素な扉が、外から叩かれた。

 白銀の鎧をまとったダリオが、静かに姿を現す。
 純白のマント、王家の紋章。白騎士団の旗印。

「我々は白騎士団。報せを持ってきた」

 団長グラウスが立ち上がる。

「……何の用だ」

「ヨシノ・トミーカー前男爵夫人は現在、我々の宿舎で働いている。
彼女は自らの意思で王国直属の“奉仕官”となった。
以後、黒騎士団との接触は禁ずる」

 静まり返る広間。

 バルドが、思わず椅子を蹴り上げる。

「何だと!? “奉仕官”だと!?」

 副団長セランが低く問う。

「それは拘束か?」

 ダリオは笑みを浮かべ、肩をすくめた。

「彼女は望んで我々のもとにいる。……少なくとも、表向きはな」

 白い靴音を響かせ、使者は去っていった。
 残された黒騎士たちの胸には、静かな怒りが渦巻く。

「……ヨシノを、奪われた」

 団長は拳を握り締めた。
 
「準備をしろ。動くぞ。もう2度と、誰にも奪わせない」



 白騎士団宿舎──。
 好乃は磨き上げられた床に膝をつき、無表情で洗い続けていた。
 白衣の男たちが行き交う中、彼女の背中だけが異質だった。

「……もう少し力を入れろ」
「はい」

「目を伏せろ」
「はい」

 冷たい命令に、従順に応じる。
 だが、目の奥は静かに燃えていた。

(……この人たち、見下してるだけ。命令だらけで、何も見ていない)

 香草湯の香りがかすかに残る手を見つめながら、好乃は決意を固める。

(……絶対に、取り戻す。自分の場所も、みんなも)



 夜明け前の王宮敷地内。
 霧に包まれた石畳を、足音が走る。
 好乃は山賊たちを地下牢から出し、白騎士団の目を逃れて裏路地を疾走した。

「カイル、道は!?」
「南門は封鎖、東の路地を抜ければ黒騎士団の領域!」

 ノアが好乃の手を握る。
「絶対、離さないから!」

 背後で、白の鎧が光を反射した。

「逃がすな!!」
「追え!!」

 矢が飛び、石壁に弾ける。
 ザグ親分が大鍋を振り回し、道を塞ぐように崩落を起こした。

「行け!! 女は先だ!!」
「お頭!」
「構うな!!」

 煙の中、好乃は振り返らず走った。
 その瞳には、ただひとつの場所しか映っていない。

(黒騎士団……あそこに帰る)



 夜の王都。  
 霧が薄れ、石畳に足音が響く。

「ヨシノ!? ノア!? 山賊まで!?」

 東の路地を抜けた先、黒騎士団の迎え部隊と鉢合った。  
 先頭には副団長セラン、背後にはユリオ、メイグ、トルらが剣を構えて立っていた。

 好乃は息を切らしながら叫ぶ。

「白騎士が追ってきてる! 後ろから!」

 セランが目を細め、すぐに指示を飛ばす。

「ユリオ、メイグ、トル──足止めだ。ヨシノは俺と!」

「「「承知」」」

 ユリオが無言で双剣を抜き、霧の中へ消える。  
 メイグは槍を構え、トルはグッと短剣を握りしめた。

「ヨシノ、こっち!」

 ノアが好乃の手を引き、セランとともに屯所へ向かって走る。

 背後で、白の鎧が霧を裂いて現れる。

「逃がすな!!」

 矢が飛び、石壁に弾ける。  
 ユリオが音もなく矢を弾き、メイグが槍で突撃を止める。  

 トルが叫ぶ。
「絶対、通さないからぁぁ!!」

 その叫びに、好乃は振り返りそうになる。  
 けれどセランが静かに言った。

「信じろ。あいつらは、守るためにここにいる」

 好乃は頷き、涙をこらえて走った。

(……守られてる。私、守られてる)

 黒騎士団の屯所が見えた瞬間、門が開く。  
 団員たちが駆け寄り、好乃を囲む。

「ヨシノ! 無事か!?」
「ノアも! 山賊まで!」

 団長グラウスが前に出て、静かに肩に手を置いた。

「……よく、帰ってきた」

 その言葉に、好乃は小さく笑った。

「……ただいま」

 背後では、白騎士団の追撃隊が迫っていた。  
 ユリオたちが後退しながら、門を閉じる。

「団長、命令を」

 グラウスは剣を抜き、静かに言った。

「言うまでもない。  
──奪われたものを、取り返す」

 夜明けの風が、黒の旗を揺らした。  
 戦いの幕が、静かに上がろうとしていた。







 数時間後。  
 白騎士団が黒騎士団の屯所に現れた。

 白騎士団長レイヴが剣を掲げて叫ぶ。

「山賊と異邦人を引き渡せ!  
彼らは王国に対する反逆者だ!」

 黒騎士団長グラウスは静かに言った。

「拒否する。  
彼らは、我々の仲間だ」

 副団長セランが続ける。

「この場所は、黒騎士団の管轄だ。  
王国の命令でも、誇りは譲らない」

 白騎士団は剣を構え、王国軍2000が背後に陣を敷く。

「ならば、武力で奪うまで!」




 太陽が林を包み、空気は重く張り詰めていた。  
 王国兵の伝令が、白騎士団の紋章が刻まれた書面を手に、黒騎士団の屯所前に現れる。

 藤紫の副団長セランが前に出て、無言でそれを受け取った。  
 紙を広げ目を通すと、口元に皮肉な笑みが浮かぶ。

「“異邦人と山賊を引き渡せ。さもなくば、王命により制圧する”──とさ」

 金髪兄弟のカイルが鼻で笑った。
「紙で来るあたり、突入する気ねぇな。2000人もいるくせに情けねぇ」

 メイグが槍を肩に乗せながら呟く。
「分が悪いと踏んだんだろ。王宮の裏じゃ火も使えないし、屯所を囲めば兵力が分散する」

 セランは目を細め、林の入口を見やった。

「踏み込むこともできず、火薬も使えない。こちらが、じっとしていれば自滅するだろう」

 トルが自身の髪と同じ青い顔で、不安げに声を上げる。

「そしたら餓死してしまいますよ!
かと言って、闘わずに出れば“逮捕”でしょう?」

 その言葉に、団長グラウスが静かに剣を抜いた。  
 刃先は、日差しの中で鈍く光る。

「討って出る」

 その言葉に、黒騎士団の空気が変わった。  
 誰も叫ばない。誰も騒がない。  
 ただ、静かに──立ち上がる。

 セランが声を張る。

「全隊、出陣する──!」

 黒騎士団150名+山賊14名──  
 白騎士団47名+王国兵2000名



 王国軍・司令官は、裏門へ続く通路に兵を配置しながら言った。

「黒騎士団は夜行性。夜襲に備えろ。夜明けには動くはずだ」

 兵士たちは緊張の面持ちで、矢列・銃列・騎馬隊を整え、夜通し待機した。  
だが──

 夜が明けても、動かない。  
 昼になっても、静かだった。

 司令官は苛立ちを隠せず、叫ぶ。

「……なぜ動かない!? 何か企んでいるのか!?」

 ──その頃、黒騎士団の屯所では。

 ノアが自室の布団の中でうめいた。
「……うぅ、昼か。お腹すいた」

 ユリオが、台所でぼそりと呟く。
「鍋、温める?」

 セランは執務室で書類を片付けながら、軽く伸びをした。
「そろそろ出るか。隊列準備」

 そして、隣にいたグラウスが無言で立ち上がる。  
 剣を手に、静かに歩き出す。

 その背に、黒騎士団の“誇り”が集まっていく。



 昼過ぎ、林の空気は張り詰めていた。  
 王国兵たちは正面の通路を警戒し、矢列と銃列を整えていた。  

 司令官が叫ぶ。
「黒騎士団は夜行性だ! 夜明けか、夜に動くはずだった……なぜ来ない?!」

 兵士たちは焦りながら頷く。

 ──その瞬間。

 林の左右から、黒い影が一斉に飛び出した。

「横から!? なんで!? 正面じゃないのか!?」  
「囲まれる! 銃列が崩れる!」  
「矢が間に合わない!」

 黒騎士団が、獣のような足音で林を裂く。  
 左右からの奇襲に、王国兵の隊列は瞬く間に混乱した。

 騎馬隊が後方へ逃げ、銃列が崩れ、矢兵は射線を失う。  
 その隙を突いて、黒騎士団が接近戦に持ち込んだ。

 燃える巨躯バルドが、斧を肩に担ぎながら叫ぶ。

「突っ込むぞ! 逃げんなよ!」

 その声に、空気が震えた。  
 彼が斧を振るうたび、兵士の盾ごと身体が吹き飛ぶ。

「ぐあっ──!」  
「な、なんだこの力……!」

 メイグが冷静に槍を構え、前衛を突き崩す。

「槍、前へ。囲んで潰すぞ」

 水色のトルは短剣を握りしめ、震えながらも叫ぶ。

「こ、こっちから回り込む!」

 黒騎士団の動きは、まるで訓練された猛獣の群れ。  
 ひとりが王国兵10人分の戦力を持っていた。

 ユリオは自身の目つきのように鋭い双剣を静かに振るい、敵の喉元を正確に切り裂いていく。

「……っ、速すぎて見えない……!」  
「誰だ!? どこから来た!?」

 ノアは短剣で敵の足を狙い、倒れた兵士の武器を奪って次へと向かう。

「こっちだよ!」

 セランは指揮を取りながら、敵の動きを読み切っていた。

「後列、回り込め!前列は押し切れ!  
この林は俺たちの庭だ!」

 兵士たちは次々に倒れ、地面に血が広がる。  
 銃声も矢の雨も、黒騎士団の突撃には通じなかった。

 ──そして、グラウス=ヴァルディア。

 彼は剣一本で、敵陣の中心へと歩いていた。  
 その歩みは静かで、だが確実に“死”を運んでいた。

 銃弾が飛ぶ。  
 だが、彼は軌道を読み、身体をわずかに傾けるだけで避ける。

 矢が放たれる。  
 彼は剣でそれを弾き、前へ進む。

「ひっ、な、なんだあいつ……!人間じゃない……!」
 敵兵が恐怖で尻もちをつく。

 グラウスは無言で剣を振るう。  
 その一撃で、兵士が簡単に吹き飛ぶ。

「ぐっ──!」  
「ば、化物……!」

 その姿に、王国兵の士気は崩壊した。

「逃げろ! もう無理だ!」  
「黒騎士団が……強すぎる……!」

 林の中、黒の咆哮が響き渡る。  
 王国最強の名は、ただの噂ではなかった。

 それは、“誇り”を背負った者たちの、圧倒的な現実だった。




 戦闘開始から僅か20分。
 王国兵が血と砂を撒き散らしながら白騎士の簡易陣へ駆け戻ってきた。顔は蒼く、声は震えている。

「黒騎士が強すぎる! 矢も銃も通じない! 接近されれば終わりだ!」

 その報を受け、白の団長レイヴ=アルセリオは静かに立ち上がった。言葉は低く、指示は確実だった。

「バリケードを張って持ちこたえろ。
ゼルド、援軍要請。ダリオ、毒矢の雨で時間を稼げ。ここまで来させるな」

 盾と木材が投げ込まれ、兵たちが手早く即席の防壁を築く。白い軍服の列から、ダリオの部隊が矢筒を取り出し、毒羽根を装着した矢を噛むように放つ準備を始めた。


 天を裂くように矢の群れが飛び、林の入口を暗く覆う。毒煙が低く這い、空気が粘る。一見、白騎士の策は完璧に見えた。

 セランはそれを見据え、鼻先で笑った。

「毒か。俺たちに耐性がついていると知らないとは、愚かな……進め」

「だけど、視界が悪い」
「地面に何か撒いてある」

 ノアは咳き込み、ユリオは一歩足を滑らせる。密林の通路は砕け散る矢と泥で見通しを奪われた。

 そのとき、白馬に跨ったレイヴが前線へ出現する。司令官の止めも振り切り、彼は馬の手綱を締め冷徹に言い放った。

「秩序は、前で示すものだ」

 視界の向こう、騎馬の嗥声が木霧を切る。レイヴは騎上から声を張り上げた。言葉は軍令ではなく毒であり刃だった。

「武勲を立てた者には、異邦人の女を戦利品として与える。あいつらの目の前で“可愛がってやれ”」

 高らかに宣言されたそれに、国軍の士気が上がる。

 一方でトルの目が潤み、ユリオが低く唸る。

「まずい、隊が乱れる」
 セランの焦りと同時に隊列の端がざわつく。グラウスは無言のまま剣柄を強く握りしめた。

「ふざけんなぁぁぁ!! “戦利品”だと!? あいつは、俺たちの──!」

 バルドが咆哮し、単騎で突進した。斧が振り上げられると、音が獣の吠えに変わる。彼の一撃が盾を弾き、銃列の縦を裂いた。兵の隊列は一瞬で崩れ、前線に亀裂が走る。

「バルド、戻れ!! それが狙いだ!!」  
 セランが叫ぶが怒りの炎は止まらない。
 バルドは敵陣深くへと進み、鋼と肉がぶつかる轟音だけが残る。

 隊の乱れをついて、白騎馬隊が一斉に突進した。馬蹄が地を裂き、前列は押し返される。ノアが短剣で道を切り、ユリオが双剣で隙間を狙うが、圧が強まり後退を余儀なくされた。

「くそっ、押し返される!」
と、ノアが叫ぶ。

 バルドは孤立し、周囲は敵だらけになっていく。

「「兄貴!」」
 メイグとトルの声が、遥かに遠く聞こえた。

 レイヴは素早く陣へ戻り、指揮を再構築する。白の防壁は再編され、黒騎士団は退きを強いられた。


 敵陣深く、1人で斧を振るうバルドの周囲に数の壁が立つ。彼は叫ぶ。斧は仲間の名を叫ぶための鐘のように振るわれるが、救援は間に合わなかった。

「来いよ…! “戦利品”なんて言わせねぇ…!」

 そのとき、ミラが場違いなはしゃぎ声をあげた。

「さあ、嫌な匂いよ~! お馬さんたち、逃げなさい!」  

 携えた香草が一斉に撒かれ、馬たちが鼻を鳴らして暴れ始める。馬群は制御を失い、騎馬隊の隊形は崩壊する。白い列は鞭音と悲鳴で引き裂かれる。

 その隙に、黒騎士団は素早く撤退線を引き、屯所へと後退を開始した。副長セランは短く命じる。

「全員、休憩。次は救出だ」

 カイルの声が低く響く。
「バルドはまだ生きてる。動けるうちに行く」
 メイグとトルの「そうだ!」という声が返るが、ノアは首を捻る。

「でも、どうやって…?」

 ヨシノが静かに前に出た。林の外れに立ち、全身で敵の視線を引き寄せる。目には恐怖ではなく決意が宿っていた。

「私が囮になる。あの人を助けたい」

 ユリオは声を上げかけて止まり、グラウスは目を伏せて剣の柄を握りしめる。沈黙の中、セランが作戦を組み立てた。

 ユリオとノアが側面から侵入し、ヨシノの誘導でバルドへ合流する。

 林影を縫うように進んだ2人は、斧と血にまみれた男と無事合流した。バルドはヨシノを見ると、荒い息で言った。

「ハアッハアッ、ヨシノ……! お前っ!」

「今は、逃げて。後で怒って」

 そして、脱出路は確保された。黒騎士団はバルドを抱え、静かに撤退していった。

「王子殿下がいらしたぞ! 陣を固めろ!」 

 だが救出の喜びも束の間、白陣には王族の旗が掲げられ、アルセリオ公爵家門の私兵500が到着した。官軍の士気は一気に膨れ、兵たちは息を詰めて前へ出た。レイヴはヨシノは捕らえ、前線で高々と掲げた。

「異邦人は我々の手にある。黒騎士団よ、動けば彼女の命はない」

 林の浅瀬で、黒騎士団は沈黙した。バルドは斧を握りしめ、膝で震えを止める。

「異邦人も捕まえた! これで終わりだ!」  
「王国の秩序は守られた!」  

 王国軍に勝利の空気が満ちた。

 ノアは声を絞り出すように呟いた。

「……ヨシノ……」

 その瞬間、木々の間から足音が響く。音は小さく、しかし確実に近づく。全員の視線がその方向へ集まる。

 グラウスが単騎で現れた。剣を携え、顔は無表情。歩みは遅く重かった。
 銃弾は彼を捉えようとして意思と軌道を読み取られ、矢は剣先で弾かれる。
 白騎士たちは王国最強の威圧に負け、恐怖から逃げることもできない。

 レイヴは震え声で叫んだ。
「やめろ……! く、来るな! お前は、もう終わっ──」

 言葉が途切れる。地を割るような一閃があり、レイヴの声は剣音とともに切り裂かれた。林に、凍るような静寂と遠吠えのような咆哮が残った。

 立ち上る怒気を見た者達は、その場に凍りつき、漏らす者、膝から崩れ落ちる者、腰を抜かす者、ショック死する者、様々だった。

 グラウスはヨシノを掴み取り、味方へと歩を返す。黒騎士団は一斉に反撃を開始した。

「よし! 皆殺しにするぞ!」
「おー!」
「容赦するな!」
「今までの恨みを全て晴らせ!」

 白騎士陣が崩れ、王国兵が逃走を始めた頃── 黒騎士団の中で、ひときわ鋭い視線が敵陣を射抜いていた。

 ノア=リステア。  
 若き騎士は、剣を握りしめ、血の中を駆ける。

 その目が捉えたのは、細長い白騎士団の若手──リュカ=エルヴァン。  
 そして対照的に丸い毒矢部隊の指揮官──ダリオ=フェルゼン。

 かつてレイヴが好乃を「黒騎士団の娼婦」と罵った時に笑い、更には団員から死人が出た事件を「哀れ」と嘲った男たち。  
 ノアがリュカに斬りかかったことで、追放された因縁の相手だった。

 今、戦場で再び目の前に現れたその瞬間──ノアの身体は、怒りと誇りで燃え上がった。

 近づく殺気にリュカが振り返り、反射的に肩を押さえる。

「お前、あのガキ……」

 ダリオが鼻で笑う。

「追放され、山賊にまで落ちぶれ──」

 ──その言葉が終わる前に。

 ノアの短剣が、空気を裂いた。

 一閃。  
 リュカの喉元に、刃が突き刺さる。

「っ──が……!」

 リュカの身体が崩れ落ちる。  
 その瞳は、最後まで“何が起きたか”を理解できなかった。

 ダリオが慌てて後退する。

「っま、待っ──!」

 ノアは無言で踏み込み、もう一閃。

 刃が、ダリオの胸を貫いた。

「ぐっ……!」

 毒矢の指揮官は、血を吐きながら膝をつき倒れた。

 周囲の兵士が凍りつく。

「な、なんだあいつ……!」  
「速すぎて見えなかった……!」

 ノアは剣を振り払うと、静かに呟いた。

「ヨシノを侮辱した報いだ。黒騎士を汚した罰だ。俺は、もう黙らない」

 その背に、黒騎士団の誇りが宿っていた。  
 若き騎士の刃は、ただの怒りではなく“守るための覚悟”だった。

 白騎士の陣は崩壊した。白い旗が泥にまみれて消えた。黒は再び林を飲み込み、硝煙と血の匂いが風に漂った。



 王宮の広間に、伝令の声が響いた。

「黒騎士団が、王国軍を撃破しました。  
白騎士団は全滅。兵士は逃走、行方不明です」

 その言葉に、大臣たちは震えた。  
 顔色を失い、椅子から立ち上がる者もいた。

「まだ開戦して4時間なのに……」  
「援軍はどうした? トータル2500だろう」  
「王国最強を甘く見ていた。これほどまでとは……」  
「白騎士が弱すぎたのだ。鍛練場を使っていないという噂もあった」  
「いや、それよりも今、王都の戦力が“無”であることが一番問題だ」

 沈黙が広がる。  
 そして、王が口を開いた。

「……今回の件は、不問とする。  
ノア=リステアの行動も、黒騎士団の戦闘も── 王国の秩序を守るための“独自判断”だったと認める」

 その言葉は、実質的な降伏宣言だった。



 門兵たちは、近づいてくる黒騎士団の姿に気づいた。  
 その足音は静かで、だが確実に近づいてくる。

「黒騎士団だ……」  
「王国軍を……」  
「止められるわけがない……!」

 誰も剣を抜けなかった。  
 誰も声を上げられなかった。

 グラウス=ヴァルディアが門の前に立ち、静かに言った。

「王に謁見を求める。拒否するなら、門を越える」

 門兵は震えながら、扉を開けた。



 王は蒼白な顔で、黒騎士団を迎えた。  
 広間には、重い空気が漂っていた。

「……何を求める」

 グラウスは剣を抜かず、書類を差し出した。

「黒騎士団の独自権。  
 王国軍とは別の指揮系統。王室直属ではなく、対等な提携関係。  
 王都防衛、治安維持、特殊任務の独立裁量。  
 そして、王国法に基づく“誇りの保護”」

 王は震える手で書類を受け取る。

「……それは、王国の秩序を揺るがす」

 副団長セランが一歩前に出て、静かに言った。

「守れる者がいなければ、秩序も無くなる。  
 秩序のない国は、崩壊する」

 バルドが斧を肩に乗せながら、ぼそりと呟く。

「面倒くせぇ、首をはねよう。団長が王になれ」

 広間に、沈黙が落ちた。

 王はゆっくりと印章台に手を伸ばす。

「……わかった。  
 黒騎士団の権限を、正式に認める」

 印が押される瞬間──  
 空気が変わった。  
 広間の壁が、少しだけ“綺麗”に見えた。

 好乃はその場に立ち、静かに呟いた。
「これで、少しは“綺麗な国”になりますね」





 戦が終わった翌日から、黒騎士団の屯所では連日祝勝会が開かれた。

 初日は、バルドをはじめとする前衛組が爆睡。  
 斧を抱えたまま床で寝落ちた者、風呂にも入らず倒れた者──  
 料理に手をつける余裕すらなかった。


 2日目。  
 ようやく全員が起き、ヨシノの手料理が並ぶ。  
 香りが漂い、団員たちは目を輝かせた。

「これだよ、これこれ!」  
「あー幸せ!」

 食卓は賑わい、笑い声が響く。  
 だが、その中心にいるヨシノをめぐって──  
 空気は、少しずつ変わっていった。

 団員たちは、彼女に話しかけ、手伝いを申し出る。  
 ノアは皿を運び、メイグとトルは椅子を整える。  
 ユリオは黙って水を差し出し、カイルとルオンは距離を保ちながら視線を送る。

 だが、ヨシノの目が向くのは──  
 いつも、団長だった。

 料理を出すときも報告をするときも、彼の反応を1番に見ていた。



 3日目。  
 屯所の外塀が補強され、近くに新築の準備が始まった。

 町の人々や貴族から、戦勝祝いの品が届く。  
 だが、その手紙には、どこか奇妙な共通点があった。

「『黒騎士団の皆様へ──  
この度のご武功、心より祝福申し上げます。  
つきましては、今後とも我が領地へのご配慮を賜りたく──  
何卒、“殺さないでください”』」

 セランはそれを読み上げ、吹き出した。

「戦勝祝いっていう名目の“命乞い”かよ」

 団員たちは笑った。  
 だが、その笑いの奥には、確かな誇りがあった。

 彼らは、もう“嫌われ者”ではなかった。  
 “恐れられる者”になったのだ。

 そして、ヨシノはその中心で、静かに団長を見つめていた。

 彼の背に、彼の言葉に、彼の沈黙に── 心を寄せていた。





 戦勝会の熱が落ち着き、屯所には少しずつ“日常”が戻ってきた。 

 その中で、ヨシノは変わらず働いていた。  
 掃除、洗濯、料理──  
 そして、団長のそばにいる時間が、少しずつ長くなっていた。

 ある日、団長が書類に目を通していると、ヨシノがそっと湯を差し出した。

「お疲れ様です。冷めないうちに」

 グラウスは一瞬、手を止めて彼女を見た。  
 その瞳に、わずかな驚きと、深い安堵が浮かんでいた。

「……ありがとう」

 その言葉は、誰よりも静かで、誰よりも重かった。

 ヨシノは微笑み、少しだけ団長の隣に腰を下ろした。  
 2人の距離は、肩が触れるほど近かった。

 その様子を、遠くから見ていた者たちがいた。



 夜。
 屯所の灯りが落ち、静かな風が廊下を撫でていた。

 団長室の前で、ヨシノは一瞬だけ躊躇した。
 けれどグラウスは、すでに気づいていたようで、扉を静かに開けた。

「……少し、話せるか」

 2人は、窓際の椅子に並んで座った。 外には、香草の香りと、遠くの虫の声。

 ヨシノは、少しだけ笑って言った。

「……山賊の皆を雇ってくれて、ありがとうございます」

 グラウスは、すぐには返さなかった。 窓の外を見ながら、低く答える。

「君のためじゃない。人手が足りないだけだ」

 その言葉は、冷たくも優しかった。
 そして、少しだけ間を置いて続けた。

「……でも、それで君が喜んでくれるなら──悪くない判断だったと思う」

 ヨシノは、目を伏せて微笑んだ。
 その笑顔は、どこか寂しげで、でも温かかった。

「助けに来てくれたのも……ありがとうございます」

 グラウスは、何も言わなかった。
 ただ、剣の柄に手を添えたまま、静かに頷いた。

 その沈黙が、何よりも確かな“答え”だった。



 外では、ミラが香草を整えながら、ぽつりと呟いた。

「……あたしより美人じゃないけど、あの子は強いわね。  
誰かの心を、ちゃんと動かせる」

 その言葉に、誰も返さなかった。  
 ただ、夜風が静かに吹いた。



 夜。  
 戦の余韻がようやく落ち着き、屯所の空気も静かになっていた。

 団長室の灯りはまだ消えていない。  
 グラウスは書類に目を通していたが、手は止まっていた。

 机の上には、ヨシノが淹れてくれた湯。  
 その香りが、まだほんのり残っている。

 彼女が隣に座ったときの距離。  
 肩が触れそうで、触れなかった。  
 それでも、彼女の声は、いつもより近くに響いていた。

 ──あの笑顔は、誰にでも向けるものじゃない。

 グラウスは、静かに目を伏せた。

 彼女が自分を見ていること。  
 誰よりも、自分の言葉を待っていること。  
 そして、自分の沈黙に、意味を見出してくれていること。

 それに、気づいた。

 胸の奥が、熱くなる。  
 それは、戦場の炎ではない。  
 誰かに向けられた“想い”の温度だった。

 団長は、湯を一口飲んだ。  
 そして、机の端に置かれた小さな布包みに目をやる。

 それは、ヨシノが縫ってくれた袖。  
 戦で破れたままになっていたもの。

 彼はそれを手に取り、静かに呟いた。

「……一生、大事にする」

 団長室の扉の前。  
 中から漏れる灯りを見つめる。

「……団長、気づいちゃったんだ」

 トルが隣で呟く。

 ユリオは何も言わず、ただ背を向けて歩き出した。



 夜が深まる。  
 団長室を出たヨシノは、廊下をゆっくり歩いていた。  
 窓の外には、静かな星空。  
 でも、胸の中は静かじゃなかった。

 グラウスの言葉が、まだ耳に残っている。  
 “君のためじゃない”──  
 でも、“それで君が喜ぶなら”って。

 その優しさが、心に染みていた。

 けれど──  
 ノアのことも、忘れていなかった。

 追放される前、誰もいない屋根上で交わしたキス。  
 あのときのノアの目。  
 震える声。  
 「俺は、君を守る」って言ってくれたこと。

 あれは、嘘じゃなかった。  
 あれもまた、誇りだった。


 ヨシノは、窓辺に立ち止まり、そっと呟いた。

「……ノア、ごめんね。  
でも、団長の隣にいると……安心するの」

 その言葉は、誰にも届かない。  
 でも、夜風だけが、そっとそれを運んでいった。


 その頃、ノアは外の見回りを終えて、静かに空を見上げていた。  
 遠くの窓に、ヨシノの影が見えた。  
 彼女が誰かを見ていることも、誰かに心を寄せていることも──  
 もう、わかっていた。

 でも、彼は剣を握りしめて、ただ呟いた。

「……それでも、俺は守るよ。  
 君が、誰を選んでも──」





 王宮・謁見の間。  
 宰相が静かに進言する。

「黒騎士団は危険です。  
貴族層からの反発も強く、王国の秩序が揺らぎます」

 王は眉をひそめる。

「……だが、彼らが王都を守ってきたのは事実」

「それでも、力を持ちすぎています。  
今のうちに、排除すべきです。  
暗殺という手段も──」

 沈黙。  
 王は苦悩の表情で呟く。

「……あれほど強くなければ、そうしたかもしれない。
彼らがいるだけで、諸外国への牽制になる」

「しかし!」

 その瞬間──  
 謁見の間の扉が開く。

 現れたのは、カイルとルオンの父──  
ヴァルディア公爵。

 金髪に深い皺、鋭い碧眼。  
 その気配だけで、空気が張り詰める。

「宰相。  
もし、我が息子達に何かあれば──  
お前の一族を、根絶やしにする」

 宰相は目を見開く。

「……公爵閣下、それは脅しですか?」

「違う。誓約だ。  
我が家は、誇りを守るために存在する。  
息子達が黒騎士団にいる限り、その誇りを傷つける者は敵だ」

 王は沈黙のあと、ゆっくりと頷く。

「……わかった。  
黒騎士団には、手を出さない。  
だが、秩序は守らねばならない。  
彼らが逸脱すれば、その時は──」

 公爵は静かに言う。

「その時は、我が家が裁く」





 屯所・執務室。  
 窓の外では香草が揺れ、静かな風が吹いていた。

 その空気の中で、黒騎士団の副団長セランは、無言で書類を差し出した。  
 その手には迷いがなく、目は冷静だった。

「……すべて、証拠が揃った」

 団長グラウスは書類に目を通すことなく、頷いた。  
 彼にとって、セランの言葉は“確認”ではなく“確定”だった。

「王宮に提出しておけ」

 その声は低く、だが確実に空気を変えた。

 グラウスは立ち上がり、外套を羽織る。  
 その動きに、執務室の空気が一瞬だけ張り詰める。

 広間へと歩みを進める。  
 そこには、すでに数名の団員が待機していた。

 彼は、振り返らずに言った。

「お前達、ガサ入れに行くぞ」

 その言葉に、誰も驚かなかった。  
 ただ、剣を手に取り、静かに頷いた。

 黒騎士団は、動き出した。  
 秩序の名のもとに。  
 誇りの名のもとに。




 好乃は、ぼんやりと空を見ていた。  
 戦が終わり、町が静かになっても、心はざわついていた。

 グラウスの言葉。  
 グラウスの背。  
 グラウスの沈黙。

 そのすべてが、胸の奥に残っていた。

 ──惚れてしまった。敵陣を単騎で突破し、自分を救いに来てくれた姿に。

 それを自覚した瞬間、足元がふわりと揺れた気がした。


 その様子を、ノアは見ていた。  
 彼女の視線が、誰に向いているか。  
 その笑顔が、誰に向けられているか。

 それでも、彼は前に出た。

「ヨシノ、大切な話があるんだ」

「……」

「ヨシノ!」

「あ、え、ごめん。なに?」

 ノアは、深呼吸して片膝を着いた。

「俺と結婚してほしい」

「っ?! え? 私、子供がいるのよ?」

「そのくらいわかってる。  
あーでも、そっか。平民の俺とじゃ入籍できないよな」

「それは……」

「騎士爵とるから少し待ってて」

「ええっ?!」

「騎士爵になったら結婚してほしい」

「そ、それは……」

「結婚したくない理由があるの? 俺のこと嫌い?」

「え、ちが、その……何て言うか……」

 そのとき──

「ママ!」

 小さなハルトが走ってきた。  
 その手を引いていたのは、黒い外套のグラウスだった。

「ハルト!」

 好乃はノアの言葉に答えられないまま、ハルトを抱きしめた。



 その日の午後。  
 王宮から正式な文書が届いた。

「『ハルト=トミーカーを、トミーカー家の正統後継者と認める。  
ガイシ=トミーカー男爵は爵位剥奪、追放処分とする』」

 好乃は、その文書を見つめながら、静かに涙を流した。

「……これで、帰れる」

 隣に立つグラウスが、静かに言った。

「君の家だ。  
俺も年齢もあるし、退団するつもりだ」

 好乃は驚いた。

「でも、団長は……」

「これからは、君の補佐として生きたい。  
ハルトのために。  
君のために。
雇ってもらえないか」

 好乃は、涙を拭いながら微笑んだ。

「断れません。先に雇ってもらったのは、こちらですから」



 トミーカー家の屋敷。  
 好乃は、ハルトと団長と共に帰還した。

 屋敷は静かで、かつての冷たい空気はもうなかった。

 グラウスは、書類整理や領地管理を手伝いながら、静かに屋敷の“生活”を整えていった。

 ハルトは、彼の後ろをちょこちょこついて回りながら、ある日、ぽつりと呟いた。

「パパ」

 グラウスは目を見開き、言葉を失う。

 好乃は、微笑みながら頷いた。

 グラウスは、静かにハルトの頭を撫でた。

「……ありがとう」







□完結□






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感想 1

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みんなの感想(1件)

ささだんご
2025.11.06 ささだんご

ありがとうございました (^-^)
見慣れないタイトルが気になって読み始めました (^ω⁠ ^)
ちょっとムリムリなストーリーかとは思いましたが、面白く読ませていただきましたv (^ ^)v
これから、他の作品にもトライさせていただきます (^ ^)b

2025.11.06 イシュタル

コメントありがとうございます。
最後、書き疲れてしまって強引に終わらせてしまいました(-_-;)
いずれリメイク版でちゃんと書き直したいと思います。
そのうち!

解除

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