ギフテッド

路地裏乃猫

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1章

7話 罪と選択

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 その綺麗な男は、嶋野凪、と名乗った。
 
 男……なのだろう。タイトなツーピーススーツの似合う、均整の取れたスレンダーな身体は間違いなく男の骨格だ。長い手足に高い等身。声も、男性特有の柔らかなテノール。ただ、顔立ちはどこまでも中性的で、男と思えば男に、女だと思えば女にも見える。

 なめらかな輪郭の細面に、熟練の人形師が描き込んだような切れ長の眉目。形の良い鼻筋。生まれてこのかた一度も焼いたことがなさそうな、透明感のある白肌――が、そうした人工的とも取れるパーツとは裏腹に、唇の方はやけに生々しく、むしろ蠱惑的ですらある。

 その、男にしてはやけに艶めかしい唇がふと笑んで、何となしに見つめていた漣は急に後ろめたくなる。

「あ……すみません」

「いいんです。私の方こそ急に押しかけてしまって」

「えっ? あ……ああ、いいんです、それは、はい」

 どうやら嶋野は、漣の謝罪を遅刻のそれだと受け取ったらしい。なら、それはそれで構わないかと漣は思う。本当の理由を明かしたところで、どのみち不快な思いをさせるだけだ。

 年齢は……外見だけで言えば高校生にも見えるが、ただ、纏う落ち着きは紛れもなく社会人のそれだ。性別も年齢も、全てが掴みどころのないその男は、概念上の美青年をそのまま具現化したかのようでもある。何にせよ、全てが浮世離れている。

「では、事前に申し上げたとおり、あとは漣くんと二人にさせて頂けますか」

 肩越しに応接セットを振り返り、嶋野が言う。すると父の将司は苦い顔をし、ソファに掛けたまま「いえ」と小さく被りを振る。

「やはり私も同席させて頂きます。他ならぬ息子のことです。親が同席しないでどうします」

 そうは言いながら、父がキッチンの母を呼びつける様子はない。この人はいつもそうだ、と漣は思う。家族のことは、全て、この人が決める。進路も将来も、人生さえも。漣を医者にした後は、今度は病院の後継者として経営学を叩き込むのだろう。やがて適当な女性を宛がい、今度は家庭という枷で息子を縛るのだ。

 辛うじて自由が許されるのは、この人の関心が及ばない領域だけ。

 その意味で、美海は憐れだと漣は思う。彼女に自由な生き方が許されるのは、要するに、父に何の期待も関心も向けられていないから。

「それとも、親に同席されると困るような話でも?」

「……いえ」

 父を見据える嶋野の目が、す、と細められる。その眼差しに漣は一瞬ぞっとなる。冷たい、どころではない。一切の温度を感じさせない絶対零度の視線。

「構いません。ただ……その場合、お父様にとっては大変ショッキングなお話もお聞かせしてしまうことになりますが、構いませんか」

「どういう意味です」

 気色ばむ父をよそに、漣は、やっぱりあの話をするんだなと静かに受け止める。

 どのみち逃げきれるはずはなかったのだ。いつかは誰かに捕捉され、罪を暴かれ、そして然るべき罰が下される。それは、避けることのできない結末だ。たとえ既存の刑法で裁かれなくとも、漣が、人命より己の欲望を優先させたことは事実なのだから。

 問題は、その糾弾がどのようになされるのか、だ。

 内心の罪はともかく、客観的に見れば漣はただ公共物や廃ビルに落書きをしただけだ。漣を殺人者として訴えようと思えば、当然、絵の力についても言及する必要がある。……ギフテッド、とやらの存在についても。

 知りたくない。でも、知らなくてはいけない。

 さもなければ一生、自分が何者かを知らずに終わってしまう。

「そのままの意味です。まぁ、どのみちご理解を頂くのは難しいかと思われますが。――さて漣くん、まずはこちらへ」

「……はぁ」

 促され、とりあえず嶋野の向かいに腰を下ろす。ソファの座面に振動を感じて、見ると、隣で将司が小さく貧乏揺すりをしている。どうにか平静を装ってはいるが、内心では、嶋野の嘲弄めいた物言いに相当苛ついているのだろう。

 そういえばなぜ父は、この、得体の知れない客人をすんなり家に上げたのだろう。仕事関係や父への個人的な来客はともかく、家族への来客は有名百貨店の外商か、さもなければ子供の担任教師ぐらいしか受け付けない父が。

 それとも、その藝術協会とやらはにはそれほどの権威が?

「さて……単刀直入に問います。漣くん、あの田無の廃ビルにグラフティを描きつけたのは、君で間違いありませんね」

「失礼。グラフティとは」

 咄嗟に口を挟む将司に、嶋野は「要するに落書きですね」とあっさり答える。

「落書き!? いや待ってください。どうしてうちの息子がそんな――」

「はい。俺が描きました」

 父の抗議をよそに、漣はすんなり首肯する。

「田無のだけじゃありません。伏見通りのトンネルのやつも、それに……三鷹のやつも、全部、俺が描きました」

 そんな漣の隣で、将司は息子と客を交互に睨みつける。俺に理解できない話を勝手に進めるな、とでも言いたげな反応に、しかし漣は構うことなく客人の切れ長の目をただ見据える。

「ど……どういうことだ!? お前、大学生にもなって人様の壁に落書きを!? ふざけるな! 一体どういうつもりだ漣ッ!」

 問題はそこじゃないんだよ。そう皮肉を返したくなるのを漣は必死に堪える。落書きなど、もはや問題にならない程のことをあなたの息子は仕出かしてしまったんだ。

「一連の昏倒事件のことは、耳に入っていた?」

 嶋野の問いに、漣は小さく顎を引く。

「そう……じゃあ、その現場と君がグラフティを残した場所がいちいち一致していたことにも、当然、気付いていた」

「気付いていました」

 すると嶋野は、漣を見据える目をす、と細める。先程、父に向けた絶対零度のそれとは違う、ほのかな憐憫を含んだ眼差しは、それでもなお漣の心を容赦なく抉る。

「ギフト、もしくは、ギフテッドという単語を耳にしたことは?」

 ごく、と漣は喉を鳴らす。
 やはり、この人は全てを知っている。その上で、今の問いを肯定するということは、つまり。
 わかっている。それでも、俺は。

「あります。……ありました。その上で俺は、あれを描き続けたんです」

 だから何の話だ、と隣で父が喚く。いや、それを言えばもうずっと父は何かを喚き続けていて、しかし、漣の耳には言葉として入ってこない。にもかかわらず嶋野の言葉だけはやけに明瞭に響く。彼が漣の返答についた溜息も、だから、やけにはっきりと耳に届いた。

「……なるほど」

 それから嶋野は何かを考え込むように目を閉じる。やけに長い睫毛だなと思ったその時、ふとその像が滲んで、ひょっとしてコンタクトが落ちたのかなと思った矢先、今度は熱いものがぼとりと膝に落ちる。

「え……」

 拾ってみると、それはコンタクトではなく雫で、しかも次から次へと落ちてくる。隣で父が「何を泣いてるんだ男のくせにみっともない!」と怒鳴り、そこでようやく漣は、自分が泣いていることに気付いた。

 その気付きが、それまで辛うじて押さえ込んだ漣の何かを一気に溢れさせる。

「ご……ごめんなさい、ごめんなさい、俺っ……あ、ああ」

 ごめんなさい。

 謝って済む問題でないことはわかっていて、それでも。

「ごめ、ごめんなさい、っ、本当に、俺、ぜんぶ、わかってて……でもっ、」

 この手が奪った命。

 この手が奪った誰かの人生。

 もう二度と取り戻すことのできない、その全てに。

「ごめ……なさ、っ、あ……あああ、ああああ……!」

「泣くな! そもそもお前が悪いんだろうが! 人様のものを勝手に汚して! 男なら、自分で仕出かしたことは黙って受け入れろ!」

「お父様」

 ふと、嶋野の声が挟まれる。

「少し、言葉を控えて頂けますか」

 柔らかな、しかし有無を言わせない声色に、将司はひたりと口を噤む。そんな父の不可解な反応に違和感は覚えても、今の漣にはそれを反芻する余裕などない。これまで必死に目を逸らし、胸の奥に押し込んできた罪悪感。それが、決壊したダムのように溢れて、流れて、どうしようもなかった。

「漣くん」

 やがて嶋野は、ふたたび漣の名を呼ぶ。父に対する時とは打って変わり、同情すら感じさせる声。

「君の痛みはよくわかります。ただ、その上で落ち着いて聞いてもらいたいことがあります。あなたの今後の人生に関わる大事なお話です。いいですね?」

「……え」

「実のところ君には、まだ引き返す余地が残されています。詳細は伏せますが、少なくとも、一連の事件によって君が何らかの罪に問われることはありません」

「は……?」

 どういうことだ。あれだけの人命を奪っておいて――その罪を漣本人も認めていて、なお、罪に問われない、とは。

「で、でも俺は、その、人を、」

「ええ、その件も含めて全てを忘れ、これまでと変わらない日常を過ごすことができる、ということです。ただし、それには一つだけ条件が課せられます」

 そして嶋野は、右手の人差し指をおもむろに立てる。

「両腕の機能の一部を、外科手術により永久的に剥奪させていただきます」
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