ギフテッド

路地裏乃猫

文字の大きさ
3 / 68
1章

1.5話 出会い/嶋野凪の場合

しおりを挟む
 これはセザンヌだな、と嶋野凪しまのなぎは思う。

 西武新宿線田無駅から徒歩五分の場所にある某廃ビルの周囲は、昨日発生した大量昏倒事件により規制線が張られ、何とも物々しい雰囲気だ。ただ、こうした大規模な事件につきものの報道関係者の姿はなく、上からの統制が充分に効いていることを示している。ごく少数、フリーのジャーナリストや動画配信者と思しき連中が周囲をうろついているが、周囲を警戒する警官たちに声をかけられると、すぐにどこかに消えてしまう。

 そんなひりついた空気をものともせず、凪は、目のまえのアートを静かに見つめる。

 縦は最大で約二メートル。横は約五メートル。複数のカラースプレーを駆使して描かれたそれは、キュビズムを意識した形の取り方といい、明らかに後期ポール・セザンヌの影響を感じさせる。そういえば先週から、上野の都美術館でセザンヌの企画展が始まっている。そして……この作者は間違いなくそれを鑑賞している。

「で、どういった落書きなのです」

 凪の隣で、壁に背を向けたまま男が尋ねる。いかにも硬い仕事らしい、かっちりとしたダークグレーのスーツで身を固めた彼は、そのお堅い風貌に見合った硬い話し方をする。

「ええ。後期ポール・セザンヌの影響を受けたキュビズム―ーピカソの弟弟子でし、と言えば伝わりますか」

「ピカソ……ゲルニカの、あの?」

「見ます?」

 いたずらっぽく凪が問うと、男は、なおも壁に背を向けたまま「いえ結構」と吐き捨てる。彼の本音としては、こんな絵のそばには片時だって留まりたくないのだろう。が、この絵は、例えば放射性物質の類とは違う。危険なものには違いないが、にさえ従うなら、何の危害も鑑賞者に及ぼすことはない。

「……実を言えば、未だに信じられません。信頼する先任者の申し送りがなければ、一笑に付していた話です」

 だろうな、と、内心で凪は思う。ただでさえ秘匿された存在。そうでなくとも一般常識に照らすなら、あまりにも馬鹿馬鹿しい存在だ。

「ですが事実、これは実在する力です。ここで倒れた五十余名もの通行人は、偶然、このアートを目にしたことで意識を奪われました」

「で……うち二名が、搬送先の病院で命を落とした。彼らの死因も、そのふざけた力のせいだと?」

「そうです」

 ぐっ、と、男は小さく呻く。そんな死に方があってたまるか。そう怒鳴りつけたい衝動を、辛うじて堪えているのが傍目にもわかる。が、彼の立場を考えれば無理もない話だった。そもそも彼らは、国民の生命と財産を守るべくその仕事に就いている。

 それを、こんな冗談じみた力でむざむざと奪われて。

「とりあえず……都美術館で開催中のポール・セザンヌ展に来場した人間をチェックしてください」

「都美術館? どうして、そんな……」

「ええ。先にお話ししたとおり、この絵は明らかにセザンヌの影響を受けている。それは、これまで確認された彼の作品には見られなかった特徴です。彼は、確実に都美のセザンヌ展に足を運んでいる」

「そう……ですか。あなたが仰るなら、まぁ、そうなのでしょう。……了解しました。さっそく当該予約サイトに情報開示の指示を出しましょう」

「お願いします。ただ、こちらの展覧会は、施設の窓口で当日券も販売しておりまして、サイトの予約履歴だけでは来場者全員を網羅することは不可能です」

「そうなんですか? ……となると、あとは施設の防犯カメラで地道にメンを割るしかない、か……」

 が、男の横顔は冴えない。今ある情報だけで作者に辿り着くには、やはり厳しいものがあるのだろう。

 すでに現場での鑑識作業により、作者が一八〇センチ台、靴のサイズ二七センチの人物であることが判明している。一方、防犯カメラによる特定は困難を極めていた。どうやら犯人は、カメラが設置されていない場所や、カメラでは見えない角度を巧妙に狙って描いているらしい。逆にいえば、そうした事情に明るい地元の人間、とも解釈できそうだ。

 妙だな、と、凪は思う。

 確かに、これがグラフティだったとしても、建物への落書きそれ自体の罪は大きい。これで建造物損壊罪に問われれば、五年以下の懲役刑は免れないだろう。……ただ、こうした落書きを根拠とした犯人の検挙率は低く、一般にも、逮捕、起訴されるイメージは少ない。そうでなくともグラフティアートは、そもそもがギャングの縄張り争いに端を発し、今でも、例えばバンクシーのアート群がそうであるように、反政府、反社会のアイコンともされる表現スタイルだ。

 前科を恐れず、むしろ、それ自体を勲章とするコミュニティに属する人間が、ここまで周到に、かつ用心深く監視の目をかいくぐるだろうか。……そう、だから属していないのだ。彼あるいは彼女は単独犯。知能は高く、また、一般的なグラフティアーティストとは違い、失っては困るもう一つの貌を持つ。

 そして、この場合、もう一つの貌とは――

「医者」

「えっ?」

「もしくは、そうですね、医学生。……何にせよ、それなりに知能と社会的地位が高く、かつ、人体に関わる専門職に就いている人物でしょう」

「それは……犯人の?」

「作者の、ですね。はい。例えばここ――あ、やっぱり見ないでください。ええと、ここの描写など、腕の筋肉だけでなく血管の造型までもが忠実に再現されている。筋肉の構造を表現できるアーティストは、とくに最近は、ネット上でそうした知識の共有も進んでいますから、まぁ少なくはありません。ですが……さすがに血管までとなると話が変わってきます」

「な、るほど……医療関係者、ですね」

 さっそく男は懐からスマホを取り出すと、どこかに電話をかけはじめる。丁寧な口調から察するに、相手は上司か何かだろう。ご苦労なことだ、と凪は思う。たとえ下手人を確保しても、彼らが問えるのはせいぜい通常の建造物損壊罪にすぎない。多くの人間を昏倒さしめ、さらに、死者すら出した件については、少なくとも司法の手で裁かれることは決してない。

 それでも、これが国家の意志なら彼らは従うしかない。

 が起こした犯罪については一切の罪を問わない。それが、の存在そのものを隠匿する国家の方針だからだ。

 電話はなかなか終わらない。会話の雰囲気から、相手もこの状況に納得していない様子が伝わってくる。本当に、ご苦労なことだ――そう、内心で男に同情を示すと、凪はアートに目を戻す。

 実のところ、この作者が社会的に裁かれるべきかどうかは凪にはどうでもよかった。その特殊な力がもたらした被害についても。そもそも凪にしてみれば、アートとはすなわち美しいか否かが全てだ。その意味で、目の前のアートは――

「……美しい」

 ああ、何という色とかたちだろう。

 二十世紀の美の巨人たちが、試行錯誤の果てに辿り着いたアートの地平。それを、この絵はさらに踏み越え、今世紀の新たな表現を生み出すことに成功しつつある。

 同時にそれは、この作者の〝ギフト〟が急速に力を増しつつあることも意味していた。少なくとも、これまで発見された同一作者の作品群と比べても、その強さは比較にならない。事実……この絵によって、今回、初の死者が出た。

 不幸中の幸いだったのは、ここがメインストリートから外れた路地裏だったこと。さもなければ、被害者の数は一桁は違っていただろう。

 何にせよ、今は急ぐ必要がある。

 これ以上、無為に被害を増やさないためにも。だが何より、これが〝死〟のギフトへと進化した今、が黙っておくはずがない。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

天才天然天使様こと『三天美女』の汐崎真凜に勝手に婚姻届を出され、いつの間にか天使の旦那になったのだが...。【動画投稿】

田中又雄
恋愛
18の誕生日を迎えたその翌日のこと。 俺は分籍届を出すべく役所に来ていた...のだが。 「えっと...結論から申し上げますと...こちらの手続きは不要ですね」「...え?どういうことですか?」「昨日、婚姻届を出されているので親御様とは別の戸籍が作られていますので...」「...はい?」 そうやら俺は知らないうちに結婚していたようだった。 「あの...相手の人の名前は?」 「...汐崎真凛様...という方ですね」 その名前には心当たりがあった。 天才的な頭脳、マイペースで天然な性格、天使のような見た目から『三天美女』なんて呼ばれているうちの高校のアイドル的存在。 こうして俺は天使との-1日婚がスタートしたのだった。

還暦の性 若い彼との恋愛模様

MisakiNonagase
恋愛
還暦を迎えた和子。保持する資格の更新講習で二十代後半の青年、健太に出会った。何気なくてLINE交換してメッセージをやりとりするうちに、胸が高鳴りはじめ、長年忘れていた恋心に花が咲く。 そんな還暦女性と二十代の青年の恋模様。 その後、結婚、そして永遠の別れまでを描いたストーリーです。 全7話

女神の白刃

玉椿 沢
ファンタジー
 どこかの世界の、いつかの時代。  その世界の戦争は、ある遺跡群から出現した剣により、大きく姿を変えた。  女の身体を鞘とする剣は、魔力を収束、発振する兵器。  剣は瞬く間に戦を大戦へ進歩させた。数々の大戦を経た世界は、権威を西の皇帝が、権力を東の大帝が握る世になり、終息した。  大戦より数年後、まだ治まったとはいえない世界で、未だ剣士は剣を求め、奪い合っていた。  魔物が出ようと、町も村も知った事かと剣を求める愚かな世界で、赤茶けた大地を畑や町に、煤けた顔を笑顔に変えたいという脳天気な一団が現れる。  *表紙絵は五月七日ヤマネコさん(@yamanekolynx_2)の作品です*

母の下着 タンスと洗濯籠の秘密

MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。 颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。 物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。 しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。 センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。 これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。 どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。

裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する

克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。

(学園 + アイドル ÷ 未成年)× オッサン ≠ いちゃらぶ生活

まみ夜
キャラ文芸
年の差ラブコメ X 学園モノ X オッサン頭脳 様々な分野の専門家、様々な年齢を集め、それぞれ一芸をもっている学生が講師も務めて教え合う教育特区の学園へ出向した五十歳オッサンが、十七歳現役アイドルと同級生に。 子役出身の女優、芸能事務所社長、元セクシー女優なども登場し、学園の日常はハーレム展開? 第二巻は、ホラー風味です。 【ご注意ください】 ※物語のキーワードとして、摂食障害が出てきます ※ヒロインの少女には、ストーカー気質があります ※主人公はいい年してるくせに、ぐちぐち悩みます 第二巻「夏は、夜」の改定版が完結いたしました。 この後、第三巻へ続くかはわかりませんが、万が一開始したときのために、「お気に入り」登録すると忘れたころに始まって、通知が意外とウザいと思われます。 表紙イラストはAI作成です。 (セミロング女性アイドルが彼氏の腕を抱く 茶色ブレザー制服 アニメ) 題名が「(同級生+アイドル÷未成年)×オッサン≠いちゃらぶ」から変更されております

処理中です...