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プロローグ
ある男の記憶
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置いていかれる、と、男は思った。
それほどに、彼女の生は速く、そして早かった。
「おかしい。こんな世界はおかしいんだ」
「どうして?」
視線を、男とカンバスとの間で忙しく動かしながら彼女は問う。その、明日の天気でも訊くような淡泊な口ぶりについかっとなった男は、モデルとしての役目も忘れ、椅子を立って大股で彼女に詰め寄る。
「そうだろう。君のアートは、文字通り世界を変えうる力を持つ。いま世に溢れるアートは、君のアートに比べればどれも全部紛い物だ。君だけが……本物なんだ。それを、人類は知らない。君以外は誰も」
すると彼女は、勝手にポーズを解いた男を責めるでもなく笑う。
「相変わらずせっかちなのね」
「こんな速度じゃ間に合わない」
実際、間に合わなかったじゃないか――とは、思っても口に出さない。
彼女は、もう間もなくこの世を去る。全身を癌細胞で侵された彼女は、いまだ生きて絵筆を握りしめていること自体が奇跡なのだ。主治医が宣告したタイムリミットはすでに超え、今は、いつ消えても不思議ではない命のともしびを――とけた蝋燭滓の中でようよう灯るそれを、息を潜めて見守るだけ。だからこそ、ここで間に合わなかったと過去形で語れば、そのともしびが、ふ、と消えてしまう気がして、男はぐっと下唇を噛む。
「別にいいんじゃない?」
彼女の方は、相変わらず何でもない顔で絵筆を動かしている。
イーゼルに置かれたF25号の油彩画用のカンバスは、末期癌患者が扱うには持て余す大きさだ。が、往時の彼女のそれに比べるなら悲しいほどに小さい。ビッグバンによって膨張を始めた宇宙が、ある時点から収縮を開始し、最終的には極小の一点に戻る。彼女の小さなカンバスは、その、宇宙の終焉を先取りしたかのようだ。
「そもそも、アートに本物も偽物もないわ。それがどんなアートであれ、誰かが魂を込めて生み出した何かには違いないの。まして、あなたはキュレーターでしょ。なら、遍く、平等にアートを愛さなきゃ」
「やめたよ、キュレーターは」
君以外のアートは愛せない、と、悟ってしまったから。
「あら、そう」
さして驚くでもなく、彼女は軽やかに相槌を打つ。死を前にした達観ではなく、元より彼女はそういう女性だった。この世界の事象すべてを窓越しに眺めているかのような。
事実、彼女は常にこの世界の外側にいた。
否、そうすることを余儀なくされていた。本来、光ある場所で多くの人に求められ、愛されるべきだった彼女のアートはしかし、誰にも知られないまま、求められないまま、最期の瞬間まで世界の外側に捨て置かれた。
「ああ。君は、アートに本物も偽物もないと言うが、それでも、俺にとって本物は一つだった。……光代、君だけだ。君のアートだけが、俺にとって、本物だった」
すると彼女は――光代は、初めてカンバスから顔を上げ、隣に立つ男を見上げる。病に肉という肉を剥ぎ取られ、さらに、抗癌剤の副作用によって毛髪どころか睫毛すら失った彼女は、まるでジャコメッティの痩せこけた彫像のようで、往時のはちきれんばかりの生命力は見る影もない。
にもかかわらず、彼女の筆先に生まれるアートだけは今なお生命のみずみずしさを湛えている。
ああ、そうか――
不意に、あまりにも不意に男は悟る。彼女が残したもの、遺すものこそが彼女の生命であり、彼女そのものなのだ。ならば……まだ終わらない。俺の戦いは、むしろこれから始まるのだ。世界との。
「ねぇ、淳也くん、私は――」
今や残り滓と化したそれが声をかけてくる。……そう、残り滓だ、と、あえて男は思う。彼女は、全てをカンバスに描き尽くした。描き尽くし、搾り尽くして残ったそれをあえて滓と呼ぶのは、むしろ男なりの敬意だった。
だから直後、それが人形のように椅子から崩れ落ちた時も、あえて受け止めることはしなかった。
代わりに男は、たったいま誕生した彼女の新作を見つめる。彼女が、生命の最後のともしびを注いだ最新作。
それは、まさに彼女そのものと呼ぶべきアートだった。男をモデルに描いてはいるが、それは同時に、彼女自身の自画像にも見える。両義的で、両性具有的な彼もしくは彼女は、不自由な肉体からの転生を喜ぶように、柔らかな微笑みを湛えて男を見つめている。
「約束する」
転生した彼女に、そっと手を伸ばしながら男は囁く。カンバスはまだ乾いておらず、直に触ることができないのをもどかしく思いながら。
「必ず、君を認めさせる。君の色を、かたちを、アートを……世界に」
結果、何百万、何千万もの犠牲が出るのだとして、それは人類が、彼女のアートに支払うべき当然の代償なのだ。
その時こそ俺は、いや俺たちは、君に追いつける――
それほどに、彼女の生は速く、そして早かった。
「おかしい。こんな世界はおかしいんだ」
「どうして?」
視線を、男とカンバスとの間で忙しく動かしながら彼女は問う。その、明日の天気でも訊くような淡泊な口ぶりについかっとなった男は、モデルとしての役目も忘れ、椅子を立って大股で彼女に詰め寄る。
「そうだろう。君のアートは、文字通り世界を変えうる力を持つ。いま世に溢れるアートは、君のアートに比べればどれも全部紛い物だ。君だけが……本物なんだ。それを、人類は知らない。君以外は誰も」
すると彼女は、勝手にポーズを解いた男を責めるでもなく笑う。
「相変わらずせっかちなのね」
「こんな速度じゃ間に合わない」
実際、間に合わなかったじゃないか――とは、思っても口に出さない。
彼女は、もう間もなくこの世を去る。全身を癌細胞で侵された彼女は、いまだ生きて絵筆を握りしめていること自体が奇跡なのだ。主治医が宣告したタイムリミットはすでに超え、今は、いつ消えても不思議ではない命のともしびを――とけた蝋燭滓の中でようよう灯るそれを、息を潜めて見守るだけ。だからこそ、ここで間に合わなかったと過去形で語れば、そのともしびが、ふ、と消えてしまう気がして、男はぐっと下唇を噛む。
「別にいいんじゃない?」
彼女の方は、相変わらず何でもない顔で絵筆を動かしている。
イーゼルに置かれたF25号の油彩画用のカンバスは、末期癌患者が扱うには持て余す大きさだ。が、往時の彼女のそれに比べるなら悲しいほどに小さい。ビッグバンによって膨張を始めた宇宙が、ある時点から収縮を開始し、最終的には極小の一点に戻る。彼女の小さなカンバスは、その、宇宙の終焉を先取りしたかのようだ。
「そもそも、アートに本物も偽物もないわ。それがどんなアートであれ、誰かが魂を込めて生み出した何かには違いないの。まして、あなたはキュレーターでしょ。なら、遍く、平等にアートを愛さなきゃ」
「やめたよ、キュレーターは」
君以外のアートは愛せない、と、悟ってしまったから。
「あら、そう」
さして驚くでもなく、彼女は軽やかに相槌を打つ。死を前にした達観ではなく、元より彼女はそういう女性だった。この世界の事象すべてを窓越しに眺めているかのような。
事実、彼女は常にこの世界の外側にいた。
否、そうすることを余儀なくされていた。本来、光ある場所で多くの人に求められ、愛されるべきだった彼女のアートはしかし、誰にも知られないまま、求められないまま、最期の瞬間まで世界の外側に捨て置かれた。
「ああ。君は、アートに本物も偽物もないと言うが、それでも、俺にとって本物は一つだった。……光代、君だけだ。君のアートだけが、俺にとって、本物だった」
すると彼女は――光代は、初めてカンバスから顔を上げ、隣に立つ男を見上げる。病に肉という肉を剥ぎ取られ、さらに、抗癌剤の副作用によって毛髪どころか睫毛すら失った彼女は、まるでジャコメッティの痩せこけた彫像のようで、往時のはちきれんばかりの生命力は見る影もない。
にもかかわらず、彼女の筆先に生まれるアートだけは今なお生命のみずみずしさを湛えている。
ああ、そうか――
不意に、あまりにも不意に男は悟る。彼女が残したもの、遺すものこそが彼女の生命であり、彼女そのものなのだ。ならば……まだ終わらない。俺の戦いは、むしろこれから始まるのだ。世界との。
「ねぇ、淳也くん、私は――」
今や残り滓と化したそれが声をかけてくる。……そう、残り滓だ、と、あえて男は思う。彼女は、全てをカンバスに描き尽くした。描き尽くし、搾り尽くして残ったそれをあえて滓と呼ぶのは、むしろ男なりの敬意だった。
だから直後、それが人形のように椅子から崩れ落ちた時も、あえて受け止めることはしなかった。
代わりに男は、たったいま誕生した彼女の新作を見つめる。彼女が、生命の最後のともしびを注いだ最新作。
それは、まさに彼女そのものと呼ぶべきアートだった。男をモデルに描いてはいるが、それは同時に、彼女自身の自画像にも見える。両義的で、両性具有的な彼もしくは彼女は、不自由な肉体からの転生を喜ぶように、柔らかな微笑みを湛えて男を見つめている。
「約束する」
転生した彼女に、そっと手を伸ばしながら男は囁く。カンバスはまだ乾いておらず、直に触ることができないのをもどかしく思いながら。
「必ず、君を認めさせる。君の色を、かたちを、アートを……世界に」
結果、何百万、何千万もの犠牲が出るのだとして、それは人類が、彼女のアートに支払うべき当然の代償なのだ。
その時こそ俺は、いや俺たちは、君に追いつける――
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