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2章
12話 大丈夫は大丈夫じゃない
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「さて、次はどこを紹介しようかな」
「え……ああ、お任せします」
正直に言えば、今日はもう部屋に戻って休みたかったが、せっかく案内してくれるという瑠香の手前、断るのは憚られた。
その後、体育館にジム、それからプール併設のスパへと案内される。いずれも贅沢な仕様で、閉鎖環境において健康維持は重要なテーマだとはいえ、優遇されているなと漣は思う。昨日、嶋野に聞かされた話によると、ここの入居者は総計で一九三人。その、たかだか二〇〇人程度の人間のために、ここまで税金をかけて設備を整える必要はあるのだろうか。
あるんだろう。必要ではなく価値が。
あるいはこれも、社会の平穏を保つためのコストというわけか。
「なんか……至れり尽くせりですね。都心にこんな贅沢な施設があるなんて……」
医務室を後にしながらしみじみ呟くと、「でしょ」と瑠香は笑う。
「びっくりしちゃうよね。でもまぁ、あたしら別に犯罪者でもないのに自由を奪われてるわけだし、これぐらいは役得ってやつじゃない?」
――ここは刑務所ではないの。
ふと漣は、昨晩の高階の言葉を思い出す。
――事実、ここには何の問題も起こさず、ただギフテッドである、というだけで収容された人間も多い。そうした人達を前に、今と同じ言葉をあなたは口にできるかしら。
確かに……ここは刑務所ではない。漣とは違い、何の罪も犯さずにただギフテッドというだけで収容された人々にしてみれば、むしろ当然の待遇なのだ。
居住棟の二階には、地域医療と連携した診察室も置かれていた。先程の充実した福利厚生施設といい、住人の健康状態には細心の注意が払われているようだ。瑠香の話では、定期健診やカウンセリングも頻繁に実施されているらしい。しかも、費用は全て税金持ち。
「元々が繊細な人達だからさ。おまけにこの閉鎖環境でしょ? やっぱ病む人もそれなりに多くて」
「え……やっぱ、そうなんすか」
「うん。漣くんも、あ、これヤバいなって思ったらすぐ相談してね。上手く眠れなかったり、ごはんが食べられなくなったら、それ、病みはじめのサインだから」
何でもない顔で語る瑠香だが、言葉にはどこかリアルな質感がある。そうでなくとも、閉鎖環境とは本来、宇宙飛行士のストレステストにも用いられるほど過酷な場所だ。そうした環境での暮らしは、たとえ施設内での自由は認められても、実際は相当のストレスがかかるのだろう。
「あ、気にしないで! 多いっってもごく一部だから! あははっ」
そんな瑠香に追従の笑みを向けながら、漣はしかし、抑えようのない不安が喉元にこみ上げるのを感じていた。初日から思い知らされる自分の脆さと無力さ。背中に負う罪の重み――
――それでもなお君は、表現を続ける道を選んだ。その覚悟をこそ、今は大事にしてください。
「……っ」
ああ、そうだ。何にせよ漣はこの道を選んだ。選んでしまった。ならば、後は腹を括るしかない。これからどんな暮らしをここで送るにせよ、それは、漣自身が選んだ人生なのだから。
「ありがとうございます。でも……大丈夫です。俺は」
すると瑠香は、一瞬、虚を突かれたようにぽかんとし、それから、なぜか少し寂しく笑む。本当は頼って欲しかったのかもしれない。でも――
「でもね」
漣の思考を先回りする瑠香の声。振り返ると、二つの瞳が気遣う目でじっと漣を見上げている。その濡れた表面は、なぜか涙の気配を――あるいは名残を漣に感じさせた。
「そうやって強がる人ほど、ちっとも大丈夫じゃない。だから、ちゃんと頼って。今度こそ助けさせて……ね?」
その後、荷物の回収のために倉庫に引き返すと、宅配ボックスに新たな荷物が届いていた。
これも家の私物かなと箱を開いてみると、明らかに見覚えのない新品のスケッチブックとデッサン用の鉛筆、油彩画用の絵具が大量にパッケージされている。さらに、その隣に置かれた細長い箱を開くと、ロール状の白い布と細長い木片、ペンチのような道具が出てきた。
「おおっ、油彩画用の道具じゃん!」
傍らで様子を見守っていた瑠香が、嬉しそうな声を上げる。
「これで木枠を組んで、このペンチみたいな張り器とスタックで画布を張るんだよ。やり方は、まぁ、多分誰かが教えてくれるよ。――あ、こっちにイーゼルも置いてある!」
「えっ……いや、注文した覚えないんすけど……誤配送かな」
だとしたら、本来の注文主に伝えた方がいいだろう。そう思い、宛先を書いた紙などを探していると、箱の底から一枚のメモ紙が出てくる。パソコンで打ち込んだような、でも、よく見ると手書きだとわかる几帳面な文字。
『ささやかながら、プレゼントをご用意しました。良ければ使ってみてください 嶋野凪』
「……嶋野さん」
「どしたの?」
「えっ、あ――」
咄嗟にメモをポケットにしまい込み、いや別に隠さなくてもと後になって気づく。ただ……なぜだろう、嶋野との関係は、誰にも踏み込んでほしくない。別に疚しい感情があるわけではなく、ただ、あのひやりとしたスーツの感触は――耳朶を撫でる声の優しさは、漣ひとりの心にそっと留めておきたかった。
ああそうだ。
俺は、描くためにここに来たんだ。
「ええと、じゃ、行きましょうか」
本来回収するはずだった私物の箱ではなく、代わりに画材が詰まった箱を抱える。正直、重い。だが、その重みが今の漣には心地よかった。この重さで、線で色で何を描こう。何を表現しよう。
それはあの人に、今度は何を伝えるのだろう。
「え……ああ、お任せします」
正直に言えば、今日はもう部屋に戻って休みたかったが、せっかく案内してくれるという瑠香の手前、断るのは憚られた。
その後、体育館にジム、それからプール併設のスパへと案内される。いずれも贅沢な仕様で、閉鎖環境において健康維持は重要なテーマだとはいえ、優遇されているなと漣は思う。昨日、嶋野に聞かされた話によると、ここの入居者は総計で一九三人。その、たかだか二〇〇人程度の人間のために、ここまで税金をかけて設備を整える必要はあるのだろうか。
あるんだろう。必要ではなく価値が。
あるいはこれも、社会の平穏を保つためのコストというわけか。
「なんか……至れり尽くせりですね。都心にこんな贅沢な施設があるなんて……」
医務室を後にしながらしみじみ呟くと、「でしょ」と瑠香は笑う。
「びっくりしちゃうよね。でもまぁ、あたしら別に犯罪者でもないのに自由を奪われてるわけだし、これぐらいは役得ってやつじゃない?」
――ここは刑務所ではないの。
ふと漣は、昨晩の高階の言葉を思い出す。
――事実、ここには何の問題も起こさず、ただギフテッドである、というだけで収容された人間も多い。そうした人達を前に、今と同じ言葉をあなたは口にできるかしら。
確かに……ここは刑務所ではない。漣とは違い、何の罪も犯さずにただギフテッドというだけで収容された人々にしてみれば、むしろ当然の待遇なのだ。
居住棟の二階には、地域医療と連携した診察室も置かれていた。先程の充実した福利厚生施設といい、住人の健康状態には細心の注意が払われているようだ。瑠香の話では、定期健診やカウンセリングも頻繁に実施されているらしい。しかも、費用は全て税金持ち。
「元々が繊細な人達だからさ。おまけにこの閉鎖環境でしょ? やっぱ病む人もそれなりに多くて」
「え……やっぱ、そうなんすか」
「うん。漣くんも、あ、これヤバいなって思ったらすぐ相談してね。上手く眠れなかったり、ごはんが食べられなくなったら、それ、病みはじめのサインだから」
何でもない顔で語る瑠香だが、言葉にはどこかリアルな質感がある。そうでなくとも、閉鎖環境とは本来、宇宙飛行士のストレステストにも用いられるほど過酷な場所だ。そうした環境での暮らしは、たとえ施設内での自由は認められても、実際は相当のストレスがかかるのだろう。
「あ、気にしないで! 多いっってもごく一部だから! あははっ」
そんな瑠香に追従の笑みを向けながら、漣はしかし、抑えようのない不安が喉元にこみ上げるのを感じていた。初日から思い知らされる自分の脆さと無力さ。背中に負う罪の重み――
――それでもなお君は、表現を続ける道を選んだ。その覚悟をこそ、今は大事にしてください。
「……っ」
ああ、そうだ。何にせよ漣はこの道を選んだ。選んでしまった。ならば、後は腹を括るしかない。これからどんな暮らしをここで送るにせよ、それは、漣自身が選んだ人生なのだから。
「ありがとうございます。でも……大丈夫です。俺は」
すると瑠香は、一瞬、虚を突かれたようにぽかんとし、それから、なぜか少し寂しく笑む。本当は頼って欲しかったのかもしれない。でも――
「でもね」
漣の思考を先回りする瑠香の声。振り返ると、二つの瞳が気遣う目でじっと漣を見上げている。その濡れた表面は、なぜか涙の気配を――あるいは名残を漣に感じさせた。
「そうやって強がる人ほど、ちっとも大丈夫じゃない。だから、ちゃんと頼って。今度こそ助けさせて……ね?」
その後、荷物の回収のために倉庫に引き返すと、宅配ボックスに新たな荷物が届いていた。
これも家の私物かなと箱を開いてみると、明らかに見覚えのない新品のスケッチブックとデッサン用の鉛筆、油彩画用の絵具が大量にパッケージされている。さらに、その隣に置かれた細長い箱を開くと、ロール状の白い布と細長い木片、ペンチのような道具が出てきた。
「おおっ、油彩画用の道具じゃん!」
傍らで様子を見守っていた瑠香が、嬉しそうな声を上げる。
「これで木枠を組んで、このペンチみたいな張り器とスタックで画布を張るんだよ。やり方は、まぁ、多分誰かが教えてくれるよ。――あ、こっちにイーゼルも置いてある!」
「えっ……いや、注文した覚えないんすけど……誤配送かな」
だとしたら、本来の注文主に伝えた方がいいだろう。そう思い、宛先を書いた紙などを探していると、箱の底から一枚のメモ紙が出てくる。パソコンで打ち込んだような、でも、よく見ると手書きだとわかる几帳面な文字。
『ささやかながら、プレゼントをご用意しました。良ければ使ってみてください 嶋野凪』
「……嶋野さん」
「どしたの?」
「えっ、あ――」
咄嗟にメモをポケットにしまい込み、いや別に隠さなくてもと後になって気づく。ただ……なぜだろう、嶋野との関係は、誰にも踏み込んでほしくない。別に疚しい感情があるわけではなく、ただ、あのひやりとしたスーツの感触は――耳朶を撫でる声の優しさは、漣ひとりの心にそっと留めておきたかった。
ああそうだ。
俺は、描くためにここに来たんだ。
「ええと、じゃ、行きましょうか」
本来回収するはずだった私物の箱ではなく、代わりに画材が詰まった箱を抱える。正直、重い。だが、その重みが今の漣には心地よかった。この重さで、線で色で何を描こう。何を表現しよう。
それはあの人に、今度は何を伝えるのだろう。
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