月に叢雲花に風

乙人

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天女

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「レイエイと云う名も、不思議ですわね。そもそも、何故此処に居たのかしら」
 倭は不機嫌そうだ。自分から差し出してはいるが、新調したての衣裳を卸され、不満なのだろう。
「竹取物語の赫夜姫の様だね」
「そこまで美しくはないでしょうに」

 霛塋は西の対に住まわされていた。
 呼び名が無いと不便なので、この邸の藤が美しいことから、「藤の君」と呼ぶことにした。
「優雅な趣味をお持ちなのね」
 霛塋改め、藤の君は脇息に持たれて、気だるげにしている。
其方そなた、名は?まだ聞いていなかったわね」
「橘久光と申します」
「歳は?」
「十七になります」
 羨ましいわね、若くて、と皮肉を言われた。
「失礼かもしれないけど、幾つ何ですか?」
「本当に失礼ね。其方よりは歳上よ」
 若君-久光-の本邸に住まう北の方は、久光よりも二つ歳下だった。
「もう、いいわ。二十三よ」
 行き遅れ、と倭なら言うだろう。かく言うあの人も、随分と行き遅れている。
「独り身だったのかい?」
「お前、その年でわたくしを口説いているの?」
 藤の君は笑う。
「そうね、独り身よ。妹にとられてしまったわ」
「妹?」
「わたくし、妹が二人と弟が一人いるのよ。全員、母親は違うけれどね」
「随分と色好みだったのだね、貴女のお父上は」
「政治的な問題よ……」
「霛塋と仰ったけれど、あれは諱なのですか?」
「否。わたくしの諱は誰にも教えてはならないわ。それに、たとえ知っていたとしても、呼ばないでしょうね」
「貴女がおられた場所にも、そんな風習があるのですね。私達にとって、女性が諱を知られるということは、その人に支配されるということと同じ意味になるんですよ。貴女のところでは、どうなのでしょうか」
「ふぅん」
 藤の君は、どこか、この邸の者を小馬鹿にしている印象があった。

「なんて、無礼な女なんでしょう!」
 倭がぷりぷりと怒っている。
「藤の君はさ、天女様なのじゃないかと思ったよ、私は」
「何故?」
「倒れていた君様が着ておられただろう、あの、薄絹の羽衣」
領巾ひれのことですか」
「それに、色々と話を聞いていたら、琵琶が得意だと仰っていたよ」
「だから、何なのです」
「天女様だよ、あの方は」
 まだ少年の心を忘れない主人に、悲しい程に現実を知っている女王様はため息をついた。

(下界の人間が、わたくしと、口をきこうだなんて、無礼も甚だしいわ)
 藤の君は、表が白、裏が青(緑)の、柳の襲の衣裳を召していた。高麗縁の畳に座し、脇息に持たれて、優雅に衵扇を弄ぶ。
(藤の君、か…………)
 藤の君-霛塋-の本当の名、諱は、龗燕リョウ エンと云う。
 天上の国で、公主(皇女)だった。
 異母妹と義弟の策略にはまって失脚し、今、こうして罪人として下界に堕とされたわけである。
(閉じ込められていた方が、まだ、ましね)
 幼い頃、あんなに憧れていた空は、あまりにも遠すぎて、落胆してしまう。
 可愛い小鳥が、木にとまって鳴いている。
 -戯れだ。何を本気にしているのか。
 愛しい人は、そう告げた。
 総てが、音を立てて崩れたような、そんな、絶望を覚えた。
 二十一になるまで、閉じ込められていたことを思い出す。
 知らなかった方が幸せな事実。それならば、何も知らない幸せ。
 霛塋はもう一度、ため息をついた。
 もう、公主には、戻れないかもしれない。
 そして、この下界の小さな都で、名も知られず、ただ、朽ちて逝く。
(つまらぬ人生)
 公主おんなになんか、生まれるべきではなかった。
 きっと、それを、永遠に恨むのだろう。
 霛塋-藤の君-は空を仰いだ。
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