月に叢雲花に風

乙人

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北の方

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「若君。本邸に、そろそろお戻りになられた方が宜しいのではないでしょうか」
 倭はしれっとそう言った。
「出世頭の少将様が夜離れだなんて、婚姻を結んだ意味がないと、思われてしまわれますよ」
「冷淡だな」
「人間は実に利己的ですからね」
 身内で一番手厳しいこの人は、どこか闇を抱えている。

 邸の若君、橘久光は少将の位におり、一人の北の方がいた。
「ふーん」
 やはり、藤の君は興味が無さそうだ。元々、たんなる居候なのだが、それでも冷淡な人だ。
「戻った方が良いのかもしれないわよ」
 久光は悲しそうだ。倭はやはり無表情だ。
「清原殿に、また愚痴を零されるのは、あまり嬉しくないでしょう。あたくしは、あまりあの人は好きません。金持ちの姫君だからなのか、欲張りですよ」
 久光の周りには、極端な人間が揃っている。
 身分は低いが、金はある清原の北の方、金は無いが、身分は申し分ない、倭の女王。
(二人を足して割ったら、丁度良さそうだ)
 だが、この二人、加えて藤の君も自尊心が高いので、扱いにくい。
「どうしたらいいんだろうなぁ」

 久光少将の北の方は、清原姓の娘で、受領を父に持つ。金はたんまりあるので、それを目当てに婚約したと言える。また、清原は清原で、橘家の身分目当てだ。
(そんなものよ)
 藤の君に話すと、当たり前だと言われてしまった。
 藤の君の故郷では、宗室と側近の家は、互いに婚約で地位を固めているらしい。この国とそっくりだ。
「我儘で、気の強い女、ねぇ」
 思い出すのは、妹の明媛だ。あんなのが妻だなんて、考えただけで気が重くなる。
(この人も、苦労しているのね、案外)

「大変で御座います、若君!」
 普段は冷静な倭が落ち着きをなくしている。珍しい。
「北の方が、北の方が参りまして御座います!」
 久光は驚きを顔に出す。同時に、げんなりとした表情になった。この人は、北の方が苦手らしい。
「どうしようか」
 久光は頭を抱え始めた。
「嫉妬深い女です、藤の君を見たら、どうなるか、お分かりですよね」
 つまり、隠せと言うことらしい。
 仕方がない。久光は言った。「君様を、塗籠へ」と。

 塗籠というのは、開放的な造りをしている寝殿造の邸で唯一、四方を壁に囲まれている場所のことだ。一般的に、物置や寝所として使われる。
「声も立てずに、静かになさって。北の方は嫉妬深い女。賤しい女です」
 藤の君が此処に来てまだ間もないが、清原の北の方は、誤解し、怒り狂うだろうと倭は言った。余程の女なのだろう。それだけ聞けば、母に似ている。
 拾ってもらっただけなのだから、不都合になれば、さっさと捨て置いてくれれば良いものを。彼は慈悲深いらしい。

(随分と暗い)
 藤の君は寝転がって、北の方が去るのを待っていた。
(嫌なことを思い出した)
 北の方の特徴は、藤の君-霛塋-の母とそっくりだ。世の中の女は、こうなのかと思わされる。
 -寒い。
 遣る瀬無い感情に巣食われる。恐怖と不安にかられる。
 似ているのだ。塗籠は。閉じ込められていた、あの、牢獄の様な部屋に。
 あの部屋も真っ暗で、殺風景だった。
 あぁ、辛い。これも、あの母親の不徳の致すところなのだろうか。母親殺しも平気でやってのける、化け物上がりの女の。
 -羅刹姫。そう、母は呼ばれていた。身内を殺害後、彼女は死刑にされた。そして、その魂は彷徨い、人の魂を喰らう化け物にまで堕ちた。
 恥ずかしかった。そんな女が母親で。
 碧眼の、トゲのある女だった。紅い衣裳を好んでいた。幼い頃、それが怖くて仕方がなかった。飛び散った返り血に見えたのだ。
 母は自分を閉じ込めた。その母は昔霛塋にとっての祖母に閉じ込められていた。
 自分がされて嫌だったのに、彼女は自分の娘にそれをした。愛など、無かったのだろう。それとも、ふらふらと女に通う夫に、苦しい感情を抱いてしまっていたのだろう。恋情を乞うていたのだろう。
 -わたくしは、そう、ならない。
 娘を閉じ込めた母は、冷酷で、残酷だ。だが、非は霛塋にもある。
 母-名を、榮莉鸞レイランと云う-は、家族を殺すという暴挙に出、自由を手にした。胆の据わった女だ。すぐに刑に処されたとしても、彼女は最後に、自由を手にした。
 霛塋はそれが、出来なかった。逃げようとはしたが、出来なかった。世間知らずのお姫様だった。そして、何も、知らなかった。
 思い出せば思い出す程に、虚しく、そして、辛くなる。
 -悪いのは、北の方。突然に現れた、北の方よ。だって、そうでなければ、こんな処に閉じ込められなくて、済んだ。
「灯暗く…人の断腸を説く無し……」
 息苦しい。
 霛塋は泣いた。
 暗く、湿った空気は、鉄格子の牢獄と、あまりにそっくりだった。

 無知は罪。そして、知らぬ方が幸せなことも、また、存在する。どちらに傾くかで、人生は大きく変化してしまう。
 もう、何が幸せなのか、分からない。
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