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四章 鞍馬山の大天狗
十一
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真っ暗な壁ーーそれが、この場所の印象だった。
「誰かいませんか?」
声は反響すること泣く、どこかに吸い込まれるように消えていく。だが手を伸ばすと、何かに当たった。それ以上の進行を阻む壁のような物が、藍の前に確かにある。
コツコツと叩いてみると、音はしないが感触はある。
「これって……やっぱり今朝見た、あの夢と同じ……?」
こんな状況は滅多にないのだから、ここまで似ていたらそうなんだろう。そう思うことにした。
ならばと、藍は再び考えた。あの壁を破るために必要なことを、確か教えられたはずだ。
『信じろ』
確かに聞いた。男性の声で。その声は、藍にこう告げたはずだ。
『信じろ。向こう側にいると、信じろ』
(向こう側にいる……誰が?)
そう考えた時、ふと思いついたのは、何故か太郎の姿だった。
(いやいやいや、いくら太郎さんに生活の何割も独占されてるからって……普通はお母さんでしょ。ああ、でもお母さんは今お店か。治朗くん……は面倒そうな顔しそうだし。この時間、いつもニコニコして家に一緒にいるのは、やっぱり……あの人になるのか)
そう思うと、そんな気がしてきた。向こう側にいるのは、太郎しかいない。そう思えてきたのだった。
(呆れてるかな。何回も同じ目に遭って、成長しないって……)
想像してみた。向こう側にいる太郎がどんな顔をしているか。ここから出られたとき、どんな顔をするか。
(いや、そうじゃない。そんな風に考えたから、ここに閉じ込められたんだな、きっと。太郎さんは……きっとものすごく、心配している)
思い返せば、危ない目に遭った時、少しでも帰りが遅かった時、太郎はとんでもなく心配していた。自分の方が倒れるんじゃないかというくらい、肝を冷やした様子だった。
心配したと言って泣く姿には驚き、戸惑い、大袈裟だと思い呆れ、そして、かわいそうになるのだった。
(とりあえず、あの人のことは、泣かせちゃダメだな……!)
「よし、頑張るぞ!」
そう叫んで拳を突き出した。
声は暗闇に吸い込まれてかき消えていった。だが拳の方は、何かの手応えがあった。藍が突き出した拳の先に、ヒビが走っている。まるでガラスが砕けているようなヒビだった。ヒビの隙間からは、それまで見えずにいたものが見えた。
「光が……!」
差し込んだ光は藍を淡く照らした。
だが、それだけだった。それ以上ヒビが広がることはなく、この壁に起こる変化は、止んでしまった。
「いやいや、もう一発!」
そう誰にともなく叫び、拳を振りかぶった。その時だった。
その拳の前に、人影が現れた。どこからともなく、ふわりと風のように。まるで、幽霊のようだった。その人影は、差し込む光を背に浴びていて、顔が見えない。
だが小さい人影だということはわかった。藍よりも頭一つ小さく、長い髪を結っているらしいことはわかる。
驚き声も出ずにいる藍に、その人影はそっと告げた。
「迷い人か?」
その声でわかった。人影は、少年だ。
「家族の元に、帰りたいか?」
年の頃はおそらく十二歳といったところか。
よくよく見ると、藍たちと同じような洋服ではない。着物のようでいて、少し違う。
(これは……そうだ。古典の資料で見た、水干だ)
水干は平安時代の貴族たちの衣装のはず。その服を着た人が、どうして藍の目の前にいるのか。
(やっぱり……幽霊? ここは元はと言えば私の家なんだから、この子がいるはずないし……ど、ど、どうしよう……!)
ますますもって混乱する藍の手を、少年はそっと握った。
「帰りたいだろう。さあ、案内してやろう」
「あ、案内って……」
周囲は真っ暗だった。何があるかもわからないというのに、案内も何もあるのかと、藍は懐疑的な目を向けてしまった。だが少年は、どこか得意げに、にんまりと笑った。
「この、鞍馬山の麓まで」
「麓? ここって山南家じゃ……」
「何を申す。ここは鞍馬山。そなた、迷い込んだのであろう?」
どうやら、迷子の案内を買って出たつもりのようだ。苦笑いしながら視線を周囲に向けると、驚くべきものが藍の視界に入ってきた。
「うそ……なんで!?」
先ほどまで真っ暗闇に覆われていた世界が、光に満ちている。光と、たくさんの緑に、だ。ただの民家の居間だったはずが、今は周囲がすべて山の木々に囲まれている。背の高い木々が、遙かな高みから木漏れ日を降らせている。
「何をしている、行くぞ」
そう、急かすような声がする。見ると少年は森の奥を指さして、待ってくれていた。
藍は、しばし迷ったが、ありがたく案内をお願いすることにした。どうせここにいても、何もわからないのだ。事態が動きそうなものに付いていくほかないだろう。
「ありがとう。お願いします」
「気にするな」
大きく口を持ち上げて笑う様は、何故だか太陽のようだった。つい、頼ってしまいたくなる……そんな面持ちだ。
「あの、名前は何ていうの? 私は……藍だよ」
「藍か。私は遮那王という」
「遮那王……遮那王!?」
その名を、つい最近耳にした。今の状況を作り出した僧正坊との会話の中で、もっとも熱が籠もった話をしていた人物だ。
その名は源義経。その幼名こそ『牛若丸』だった。
「誰かいませんか?」
声は反響すること泣く、どこかに吸い込まれるように消えていく。だが手を伸ばすと、何かに当たった。それ以上の進行を阻む壁のような物が、藍の前に確かにある。
コツコツと叩いてみると、音はしないが感触はある。
「これって……やっぱり今朝見た、あの夢と同じ……?」
こんな状況は滅多にないのだから、ここまで似ていたらそうなんだろう。そう思うことにした。
ならばと、藍は再び考えた。あの壁を破るために必要なことを、確か教えられたはずだ。
『信じろ』
確かに聞いた。男性の声で。その声は、藍にこう告げたはずだ。
『信じろ。向こう側にいると、信じろ』
(向こう側にいる……誰が?)
そう考えた時、ふと思いついたのは、何故か太郎の姿だった。
(いやいやいや、いくら太郎さんに生活の何割も独占されてるからって……普通はお母さんでしょ。ああ、でもお母さんは今お店か。治朗くん……は面倒そうな顔しそうだし。この時間、いつもニコニコして家に一緒にいるのは、やっぱり……あの人になるのか)
そう思うと、そんな気がしてきた。向こう側にいるのは、太郎しかいない。そう思えてきたのだった。
(呆れてるかな。何回も同じ目に遭って、成長しないって……)
想像してみた。向こう側にいる太郎がどんな顔をしているか。ここから出られたとき、どんな顔をするか。
(いや、そうじゃない。そんな風に考えたから、ここに閉じ込められたんだな、きっと。太郎さんは……きっとものすごく、心配している)
思い返せば、危ない目に遭った時、少しでも帰りが遅かった時、太郎はとんでもなく心配していた。自分の方が倒れるんじゃないかというくらい、肝を冷やした様子だった。
心配したと言って泣く姿には驚き、戸惑い、大袈裟だと思い呆れ、そして、かわいそうになるのだった。
(とりあえず、あの人のことは、泣かせちゃダメだな……!)
「よし、頑張るぞ!」
そう叫んで拳を突き出した。
声は暗闇に吸い込まれてかき消えていった。だが拳の方は、何かの手応えがあった。藍が突き出した拳の先に、ヒビが走っている。まるでガラスが砕けているようなヒビだった。ヒビの隙間からは、それまで見えずにいたものが見えた。
「光が……!」
差し込んだ光は藍を淡く照らした。
だが、それだけだった。それ以上ヒビが広がることはなく、この壁に起こる変化は、止んでしまった。
「いやいや、もう一発!」
そう誰にともなく叫び、拳を振りかぶった。その時だった。
その拳の前に、人影が現れた。どこからともなく、ふわりと風のように。まるで、幽霊のようだった。その人影は、差し込む光を背に浴びていて、顔が見えない。
だが小さい人影だということはわかった。藍よりも頭一つ小さく、長い髪を結っているらしいことはわかる。
驚き声も出ずにいる藍に、その人影はそっと告げた。
「迷い人か?」
その声でわかった。人影は、少年だ。
「家族の元に、帰りたいか?」
年の頃はおそらく十二歳といったところか。
よくよく見ると、藍たちと同じような洋服ではない。着物のようでいて、少し違う。
(これは……そうだ。古典の資料で見た、水干だ)
水干は平安時代の貴族たちの衣装のはず。その服を着た人が、どうして藍の目の前にいるのか。
(やっぱり……幽霊? ここは元はと言えば私の家なんだから、この子がいるはずないし……ど、ど、どうしよう……!)
ますますもって混乱する藍の手を、少年はそっと握った。
「帰りたいだろう。さあ、案内してやろう」
「あ、案内って……」
周囲は真っ暗だった。何があるかもわからないというのに、案内も何もあるのかと、藍は懐疑的な目を向けてしまった。だが少年は、どこか得意げに、にんまりと笑った。
「この、鞍馬山の麓まで」
「麓? ここって山南家じゃ……」
「何を申す。ここは鞍馬山。そなた、迷い込んだのであろう?」
どうやら、迷子の案内を買って出たつもりのようだ。苦笑いしながら視線を周囲に向けると、驚くべきものが藍の視界に入ってきた。
「うそ……なんで!?」
先ほどまで真っ暗闇に覆われていた世界が、光に満ちている。光と、たくさんの緑に、だ。ただの民家の居間だったはずが、今は周囲がすべて山の木々に囲まれている。背の高い木々が、遙かな高みから木漏れ日を降らせている。
「何をしている、行くぞ」
そう、急かすような声がする。見ると少年は森の奥を指さして、待ってくれていた。
藍は、しばし迷ったが、ありがたく案内をお願いすることにした。どうせここにいても、何もわからないのだ。事態が動きそうなものに付いていくほかないだろう。
「ありがとう。お願いします」
「気にするな」
大きく口を持ち上げて笑う様は、何故だか太陽のようだった。つい、頼ってしまいたくなる……そんな面持ちだ。
「あの、名前は何ていうの? 私は……藍だよ」
「藍か。私は遮那王という」
「遮那王……遮那王!?」
その名を、つい最近耳にした。今の状況を作り出した僧正坊との会話の中で、もっとも熱が籠もった話をしていた人物だ。
その名は源義経。その幼名こそ『牛若丸』だった。
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