都市街下奇譚

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二夜目続『宝物』

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44歳にもなったバツイチ干物女の宝物が預金通帳の他に、20歳になったばかりの若い男だなんて口にするのも恥ずかしい。それでも、口を開けば憎まれ口ばかりな私に、彼は何時も賑やかに微笑んで隣にいる。

「綺麗ですねぇ。」
「ほんとだ、あの魚綺麗だね。」

水族館の暗い通路を並んで手を繋いで歩きながら衛が言うから私が水槽を見上げ同意すると、衛は顔を寄せて耳元で悪戯っぽく囁きかけてくる。

「静子さんが綺麗です。」

何を言ってるんだと頭を叩いてやりたくなるが、衛の頭の中では四十路のオバンが大層美人に変換されているらしい。どうせ何時かは我にかえるんだろうから、私も今だけはいい気分に浸る事にする。何せ衛は傍目に見ればモデル張りのイケメンなんだから、連れて歩く分には自慢できるのだ。私が抵抗しないのを良いことに衛は何度も顔を寄せて来るのには困るけど、暗がりの通路ではオバサンだということもバレにくい筈と開き直る。

「静子さん。」
「何?」
「休みませんか。」

唐突に何を言うんだか、水族館から出て食事をした途端に言うことじゃない。水族館の余韻に浸ったまま家まで帰りつきたい私の手を、衛が意味ありげに引っ張る。衛の進みたい方向に気がついて、私は思わず衛の頭をどつきたくなってしまった。

「あんたさぁ?私の水族館の余韻台無しじゃん!」
「えー?そうですか?僕は余韻のまま行けるかなって思うんですけど。」

何でラブホテルで休憩すんのよって私が流石に頭をどつくと、衛は残念そうに手を繋ぎ直す。何を考えてるんだか、四十路のオバンの裸見て萎えたらどうしてくれるんだと心の中で呟く。そんな私の戸惑いなんて気にもしない衛は、ラブホテルは駄目かぁなんて素直に納得していて出来ることならもう一度殴ってやりたくなる。

「何でこんなオバサンがいいんだか。」
「静子さんはオバサンじゃないですよ?」

やめた、美人フィルターで見てるこいつに何言っても無駄。ホテルに入ってもそのフィルターがかかっててくれればいいけど、服と一緒にフィルターが外れる危険性もある。そう考えたらホテルなんてとんでもないと震え上がった私に、衛は不思議そうに首を傾げながら手を引いたまま歩き続けた。



※※※


夜勤明けの貪るような眠りの中で、玄関のドアのチャイムが鳴って私はボーッとしながらベットの上で体を起こす。窓の外は日が暮れてから振りだしたらしい雨の音がしている。チャイムは夢だったかしらとボーッとしながら、ベットの上で雨の音を聞いていると再びドアのチャイムが鳴った。

「はぁい。」

ボンヤリした頭でドアを開くと、そこにはずぶ濡れの衛がションボリと肩を落として佇んでいる。何か起きたのかずぶ濡れの子犬みたいに、そこに立っている衛。濡れた髪から滴り落ちる雫が宝石みたいにキラキラと光っているなんて、ボンヤリした頭で眺めていた私はやっと我に帰った。

「やだ、何でずぶ濡れ?!」

中に衛を引き込んで玄関のドアを閉じた私は、ずぶ濡れの衛の服をひっぺがしにかかる。衛を家にあげるにも、濡れ鼠ままじゃどうにもならない。有無を言わせず服を脱がす私に衛は大人しくされるままで、追いたてられるように風呂場に押し込まれる。ビショビショの服は洗濯してやれば、朝までにはなんとかできるかもしれない。衛にバスタオルを出してやりながら洗濯機を回し始めた私は、はたと気がついたように動きを止めた。

ちょっと待て、裸に剥いたけど着せる服なんて無いわよ

洗濯機の回り出す音に私は戸惑いながら、自分の格好が寝巻きにしているショートパンツにキャミソールだったのに気がつく。

「静子さん。」

微かな衛の囁くような声が背後から、そっと耳元に囁きかける。しまった、はめられた、そう考えた時にはもう遅かった。しなやかで長い裸の腕が、背後から私の体を宝物みたいに抱き締める。耳元で囁く声は今まで聞いたことがない位に、熱っぽくて掠れてて衛の癖に凄く色っぽかった。

「静子さん、ベット貸して。」

若いイケメンに耳元で色っぽく囁かれて、とうに枯れ果てた筈の女が体の奥で目を覚ますのがわかる。四十路のオバンが二十歳のツバメ、その言葉が皮肉っぽい響きを持って頭にこだまするのに私は目を瞑った。


傍にいるのが苦痛でなかった衛との情事は、正直人生で1番と言い切れる程最高に良くて。しかも、若い彼は見かけ以上に精力的で、もう許してと私に本気で言わせるくらいに若さに溢れていた。こんな台詞本気で言うことが人生にあるなんて、予想もできない事だけど本当のことだから仕方がない。

「ちょっと待って、もう無理。」

私が掠れた声で言うと、衛は幸せそうに私の体に腕を巻き付け肌を刷り寄せる。こんな風に衛に一心になつかれるから、無下に扱うこともできないんだと私は自分に言い訳してみた。でも、許したのは私なんだと思うと少し恥ずかしくて、私は思わず自分の顔が赤くなるのを感じる。薄い雨の青味ががる闇の中でもそれが見えたんだろう、衛が嬉しそうに肌を刷り寄せながら私の首元に顔を埋めた。

「静子さん、寝ていい?一緒に。」

肌の温度に眠りに誘われるのが分かる。誰かの体温と一緒に寝るなんて久しぶり、もう何年も一人でしか寝たことがないのに。そう思った時には抱き締めている方は先に眠りに落ちていて、私はそれを追いかけるように眠りに落ちていた。


※※※



「結婚しませんか?」

そういわれたのに、私は直ぐ様イエスと言わなかった。理由は幾つかある、一つは私が既にバツイチだから。しかも相手は、46歳の私より二回り以上年下の22歳。
四十路の草臥れた中年女に、ピチピチの新社会人が言う言葉としては夢を見るにも厳しい。そんなの冗談だとも思えるわけがないに決まっているって、普通の四十路女は当然冗談と笑い飛ばす。なのに既に私は笑い飛ばせない上に、しかも若い男はマメにどころじゃなく半同棲の勢いで私に会いに来る。
世に言う白衣の天使・看護師の私の仕事場の中に迄来る訳じゃないが、シフトを何処からか入手してるように仕事が終わると飼い犬のように待っている。既に職場の中にも私の若い彼氏は公認だ。何せ職場の飲み会の帰り道まで堂々と迎えに来て、爽やかイケメンスマイルでお持ち帰りされるのだから隠しようがない。

年増をおちょくって何が楽しいのかしら、イケメンなのに。もしかして私の預金狙い?

そう考えもするけど、衛の一心な感じはそう言いきれない部分もあって私を困らせる。他に女の気配位あったら笑えるのに、どうしても衛は私しか見ていないように感じるのだ。何で私と問いかけると、衛は自信満々な笑顔で静子さんは僕の宝物ですと笑うのだからしょうもない。フィルターは何時まで経ってもかかったままらしいけど、結婚となると話は違う。衛の家族だって静子の年を聞いたら反対するに違いないと分かっている、だから私はその話には深く踏み込めないのだ。そう、正直なところ、私は衛が嫌いじゃない。

「しーずこさん、一緒にお風呂入りましょう。」
「先に入んなさい!あんたと入ると悪戯される!」
「えー、悪戯じゃないですよ?本気です。」

それが困ると言ってるのに、しなやかな裸の男が恥ずかしげもなく歩み寄ってきて私の腕を取る。簡単に服を脱がせて抱き寄せられ、風呂場まで行くまでに全て服を奪われてしまう。風呂場で戯れるなんて若くもないのにと考える私は、嫌いじゃないなんて言葉で誤魔化しているだけで衛の事が好きになっているのは分かってる。当の昔に衛が水族館で隣にいるのを許した時には、この不思議なストーカー紛いの残念なイケメンのことが好きだった。

「ねえ、静子さん。」
「何よ?」
「一緒に住みませんか?結婚はその次でもいいです。」

普通逆よねと腕に抱え込まれて風呂に入りながら唇を尖らせる私に、衛はだって結婚はウンて言ってくれないんですもんと頬を刷り寄せる。何度もプロポーズみたいに結婚しましょうって言われてるのに、ウンと言わない私に衛は違う方から攻めこんできた。

「衛の両親がいいって言わないわよ、こんなオバサンとの結婚は。」
「また言う。静子さんは綺麗ですよ、どうしてオバサンなんて何時も言うんですか。」

何であんたが怒るのよと言いたくなるけど、衛の言葉に少しだけ微笑む。あんたは知らないけど、職場で私は若いツバメを囲って少し若作りしてるって噂になってるのよと心の中で呟く。それが聞こえたみたいに、衛は不満気に湯船から私の事を軽々と抱き上げた。

「僕が年下なのは現実で変えようないし、仕方ないですよね?でも、男としては自信あるんですよ?」
「分かってるわよ、それくらい。」

ホントですかと衛が暖かな雫を落としながら色っぽく囁き、抱き上げたままの私の事を眺める。

「じゃ、一緒に住みますよね?マンション決めていいですよね。」

はぁ?と声をあげた私にそれ以上話させないで、衛は私の事を子供みたいに軽々と抱きかかえて私が濡れると怒るのを聞き流した。



連れていかれたマンションに私は呆気にとられて、横の衛を見上げる。マンションを決めるとは言われたが、翌日ベットから這い出して連れてこられるなんて誰が思うだろう。しかも、今住んでいるマンションより家賃は一桁増えるはずだ。それなのに衛は当然みたいに、私の手を引いて歩いていく。

「ちょっと!衛!」
「こっちですよ、静子さん。」

この子本気なの?私の経済力じゃここの家賃なんて払ったら給料の七割が消えるんじゃないだろうか、二人で折半?でも、それじゃ貯蓄にならないし、この先ずっと衛といられるかどうかだって分からないのに。私の困惑なんて全く気にしない衛は五階の通路に出ると、スタスタと先に進んでいく。

「静子さん、ここです。」

そう言って何事もないように鍵をあける衛が、当然みたいにドアをあけると私の肩を抱き寄せ中に導いた。部屋の中には直ぐ様住めるように、最低限のインテリアが既に備え付けられているようだ。

「どういうこと?」
「一緒に住んでくれるんですよね?」

困惑する私を衛はリビングのソファー迄手を引いて座らせると、私の前に膝まづいて真っ直ぐに顔を見上げ手を握りしめる。

「静子さんが知りたいことは何でも正直に話します、だから一緒にここに住んでくれますか?」

残念なイケメンはここまでなのと、困難しながら私が彼を見下ろしているのに彼は子犬の目で私を見つめたままだ。このマンションはと問いかけると購入しましたとアッサリと答えて来る上に、どうやってと問いかけると自分の給料で買いましたと平然としている。社会人になったばかりの男がそんな給料貰えるわけあるかと突っ込むと、衛は高校の時から投資があるんでとサラリと答えた。呆然としている私に、とんでもなく必死に私が一緒に住むと答えるようにと衛が見つめてくる。何でここまでと言うと、恐らくこのイケメンは何時もの答えを返してくるに違いない。そう考えるともう観念して、イケメンと添い遂げるしかないのかななんて遠い目をしてしまったのは仕方がないと思う。



※※※


二人で一緒に暮らすようになっても、衛は一つも変わらなかった。私の事を宝物みたいに扱って、大切にしてくれる。でも、気がついてみると私は衛の事をなんにも知らない。家族が何処にいるのかも、兄弟かいるのかも、どうしてこんなにお金持ちなのかも、何故私にこんなにぞっこんなのかも。

こんなんでいいの?

理性的な私がそう問いかける。結婚しようと何度も言われるけど、何も彼の事を知らない。若くてイケメンなのに、二回りも年上の女に首ったけな理由。突然この幸せが消え去りそうで、私は不安に刈られることが増えて唐突に泣き出してしまう。そうすると衛は困ったように私の事を抱き締め、何時まででも大丈夫って頭を撫でてくれる。

それでも、あんたのこと何も知らないのが怖い。

初めて私の仕事を知ってたと話した時、衛は高校生で助けられたといった。でも、私は当時ICUに勤務していたから、短期入院だとしても殆ど意識のある患者との関わりはなかった事にもう気がついてる。何処からが本当で何処からが嘘なのか分からないのに、私は既に衛が好きになりすぎてしまっていた。嘘を追求して彼を失うかもしれないと分かってて、怖くてできないのだ。

「衛。」
「はーい、なぁに?静子さん。」

甘えるような衛の声が嬉しそうに帰ってくる。私はどうしたらいいのかしら、こんなに衛の事が好きになってしまってる。正直なことを言ったら衛自身から「好き」の言葉も一度も言われてない。「結婚しましょう」はイコール「好き」なのかしら。

「どうしたの?静子さん。」
「何でもないわ、今晩何食べたい?」
「んー、静子さんかな。」
「あんたって時々言うことが普通じゃないのよね。」

呆れ果てる私の顔に、衛は心底幸せそうに微笑んで私を見つめている。



※※※



そんな幸せが遂に壊れたのは、同棲して1年になる前のことだった。唐突に衛が腹痛を訴えて目の前で倒れて、救急車で運ばれることになったのだ。衛は何ともない帰ると言い張ったけど、看護師の私が許さなかった。入院になるんだから親に連絡しなきゃいけないと説教して、遂に初めて彼の両親と顔を会わせるんだと緊張していたけど結局誰も来なかった。

「静子さん、僕の家族は静子さんだけだよ。」
「バカ言わないでよ、あんたみたいな子供産んだ覚えはないわよ。」
「静子さんが母親かぁ、その子は幸せだよね。」

本当能天気なんだかお花畑なんだか。衛があっけらかんと笑ってたから、医師から病状説明を衛の希望で二人で聞いたとき私は凍りついてしまった。 

末期の癌?何いってるの?

私が追い付けないのに衛の方は平然と、あとどれくらいですかと問いかける。医師は丁寧にレントゲン写真を見せてくれて、しかも、私自身がその写真の何処に何が起きているか理解できてしまう。何で衛はこんな状況で平然としているの?

「長くて1ヶ月」

その言葉の意味が分からない。衛はこんなに元気に横で笑ってるのに、たった1ヶ月でこの世からいなくなるなんて平気で言わないでよ。入院を進められた衛は賑やかに微笑んで、入院を拒否した上に私の手をとって歩き出す。

「ま、衛。」
「もう少し一緒に暮らしたい。いいでしょ?静子さんが大変になるんだったら入院するから。」
「そうじゃなくて!治療!」
「もういいんだよ、さっき先生もそういってたでしょ?後は痛みを止めるだけだから、今痛くないし。」

混乱していて衛が言っている事が理解できない。衛は余命宣告されたのに、何時もと何にもかわりない上に何時もと同じように家に帰るって言う。

「静子さん、僕は静子さんが大好きだよ。」

どうして今になってそんなこと言うの?私が追い付けないのに、どうしてそんなことを綺麗な笑顔で言うの?衛の有無を言わせない笑顔に、私と衛は二人で暮らす家に戻ってしまった。
そこから、私は無責任って思ったけど仕事を辞めて、衛とずっと一緒に過ごす。衛の病気の事を忘れたみたいに。傍に寄り添いながら笑いながら水族館に行って、二人で手を繋いで戯れながら踊るみたいな魚を眺めてる。

「静子さん、僕は静子さんが大好きだよ。」
「そう。」

嬉しそうに微笑みかける衛の頬が、以前に比べて少しだけ窶れているのが分かった。でも、私はそれを見ないふりをする。見ないでいたら病気の事が消え去るんじゃないかって、信じてるみたいに見ないんだ。だって、気がついてしまったら、こうして手を繋ぐ私の宝物がいなくなってしまう。

でも、消え去りはしない。そんなことは分かってる。

衛が倒れたのは1ヶ月と告げられた日から、本当に丁度1ヶ月後のことだった。何かあったらここに連絡してと意識がなくなる前に告げられた番号に電話をする。そこは衛の親戚でも実家でもなく、衛の遺言を預かっているという弁護士事務所だった。弁護士さんが来てテキパキと事務仕事を片付けてくれるのを、私はボンヤリした頭で見ていたけど衛の家族はどうしたらいいんだろう。

「あの、弁護士さん、衛の家族に連絡は?」

私の言葉にそんなに私と変わらなそうな年頃のその人は、私が親代わりですと告げる。意味が分からないのに、あっという間に衛は小さな骨になって、二人の家に戻ってきてしまった。少し白髪の見える弁護士さんが、私に手紙を差し出して私はボンヤリしたままそれを受け取る。ドラマみたいだ、そんなことを考えながら衛の手紙を開く。


※※※


宇野静子様

もし、この手紙をあなたが読んでいたら、僕は癌が再発したか何かでもうこの世にはいないことになります。
あなたに初めて会ったのは病棟のベットの上でした。手術の後で僕はチューブに繋がれて話すこともできないのに、あなただけが挨拶をして顔色がよくなったねと声をかけてくれました。僕が病棟を移動する時にはお大事にねと頭を撫でてくれました。元気になってから、僕はあなたの事をずっと探していたんです。声が一番の頼りであなたを探すのに時間がかかったけど、あなたを見つけられた。あなたと過ごせて僕は幸せでした。僕の我儘で僕の出来る限りの全部をあなたに残して行くのを許してください。
静子さん、あなたの事を愛しています。あなたは僕の宝物です。

香坂衛


※※※


手紙と一緒に渡されたのは私名義のマンションの権利書と私名義の預金通帳で、私は戸惑いながら弁護士さんの顔を見つめる。

そんなの知らないわ。

こんな形ばかりのものじゃなくて、私が欲しかったのは衛なのに。衛は勝手に私の中に色々なモノを深々と刻み込んで、勝手に一人で先に逝ってしまった。そう思った途端恥も外聞もなく声をあげて泣き出した私は、自分が失ったものの大きさに絶望する。最初からこうする気で周到に準備していたとしか思えない衛。家族に会わせなかったのだって、結婚する気がなくて縁を結ばなかったようにも感じる。しかも、知らない間に自分の持ち物は全部私の名義に変えておくなんて、なんて用意周到なイケメンなのに頭が残念なストーカーなのかしら。

『静子さん、愛してます。』

そんな出来すぎた末期の言葉なんて、出来すぎて頭をどついてやりたくなる



※※※


あれから1年が経つ。
私はあのあと仕事をしていない。お金に余裕がある訳じゃなくて、仕事のできない状況だったのだ。47歳の高齢出産は例がないわけではないけど、初産の私には負担が大きかった。負担ついでに私自身に癌が見つかって、癌の治療のため子供を諦めるかと問われたけど迷うことはなかった。母乳は諦めることになるけど、衛の残したモノを私は何一つ失う気はなかったのだ。

気晴らしに園芸フェアにバギーカーを押して行くのは、最近子育ての合間にベランダで花を育て始めたからだった。陽射しの中で揺れる花は何処か衛の笑顔を思い浮かばせて、ホンの少し切なくなる。バギーカーの中では花が揺れるのに我が子がキャッキャッと楽しげな一人遊びをしているようだ。

衛との時間は短すぎて、こんな風に花を眺められなかったわ。衛は生き急いでて水族館の綺麗な魚みたいだったもの。

そう考えた途端、思わぬ記憶に涙が溢れだす。自分の身に起きた癌という病を彼は、どんな風に感じて考えたのかしら。どんな風に感じてあんな風に生き急いだのかしら。

「どうしました?具合でも悪いんですか?」

不意にかけられた声にギョッとする。涙に濡れた視界の中に衛によく似た青年が栗色の髪をして、私の事を心配そうに眺めていたのだ。
世の中にはよく似た人間が3人いると聞いたことがあるが涙を拭って見ると、目の前にいたのは衛に確かににているが縁のない眼鏡をかけている。
衛ににているけど、衛みたいな生き急ぐ笑顔とは違う。そう考えた時、バギーカーの我が子が唐突に手を伸ばして目の前の彼に子供のバブバブという声をあげ始めた。

そうね、確かにこの人はあなたのお父さんに似てる。

青年が手を伸ばされて戸惑いながら屈みこみ、我が子の小さな手に触れる。

「可愛いですね、お子さん。」

何度かお祖母さんとも言われたのに、彼は笑顔で間違わずに私に母親として話しかけた。バブバブと何か必死に我が子が彼に向かって話しかけている。

「ええ、一番の宝物なのよ。」

私の宝物。
衛が残した一番の宝物は、私の子供の衛なのだ。そう私は涙を拭い去りながら心の中で呟いた。やがて私は自分の身に、再び何が起きているのか知ることになる。


※※※


王道のラブストーリーですね。

自分の声に久保田は微かに微笑みながら、そうですかねと呟く。グラスを磨きながら何処までか本当かは分からない部分は多いんですがねと呟く久保田に、自分は何が本当か分からないんですかと問いかける。

本当に手術後に看護師の顔が判別できるんでしょうかね?私は手術したことがありませんからね。

そう言えば盲腸の手術をしたことがあるが、自分はその間の記憶がスッポリと抜け落ちてしまって記憶にあるのは手術前と退院の日からだった。癌の治療の中には子供ができなくなるものもあったんじゃなかっただろうか。そんなことを考えながら珈琲をすすっていると、深碧のドアを押し開き高校生と小学生の姉弟らしい客が店に入ってくる。

「まーちゃん、僕何時ものー。」

可愛らしい声にウエイトレスが微笑みを浮かべてい歩み寄った。

宝物ね。

自分は久保田の話を思い返しながら、姉に手を引かれる少年を眺める。親代わりとはいったけど、親がいないとは言わなかったな、そこも何処まで本当なんだか。そう考えた瞬間最初から最後まで作り話の可能性もあるのに気がついて苦笑いを浮かべた。
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