都市街下奇譚

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二十八夜目『おちてくる』

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これは俺の知ってる話なんですがね、そうマスターの久保田の横に出てきた鈴徳良二が自分に向けて口を開く。たまに暇になるとフラリと厨房から顔を出す彼は、東北出身の海外の調理師コンクールに入賞したこともある男だ。久保田は横でグラスを磨いていて、客足は奇妙なほど途絶えてその言葉を耳にしたのは自分ただ一人だった。



※※※



佐伯秀晴はフリーターだ。特別優秀でもなく特別な技能があるわけでもなく、普通に大学を卒業して就職戦線に乗りきれずにバイトを続けている。勿論バイトで一生を過ごすつもりではないが、さりとて今必死に就職先を探す気にもなれずにいた。バイト先にはやはり同じような年頃で、就職戦線に乗りきれずに自分と同じバイト人間もいる。

あーあ、せめて彼女でもいりゃぁな。

女子高生や女子大生がバイト先の鼻先を、爽やかな風に髪を翻し歩いていくのを秀晴は溜め息混じりに眺めながら毎日夕方からのバイトに勤しんでいる。昼番のバイト仲間がお先ですと金髪を揺らして帰って行くのを見送りながら、確か同じ年のそいつは夜を何のために開けているのだろうと考えたりもする。そうして、何時もバイトを終えて秀晴が、家に帰宅するのは午前を過ぎる時間だった。

うー、夕飯にバイト先の弁当ってとこがなぁ。

別に社員割引とかで買えるわけでもない。ただ、面倒だから買ってくるだけだが、味も毎回だと飽きがくる。秀晴は再び彼女でもいればなぁと心の中で、呟きながら帰途を早足に進む。大概この時間帯の帰宅が多い秀晴は何時もは下を向いて歩くだけの帰途なのに、その日はあまりにも星空が綺麗で思わず空を見上げながら歩いていた。
秀晴が、それに気がついたのはそんな時だ。
高層マンションの随分上の階でポッと窓辺で小さな光が灯ったかと思うと、チラチラと視界の中でその光が揺れる。

煙草?

自宅の中で吸うことを許してもらえない男が、ベランダで煙草を吸うなんて事は珍しいことでもない。しかし、その光は炎にしては硬く人工的に見えた。思わず立ち止まりその光が何なのかを確かめようと、秀晴は眼鏡を押し上げて目を細める。光はライターの炎程度の大きさだが、目に分かる範囲では炎特有の揺らめきはない。硬質で人工的、例えばペンライトなんかの光と言うと当てはまりそうだ。そう考えた途端、ベランダにペンライトが結び付いたのは一つだった。部屋の電気はついていないし、ベランダでペンライトを使うとなれば。

泥棒

部屋の住人は深夜を過ぎているから、寝てしまっている可能性も無いわけではない。だとしたらあのペンライトが、侵入してしまう前に止めた方がいいのは確かだ。

警察……呼ぶか?

そう思った瞬間その灯は、秀晴の考えを読み取ったように光をクルリと回す。光はユラリとベランダの外に向かって揺れたかと思うと、一直線にベランダから乗り出した。秀晴があっという間もなく、その光はぐんぐん地面に近付いてくる。光の元が実は人がかけた眼鏡のレンズに反射していた光だった事が見て取れた。
そして熟したトマトが落ちて潰れる様なグジュッという音が目の前で炸裂して、秀晴は思わず顔を腕でかばい視界を塞いだ。泥棒よりもっと酷いものを目にすることになるなんて、最悪だと心の中で呟きながら恐る恐るその腕を降ろし路上を見渡す。視界にはさっきと何も代わりのない夜の梅雨に湿った道路が、目の前に広がっていて秀晴は唖然とする。

あれ?

落下する音も何かが潰れて飛び散るモノがあげた濡れた飛沫の音もした。それなのに視界は何一つ変化がない。
確かに音はあったのに、目の前の路上はまっさらなままで秀晴は呆然と見つめる。
思わず何もない路上を見つめた後に上を見上げる。
そこはやっぱり電気の付いていない窓だけが、何事もなかったかのように存在しているだけだ。秀晴は首を傾げながら、見間違いだったのだろうかと考えながらそこを通り過ぎ家へと帰ったのだった。



※※※



「変な話だろ?」

バイト先の更衣室で着替えながら話すと、帰り支度をしている槙山忠志はふぅんと興味無さげに唸りながら服を着替えている。バイト前にここに向かいながらもう一度見たが高層マンションなんて何処も同じで、昼間に見たらどのマンションがその窓だったか見分けられなかった。そんな状況からしてもこの話が眉唾物なのは、分かりきっているようなものだ。

「それって公園近くのマンション?」

思わぬ返答に秀晴は忠志の金色の髪を眺める。きつい目元で第一印象が悪くなりがちな忠志は、実は話すと好青年で人懐っこい人間でコンビニバイトのわりに近隣のおばちゃんに人気なのはここだけの話だ。

「んー、あそこらマンションだらけだからなぁ。」
「確かにな。」

運動もしてないというわりには均整のとれた筋肉がついている背中を眺め、正直弛み始めた自分の姿と比較して残念になる。彼は何故か余り夜のシフトに入らないから、秀晴とは入れ違いになることが多いのだ。

「まあ、あんまり見ない方が良いかもしんないしな。」

何気なくそう言った忠志がお疲れと言いながら秀晴に背を向けたのに、意図がつかめず秀晴はその背中を眺めた。あんまり見ない方がいいという理由は何処にあるのだろうと、秀晴はボンヤリとその背中を見送りながら考える。



※※※



帰途を進みながら無意識に視線が、マンションの高層階を眺めているのに気がつく。どこのマンションだか確かめるつもりなのか、それとも落ちて来たものが何かを確かめたいのかは分からない。それなのに無意識に視線が上を探していく。

あ。

見つけたと本能的に自分の心が呟くのを聞いた瞬間、再び高層階のベランダにポッとあの灯火が瞬く。眼鏡のレンズに反射する光は、前に見たのと同じように硬質な光が瞬いている。そしてそれは同じように何時しかベランダを飛び越え路面に向かって飛んでいく。路面に叩きつけられると思った瞬間、秀晴は思わず顔を腕で覆ってしまい最後の場面は見なかった。そして、結局秀晴は何も変わらない路面を見つめ、一体どんな奴が落ちてきているのかと考える。

気になってしまうとどうにもならない。

何度も帰り道ではそれを探して見ているが、最後の最後で見ていられなかったり怯んだりで路面に叩きつけられる姿を見ることはない。落ちてくる途中までは見ているが、落ちてくるものの顔の判別をすることが出来ないでいる。見たからといって何がどうなるのか分からないが、眼鏡の向こうの顔を確認しないではいられない。

「気になるんだよ。」

更衣室で着替えながら秀晴がそう考えてしまうと呟くと、忠志は少し心配そうに秀晴の事を見る。

「あんまり、良くない気がするけどな。聞いてると。」

良くないって?と返すと彼は言葉に困ったように黙りこんで、やがて適した言葉をみつけたように口を開く。

「勘だ。何となく、嫌な予感がした。」

勘かよと思わず口から溢れ落ちた言葉に、忠志が苦笑しながら悪いなと謝るのが聞こえる。少なくとも彼が秀晴の事を心配して言ってくれたのは分かるから、秀晴は素直にその言葉を受け入れた。



※※※


夜にしかあの光を見ることは出来ない。昼間は相変わらず探してもあのベランダが何処だったのかすら、秀晴には確認できないのだ。帰り道上を見上げながら歩くのが、自分の癖になりつつあるのが分かる。秀晴は暗い窓ガラスの中にポツンと光る一つの光を探して、見つけるとそれが落ちてくるのをじっと見つめ続けた。それでも、最後の最後になると、分かっていても咄嗟に目を塞いでしまう。

何で見てられないんだ?

落ちた後の路面に何も無いのだから、見ていても何もない可能性は高い。音は聞いているが何も見えない可能性は高いのに、分かっていてもつい顔を背けてしまったり目を閉じてしまう。見られないなら諦めればいいのかもしれないのに、どうしてもあの眼鏡の先の顔が気になって仕方がないのだ。

見たいのか見たくないのか。

見たくないなら諦められたらいいのにと、秀晴は頭上を見上げて考える。忠志が言うように確かめるのは良くないことなのかもしれないし、出来ることなら見ることを諦めた方がいいのかもしれない。そう考えてはいるのに上を確かめるのを、秀晴は止めることが出来ないでいる。
帰りの夜道のヒンヤリした空気の中で、ベランダにポツリと光る灯火を見上げながら秀晴はその行く先を見上げた。



※※※



既にそれに遭遇したのは何度目なのか、数えていたわけではないので秀晴には分からない。次第に音になれるとギリギリ迄目を向けていられるようになって、もう少ししたら落ちる瞬間まで目を向けていられそうな気がする。ただ、日をおいてしまうと、また慣れるのに時間がかかるのに気がついてからは、この時間にここいらを通れるように調整するようになった。コンビニのバイトは丁度良かったが、忙しかったりすると少しおそくなったりするから時間調整出来る仕事に変えてしまった。槙山忠志とは会えなくなるが、彼が大事な友人というわけでもないから優先は落ちてくるもののほうだった。

あった。

夜の闇の中で光を見つけると、今では逆にホッとする。いつもと同じく落ちてくるのだと考え、今日こそはその眼鏡の奥の顔を確認しようと身構えた。そして、今夜も落ちてくるものを秀晴は待ち構えている。


※※※


落ちてくるものを見たらどうなるんですかね?

さあ、どうなるんでしょうと久保田が答え、横にいた鈴徳良二は見てみたいと思いますかと問いかけてくる。自分は暫く鈴徳の言葉を考えてみるが、自分としては何度も高層ビルから落ちてくるものを見ていたいとは思えない。ましてや、その顔を確認したいなんて、間違っても思えないと答える。

ですよね、俺もそう思います。

鈴徳は納得したように言うと、今日のランチプレートの支度がありますと厨房に戻っていく。鈴徳に今日のランチは何かと問いかけると、トマトソースのハンバーグですと答えが帰ってきて思わず顔をしかめていた。



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