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三十八夜目続『ふごう』
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あれからあの笑顔のシールは見かけていない。それでもシールが三度で、死人も三人、その言葉が頭を過って気にかかってしかたがないまま過ごしている。変な話だか、何故かあのシールが関わっていると心の何処かで考えている自分がいるのだ。そして、四度目のシールとの再会は勤務先の学生だった。
「あなた、そのシール。」
スマホの隅に貼られたシールに気がついて冬里が思わず声を上げると、桂圭子は不思議そうに視線をあげる。年が近いからか福担任でも威厳は全くなく、彼女らはまるで友達みたいに冬里に接して平気でため口だ。それだけなら兎も角、面談していてもスマホから手が離れない。しかし、今の問題はそんなことじゃなかった。
「あー、可愛いっしょ?ちょっと古いっぽいけど。」
自分で貼ったものなら冬里が考えているのとは違うのかもしれない。一人でそう納得している彼女に、最近メッキリ学力が落ち始めた桂圭子はまたスマホに視線をおろした。この年頃の女子は思いもよらない行動に出るし、思いもよらない事で学力が落ちたりする。でも、年が近いからといって彼女らの気持ちが汲み取れると言うのは、早計だと冬里は思う。近いからこそ全く分からない事だってあるのだ。
桂圭子は人の話を聞く気配もなく、再びスマホを一心に操作している。溜め息混じりにもう帰っていいわと告げると、冬里を見ることもなくスマホを弄りながら面談室から姿を消した。スマホ依存を叱責することは可能だが、実は叱責することが難しいのだ。相手が間違っていて叱責しても最近では、こちらの方が間違いだと食って掛かる子供も親もいる。そんな職業を選んだのは自分だけど、学生時代の教師像はドンドン遠ざかり気がつくとサラリーマンとかわりないと思うときもあるのだ。
どうせなら、あんな子が、マークに喰われたらいいのよ。
溜め息混じりに心の中で冗談めかして呟いた祈りが、通じてしまったのを知ったのはそれからたった数日の事だった。桂圭子が学校を欠席したのは面談の翌日で、その後の出来事が伝わってきたのは三日後の事だ。
総合病院に入院して意識が戻らないままだと連絡を受け担任と一緒に花を買い見舞いに行くと、憔悴しきった桂の母が黒く塗り込んだような落ち窪んだ虚ろな目を上げる。その先にはベットの上の桂圭子が、酸素マスクを当てて目をガーゼで覆い横になっていた。沢山の機械が周辺に置かれ今のところは人工呼吸機は使わないでいるが、何時喉に管を入れて人工呼吸機の世話になっても可笑しくはないという。
「桂さん、圭子さんの状態は?」
担任が横で問いかけながら、母親の傍に屈み寄り添う。堪えきれずに泣き出した母親を宥める姿を横に、いたたまれずに持ってきた花をいける花瓶を手にした冬里は何気なくベットの上の桂圭子を見た。厚く何枚もガーゼを目に当てて酸素マスクをしている桂圭子が、微かな呼吸を繰り返しマスクの中が薄く白く濁る。心電図や血圧計のつけられた体とは別に、右の手は指先が厚く包帯で巻かれていた。
「あの子、自分で自分の指先を噛んで食いちぎったんです。」
唐突な言葉に冬里は体を震わせ、いつの間に背後に歩み寄ったのか桂の母親の狂人染みた視線を見つめる。指を自分で食いちぎるなんて本当なのだろうかと言葉もなく、血走って見開かれたその瞳を覗きこむ。
「それに、自分で目を抉り出して神経まで引きちぎってしまったんです。何でそんなことをしなきゃならないんです?」
冬里を見る目が何故か原因が冬里にあると言っている気がして、冬里は思わず彼女から離れようと後退った。あのシールを貼ったのは桂圭子自身だが、彼女に何か起こればいいと密かに願ったのは確かに冬里だ。あのシールが原因なら桂圭子が死ぬ可能性があると分かっていて、願い事をしたのが原因なら冬里のせいになるのだろうか。その思いが顔に浮かんだのに気がついたように、桂の母親は冬里の二の腕をガッチリと掴んで顔を覗きこんだ。
「先生と話した翌日から学校を休んだんですよねぇ?何か聞きませんでしたか?圭子が何かこんなことをする理由、話してたんじゃありませんか?」
何も聞いていないし、桂圭子は冬里なんか気にもしないでスマホを弄り続けていただけ。でも、それをそのまま言ってもいいものなのかが、冬里には分からなかった。その一瞬の戸惑いを彼女は別な意図と捉えたようだ。
「あの子、何て言ったんです?教えてくれますよね?あの子は、あんなことをしなきゃならない理由なんてありませんよね?先生知ってるんですよね?」
詰め寄る桂の母の声が甲高くヒステリックになっていくのに、冬里は戸惑いながら弱々しく頭を振る。担任も慌てたように間に入ろうとしたが必死の母親の力には勝てず、遂には病院の看護師を呼ぶ羽目になった。桂の母親は病院のスタッフ三人ががりで冬里から引き離され、鎮静剤を注射されてベットに連れていかれる。その姿を呆然と見送りながら、冬里は何と答えるべきだったのかを考え込んでいた。
※※※
家に帰りついた冬里はボンヤリしながら、バックから鍵を取り足すために中を探りながら扉を見回す。最近では扉にシールがついていないか探すのは、冬里の日課のようになってしまっていた。シールは張られていないし、身の回りにシールを張り付けている人間はいない。それでも、目が勝手にシールの存在を探してしまう。
「嘘っ!」
取り出した鍵を見下ろした瞬間、鍵にあのシールがニヤニヤと笑っているのを見つけて悲鳴をあげて鍵を床に取り落とした。鍵についたシールの笑顔が通路の蛍光灯の下で、白く反射して歪に見えて冬里は凍りつく。一体何処でつけられたのか、このシールは本当に死や怪異に結び付いているのか。そんなのあり得ないと分かっていながら、完全に否定できない自分はこのシールをどう対処するのか。
試す?本当にこれが害を呼ぶのか?でも、自分に害が起こるのは嫌だ。じゃあ、どうする?
そう考えた瞬間、最初にはこのシールが扉に貼ってあったことを思い出す。なら、このシールが誰もいない部屋の扉に貼ってあるのなら、結果はどうなるのだろうか。そう考えた冬里の脳裏には、三階下の引っ越して行った夫婦の姿が浮かび上がった。子供を亡くして引っ越していった夫婦の部屋には、まだ誰も引っ越しては来ていないはずだ。咄嗟に鍵を拾い上げた冬里は、鍵に爪をたてるようにしてシールを剥がしとり慎重な足取りで階段を降り始めた。エレベーターで降りることも考えたが、その間に何か起きたらと考えたら階段を本能的に選らんでいたのだ。密室よりは解放感がある方がまだ、不安が少ない。三階下の通路はファミリー層向けなのか、自分の階よりも扉が少ないのに気がついて冬里は安堵した。見ただけで何処の家が在宅で、何処があの夫婦の家だったかすぐ分かる。一つだけベビーカーもなく、子供の遊具もなく、ドアにガスや電気の申込用紙の袋がかかった家。そこに辿り着いた冬里は試しにチャイムを押すが、家の中は暗いままで反応がない。
良かった、まだ住んでない。桂圭子は三日、後の人だってその日か次の日。なら、このシールの効果だって一週もすれば分かる。
冬里はそう考えながらドアに笑顔のシールを貼り付け、ドアを見つめながら安堵の息を溢す。これで数日何もなければ、シールの怪は冬里の只の妄想に過ぎないと証明できる。冬里はそう考えて踵を返すと、安心して自宅のドアを開いた。
数日間そわそわしながらそのシールを毎日帰りに寄って確認したが、シールは何も変化がなく次第に粘着力が弱くなっているのか端から浮き始めたようだ。五日目の帰途に三階下のドアの前に立った冬里は、消えてしまったシールを思わず通路に落ちていないかと探したほどだった。結局あのシールは影も形もなく、空き室は空き室のまま何も変わらない。シールの行き先は気にかかるが、あんな風なシールというものは案外簡単に剥がれていつの間にか消えてしまったように無くなるものだ。余りにも神経質になっていたから、誰かの悪戯と事故を結びつけて考えてしまったのだろう。冬里はそう結論付けると安堵に満ちた溜め息をついて、自宅に戻った。
そして、こっちには誰かがまだ残っているシールを貼るわけ?
安堵して戻った自宅のドアに貼られた笑顔のシールは何だか、今までと違って呑気そうに見える。今までこんな馬鹿げたシールに振り回されていた自分を思うと、少し馬鹿馬鹿しくなってしまう。冬里は意図も簡単にそれをペリッと剥がすと指先に乗せて、何とはなしにピンッと弾いた。すると、それはまるで吸い寄せられるように、スッと風に乗って右隣の部屋のドアに貼り付く。一瞬の戸惑いが生じたが、それも馬鹿馬鹿しいと冬里は飲み込む。隣の長瀬透子は健康だし夜はあまり出歩かないし、大体にしてシールが呼び寄せるなんて馬鹿げてると今確信したばかりなのだ。
…ま、いいか、只のシールだもの。
冬里はそう自分の中で呟くと鍵を開き、自宅の中に足を向けた。
真夜中。眠りの縁から冬里は何かを聞いたような気がして、ふと目を覚ました。辺りはまだ夜の闇の中で静まり返っていたが、何で目を覚ましたのか冬里は寝ぼけ眼で上半身を起こす。何か音を聞いたような気がして、それで起きたと思うがと考え込んでいると、ドンドンと壁を叩く音がして我に帰る。隣の家から壁越しに叩いているくぐもった音で、冬里は自分が目を覚ましたのだと気がついた。長瀬透子はこんな風に夜中に壁を叩いたりして、騒ぐようなタイプではない。穏やかで人好きのする物静かなタイプで、引っ越しの挨拶もキチンと菓子折をもってくるような人だ。そんな彼女が壁をいつまでも大きな音で叩き続ける理由が分からなかったし、音は次第に弱まっていくような気がする。冬里はスマホを握りしめながら、恐る恐る通路に顔をだし辺りを伺った。
真夜中の通路は予想通り人の気配もなく、肌寒い夜気が肌に鳥肌を生んだ。長瀬の家は電気のついたままで、恐る恐るチャイムを鳴らす。これで寝ぼけ眼の長瀬が出てきたら笑い話で終わりなのだが、長瀬の返事は何時まで待っても聞こえず冬里は思いきってドアを回した。簡単に開いたドアの先で微かなドンと言う音が響いて、冬里は怯えながら長瀬の名前を呼ぶ。
その先のことは冬里もよく覚えていない。家の中には確かに長瀬透子がいたが、それはまともな状態ではなかった。長瀬透子は風呂場の室内乾燥用の洗濯ロープに首をかけて、既に絶命していた。でも、風呂場だ。隣の冬里の部屋の壁を叩くには、リビングの壁を叩かないとならない。長瀬のリビングは勿論無人で、警察と救急車を呼んだ冬里は変な音がしたとしか説明できなかった。何処から変な音がと聞かれても冬里には分からないが、隣の部屋で聞こえたとだけ答えるしかない。自殺のようにしか見えなかったが、遺書もなく動機もない事から事故ではないかと言うことになったようだ。洗濯物が足元にあったことから、引っ掛かった洗濯物を外そうとして誤って足を滑らせ首がロープに引っ掛かったと。何処かでそんな風なホラー映画があった気がする。死ぬつもりもないのにバスタブで足を滑らせると、ロープが勢いよく首に絡み足は洗剤で滑って首がしまっていく。それが冬里の頭の中では長瀬透子で、再生されるのだ。荷物をまとめながら冬里はふと、考え込む。
あのシール、消えたんじゃない。
勿論戻って来たわけでもない。扉に貼り付いていたが粘着力が弱くなって床に落ちる。そこに誰かが足を置き、そのまま足の裏につけたまま家の中に入っていく。その先を想像して冬里は、身震いしながら荷物を急いでまとめる。冬里は長瀬の件があって、更新前だが事情が事情と言うことで引っ越す事にしたのだ。
次のマンションではシールがついてこなきゃいいんだけど。
暫くはシールを確認しながら生活することにはなりそうだった。
※※※
シールって、あのよく見るヤツの事ですよね?
鈴徳はええそうですよと、普通に答える。そんなに特別珍しい訳ではないし、今でもよく帽子だったり服だったり、勿論バックやスマホケースにもついている物があるあれだ。若い子なんてあれだらけのディバックを使っていたりもする位なのに、それに怯えなきゃならないなんて最悪じゃないだろうか。
でも、昔確かにありましたよね、ドアにマークがつくって。
鈴徳が身を乗り出して言うのに、同意するが確かに訪問販売や空き巣がドアや郵便受けに印をつけると言うのは本当の事らしい。その中にはシールもあるが、色が問題で柄は聞いたこともない。どちらにしても余り気持ちのいい話ではないよね、と自分が笑うと鈴徳もそうですねと笑いながら頷いた。
「あなた、そのシール。」
スマホの隅に貼られたシールに気がついて冬里が思わず声を上げると、桂圭子は不思議そうに視線をあげる。年が近いからか福担任でも威厳は全くなく、彼女らはまるで友達みたいに冬里に接して平気でため口だ。それだけなら兎も角、面談していてもスマホから手が離れない。しかし、今の問題はそんなことじゃなかった。
「あー、可愛いっしょ?ちょっと古いっぽいけど。」
自分で貼ったものなら冬里が考えているのとは違うのかもしれない。一人でそう納得している彼女に、最近メッキリ学力が落ち始めた桂圭子はまたスマホに視線をおろした。この年頃の女子は思いもよらない行動に出るし、思いもよらない事で学力が落ちたりする。でも、年が近いからといって彼女らの気持ちが汲み取れると言うのは、早計だと冬里は思う。近いからこそ全く分からない事だってあるのだ。
桂圭子は人の話を聞く気配もなく、再びスマホを一心に操作している。溜め息混じりにもう帰っていいわと告げると、冬里を見ることもなくスマホを弄りながら面談室から姿を消した。スマホ依存を叱責することは可能だが、実は叱責することが難しいのだ。相手が間違っていて叱責しても最近では、こちらの方が間違いだと食って掛かる子供も親もいる。そんな職業を選んだのは自分だけど、学生時代の教師像はドンドン遠ざかり気がつくとサラリーマンとかわりないと思うときもあるのだ。
どうせなら、あんな子が、マークに喰われたらいいのよ。
溜め息混じりに心の中で冗談めかして呟いた祈りが、通じてしまったのを知ったのはそれからたった数日の事だった。桂圭子が学校を欠席したのは面談の翌日で、その後の出来事が伝わってきたのは三日後の事だ。
総合病院に入院して意識が戻らないままだと連絡を受け担任と一緒に花を買い見舞いに行くと、憔悴しきった桂の母が黒く塗り込んだような落ち窪んだ虚ろな目を上げる。その先にはベットの上の桂圭子が、酸素マスクを当てて目をガーゼで覆い横になっていた。沢山の機械が周辺に置かれ今のところは人工呼吸機は使わないでいるが、何時喉に管を入れて人工呼吸機の世話になっても可笑しくはないという。
「桂さん、圭子さんの状態は?」
担任が横で問いかけながら、母親の傍に屈み寄り添う。堪えきれずに泣き出した母親を宥める姿を横に、いたたまれずに持ってきた花をいける花瓶を手にした冬里は何気なくベットの上の桂圭子を見た。厚く何枚もガーゼを目に当てて酸素マスクをしている桂圭子が、微かな呼吸を繰り返しマスクの中が薄く白く濁る。心電図や血圧計のつけられた体とは別に、右の手は指先が厚く包帯で巻かれていた。
「あの子、自分で自分の指先を噛んで食いちぎったんです。」
唐突な言葉に冬里は体を震わせ、いつの間に背後に歩み寄ったのか桂の母親の狂人染みた視線を見つめる。指を自分で食いちぎるなんて本当なのだろうかと言葉もなく、血走って見開かれたその瞳を覗きこむ。
「それに、自分で目を抉り出して神経まで引きちぎってしまったんです。何でそんなことをしなきゃならないんです?」
冬里を見る目が何故か原因が冬里にあると言っている気がして、冬里は思わず彼女から離れようと後退った。あのシールを貼ったのは桂圭子自身だが、彼女に何か起こればいいと密かに願ったのは確かに冬里だ。あのシールが原因なら桂圭子が死ぬ可能性があると分かっていて、願い事をしたのが原因なら冬里のせいになるのだろうか。その思いが顔に浮かんだのに気がついたように、桂の母親は冬里の二の腕をガッチリと掴んで顔を覗きこんだ。
「先生と話した翌日から学校を休んだんですよねぇ?何か聞きませんでしたか?圭子が何かこんなことをする理由、話してたんじゃありませんか?」
何も聞いていないし、桂圭子は冬里なんか気にもしないでスマホを弄り続けていただけ。でも、それをそのまま言ってもいいものなのかが、冬里には分からなかった。その一瞬の戸惑いを彼女は別な意図と捉えたようだ。
「あの子、何て言ったんです?教えてくれますよね?あの子は、あんなことをしなきゃならない理由なんてありませんよね?先生知ってるんですよね?」
詰め寄る桂の母の声が甲高くヒステリックになっていくのに、冬里は戸惑いながら弱々しく頭を振る。担任も慌てたように間に入ろうとしたが必死の母親の力には勝てず、遂には病院の看護師を呼ぶ羽目になった。桂の母親は病院のスタッフ三人ががりで冬里から引き離され、鎮静剤を注射されてベットに連れていかれる。その姿を呆然と見送りながら、冬里は何と答えるべきだったのかを考え込んでいた。
※※※
家に帰りついた冬里はボンヤリしながら、バックから鍵を取り足すために中を探りながら扉を見回す。最近では扉にシールがついていないか探すのは、冬里の日課のようになってしまっていた。シールは張られていないし、身の回りにシールを張り付けている人間はいない。それでも、目が勝手にシールの存在を探してしまう。
「嘘っ!」
取り出した鍵を見下ろした瞬間、鍵にあのシールがニヤニヤと笑っているのを見つけて悲鳴をあげて鍵を床に取り落とした。鍵についたシールの笑顔が通路の蛍光灯の下で、白く反射して歪に見えて冬里は凍りつく。一体何処でつけられたのか、このシールは本当に死や怪異に結び付いているのか。そんなのあり得ないと分かっていながら、完全に否定できない自分はこのシールをどう対処するのか。
試す?本当にこれが害を呼ぶのか?でも、自分に害が起こるのは嫌だ。じゃあ、どうする?
そう考えた瞬間、最初にはこのシールが扉に貼ってあったことを思い出す。なら、このシールが誰もいない部屋の扉に貼ってあるのなら、結果はどうなるのだろうか。そう考えた冬里の脳裏には、三階下の引っ越して行った夫婦の姿が浮かび上がった。子供を亡くして引っ越していった夫婦の部屋には、まだ誰も引っ越しては来ていないはずだ。咄嗟に鍵を拾い上げた冬里は、鍵に爪をたてるようにしてシールを剥がしとり慎重な足取りで階段を降り始めた。エレベーターで降りることも考えたが、その間に何か起きたらと考えたら階段を本能的に選らんでいたのだ。密室よりは解放感がある方がまだ、不安が少ない。三階下の通路はファミリー層向けなのか、自分の階よりも扉が少ないのに気がついて冬里は安堵した。見ただけで何処の家が在宅で、何処があの夫婦の家だったかすぐ分かる。一つだけベビーカーもなく、子供の遊具もなく、ドアにガスや電気の申込用紙の袋がかかった家。そこに辿り着いた冬里は試しにチャイムを押すが、家の中は暗いままで反応がない。
良かった、まだ住んでない。桂圭子は三日、後の人だってその日か次の日。なら、このシールの効果だって一週もすれば分かる。
冬里はそう考えながらドアに笑顔のシールを貼り付け、ドアを見つめながら安堵の息を溢す。これで数日何もなければ、シールの怪は冬里の只の妄想に過ぎないと証明できる。冬里はそう考えて踵を返すと、安心して自宅のドアを開いた。
数日間そわそわしながらそのシールを毎日帰りに寄って確認したが、シールは何も変化がなく次第に粘着力が弱くなっているのか端から浮き始めたようだ。五日目の帰途に三階下のドアの前に立った冬里は、消えてしまったシールを思わず通路に落ちていないかと探したほどだった。結局あのシールは影も形もなく、空き室は空き室のまま何も変わらない。シールの行き先は気にかかるが、あんな風なシールというものは案外簡単に剥がれていつの間にか消えてしまったように無くなるものだ。余りにも神経質になっていたから、誰かの悪戯と事故を結びつけて考えてしまったのだろう。冬里はそう結論付けると安堵に満ちた溜め息をついて、自宅に戻った。
そして、こっちには誰かがまだ残っているシールを貼るわけ?
安堵して戻った自宅のドアに貼られた笑顔のシールは何だか、今までと違って呑気そうに見える。今までこんな馬鹿げたシールに振り回されていた自分を思うと、少し馬鹿馬鹿しくなってしまう。冬里は意図も簡単にそれをペリッと剥がすと指先に乗せて、何とはなしにピンッと弾いた。すると、それはまるで吸い寄せられるように、スッと風に乗って右隣の部屋のドアに貼り付く。一瞬の戸惑いが生じたが、それも馬鹿馬鹿しいと冬里は飲み込む。隣の長瀬透子は健康だし夜はあまり出歩かないし、大体にしてシールが呼び寄せるなんて馬鹿げてると今確信したばかりなのだ。
…ま、いいか、只のシールだもの。
冬里はそう自分の中で呟くと鍵を開き、自宅の中に足を向けた。
真夜中。眠りの縁から冬里は何かを聞いたような気がして、ふと目を覚ました。辺りはまだ夜の闇の中で静まり返っていたが、何で目を覚ましたのか冬里は寝ぼけ眼で上半身を起こす。何か音を聞いたような気がして、それで起きたと思うがと考え込んでいると、ドンドンと壁を叩く音がして我に帰る。隣の家から壁越しに叩いているくぐもった音で、冬里は自分が目を覚ましたのだと気がついた。長瀬透子はこんな風に夜中に壁を叩いたりして、騒ぐようなタイプではない。穏やかで人好きのする物静かなタイプで、引っ越しの挨拶もキチンと菓子折をもってくるような人だ。そんな彼女が壁をいつまでも大きな音で叩き続ける理由が分からなかったし、音は次第に弱まっていくような気がする。冬里はスマホを握りしめながら、恐る恐る通路に顔をだし辺りを伺った。
真夜中の通路は予想通り人の気配もなく、肌寒い夜気が肌に鳥肌を生んだ。長瀬の家は電気のついたままで、恐る恐るチャイムを鳴らす。これで寝ぼけ眼の長瀬が出てきたら笑い話で終わりなのだが、長瀬の返事は何時まで待っても聞こえず冬里は思いきってドアを回した。簡単に開いたドアの先で微かなドンと言う音が響いて、冬里は怯えながら長瀬の名前を呼ぶ。
その先のことは冬里もよく覚えていない。家の中には確かに長瀬透子がいたが、それはまともな状態ではなかった。長瀬透子は風呂場の室内乾燥用の洗濯ロープに首をかけて、既に絶命していた。でも、風呂場だ。隣の冬里の部屋の壁を叩くには、リビングの壁を叩かないとならない。長瀬のリビングは勿論無人で、警察と救急車を呼んだ冬里は変な音がしたとしか説明できなかった。何処から変な音がと聞かれても冬里には分からないが、隣の部屋で聞こえたとだけ答えるしかない。自殺のようにしか見えなかったが、遺書もなく動機もない事から事故ではないかと言うことになったようだ。洗濯物が足元にあったことから、引っ掛かった洗濯物を外そうとして誤って足を滑らせ首がロープに引っ掛かったと。何処かでそんな風なホラー映画があった気がする。死ぬつもりもないのにバスタブで足を滑らせると、ロープが勢いよく首に絡み足は洗剤で滑って首がしまっていく。それが冬里の頭の中では長瀬透子で、再生されるのだ。荷物をまとめながら冬里はふと、考え込む。
あのシール、消えたんじゃない。
勿論戻って来たわけでもない。扉に貼り付いていたが粘着力が弱くなって床に落ちる。そこに誰かが足を置き、そのまま足の裏につけたまま家の中に入っていく。その先を想像して冬里は、身震いしながら荷物を急いでまとめる。冬里は長瀬の件があって、更新前だが事情が事情と言うことで引っ越す事にしたのだ。
次のマンションではシールがついてこなきゃいいんだけど。
暫くはシールを確認しながら生活することにはなりそうだった。
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シールって、あのよく見るヤツの事ですよね?
鈴徳はええそうですよと、普通に答える。そんなに特別珍しい訳ではないし、今でもよく帽子だったり服だったり、勿論バックやスマホケースにもついている物があるあれだ。若い子なんてあれだらけのディバックを使っていたりもする位なのに、それに怯えなきゃならないなんて最悪じゃないだろうか。
でも、昔確かにありましたよね、ドアにマークがつくって。
鈴徳が身を乗り出して言うのに、同意するが確かに訪問販売や空き巣がドアや郵便受けに印をつけると言うのは本当の事らしい。その中にはシールもあるが、色が問題で柄は聞いたこともない。どちらにしても余り気持ちのいい話ではないよね、と自分が笑うと鈴徳もそうですねと笑いながら頷いた。
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