都市街下奇譚

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三十九夜目『情報操作』

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これは、友人から聞いた話なんですがね、そうマスターの久保田は、グラスを磨きながら何気ない気配で口を開く。客足は奇妙なほど途絶えて、その言葉を耳にしたのは自分ただ一人だった。



※※※



矢根尾俊一は最近身の回りに、酷く神経質になっていた。何故ならある理由でネット検索中に、自分の日常生活を悪し様に誇張してさらされている事に気がついたのだ。それを警察に訴えることも可能だが、内容を警察に読まれるのも恥ずかしい。泣き寝入りするわけではないが、新しい物が書き込まれないか注意しながら生活する方が矢根尾には容易かった。書き込みが怖くて一先ず普通の人間と同じように見えるよう、バイト先を探し歩く。実際に以前のバイトの面接での書き込みもあったから、何時何処に矢根尾を見張る目があるが分からないのだ。そうは言っても四十過ぎのフリーターには中々雇い入れ先が少ない。塾の講師を勤めていて教える能力があっても、バイト先の給料が釣り合わない物が多すぎるのだ。どこもかしこも給料が余りにも安くて、しかも矢根尾の年を聞くと大概断ってくる。若い大学生が同じかそれ以下で雇えればいいと、何処の経営者も考えているのだ。資格があっても教師としての実務をしていたわけでもなく、定職についていなかったのをつかれると矢根尾も苦いものを噛む思いしかない。次第に勤められる大手の塾がなくなり個人経営しか無くなってくるが、個人経営は更に金額が安いから嫌になる。個人経営でも給料の高いところから面接しても、矢根尾の経歴を見ると相手の顔は暗く変わるのだ。

何なんだよ、定職がなくて悪かったな。

そんなときに気がついたのは履歴書を書いているのは自分だと言うことと、定職に全くついていないわけではないと言うことだった。履歴書を何度も書いていると分かるが、ずっと以前は小学校から卒業を書いていた時期があった。ある年を越えるとそれが高校卒業迄省略される。つまりは高校以前の経歴は、もう省略しても問題ないとみなされる年齢があるのだ。その前の小学校や中学校がどんな場所であろうと、高校の名前で十分と言う年代。やがて、それはそれ以上の専門学校や大学の名前からに変わる。でも、それを書いているのは自分。

書いてるのは俺で、それ以上詮索してる訳じゃない。

詮索されないからといって、矢根尾自身詐称するつもりなのではない。通ってない大学の名前を書いたり、勤めてない会社を書こうなどとは考えていないのだ。ただ、余計な情報を省略すればいい。余計な情報とは、例えば自己都合で退職だとか、アルバイトとか転職だとか、そう相手に悪い印象を持たせる情報だ。大学は卒業してるし、以前の職場に電話をして勤めている時の態度なんて聞いたりしてるわけない。今まで働いた場所でそんなことあった事はないのだ。

これは、言わば情報操作だ。

上手いことやるための方法なだけ、そう心の中で呟きながら、矢根尾は大学卒業後の就職先の後を物語のように組み立て始める。それはまるでパズルのような作業だった。

就職してそこに勤めていて、その後の喫茶店のアルバイトは省略、次の塾も省略しても絶対分からない。次と次の塾も期間が短いから省略しておこう。次の所は暫くいたからここは書いておくか。

暫くしてほんの数回塾を渡り歩いただけの、オールマイティーに授業をこなせる人物像の見える履歴書が生まれた。矢根尾はこれこそ自分の姿と満足げにそれを眺め、質問されたら答えられるよう頭に時系列を叩き込む。情報操作をするからには、自分自身がそれを完璧に乗りこなせないと意味がない。何度も何度も読み返し叩き込んでいく度に、矢根尾は書いてある事こそが本当の自分だと完全に思い込み始めていた。
そのお陰か面接での矢根尾は、完璧に情報を操作出来ている。問いかけには落ち着いて答えられ、しかもまるで本当にそうしてきたように自分自身でも感じられていた。大学を卒業後長く勤めた大手企業の塾では、大人数の授業が基本で個人としての生徒を見ることができない。そうなるとどうしても乗ってこれない生徒は取り残されてしまう。それが気になって大手企業の塾を退社する気になった矢根尾は、新しい塾では個人指導を基盤にした塾を選んで就職した。ところが個人指導ではあるものの、指導時には複数の生徒を同時に指導しないとならない。そうなるとどうしても飲み込みの早い生徒は放置されるし、飲み込みの悪い生徒は周りを見てヒントを得ることもできないからいつまでも同じところで引っ掛かり続ける。それが改善出来ないかと模索して新しい指導法を実践している塾へ転職した。そこのよさは少人数での授業方法だが、何分事故のため閉鎖になってしまいやむ無く退職。新しい職場を探すことになったベテランの実績を持つ塾講師の姿だ。

「勤めていただけたら願ったり叶ったりです。」

個人経営者の塾だから講師の数は少なく、以前の塾の講師も今のところはいない。勤めてしまえばこちらのものだと、矢根尾は穏やかな笑顔を貼り付け考える。情報操作の簡単さに笑い出しそうになるが、今までどうして気がつかなかったのか自分でも不思議な位だ。



※※※



「だから、初回の給料日迄の生活費だけでいいから。」

電話の先の弟が取り付く隙もなく、矢根尾の訴えを跳ね除ける。つい先日も金銭の困窮から親や弟に援助を求めたのたが、母親から幾ばくかしか援助してもらえなかった。一人で生活している矢根尾に、両親も弟も全く慈悲らしい気持ちは持てないらしい。後ほんの数週間分の生活費を援助するくらいしてもいいのにと、矢根尾は舌打ちしながら奥歯を噛んだ。室内はある程度片付いていて以前の矢根尾の事を知っていたら驚くに違いないが、こうなってからの家には両親も弟も一度も来たことがない。だから、矢根尾がこうだと幾ら言っても、彼らは全く信用しないのだ。まるで情報操作をする前の履歴書しか信じない面談先の奴らと同じ。

家族の頭ん中も情報操作出来たらいいのにな。

忌々しくそう考えながら、矢根尾は舌打ちする。どうやっても金がないのは事実で、生活費を工面することも出来ない。想像して変わるもんなら、履歴書通りの人生を送ってきた事に変えてやる。そう苦々しく心の中で呟いた瞬間、手の中にしていたスマホから青白い火花が衝撃とともに走った。激しい痛みが体に走って一瞬で視界が暗転する。

何てことだ、不良品か?スマホで感電死なんて。



※※※



「大丈夫?ご飯出来てるけど。」

オズオスとした声に肩を揺さぶられて、矢根尾は我に帰った。床に延びていた自分を心配そうに見下ろしている顔をボンヤリと見上げる。黒目勝ちの瞳に艶やかな長い黒髪、色白な柔らかそうな白い肌。それにこちらの出方を伺う様な気弱そうに聞こえる声のかけ方。

「アキ?」
「なに?床に寝ててどうしたの?」

当然のように答えた彼女が、心配そうに頭の横に膝をついている。矢根尾はボンヤリとその顔を見上げながら、一体これはどういう夢なのだろうと考えた。もう元妻の顔は十年は見ていない筈だが、目の前の彼女は付き合い始めたばかりの頃のように若く美しい。
この女を自分好みの奴隷に育てようとしたのが始まりだったんだ。この女は矢根尾だったら何でも言うことを聞くし、大人しいし見た目も美人で料理上手。しかも、本来看護師の免許も持っていて有能で、毎月高給を稼ぐこともできる。矢根尾が一緒に暮らした間、この女は日常的にメイドだった。毎夜矢根尾を職場に送り明け方に迎えに来て、間に自分の仕事をして、家事をして食事も作り洗濯もして掃除もしてゴミも棄てて。真夜中に矢根尾が遊びに行くと言えば運転手になり、矢根尾と矢根尾の友人達を車で片道三十分かけて送ってもいったのだ。そしてその日の朝八時に仕事に行き夕方戻ったら、矢根尾を起こして食事をさせ車で職場に送る。勿論夜勤もあったからその時は矢根尾はしょうがなくタクシーで帰ってきたが、基本家にいる時は電話一本で喜んでやって来た。

「早く起きて。ご飯冷めるから。」

矢根尾がそうしたいと考えれば、直ぐ様性的な奴隷になる。何でも矢根尾の言う通り身に付けたし、喜んで新しい事を受け入れた。この女は他の男とやっている姿を見たことがないが、恐らく矢根尾自身妄想はしても実際にこの女を貸し出すことはなかったに違いない。何故なら

「俊一さん、大丈夫なの?」

心配そうに言う声に体を起こすと、少しホッとした様子で笑う。子供のような素直な微笑みに自分が何を考え様としていたのかが、一瞬遠退くのを感じた。目の前の彼女が立ち上がろうとするのを、引き留め腕を引くと大人しく自分の足を股がって座る。大人しく言いなりの女だったのに、何故彼女は自分の元を去る決心をしたのだ。言いなりだった筈だったのに、と心の中で呟きながらその体を抱き締める。

「どうしたの?突然。」

不思議そうに腕の中で彼女が囁く声を聞きながら、矢根尾は一体何が起きているのだろうと考えた。十年も前に姿を消した元妻が、こんな風に目の前に現れ以前のように食事ができたと自分を呼びに来る。夢なのか何なのかどうやってこれを維持すればいいのか分からない。これを維持することが出来たら、この後の転落するような生活を変えられるのだろうかと考える。それこそ履歴書の情報操作をしたように。彼女が消えた人生を操作して、彼女がずっと傍にいるように出来たら自分の人生はずっと素晴らしい筈だ。

「変えればいい。」
「え?」
「変えればいいんだよ、俺が。」

ニヤリと微笑んだ矢根尾に彼女は不思議そうに首を傾げる。腕の中の体温は確かで、夢とは思えなかった。この女を逃がさないように手元に確保しておけば、ここからの矢根尾の人生は安泰の筈なのだ。立ち上がった彼女の後ろ姿を眺めて、作戦を練りながら矢根尾は、再び手に入った女をまずどうやって楽しむか思案する。矢根尾の知っているこの女は、矢根尾が教え込んだ様々な事を覚えているのだろうか。そう考えながらユックリと手を伸ばした指先が、白い肌に触れた瞬間青白い火花が衝撃とともに走った。激しい痛みが全身に走って、矢根尾の意識は一気に暗転する。



※※※



気がつくと一人きりの部屋で、矢根尾は大の字になって倒れていた。何だ夢だったのかと、呆れ混じりに天井を見上げて呟く。馬鹿馬鹿しさに笑えてくる矢根尾は、体を起こして首をならした。感電死しなかっただけましだが書き直したい過去があの女の事だとは、矢根尾は正直なところ考えたくもない。誰に言っても矢根尾の方が悪いと言われるが、矢根尾には全く何処が悪かったのか分からないからだ。

悪いとこなんて……。

今まで悪いところなんてなかった筈の矢根尾の脳裏が、不意に電気が走っているように時間の経過を押し付けてくる。その自分の頭の動きに、矢根尾の方が驚いて呻くほどだ。
朝八時に仕事に行き夕方十七時半帰宅、十八時迄に夕食を準備矢根尾を起こして食事をさせ、シャワーの間に矢根尾のスーツを準備。十八時半、矢根尾を職場に車で送る。十九時半帰宅し自分の食事と入浴。その後掃除洗濯をして、翌日のゴミをまとめる。二十二時半矢根尾を迎えに塾へ。二十三時矢根尾と矢根尾の友人をのせてゲームセンターへ。三時、矢根尾の友人を自宅まで送り届ける。四時、自宅へ戻り、矢根尾の性的な相手をさせられる。七時矢根尾に食事をつくる。その間自分の自由な時間は、十九時半から二十二時半の三時間。しかもそこは家事をしていて、自分の自由にはしていないのだろう。

いつ寝るんだ?

自分は朝八時から気が向けば十七時過ぎまで寝ることが出来ている。だが、押し付けられたタイムテーブルには睡眠が見えない。これを何年も繰り返した人間がどうするのか、と頭が問いかける。気分が悪かった、頭の中が勝手に書き換えられタイムテーブルを押し付けられたのは、不快で仕方がない事だった。同時に感電した先で見た女が夢だったのかと考える。あの女は今も何処かで、ネットの中で生きているのかもしれない。

今度であったら何時寝ていたのか聞いてみる事にしよう。

タイムテーブルを何時までも押しつける頭を抱えながら、矢根尾はヨロヨロと立ち上がると歩き出した。



※※※



言葉もなく溜め息をついた自分に、久保田は不思議そうに目を細める。この男はちょくちょく出てきて、何度も自分が過ちを犯している事を突きつけられているのに毎回気がつかないのだ。そして罰が当たっているとしか思えないことも、気がつかない。聞くたびに何とも言えない思いに包まれるのだが、しっぺ返しはないものだろうかと呆れ返ってしまう。

タイムテーブルが頭に浮かぶって、普通ですよね。

思わず呟いた言葉に久保田がおかしそうに笑う。今まで無かったんなら情報操作の成果ですかね、と呟いた久保田に、自分は苦々しく感じながら笑うしかできなかった。
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