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五十一夜目『雑音2』
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これは私の友人から聞いた話なんですがね、そうマスターの久保田は、グラスを磨きながら何気ない気配で口を開く。芳しい珈琲の香りのする店内に客足は奇妙なほど途絶えて、その言葉を耳にしたのは自分ただ一人だった。
※※※
玄関のチャイムの音に木内梢は、眺めていたテレビの前から腰をあげた。折角良いところだったのにと内心呟きながら、インターホン前に歩いていく。
「はぁい、どちら様ー?」
画面を見もせずにぶっきらぼうに言うと、暫くの無言に梢はおやと視線をあげる。インターホンの画面には驚くほど顔を近づけた老女が、まるで片目の化け物のように写り込んでいて思わず後退った。画面に写り込んでいる姿を確認したみたいに、老女は少しだけ顔を引いたがレンズに写る顔は斧で割ったように奇妙に歪んでいる。
『すみません、隣の大坊ですが。』
その声はインターホンに近すぎて、音が変質して聞こえる。隣人の名前に梢は何故そんなに近づいて話しているのか、やっと理解することが出来た。隣人の老女は、高齢で耳が遠いからインターホンの返事が聞こえないのだ。だから、こんなにもカメラに近づいて、耳を寄せて聞き取っていたのだろう。分かってしまえば只のお年寄りの姿に苦笑しながら、梢は返事をして玄関に向かった。大坊は右隣の住人で普段から穏やかな老女の独り暮らしで、何かと高価な果物やら缶詰やらを食べきれないからとお裾分けしてくれる。木内家にとっては人が来て騒いでも耳が遠いので文句も言わず、しかも高価な物をホイホイとくれる都合のいい隣人だ。
「大坊さん、どうなさったの?」
梢が愛想笑いをしながら扉をあけると、彼女は高価そうなメロンの一玉の入った袋を申し訳なさそうに差し出した。
「これ、頂き物なんだけど私一人じゃ食べきれないの。貰って頂けないかしら?」
網目の入った高級品に、梢は喜んでそれを受け取る。老女独りではメロン一玉が食べきれないのは当然のことだから、これは彼女にとってもいいことなのだ。しかし、こんな老女に一体誰がこんな高級品を送るのだろう。見た感じは何処にでもいる草臥れた感じの婆さんだし、身なりもそんなに高級そうには見えない。しかし、身なりがみすぼらしいからといって金が無いわけではないのかも。そんなことを思いながら愛想笑いをして扉を閉じようとした梢に、珍しく老女は声をかけた。
「ねぇ、最近、上から変な音がしない?」
「上?」
梢は思わずその言葉に通路の天井を見上げた。老女は恥ずかしそうに耳が悪いからハッキリしないんだけどと呟きながら、梢と同じように天井を見上げる。
「時々ね、天井から足音みたいな音がするのよ。」
「上の階の足音が響くのかしら。」
私耳が悪いのに聞こえるのよと老女が心細そうに呟くのを、梢は面倒くさいなと思いながら自分の家では気にならないけどと返す。梢の家では逆に足音が煩いと苦情を受けたことがあるくらいだから、そんなこと気にしなきゃいいのよと心の中で呟く。そんなに上の階の足音が気になるなら、さっさと家を買うか上の階がない建物に越せばいい。しかし、大坊が隣から居なくなるのは、正直高級品のお裾分けが惜しいのだ。
「あんまり酷い時は声かけてくださいね、心細いでしょ?」
それはほんのお愛想程度の建前の言葉だった。それを聞いた大坊は心底安堵したように微笑んで、頭を下げて礼を口にすると扉を閉じたのだ。
※※※
玄関のチャイムの音にウンザリしながら梢は振り返った。遠くからでも見てわかる、インターホンにはまるでインターホンを覗きこむような姿で老女が顔を近づけている。
「ママぁ、また大坊さんだよ。」
「もーあの婆さん、何なのよ。」
娘の梓が呆れたような声で言うのに、梢は大きな舌打ちをしてインターホンの画面を睨み付けた。老女は毎日のようにインターホンを押して、天井から音がするのよと訴える。流石に一度は隣家に行って音がするか試したのだが、梢には何の音も聞こえない。しかも、老女はあなたが来たら止まったわと喜んでしまったから始末に終えない。その後は老女は足音がする度に飛んで来るようになった。居留守を使おうにも隣の住人では、何時までも立っていられるのも人目が悪い。しかも、出るまで老女はずっとチャイムを鳴らすのだ。専業主婦の梢にとってそのチャイムは、直ぐ様ウンザリするものになった。
「はぁい。」
『ああ、良かった、木内さん家に来てちょうだい!また音がするのよ!』
「ごめんなさい、大坊さん、今料理の手が離せなくて。」
料理なんてしていないが一応専業主婦らしいことを言えば、相手も少しは黙るかと思ったのに老女は全く怯まなかった。
『料理なんて火を止めるだけでしょ?換気扇も回してないもの揚げ物じゃないわよね。』
流石に女としての経験は向こうの方がはるかに上だった。同じマンションでは、大体のキッチンの位置も知れているし換気扇の動きなんて丸わかりなのだ。苛立ちながら梢は溜め息をついた。
くそ、このボケ婆ぁ、毎日毎日いい加減にしろよ。
心の中で口汚く罵ってから梢は、ウンザリした顔を隠しもせずに玄関に向かい扉をあける。その先には満面の笑顔を浮かべた老女が待ち構えていて、早速のように腕を引き自分の家に向かって歩き出した。
「そういうわけ。って聞いてる?」
「ん?ああ、聞いてる。」
口では聞いていると言っても、本当のところ新太は全く聞いていない。何しろ不満顔で口を尖らせた梢の目の前で、夫の新太はビールを片手にスマホを弄っていて視線もあげないのだ。最近の新太は梢の話なんか殆ど聞かず、目の前にいても平気で何時までもスマホを弄っている。それって夫としてどうよと思うけれど、梓が産まれてからというもの夫はメッキリ男としての魅力が失せてきたような気がする。そう考えてしまうと聞く気のないその様子も諦めがつくもので、梢は大袈裟な溜め息をつきながら立ち上がった。新太がキチンと働いて家に金を入れてくれれば、一先ずは文句を言う筋合いでもない。それでも、専業主婦である限り老女の訪問は、梢には避ける方法がないのに等しかった。
面倒な婆ぁ、さっさと病気になるなり施設に入るなりすればいいのに。
自分達にもたらす利益よりも、今の老女は不利益が勝ち始めていて梢は食器を洗いながら溜め息をつく。しかも、あの老女は常に新太がいない時間を狙って来るような気がする。だから余計に新太は話に何の疑問も持たないし、興味も持たないのだ。
※※※
真夜中過ぎのチャイムに、梢は夢を見ているのだと思った。しかし、その後も延々と何度も繰り返されるチャイムに、隣で鼾をかいていた新太も遂に目を覚ます。寝入りばなを叩き起こされた形になった二人は眉を潜めてベットの上で起き上がると、梓が夫婦の寝室のドアを開けた。
「ママぁ、大坊さんだよお?」
呆れ果てた声で告げた梓に、梢はほら言ったでしょと言いたげに新太を睨む。新太は苛立たしげにベットから滑り降りると、足音も荒く玄関に駆け寄った。勢いよく開けられたドアの音の後に、苛立ちを隠さない新太の怒鳴り声が続く。
「何なんですか?!こんな夜中に!」
「ごめんなさい!真夜中なのは分かってるのよ!でも、天井から音がするのよ!」
「あんたねぇ?!ボケてんじゃないの?!」
新太の怒鳴り付ける声に、驚いた老女の憐れな泣き声が低く聞こえる。これでやっと天井から音がすると言いに老女が来なくなると、梢は安堵して玄関に向かうこともなくさっさと布団に潜り込む。梓は廊下に立ったまま不安そうに父が怒鳴り付ける老女を見ていたが、新太が荒々しくドアを閉めたのに諦めたように自分の部屋に戻っていった。
それからというもの老女は木内家のチャイムをならすことはなくなり、ウンザリするほど天井から音がする話を聞かなくて済んだ。沢山の高級品のお裾分けもなくなってしまうのは正直惜しかったが、あのインターホンを覗きこむ老女の顔を見なくて済むのは清々する。
でも、全く見なくなったわね、あの婆さん。
以前は買い物に出たりゴミを捨てる時に顔をあわせる事がチラホラあったのに、あれから全く顔をあわせなくなった。清々しているくらいだから大して大事には感じないが、流石に全く顔を見せないのは不思議だ。人間誰しも飲み食いはしないと生きていけないのに買い物に出た気配もないし、かといって何か届け物が来ている気配もない。人が動く気配すら感じない気がして、梢は少しだけ不安になった。
家ん中で死んでたりしてね。
老人の孤独死なんて話はよくあることだが、自分の家の隣ではあまり死んで欲しくはない。せめて病院に入って死んでくれたらいいのだがと心の中で呟く。そんな時、微かな音が耳に入ったのに梢は気がついた。微かな何かを引きずるような音が、頭上から響いて梢は思わず目を丸くして凍りつく。微かで気にしなければ気がつかないほどの、雑音じみた物を引きずるような音が単調な感覚で聞こえる。
まるで年寄りが足を引きずって歩く音みたい。
そう考えた瞬間、老女が訴え続けた足音とはこれではないかと頭が考えているのに気がつく。密やかな微かな音なのに、一度気がついてしまったら耳がそれを聞き取ってしまう。
嫌だ、何で?
隣の老女が訴えかけていた事が、今更自分に降りかかるとは思ってもみない。梢は夫も娘もいない真昼の家の中で、独りその音を耳に呆然と立ち尽くしていた。
※※※
翌日買い物に出掛けようとした梢は、隣のドアが開いているのに気がついた。思わず立ち尽くしていると中から引っ越し業者が荷物を運び出すのを、見たことのない男性が見守っている。その男性は梢を見ると遠慮がちに会釈をして、梢に向かって歩み寄ってきた。
「お隣の方ですか?」
はいと緊張した声で答えると男性は苦笑いをしながら、母がご迷惑おかけしましたと頭を下げる。どうやら目の前の男性は大坊の老女の息子らしい。梢が老女の事を問いかけると、男性は苦い表情でご存知でしょうけどと前置きをした。
「天井から音がするって電話が何度もかかってきましてね。」
「ええ、家にも何度かそうおっしゃって。」
梢の言葉にそうでしたかと息子は、改めて申し訳ありませんと頭を下げた。どうやら老女は木内家だけでなく、自分の息子にも訴え続けていたようだ。
「何度も確認してやっても駄目で、こりゃ認知症かなとなりまして病院につれて行ったんです。やっぱりそうでした。」
老女はここ暫く入院しているという。治療の効果なのか今では天井の音はしなくなったと、穏やかに過ごしているらしいが独り暮らしは難しいと判断したらしい。それでここを引き払って一緒に住むことにしたんですと男が告げたのに、梢は納得して安堵したように微笑む。やはり老女が精神的におかしかったのだとわかって対応したのなら良かったのだと考えた瞬間、ではあの音はなんだったのだろうと心の隅で囁く声がする。男がまた改めてご挨拶にうかがいますと、頭を下げて歩み去るのを見送って梢は不安感が胸に広がるのを感じていた。
あの音は気のせいだったのかしら。
気のせいであって欲しかったのは、梢自身の思いだった。それでも、家で一人きりになると何故か足を引きずるような微かな音が聞こえてくる。それは何故か梢が一人になるのを察知して、微かに規則的に自分の頭の上を回るように響き出す。新太に話すつもりもなかったし、娘の梓にも話さなかった。話して自分がおかしくなったと思われるのは真っ平だ。それでも、何時までも音が聞こえるのを堪えるのは、梢は不公平だと爪を噛みながら天井を睨み付けた。試しに上の部屋に老人が住んでいるのか確認に行ったのだが、上の部屋は空き家でドアのノブに電気と水道とガスのチラシがかけられているだけだ。こうなると何処の部屋から響いている音なのか、梢には全く判断が出来なくなってしまった。
こうなったら……。
梢が最後にとったのは
※※※
最後にとった手段はなんだったんですか?
自分の言葉に久保田はにこやかに笑って、それは知らないんですよと言う。どうやら最後の手段が何でそれを聞く前に、話を教えてくれた人物が現れなくなったらしい。それを聞いて自分は少し不思議な気分で、問いかけた。
その話誰から聞いたんですか?隣の人じゃないですよね。
ええとにこやかに笑顔を崩さない久保田が笑いながらグラスを置くと、すっと天井を指差し思わず自分は天井を見上げる。
天井の音の主の方に聞いたんですよ。
ギョッとして自分は思わずマジマジと木目の浮いた『茶樹』の天井を見つめ直していた。
※※※
玄関のチャイムの音に木内梢は、眺めていたテレビの前から腰をあげた。折角良いところだったのにと内心呟きながら、インターホン前に歩いていく。
「はぁい、どちら様ー?」
画面を見もせずにぶっきらぼうに言うと、暫くの無言に梢はおやと視線をあげる。インターホンの画面には驚くほど顔を近づけた老女が、まるで片目の化け物のように写り込んでいて思わず後退った。画面に写り込んでいる姿を確認したみたいに、老女は少しだけ顔を引いたがレンズに写る顔は斧で割ったように奇妙に歪んでいる。
『すみません、隣の大坊ですが。』
その声はインターホンに近すぎて、音が変質して聞こえる。隣人の名前に梢は何故そんなに近づいて話しているのか、やっと理解することが出来た。隣人の老女は、高齢で耳が遠いからインターホンの返事が聞こえないのだ。だから、こんなにもカメラに近づいて、耳を寄せて聞き取っていたのだろう。分かってしまえば只のお年寄りの姿に苦笑しながら、梢は返事をして玄関に向かった。大坊は右隣の住人で普段から穏やかな老女の独り暮らしで、何かと高価な果物やら缶詰やらを食べきれないからとお裾分けしてくれる。木内家にとっては人が来て騒いでも耳が遠いので文句も言わず、しかも高価な物をホイホイとくれる都合のいい隣人だ。
「大坊さん、どうなさったの?」
梢が愛想笑いをしながら扉をあけると、彼女は高価そうなメロンの一玉の入った袋を申し訳なさそうに差し出した。
「これ、頂き物なんだけど私一人じゃ食べきれないの。貰って頂けないかしら?」
網目の入った高級品に、梢は喜んでそれを受け取る。老女独りではメロン一玉が食べきれないのは当然のことだから、これは彼女にとってもいいことなのだ。しかし、こんな老女に一体誰がこんな高級品を送るのだろう。見た感じは何処にでもいる草臥れた感じの婆さんだし、身なりもそんなに高級そうには見えない。しかし、身なりがみすぼらしいからといって金が無いわけではないのかも。そんなことを思いながら愛想笑いをして扉を閉じようとした梢に、珍しく老女は声をかけた。
「ねぇ、最近、上から変な音がしない?」
「上?」
梢は思わずその言葉に通路の天井を見上げた。老女は恥ずかしそうに耳が悪いからハッキリしないんだけどと呟きながら、梢と同じように天井を見上げる。
「時々ね、天井から足音みたいな音がするのよ。」
「上の階の足音が響くのかしら。」
私耳が悪いのに聞こえるのよと老女が心細そうに呟くのを、梢は面倒くさいなと思いながら自分の家では気にならないけどと返す。梢の家では逆に足音が煩いと苦情を受けたことがあるくらいだから、そんなこと気にしなきゃいいのよと心の中で呟く。そんなに上の階の足音が気になるなら、さっさと家を買うか上の階がない建物に越せばいい。しかし、大坊が隣から居なくなるのは、正直高級品のお裾分けが惜しいのだ。
「あんまり酷い時は声かけてくださいね、心細いでしょ?」
それはほんのお愛想程度の建前の言葉だった。それを聞いた大坊は心底安堵したように微笑んで、頭を下げて礼を口にすると扉を閉じたのだ。
※※※
玄関のチャイムの音にウンザリしながら梢は振り返った。遠くからでも見てわかる、インターホンにはまるでインターホンを覗きこむような姿で老女が顔を近づけている。
「ママぁ、また大坊さんだよ。」
「もーあの婆さん、何なのよ。」
娘の梓が呆れたような声で言うのに、梢は大きな舌打ちをしてインターホンの画面を睨み付けた。老女は毎日のようにインターホンを押して、天井から音がするのよと訴える。流石に一度は隣家に行って音がするか試したのだが、梢には何の音も聞こえない。しかも、老女はあなたが来たら止まったわと喜んでしまったから始末に終えない。その後は老女は足音がする度に飛んで来るようになった。居留守を使おうにも隣の住人では、何時までも立っていられるのも人目が悪い。しかも、出るまで老女はずっとチャイムを鳴らすのだ。専業主婦の梢にとってそのチャイムは、直ぐ様ウンザリするものになった。
「はぁい。」
『ああ、良かった、木内さん家に来てちょうだい!また音がするのよ!』
「ごめんなさい、大坊さん、今料理の手が離せなくて。」
料理なんてしていないが一応専業主婦らしいことを言えば、相手も少しは黙るかと思ったのに老女は全く怯まなかった。
『料理なんて火を止めるだけでしょ?換気扇も回してないもの揚げ物じゃないわよね。』
流石に女としての経験は向こうの方がはるかに上だった。同じマンションでは、大体のキッチンの位置も知れているし換気扇の動きなんて丸わかりなのだ。苛立ちながら梢は溜め息をついた。
くそ、このボケ婆ぁ、毎日毎日いい加減にしろよ。
心の中で口汚く罵ってから梢は、ウンザリした顔を隠しもせずに玄関に向かい扉をあける。その先には満面の笑顔を浮かべた老女が待ち構えていて、早速のように腕を引き自分の家に向かって歩き出した。
「そういうわけ。って聞いてる?」
「ん?ああ、聞いてる。」
口では聞いていると言っても、本当のところ新太は全く聞いていない。何しろ不満顔で口を尖らせた梢の目の前で、夫の新太はビールを片手にスマホを弄っていて視線もあげないのだ。最近の新太は梢の話なんか殆ど聞かず、目の前にいても平気で何時までもスマホを弄っている。それって夫としてどうよと思うけれど、梓が産まれてからというもの夫はメッキリ男としての魅力が失せてきたような気がする。そう考えてしまうと聞く気のないその様子も諦めがつくもので、梢は大袈裟な溜め息をつきながら立ち上がった。新太がキチンと働いて家に金を入れてくれれば、一先ずは文句を言う筋合いでもない。それでも、専業主婦である限り老女の訪問は、梢には避ける方法がないのに等しかった。
面倒な婆ぁ、さっさと病気になるなり施設に入るなりすればいいのに。
自分達にもたらす利益よりも、今の老女は不利益が勝ち始めていて梢は食器を洗いながら溜め息をつく。しかも、あの老女は常に新太がいない時間を狙って来るような気がする。だから余計に新太は話に何の疑問も持たないし、興味も持たないのだ。
※※※
真夜中過ぎのチャイムに、梢は夢を見ているのだと思った。しかし、その後も延々と何度も繰り返されるチャイムに、隣で鼾をかいていた新太も遂に目を覚ます。寝入りばなを叩き起こされた形になった二人は眉を潜めてベットの上で起き上がると、梓が夫婦の寝室のドアを開けた。
「ママぁ、大坊さんだよお?」
呆れ果てた声で告げた梓に、梢はほら言ったでしょと言いたげに新太を睨む。新太は苛立たしげにベットから滑り降りると、足音も荒く玄関に駆け寄った。勢いよく開けられたドアの音の後に、苛立ちを隠さない新太の怒鳴り声が続く。
「何なんですか?!こんな夜中に!」
「ごめんなさい!真夜中なのは分かってるのよ!でも、天井から音がするのよ!」
「あんたねぇ?!ボケてんじゃないの?!」
新太の怒鳴り付ける声に、驚いた老女の憐れな泣き声が低く聞こえる。これでやっと天井から音がすると言いに老女が来なくなると、梢は安堵して玄関に向かうこともなくさっさと布団に潜り込む。梓は廊下に立ったまま不安そうに父が怒鳴り付ける老女を見ていたが、新太が荒々しくドアを閉めたのに諦めたように自分の部屋に戻っていった。
それからというもの老女は木内家のチャイムをならすことはなくなり、ウンザリするほど天井から音がする話を聞かなくて済んだ。沢山の高級品のお裾分けもなくなってしまうのは正直惜しかったが、あのインターホンを覗きこむ老女の顔を見なくて済むのは清々する。
でも、全く見なくなったわね、あの婆さん。
以前は買い物に出たりゴミを捨てる時に顔をあわせる事がチラホラあったのに、あれから全く顔をあわせなくなった。清々しているくらいだから大して大事には感じないが、流石に全く顔を見せないのは不思議だ。人間誰しも飲み食いはしないと生きていけないのに買い物に出た気配もないし、かといって何か届け物が来ている気配もない。人が動く気配すら感じない気がして、梢は少しだけ不安になった。
家ん中で死んでたりしてね。
老人の孤独死なんて話はよくあることだが、自分の家の隣ではあまり死んで欲しくはない。せめて病院に入って死んでくれたらいいのだがと心の中で呟く。そんな時、微かな音が耳に入ったのに梢は気がついた。微かな何かを引きずるような音が、頭上から響いて梢は思わず目を丸くして凍りつく。微かで気にしなければ気がつかないほどの、雑音じみた物を引きずるような音が単調な感覚で聞こえる。
まるで年寄りが足を引きずって歩く音みたい。
そう考えた瞬間、老女が訴え続けた足音とはこれではないかと頭が考えているのに気がつく。密やかな微かな音なのに、一度気がついてしまったら耳がそれを聞き取ってしまう。
嫌だ、何で?
隣の老女が訴えかけていた事が、今更自分に降りかかるとは思ってもみない。梢は夫も娘もいない真昼の家の中で、独りその音を耳に呆然と立ち尽くしていた。
※※※
翌日買い物に出掛けようとした梢は、隣のドアが開いているのに気がついた。思わず立ち尽くしていると中から引っ越し業者が荷物を運び出すのを、見たことのない男性が見守っている。その男性は梢を見ると遠慮がちに会釈をして、梢に向かって歩み寄ってきた。
「お隣の方ですか?」
はいと緊張した声で答えると男性は苦笑いをしながら、母がご迷惑おかけしましたと頭を下げる。どうやら目の前の男性は大坊の老女の息子らしい。梢が老女の事を問いかけると、男性は苦い表情でご存知でしょうけどと前置きをした。
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「ええ、家にも何度かそうおっしゃって。」
梢の言葉にそうでしたかと息子は、改めて申し訳ありませんと頭を下げた。どうやら老女は木内家だけでなく、自分の息子にも訴え続けていたようだ。
「何度も確認してやっても駄目で、こりゃ認知症かなとなりまして病院につれて行ったんです。やっぱりそうでした。」
老女はここ暫く入院しているという。治療の効果なのか今では天井の音はしなくなったと、穏やかに過ごしているらしいが独り暮らしは難しいと判断したらしい。それでここを引き払って一緒に住むことにしたんですと男が告げたのに、梢は納得して安堵したように微笑む。やはり老女が精神的におかしかったのだとわかって対応したのなら良かったのだと考えた瞬間、ではあの音はなんだったのだろうと心の隅で囁く声がする。男がまた改めてご挨拶にうかがいますと、頭を下げて歩み去るのを見送って梢は不安感が胸に広がるのを感じていた。
あの音は気のせいだったのかしら。
気のせいであって欲しかったのは、梢自身の思いだった。それでも、家で一人きりになると何故か足を引きずるような微かな音が聞こえてくる。それは何故か梢が一人になるのを察知して、微かに規則的に自分の頭の上を回るように響き出す。新太に話すつもりもなかったし、娘の梓にも話さなかった。話して自分がおかしくなったと思われるのは真っ平だ。それでも、何時までも音が聞こえるのを堪えるのは、梢は不公平だと爪を噛みながら天井を睨み付けた。試しに上の部屋に老人が住んでいるのか確認に行ったのだが、上の部屋は空き家でドアのノブに電気と水道とガスのチラシがかけられているだけだ。こうなると何処の部屋から響いている音なのか、梢には全く判断が出来なくなってしまった。
こうなったら……。
梢が最後にとったのは
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最後にとった手段はなんだったんですか?
自分の言葉に久保田はにこやかに笑って、それは知らないんですよと言う。どうやら最後の手段が何でそれを聞く前に、話を教えてくれた人物が現れなくなったらしい。それを聞いて自分は少し不思議な気分で、問いかけた。
その話誰から聞いたんですか?隣の人じゃないですよね。
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