都市街下奇譚

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五十六夜目『喰う女』

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これは俺の知ってる話なんですがね、そうマスターの久保田の横に出てきた鈴徳良二が自分に向けて口を開く。たまに暇になるとフラリと厨房から顔を出す彼は、東北出身で奇妙な体験をしている男だ。久保田は横でグラスを磨き続けていて客足は奇妙なほど途絶えて、その言葉を耳にしたのはやはり自分ただ一人だった。



※※※



「むち打ちですね。」

診断名を告げられて首にあのお馴染みの白いコルセットを巻かれた邑上英治は呻き声をあげたくなった。只でさえ暑がりなのに首に巻かれたコルセットは暑い上に、締め付けられる感触で息が苦しい。こんな事態に陥ったのは恋人の佐倉里津と一緒に出かけたドライブで、相手の不注意から後ろから追突され事故にあってしまったからだった。里津は少し体を打っただけで何ともないようだったが、運転していた英治はそうはいかず首に変な違和感がある。首から右の手に歯痛めいた神経痛が、絶えず痺れと一緒に走るのだ。コルセットをすれば大分痛みは引くが完璧とは言えず、しかも車は修理代の方が高くつき廃車になりそうだった。事故の相手は若いが初心者と言うわけでもないし、何故あんな勢いで追突してきたのか正直なところ不思議で仕方がない。スピード狂になりそうな様相でもない、おとなしそうな青年で追突したこと事態が信じられないと言いたげだ。

「暫く固定して経過を見ましょう。」

首をガッチリとコルセットで固定された英治に、涼しげな顔で整形外科の医者は無表情に告げる。どれくらいかかりますかと首を絞められるような声で問いかけると、少なくとも一週間は様子を見ないと経過は分からないと言う。コルセットはプラスチックで通気性が悪く、既にジワリと汗が滲み始めている。しかも、これを外せるのは寝るときだけと言われて、英治は唖然とした。痛みが緩和されるのだからつけておくしかないのは分かっているが、暑さに目眩がしそうだ。それでも渋々と飲み薬を出され、英治はコルセット生活を始めることになった。



※※※



慣れてくるとコルセットの有り難みは明白だった。暑さは辛いが外した瞬間に腕に走る神経痛よりは、暑いことを我慢する方が容易い。歯痛の痛みが我慢できないのと同じで神経痛の痛みは、表現の仕様がない耐え難い痛みだった。勿論恋人と楽しい時間なんて過ごす事も出来ず、ベットに横になってコルセットを外してLINEをするくらいが英治の最大限の行動だ。そうしている内やがて里津からのメッセージが、次第に間が空くようになっていくのに気がついた。以前は今何してる?会いたい等と里津から送ってきたメッセージが、次第に英治から送らないと返事も来なくなってきたのだ。痛みに苦しんでいる英治にとっては、そんな里津の反応はとても残酷なものだった。

誰か他の男と会ってるんじゃ。

そう思うが実際には英治は何も出来ないも同然で、里津にそれを問いかけることもできない。やがて首が癒える前に英治と里津の関係は、自然消滅に近いものになっていた。すっかり里津からの連絡は無くなって、英治は溜め息混じりにその事実を認めるしかなくなる。里津は首を痛めてから一度も、英治の見舞いに来たことすらないのだ。里津にとって英治はただの体だけの関係だったと認めるのは、正直結婚も考えていた英治にとっては辛い現実だった。

結婚する前に分かったんだ、よしとしなきゃな。

そう考えながら英治は事故の相手の保険会社と、車の件で何度目かの話し合いをする。結局車は直す方が高くつくと言うことで廃車にすることにして、暫くは車のない生活で我慢することにした。今までも休日にしか乗らなかったのだし、都市部に住んでいるから公共の交通機関を活用すれば良いだけだ。
そうして、仕事に行くのにバスと電車を使い始めたある日の事、英治はバスに揺られながら何気なく向けた視線の先に佐倉里津を見つけたのだった。佐倉里津は以前と何も変わらず艶やかな黒髪を揺らしながら、男の腕に手を絡めてしなだれかかるようにして歩いている。胸の奥に嫉妬の炎が燃えるのを感じながら、英治はその相手を車窓からマジマジと眺め回す。

何て事だ。

男はあの事故の相手の青年だった。あの時確かに里津とあの青年は初めて出会った筈だったが、目の前であの男と里津が腕を組んで歩いている。しかも、あの青年は元々それほど体格のいい男ではなかったが、今では骨と皮ばかりの骸骨のように痩せ衰えていた。それを見た瞬間、英治は何故か死んだ沢瀬清春の事を自分が思い出したのに気がつく。恰幅が良くて太っていたといった方が正しい沢瀬は、慕っていた上司が急死してから拒食症になって骨と皮だけになって死んだ。病名は一応心不全だったが、原因は拒食症だ。だが、本当に沢瀬は拒食症だっただろうか?何度か一緒に食事をした時、異様なほどに食事をしていた沢瀬を見たような気がする。そう言えば沢瀬の慕っていた上司も、いきなり痩せ始めたのではなかっただろうか。

そうだ、あの人も急に痩せて、ダイエット成功ですね何て言っていた気がする。

沢瀬の通夜で出会った佐倉里津の妖艶な微笑みが、脳裏を掠める。沢瀬の通夜に佐倉里津は何故現れたのか、里津と沢瀬の関係を問いかけたことは一度もない。もしかして、沢瀬と里津は付き合っていたのではないだろうか。そして通夜で出会った英治は、里津に一目惚れして付き合った。里津は通夜で出会ったとは思えないほど簡単に英治に体を許して、あっという間に英治の恋人になったのだ。ところが体を重ねられなくなった途端に、里津は英治から離れあの男の元に行った。そして、見る間にあの男は痩せ衰えて、沢瀬の最後みたいな、沢瀬の慕っていた上司の最後みたいな姿に成り果てていく。
英治も里津と付き合っていた内、実際に痩せていた。食事をしても太らず次第に痩せていたのだが、里津と交流が断たれた途端太り始めたのだ。最初は里津と寝ない事と痛みで動けないせいで太ったのだと考えたが、こうしてみると酷く奇妙な痩せかただった。

里津と付き合うと痩せ衰えていくのか?

冗談にしては笑えない話だが、沢瀬と上司とあの男を見ていると冗談と言いきれなくなっていく。だが、女と寝ただけで痩せて死ぬなんて事を、素直に信じてもいいのだろうか。既に車窓からでは確認すらできなくなった男と里津の姿を思い浮かべるが、頭蓋骨の形が分かるような男の姿に背筋が寒くなった。



※※※



その後何度か男と一緒の里津を見かけたが、男は更に痩せ衰えていった。やがて男が姿を消して、里津だけが一人であるいているのを車窓から見かけるようになる。艶やかで常人離れした黒々とした黒髪を揺らしながら、涼しげな顔で歩く里津は傍目に見ても美しかった。美し過ぎて逆に人間には見えない里津を英治は遠目に見るだけで、けして話しかけたり連絡をとろうとはしない。何故なら自分と付き合っていた時より、はるかに里津の髪が艶を増したのが分かったからだ。そして遂に里津は阿多らしい男を見つけたらしく、男の逞しい腕に細い自分の腕を絡めて歩き始める。

この男が痩せ始めたら、答えが分かる。

男は予想通りに痩せ始め、加速するようにドンドン痩せ衰えて枯れ木のように変わり果てていく。それにともなって里津は養分を得た薔薇の木のように、目に見えて艶を増して眩い程に美しく変貌していった。やがて男が再び沢瀬や上司や、あの事故の相手の青年のように骨と皮だけに変わり果てる。遂には歩くこともしんどそうな男が、燃え尽きたように姿を消して英治は確信した。

里津は男を喰ってるんだ。

車窓越しに眺めながら頭の中でそう考えるが、だからといって英治は何かしようとは思わない。何しろもう一度里津と関わって、英治がまた養分にされてはかなわないからだ。もし出会ったらそうなる前になんとか回避しなくては、そう英治は一人考えるがこうして遠目に見るだけなら問題はないのかもしれない。里津は同じ道を必ず歩くから、里津に出会わないようにするのも、遠くから見るのも簡単だ。



※※※



そんな矢先以前は沢瀬が納品していた出版社に、代わりに納品に訪れた英治は唖然とした。里津がいたのだ。ただしあの男を喰う里津ではない、もう一人の里津。顔は全く同じなのだがショートカットの佐倉里津は、にこやかな健康そうな微笑みで英治から納品された文具を受け取った。そして、彼女は少しだけ不安そうに見える視線で、英治の事を見上げて口を開く。

「あの、以前の担当の方って。」

この佐倉里津は沢瀬の事を知らないらしい。もう一人の佐倉里津が沢瀬の事をとっくに喰いつくして、沢瀬は痩せ衰えて枯れ果ててしまったのだ。

「あー、沢瀬ですか?」

ええと答える何も知らない彼女にもう一人の佐倉里津の話をするのは不謹慎だと言葉を濁し、英治はそそくさと帰ろうとする。しかし、彼女があまりにも熱心に問いかけるのに、逆に不思議に感じて思わず何でですかと問いかけた。

「急に痩せられたから、ご病気かなって。」

里津がそう言のに英治は、この佐倉里津は本当に普通の人間なのだと納得する。普通の感性で異様に痩せ細っていた沢瀬を心配して聞いているのだと分かると、何故か安堵するのと同時に不安が沸き上がった。この佐倉里津は、もう一人の佐倉里津の存在を全く知らないのだろうか。こんなにも直ぐ傍に同じ顔で同じ名前の女が暗躍していると言うのに、そう考えながら眉を潜めて英治は少し声を落とすと辺りを憚って言葉を選んだ。

「病気で死んだんです。詳しくは知りませんけど。」

驚いたように目を丸くした彼女を残して、言葉少なく答えた英治はそそくさと立ち去る。彼女はあの佐倉里津ではないけれど、どこかでもう一人の佐倉里津が二人がここで出会っているのを見ている気がするのだ。



※※※



男を喰う…か。

比喩としてはそんな表現はよく聞くような気がするが、実際に痩せ衰えていく男ばかりと付き合う女性はいるのだろうか。そんなことを考えながら呟くと、鈴徳は田舎の方に似たような話があるんですよねと呟いた。




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