都市街下奇譚

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五十八夜目『住み替え』

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これは、私の友人から聞いた話なんですがね、そうマスターの久保田は、グラスを磨きながら何気ない気配で口を開く。芳しい珈琲の香りのする店内に客足は奇妙なほど途絶えて、その言葉を耳にしたのは自分ただ一人だった。



※※※



不誠実な夫と縁を切り、改めて綾瀬梢に戻った。気がつくと綾瀬梢に戻ったはいいが、たった一人の生活が始まっていた。一人娘の梓は梢についてくると確信していたのに、新しい編入先の高校が父親の実家の直ぐ傍だから等と言う安直な理由で夫の実家に奪われてしまったのだ。

木内なんて平凡な名前より綾瀬梓の方が可愛いのに。

そう思うが十分な選択の意思がある梓自身の選択に口を挟むことは梢にも出来ないし、考え方によっては養育費もいらないと夫が言ったから梢は身軽になったとも言える。まだ、梢は三十七歳だし見た目ではもっと若く見える筈だから、ここからまた一花咲かせるくらい分けない事だ。また結婚だって可能性は沢山ある筈だし、子供だってまた出来るかもしれない。
独り暮らしに必要な家電や家具は前のマンションから十分持ってきたから、一人で暮らしていく準備は万端だ。以前のような広い家ではないが、一人で暮らすには十分な広さの部屋だった。キッチンと繋がったリビングと寝室、バスルームとトイレは別。ここ周辺で二階の角部屋でしかも駅近くで、防音もしっかりしていて相場より三万円も安い家賃に疑問がないわけでもない。もしかして何か問題が起きたのかと不動産屋に問いかけたが、賑やかな笑顔を張り付けた不動産屋は駅のホームが目の前なんで誰も入らないのだと言う。確かにそう言われればベランダに出ると駅のホームが見えるが、ベランダの手すりから乗り出さないと見えない。それで人が入らないなんて、世の中にはちゃんと確かめない人間が多いに違いないと梢は笑った。

仕事に行くようになったら、昼間なんて殆どいないだろうし。

ベランダで何かする気もないのだから、ベランダから駅が見える位なんて事はない。そんな思いで新居は格安の値段で手続きしたのだ。暮らし始めてみても駅が近い利点はあっても、不利益だと感じることは殆ど無い。四階建てのマンションだが上の階は居住者がいないように静かだし、不具合なこともない快適な暮らしだ。後は面接さえ上手く通れば、新しい生活を始める基盤は完璧だった。



※※※



専業主婦の期間があったが、総務課の仕事は慣れてしまえば問題はなかった。備品の補充に管理、歳をとってからの就職だが他の女子社員も年代も近い。パートタイマーで入った梢にも皆親切で、仕事のコツや社員の情報も教えてくれる。
休憩時間のお茶を入れてくれた少し年の若い佐倉里津と言う子が、綾瀬と言う名字に芸能人みたいですねと賑やかに口を開く。確かに若い時は綾瀬梢は、名前も顔も芸能人みたいと褒め称えられていた時期があったのだ。佐倉に褒められ満更でもない気分の梢に、同じ歳くらいの渡京子が何処に住んでいるのと世間話を持ちかける。

「駅の直ぐ傍のマンションにいるの。」
「駅の直ぐ傍?」

疑問符を浮かべる渡に梢は自宅の場所を説明すると、そこら辺じゃ高いでしょ?と問いかけてきた。家賃の相場は確かに高い区域だから、問いかけたくなる気持ちも分かる。それでも安くすんでいると言うよりは、高い所に住んでいると見栄をはってしまいたくなるのだ。

「でも、あの辺に一ヶ所だけ妙に人が居着かないマンションが有るんでしょ?噂のホーンテッドマンション。」

話を遠巻きに聞いていた植垣千枝子が口を挟んだのに、話題がホーンテッドマンションに動いた。駅の直ぐ近くに殆ど人の入らない問題物件があるというのだ。話を聞いている内に梢は自分のマンションの事を、植垣が話しているのだと薄々感じとり始めていた。だから、あんなに安いんだと納得した部分はあるが、植垣が言うようなホーンテッドマンションになるような事件は起きていないと不動産屋は太鼓判を押した。となると幽霊は出ない筈の建物なのに、何故出入りが激しいのだろうか。大体にしてもう半月以上住んでいるが、幽霊の気配どころか住人の気配すらない静なマンションだ。

もしかしたら梢のように独り身の単身者が入居が多くて、転勤や何かで転居が激しいのかもしれない。

植垣の話を横に聞きながら梢はそんな風に考え、帰ったらマンションにどれくらい入居者がいるかポストを見てみようと思っていた。



※※※



マンションの集合ポストの数は全部十七。その内使用しているとハッキリ分かるのは、梢を含めて全部で十五。二つはキーが開いたままで、使用してないのか中にキーロックの鍵が入れられている。空いているのは三階と四階の角部屋で、つまり梢の上の階二つが空き部屋ということだ。通りで上の音がしないと思ったと納得すると同時に、噂なんて大したこと無いわねと呟く。確かに角部屋が空いてはいるが、他は全部入居者がいるのだからホーンテッドマンションの名前にはそぐわない。しかも不動産屋が事故も事件も起きていないと自信を持って説明したのだから、その点は保証されているのも同然だ。

でも、何で角部屋だけ空いてるのかしら。

日当たりもいいし防音もしっかりしているのだから、条件としては角部屋の方が人気がありそうなものなのにと梢は首を傾げる。とは言え特に問題があるわけでもない梢は、不思議に思いながらも快適な自宅に足を向けていた。
それでも一度気にかかると角部屋の空き部屋は、気になって仕方がない。別段不自由もないのに何故か梢の上の二部屋が、何時になっても空き室のままで思わず管理人に疑問を問いかけてみる。元はこの土地の所有者で管理人室に住んでいる老夫婦は、案外サラッと梢の問いかけに角部屋が埋まらない理由を教えてくれた。

「上の二つ部屋ねぇ、隣の建物の送風口が煩いらしいのよ。」

しかも隣の建物焼き肉屋で四六時中臭うらしいのとこっそり教えてくれた老女に、梢は改めて隣のびるを見上げて納得する。まさか隣のビルのテナントの送風口が煩い上に、焼き肉臭いなんて住んでみないと確かに分からない。だから、そこに近い二階の角部屋も安くしているのだと言う。案外聞いてみると至極単純な理由だと言うのに、梢はあ呆れると同時に今の快適な住居を選択して良かったと内心思う。これで日当たりの事をいって三階や四階を選択したら、四六時中焼き肉臭い生活だったのだ。洗濯物を外にかける事はあまり無いが、三階や四階だったら前提としてかけることすら出来ないということになる。

「綾瀬さんのとこも煩い?」
「いいえ、今のとこは何にも聞こえませんけどね。」

よかったわぁと老女の安堵した顔に、少し煩いかもと言っておけば良かったと意地悪な心が呟く。もしかして煩いと言ったらもう少し家賃を下げて貰えるかもと、打算的な思考が働いたのだ。だが、残念ながらもう答えてしまったのでは、覆しようがない。少し期間が経ってから不動産屋に掛け合ってみようと心の中で呟く。



※※※


そんな日々が続いて環境にも慣れ始めたある時、梢はふと真夜中にベットの中で目を覚ました。一瞬何で目を覚ましたのか分からないが、暫くベットの中で寝惚けた頭でいると微かな音が聞こえる。あの家で聞いた音によく似た音が、微かに耳に入ってくるのに梢はボンヤリと(やっと前の家からこっちを見つけたのかしら)と考えている自分に気がつく。

スー…スー…スー…

等間隔の足音のような何かをする音。それは随分遠くて真上では無いような気がする。だが、少しずつ少しずつ梢の頭上に近づいて来ているような気もしないでもない。それでも梢は疲労なのかそのまま眠ってしまい、音が来たことに我に帰ったのは翌朝のことだった。

あれって前の家と同じ音なのかしら。それとも夢?

直後に寝付いてしまった為か、梢自身にも音を聞いた確信が持てない。夢の中の音だった可能性もあると考えた途端、夢のようだった気がしてならなくなって梢は夢だと断定することにした。そして、数日後再び真夜中に眠りの淵から呼び起こされて、今度はその音は夢ではないと確信することになる。

ズー…ズー…ズー…ズー

規則的な足を引きずる音が梢の頭上で、円を描くように回り続けていた。だが、頭上の二部屋は空き部屋で誰も住んでいないし、この音は梢の前のマンションから着いてきたものだ。そう考えるとこの音は何処に行っても、上の階に住人がいようといまいと関係ないのかもしれない。足音がしたからなんだと言うのだろうか、大坊の婆のせいで忌まわしいもののような気がしていたが、足音に聞こえるだけで本当に足音なのかも分からないのだ。そう考えていると次第にこの音に怯えていることが、腹立たしくなってきた。

無視したってかわりない。

音だけなら何にも悪さなんて出来ないんだしと、梢は横を向いて布団を被ると音を無視することに決め込んだ。無視された音は暫く梢の頭の上を回っていたようだが、梢が無視すると決めたことに気がついたようにやがて消え去ったようだった。

「綾瀬さん、お部屋不具合無いかしら?煩くなぁい?」

朝日の中で管理人の老女が入り口を掃除しながら、仕事に出ようとした梢に声をかける。音の事はあるがあれはマンションとは関係ないし、焼肉屋の臭いも気にならない。梢は賑やかに挨拶をしながら、何も支障ありませんよと答える。いってらっしゃいと穏やかに挨拶をかわす日常に、梢はこんな生活もいいものよねと心の中で呟く。以前の生活では日々苛立ち、新太は自分の事を理解してくれないと不貞腐れていた気がする。梓だって思えば我が儘放題で育てて、上手くいかないのは全て新太のせいにしていた。

良くない妻で、良くない母親だったわ。

梢は朝日の中を歩きながら、そう考えていた。



※※※



「何ともないって。」

部屋に戻った老女の第一声は、意外に驚いているそんな言葉だった。家の中でテーブルの前に座っている老人も驚いたように目を丸くすると、戻ってきた老女にお茶を差しだす。二階の角部屋に入居して1ヶ月たっても何も言わない強者が、この世にいるとは思わなかった。勿論嘘は何もついていない。三階と四階の角部屋が焼肉屋の送風口が傍で常に焼き肉臭いのは事実だし、この建物の中では事故も事件も起きてはいないのだ。しかも、入居前に不動産から駅が見えるせいで、入居者が居着かないことも話してある。

「まあ、何ともないなら暫く様子を見よう。」

前回も前々回もたった一週間で入居者は逃げ出したのだが、綾瀬梢は暫くは住んでいてくれそうだ。せめて悪い噂が消えるまでは、そのまま住んでいて欲しいものだと老夫婦は顔を見合わせていた。



※※※



それって駅が何か関係があるってことですか?

自分のカウンター越しの問いかけに、久保田は微笑みながらどうでしょうねと言う。駅が関係しているとなると想像も出来そうな気はするが、かといって話の規則的な足音のような音に関しては、また違う発端のような気もする。とは言え、何人も数日しかもたないという家に、自分が住んでいるのは知りたくはない。何ともないなら知らない方がいいのかもしれないと、何気なく考えてしまうのだった。

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