都市街下奇譚

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六十夜目『そこでおわり』

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これは、私の特別な友人から聞いた話なんですがね、そうマスターの久保田は、グラスを磨きながら何気ない気配で口を開く。芳しい珈琲の香りのする店内に客足は奇妙なほど途絶えて、その言葉を耳にしたのは自分ただ一人だった。



※※※



安斎千奈美。
そう自然と名乗る。表立っては事務員のように曖昧な微笑みを顔に張り付けて、当然のように入り口の窓口にあたる席に自然に座った。先に奥に入っていた男には、今日から勤務を始めたように丁寧に頭を下げておく。後から着た女にも同じ仕草を繰り返して、当然のように再び座る。別にいる間特に何かをするわけでもなく、一定の時間を座って過ごしたら当然のように帰宅。それを暫くの間規則的に毎日毎日休むことなく繰り返す。
すると、不思議なことに大概の人間は、安斎千奈美を自然と受け入れる。そこにいるのが当然だと誤認して、安斎千奈美を自然なものと勝手に受けとるのだ。
私は一度もここに勤めているとは口にしていない。
ただ当然のように、丁寧に今日からよろしくお願いしますと頭を下げただけだ。
たったそれだけで後は通っただけ。
そこにただ座っていただけ。
何も書類もさわらず、ただ通りすぎる人に微笑みかけただけ。
それを止める羽目になったのは独りしつこく話しかける男がいたから、なんとなく安斎千奈美はその男を観察していた。男の目が服の上から何度も体のラインを確かめようとするのが、男の目の動きで分かる。でも、知らないのかもしれないけど、下着で幾らでも体の線なんて補正ができるもの。どんなに眺め回したとしても、安斎千奈美しか見ていない男に何が見えるのか可笑しくて仕方がない。顔の雰囲気だって化粧ひとつでどうとでもなるし、服の一枚スカーフの一枚で印象なんて変わるものなのだ。

「矢根尾さん、何時も時間通りですね。」

決まり通りの言葉に、相手は何故かニヤニヤとだらしなく笑う。

「安斎さんに会えるからかな。」

安斎千奈美はその言葉にはにかんだ微笑みを浮かべてみせながら、冗談ですかと問いかける。冗談じゃないと笑いながら話す男の視線が、再び体を舐めるように眺めるのを視線から感じとりながら心の奥で試しに裸になることを想定してみた。男がだらしない顔で四つん這いになり、安斎千奈美の体に覆い被さってくる。ハアハアと欲情した臭い息で本当に舐め回して来たら、その舌をねじきってみたらどうだろうか。それとももっと残忍で楽しい方法があるかもしれない。想像するのは自由で頭の中を覗くことはできないから、散々無様な様子を妄想して楽しむ。穏やかな笑顔の頭の中で、いたぶられ弄ばれて四つん這いで虐げられていると知ったら目の前の男はどんな風に感じるだろう。安斎千奈美になって暫く経つが、以前のようなお楽しみはまだ実行していない。そのためのスケジュールを組む楽しみが出来た。男を驚愕させ絶望するようスケジュールを組んで、その過程を妄想して楽しむのだ。目の前の男はそんな安斎千奈美の思考には全く気がつく気配もなく、ニヤニヤしながら安斎千奈美の体を眺めている。

「矢根尾さん?どうかしました?」
「ああ、ちょっと考え事。安斎さんに告白するにはどうしたらいいかなぁって。」

またまたぁと安斎がにこやかに微笑むのを眺めながら、相手がいやらしく笑う。いい加減そろそろ一つ段階を踏みたいものだと安斎千奈美はコッソリと頭の中で呟く。段階を踏むのに食事を作ってやった。たが、それが安斎千奈美にとっては、誤算の一つとなってしまったのだ。
面白くない男。
折角作ってやった物をバレていないと思っているのか、トイレで吐き出した最悪の男。何度か試していれば慣れるかと思いきや、何度作ってやっても同じようにバレていないと思ってトイレで吐き出して来やがる。張り付けた顔が歪みそうになるのを感じるが、男は性懲りもなく安斎千奈美と外食しようなどと言い出す始末だ。
しかも、慣れるまで我慢してやろうとした矢先、男は泥酔して揚げ物やら肉やらの臭いを口から漂わせて千鳥足で帰宅した。
玄関から千鳥足で部屋の奥まで歩く男を無表情の顔で見ていたが、安斎千奈美は我慢の限界だった。泥酔して寝込んだ男を椅子に座らせて、棚を探るとうってつけのものがゴロゴロと出てきた。麻縄や手錠、如何わしい大人の玩具、男のねじ曲がった性格を伺わせる道具を使って、男自身を拘束すると安斎千奈美は丁寧に心を込めて料理を作り込んだ。
男が気がついたのは、朝日が差し込み始めたた頃で、自分の部屋の中なのにポカーンとしている。

「おはようございます、矢根尾さん。」

にこやかな安斎千奈美の声がそう告げて、男は未だにポカーンとしながら目の前の安斎を見つめた。安斎がいることにではなく違和感の元は、男がベットにいないということだったようだ。

「安斎さん…?」

座ったまま動けない。それに気がついた男は自分の体が、デスクチェアに麻縄で括りつけられているのに気がつく。それを安斎千奈美が使いこなしている違和感は、まだ感じ取れない様子だ。なんて愚鈍な男なのだろうと安斎千奈美は冷やかな視線で眺める。

「安斎さん、これどういうこと?外してくれない?」

しかも、矢男の大切なお道具である手錠も、ご丁寧に手足それぞれを拘束していて男は初めて苦い表情を浮かべた。恐らく男は性癖として他人にこれらを使うことはあっても、自分自身に使ったことは今だかつてないのだろう。安斎はにこやかに微笑むとキッチンから、あの手製の料理を持って歩み寄った。

「安斎さん?」
「はい、矢根尾さん、アーン。」

彼女は微笑みながら料理を一匙掬い、男の口元に運ぶ。普段より一段と手間と時間をかけた手料理を口に押し付けると、首を振って匙を避けようとしやがる。苛立ちに男の髪の毛を、安斎の手が鷲掴みにして斜め上を向いたまま固定した。

「はい、お口開けて下さいね。」

そんな乱暴をしているのに全く変わらない笑顔の安斎に、男は初めて顔色を青ざめさせた。今になって気がついたのだ、食べる迄許さないというその安斎の目に。男は渋々という風にだが口をあける。そこに捩じ込んだ一匙を直ぐ様吐き出しそうな気配をされるのは、安斎千奈美にとって不愉快だった。何度目かの嚥下の後で男は無様に嘔吐したが、延々と繰り返される安斎の匙を捩じ込む容赦ない動きに男は泣きながら止めてくれと懇願する。

「もう、やめて下さい、頼むから。」

それなのに安斎はにこやかに見える微笑みの仮面を被ったまま、男の口に匙を捩じ込む。それはまるで機械仕掛けの人形のようだが、男には操作不能の機械だった。匙を捩じ込むタイミングが外れて男の唇が切れても、男の吐物で手が汚れるのも安斎は気にもかけない。

「矢根尾さん、まだ残ってます。一杯作ってあげたんですよ、ほら、アーンして。」

男が室内を自分の吐物で汚しながら、鍋一つを全て一度は飲み込むまで安斎は手を止めなかった。やっと鍋一つが空になったのを見て泣きながらしつこく嘔吐する男を見下ろして、安斎は初めて冷ややかな表情を浮かべ見下ろす。

「矢根尾さんが食べ物を粗末にするような人だとは思いませんでした、ほんと幻滅。」

情けない無様な顔で泣きじゃくりながら見上げた男を冷ややかに見下し、安斎は最低と言い捨てて踵を返して男から離れた。入り口の流しで吐物のかかった手を丹念に洗い溜め息混じりに手を清めた後で安斎千奈美は、安斎千奈美を止めることにする。安斎千奈美を充分堪能した訳ではないが、あの男の顔をこれからも見るのはどうにも不快だ。その不快感を拭うには安斎千奈美は邪魔なのだ。

まあ、いいか。それじゃここで終わりにしとこう。

何気なく歩きだすと頭の中で自然にどうせだったら唇が少しばかり切れるより、歯が折れるようにでも匙を捩じ込んだらスッキリしたかもしれない。そう考えるのは今さらだが、そうしなかった自分の慈悲深さに呆れてしまう。一度くらい存分に快楽を楽しんでも良かったが、恐らくあの程度の男では充分に楽しめたかも疑問だった。

安斎千奈美はおしまいだ。
次は誰になろう。
案外新しい自分になるのは簡単な事なのだ。
最初が肝心なだけで、身支度をきちんと整えて新しい場所に行ったら丁寧に頭を下げる。大概はそれで何事もなかったように、相手は新しい自分を受け入れるのだ。
次の名前は、中村保。
そう自然と名乗って丁寧に頭を下げ、今日からよろしくお願いしますと言うだけ。けして勤めたとは口にしていないから、自分は嘘はなにもついていない。

中村保になってから、あの男がどうしているのかが気になった。これは自分には珍しいことで、試しに男に近づいてみる。人混みの中で面白い位に窶れた男に背後から忍び寄って、そっと背後で安斎千奈美の声で男の名前を囁いてやると男はギョッとしたように辺りを慌てて見渡す。安斎の姿など何処にもある筈がないのに、男は人波に逆らいながらその場に立ち尽くして安斎を探している。中村保はそんなことは気にもかけないで、立ち尽くしている男を胡散臭そうに睨みながら横を擦り抜けていく。
中村保は別段目立つ人間ではないし、何処にでもいそうな人間だ。これを暫く堪能して、また次の自分になりたくなったら、中村保を終わりにするだけなのだ。



※※※



誰にでもなれる人間…ですか?

思わず口にした言葉に久保田が微笑む。確かに若い年代には中性的と呼ばれる容姿をした人間が時にいることは事実だ。最近では男性でも、骨太さがなかったり華奢だったりもするから一概に無いとは言い切れない。だけど女性と見間違うような男性もしくは男性と見間違う女性が、そんな異様な状況で突然一人増えているのに違和感はないのだろうか。少なくとも自分や久保田では無理そうだと呟くと、久保田はそうですねぇと賑やかに笑う。その時店の中に入ってきた華奢な顔立ちで杖をついた少女なのか少年なのか判断に迷う人物と女子高生のらしい少女の姿に、何気なく眺めた自分は自分にはそんなことが起きないことを祈るばかりだった。


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