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六十五夜目『誘導尋問』
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これは、私の特別な友人から聞いた話なんですけどね、そうマスターの久保田はグラスを磨きながら口を開く。芳しい珈琲と紅茶の香りのする店内には客足は奇妙なほど途絶えている。白磁のポットが見守る中で、その言葉を耳にしたのは自分ただ一人だった。
※※※
矢根尾俊一は一見すると前と何も変わらぬ毎日を送っていた。
あの騒動の後、暫くは安斉千奈美に怯え仕事も休み、家に閉じ籠っていたのだ。そうしたからといって自分の生活が変わるわけでもない。
結局安斉千奈美はどんなに警察が調べても何者か分からない。しかも、今どうして何処に居るのかすら、分からないのだ。どんなに矢根尾が訴えても、警察は痴話喧嘩だとまともに調べる気がないのだと薄々気がついてはいる。しかも、あの女の顔の印象が日毎に薄くなっていくのに気がついて、そういえばあの女の素顔を一度も見ていないことに気がつく。女は化粧ひとつで全く印象が変わる事くらいよく分かっている。そういう意味では、元妻だった雌奴隷はアレルギーだと化粧っ気のない女だったが綺麗な顔だった。兎も角矢根尾は気がついた、いつまでも閉じ籠っているわけにもいかない。人でなしの親や弟が助けてもくれない中では、結局自分が働かないではいられないし生活が出来るわけでもなかった。何にしてもまずは収入がないと生きてはいけないのだから。それに大家が気を効かせて家の鍵は既に取り換えていて、今は外から入ってくるモノはいない。一先ずは家の中に戻れば安心はできる。
その筈なのに、まだ時々寝ていると夢現に老女のような嗄れた声が囁いている気がしているのだ。その声は変わらず耳元で、駄目になれ、不能になれと囁いている。寝ていて目を閉じているのが幸いで、老女の顔はまだ見ていない。だからこそ、矢根尾は自分に夢なのだといい聞かせられているし、夢だと信じることにしていられる。
気にしない。
だからそう自分に繰り返しながら、日々を以前と変わらないふりで過ごしているのだ。だが、今度は外で歩いていると時折ふとした時に背後から、安斉千奈美の声が聞こえるようになった。気にしないつもりでも、
「見損ないました、食べ物を粗末にするなんて。」
そう囁きかけた安斉千奈美の声に、矢根尾は悲鳴をあげて飛び上がって振り返る。振り返った先にいた気弱そうなスーツ姿の男性が、自分の一見意味もない行動に酷く訝しげに眉を潜めて横を通り抜けていく。勿論矢根尾の視線の先には、安斉千奈美の姿なんてない。それなのにあの声は確かに矢根尾を嘲笑うように耳元に囁きかけるのだ。他の人間も立ち止まって呆然としている矢根尾を訝しげに、胡散臭そうに眺めて歩き去っていく。
何でなんだ。
安斉千奈美は何故矢根尾に関わってきたのだろうか。経営者にも他の講師も生徒にも誰にも関わらないでいたのに、どうして矢根尾にだけ関わってきたのだろう。その意図が分からないことが酷く恐ろしかった。そんなわけで仕事を終えると大人しく家に帰り、ネットをして過ごすのが日課になりつつあり交友は狭まっていく。それでもネット上だけでは架空の自分に成り代わり、想像と妄想の中の尊大な自分を演じて楽しむことが出来る。それだけが楽しみになってしまいつつあることも分かっているが、その方が安全だった。
《フィさんって前にチャットしたことありますね。》
《そう?何処でかな?》
不意にそんな会話を持ちかけてきたネット上では自称マゾヒストの女に、矢根尾は目を細めた。本当に話したことがなくともこうやって話の切っ掛けにすることはよくあることだ。丁寧な口調で大人しそうな感じを受ける女は基本的に矢根尾の好みにあっている。元妻を思わせる口調でその女は柔らかな言葉を打ち込んできて、何処か矢根尾の興味を惹く。
《随分前ですから、覚えていらっしゃいませんよ。》
《どれくらい前かな?それを聞いたら思い出すかもよ?》
《ハンドルネームが違うから、分からないですよね。私。》
丁寧だが穏やかそうな口調で、気を惹くような話し方をするその女に矢根尾は目を細めた。ハンドルネームが違うから分からないと言うことは、本当に話したことがあるか、もしくはそれすらも話題のつもりかもしれない。
《じゃあ、調教されてみる?反応で思い出すかもな。》
《ふふ、前はそんな風に直ぐに誘わなかったのに、変わりましたね、がっついてるみたいですよ?》
カチンときた。だが、どうやら本当に以前話したことがある女らしい。しかも、チャット上で会話だけでなく、矢根尾の文字に従って一夜の奴隷を楽しんだことがある様子だ。
《冗談だよ。最近同じように声をかけられるからね、こう言うと知らないやつは逃げるだろ?》
《なるほど、そうなんですね。流石ベテランですよね。》
このチャットルームに矢根尾が長年通っている事も知っている様子が、その言葉から滲む。相手のハンドルネームはエイリとなっているが、そんなハンドルネームは本当に記憶がない。よくあるハンドルネームとは思えないし、本当に別なハンドルネームで以前に矢根尾と関わっているのだろう。大体にして女かどうかだって、ハッキリしないのだ。
《最近は奴隷さんはどうされているんです?》
え?と素直に驚く。それが誰の事を指しているかが、大きな問題だった。矢根尾が現実に完全な奴隷にしたのは元妻たった一人だけで、実は他の女は殆どが奴隷とはいえない。写真を撮ったりして脅しつけておかないと奴隷のふりすらするのを嫌がる女の方が殆どで、たまに喜んで奴隷になる女は何処かがイカれていた。脱がしてみたら骨と皮だけの肌に自傷行為の傷だらけなんて、やる気が下がるどころか正直萎える。
《どれのことかな?》
《ふふ、それもベテランの余裕ですか?分かってて焦らしますね。可愛い奴隷の話を自慢されたでしょう?》
ネット上で自分がしている話なんて殆どが嘘だらけだ。だが、過去には確かに本当の事を話していた時もあるのだから、矢根尾にとっては質が悪い相手だった。ここでの自分を現実に引き戻すような質問は、今の矢根尾には不要な会話なのだ。
《いや、本気で沢山いるからさ。》
《またまた、冗談きついですよ。》
《きついかな?》
どちらともとれる質問と回答に更に苛立つ。誰だってハッキリ言えよ、そうしたら反応のしようもあるのに。そう思いながら相手の口調で誰か思い出せないかと、真剣に考えるが思い出せるのは丁寧な口調でチャットをしていた元妻位だ。
《あれ?あの自慢、もしかして嘘ですか?》
更にカチンと来ることを言う。
《嘘って何で思う?》
《だって、あんなに自慢そうに調教話してましたよね?その相手が分かんないなんて。》
《だから、一人じゃないからどの奴隷の話か分かんないって》
暫くの無言。しかも盛り上がっているように見えるこの会話のせいで、他のチャットルームにいる者まで無言で静観し始めている。誰か茶々入れて話を変えてくれよ、ここでまで現実なんか見たくないんだって。そう考える矢根尾を嘲笑うように、エイリは矢根尾を狙い撃ちしているようだ。
《奴隷さん、何でも言うことを聞くんだって自慢してましたよね?外でも喜んで躾られるって。》
《そうなるように調教するのが基本だろ?》
《ふふ、じゃ今も奴隷さんは机の下ですか?》
そんな話何時したかなんて覚えていない。同時にしていないとも言い切れない自分は、なんと答えるのがベストなのか。しかも、殆ど常駐してる程のチャットルームでの、サディストとしての自分の地位。それを失うのはごめんだ。何て答えるのが、ここでの矢根尾らしいのか。
《さあ、どうかな?》
上手くしのいだ。これなら、いるともいないともとれるから、ここでの地位は変わらない。まるで駆け引きをしているような会話の攻防戦に舌打ちしたくなる。ただでさえ色々なものを最近失って、ここにしか拠り所がないのにこんな女に居場所を奪われてたまるか。
《あ、いないんですね、机の下。》
《何でそう思う?》
《フィさん、いるならいるって自慢しますもんね。》
くそ、なんだこの女。確かにいるって話をした時にはいるって設定で話をしたに違いないが、相手は矢根尾の嗜好や発言を熟知しているとしか思えない。
《それとも前の机の下の話も作り話だったりして。》
《はぁ?何言ってんだよ、お前。》
《あれ?フィさんもそんな口調になることあるんですね。》
腹立たしいことこの上ない。まるでこれでは自分の話が、全て作り話と言われてるも同然だ。しかも、エイリはあえてそうとられるように発言しているとしか思えない。
《嘘つき呼ばわりされて、普通に接するなんて無理だろ。》
《ふふ、ネットの上なのに躍起になるなんて、何時までたっても変わらないですよね。》
《あのなぁ、喧嘩売る暇があったらマゾらしく調教されてろよ。》
《喧嘩?何の事ですか?私まともなご主人様がいいんですよね。妄想癖のない、変に道具にばっかりこだわらない。》
再び苛立ちが胸の中で燃え上がり、思わずギリギリと奥歯を噛み締める。まるで自分に当て付けのように聞こえる言葉だと感じるのは何故だろう。
《口ばかり達者なマゾはめんどくさいな。》
《腹が立つって言うのは、それが図星だからですよね。》
何故腹をたてていると分かるのだ。確かに口調の変化は怒りにも見えるが、呆れにもとれる筈なのに。女が今やっているのはチャットルームで言う荒らし行為と同じなのに、何故周りは静観して誰も口を挟まないのだろう。
《ああ、そうだ、この間フィさんの元奴隷さんと話しましたよ。》
え?怒りが一瞬消えて、矢根尾は何度もその言葉を見つめ直す。元奴隷。そう言えるのはたった一人で、正直もう一度奴隷にしたいとすら考えている女。また、あの時の快適な生活を思い浮かべ、泣きながら四つん這いで犯される女の白い背中を思い出す。痛みに悲鳴を上げながら貫かれ、尻が腫れ上がるまで叩かれ達する女。鞭で打たれ首輪を嵌められ、穴に玩具を捩じ込まれ
《フィさんも話しました?隣のチャットルームでしたけど。》
なんだと?!妄想から我に返り驚愕に目を見開く。隣のチャットルームにあいつがいたなんて。何でその時話さないんだよ、この馬鹿女。隣の雑談ルームにリエの名前があるかどうか、慌ててウィンドウをもう一つ開く。勿論今はその名前もないし、ノンビリとした雑談に花が咲いている。くそ、何時いたのか言えよ!馬鹿女。しかも、話したって何を話したんだ。
《あ、そっか、話すわけないですよね。元ですもんね。》
そんなことはない。元妻は矢根尾の事を愛している筈だ。別れたのは病気のせいで、あいつの親が許さなかっただけ。あいつは矢根尾に服従して痛みの中で快楽に泣くのが、心底好きな女なんだ。
《あれぇ、フィさーん?》
《何だよ。》
《あー、話途中でネオチかと思いました。彼女、元気でしたよ。フィさんによろしくって。》
《結構来るのか?》
《元ですよね?》
《ああ、だけど話くらいしてやってもいい。》
《ふふふ、無駄じゃないですか?》
何でこいつは何時までも神経を逆撫でする言葉ばかりいい続けるのだろう。何をもって無駄と言いきるのか、元妻ならチャットルームに出没する理由は自分を探しているに違いない。
《自分を探してるとか調子いいこと考えてませんよね?》
調子いい?何がだよ。あの女の事も知らずに、馬鹿女め。矢根尾の方が元妻の事は十分な程理解できている。頭の中では再び淫靡な元妻の調教姿が延々と浮かぶ。大人しくてよく言うことを聞く女だった。今日はこの設定と言えばそれに従って、調教を受け淫らに泣き喘ぐ奴隷だ。縄で縛られるとくびりだされる乳が酷く大きく淫らに歪む。その妄想だけで自分の肉棒がそそりたつ。
《あれぇ、妄想中ですか?フィさん。》
《妄想なんかしてない。》
《彼女フィさんでいったことないって。》
何だと?イッタコトナイ?何のことだ?
《男としては残念ですね、あ、演技なの気がついてないですか?》
何だと?この馬鹿女は一体何を言い出しているのか、矢根尾には全く分からない。しかし、ハッと我に帰った瞬間、怒りに目の前が赤くなるのが分かった。元妻がセックスでいったことがないなんてあり得ない。この女の言うことは全部ハッタリだ。
《はは、怒らせようといくらお前が嘘ついても、いい加減付き合うのが馬鹿馬鹿しくなってきたな。》
《何故嘘だって思いました?》
《俺はちゃんと奴隷をいかせてる。》
自信満々の矢根尾の言葉に、一瞬相手の言葉が止まるのが分かった。反論しようにも矢根尾の言葉が真実なのだから、反論のしようがないのだ。モニターの前でニヤニヤ笑いが顔に浮かぶのが分かる。これで形勢は逆転で、嘘つきはこの馬鹿女の方だ。
《まともな調教も出来ないで、ヒモでDV男の癖に。》
エイリが吐き捨てた言葉に、勝ち誇っていた筈の矢根尾は凍りついた。矢根尾が無職で元妻に食わせてもらっていたのを知っているのは、既にここには来ないトノやその後ここでの仲間になったコウやテイ。後はもうこちらも姿を見なくなって久しいがクボ位な筈だ。それ以外の奴がヒモになっていた自分の事を知っている筈がない。しかも、それに加えて馬鹿女は何て言った?
《何?》
《パンパカパーン、仕事明日から行きません♪》
何処かで見覚えのある文字に矢根尾はポカーンとしてモニターを見つめたままだ。何故この女はその文面を知っているのか、元妻と話していて聞いたのか。
《最低な屑ですね、こんなこと平気で言う男。そう思いません?フィさん。》
矢根尾はその言葉に何も答えを返さずに、チャットを無言のままで見つめた。この女は誰からそれを聞いたのか、それを聞き出すのが何故か怖くて出来ない。他の面子には彼女が何を言っているのかすらわからないだろうが、それは矢根尾にとってはよく分かる文面だった。
矢根尾がよかれと思って仕事を辞めて、元妻に送ったメールの文章。その後矢根尾は事実、元妻のヒモになって食わせてもらう生活をした。元妻が勝手に喫茶店のバイトを探しだしてくるまで、まさに小遣いすら貰って日々遊び呆けていたのだ。あの時の生活は良かった、何せ元妻が家事は全部していて何時でも言いつければ飯を作り車の送迎もする。
だが、今ではその生活がどれ程元妻を追い詰めたかだけは、タイムテーブルが理解出来るようになったから分かった。何処で眠るのかすら全く分からない日々を、元妻は矢根尾が仕事をしているときから過ごし続けていたのだ。
《そんな屑男なんて、不能になればいいんですよ。まぁ、元々早漏って聞きましたけど。三擦り半以下だとかって。》
《早漏なんかじゃない!!》
思わず怒りに任せて打った瞬間、矢根尾は長くここで築いてきた何もかもが失われたのを音として聞いた気がした。目の前の馬鹿女の誘導尋問に引っ掛かって、自分の事だと半ば認めてしまったのだ。いたたまれない空気がそこに漂っているのに、矢根尾は泣きそうになりながら拠り所の退室ボタンをクリックした。
※※※
自分が言葉もなく笑いだしたのに、久保田は目を丸くして自分を眺めた。何がおかしいって一番の拠り所を自分で放棄するなんて、なんともこの男には相応しいじゃないか。未だに家族や弟が助けてくれないのが悪いとか言いながら、しかも元妻が戻ってくるとも信じているなんて。正直不快を通り越して呆れすら感じる。だが、自分の言葉で大事な場所を失わせるなんて、相手は誰なのだろうとは思う。
エイリ、鋭利?えいり、eir……
そこまで呟いていて、一瞬それに思考が固まる。視線をあげると目の前の久保田はいつもと変わらぬ微笑みを讃えたままだった。
※※※
矢根尾俊一は一見すると前と何も変わらぬ毎日を送っていた。
あの騒動の後、暫くは安斉千奈美に怯え仕事も休み、家に閉じ籠っていたのだ。そうしたからといって自分の生活が変わるわけでもない。
結局安斉千奈美はどんなに警察が調べても何者か分からない。しかも、今どうして何処に居るのかすら、分からないのだ。どんなに矢根尾が訴えても、警察は痴話喧嘩だとまともに調べる気がないのだと薄々気がついてはいる。しかも、あの女の顔の印象が日毎に薄くなっていくのに気がついて、そういえばあの女の素顔を一度も見ていないことに気がつく。女は化粧ひとつで全く印象が変わる事くらいよく分かっている。そういう意味では、元妻だった雌奴隷はアレルギーだと化粧っ気のない女だったが綺麗な顔だった。兎も角矢根尾は気がついた、いつまでも閉じ籠っているわけにもいかない。人でなしの親や弟が助けてもくれない中では、結局自分が働かないではいられないし生活が出来るわけでもなかった。何にしてもまずは収入がないと生きてはいけないのだから。それに大家が気を効かせて家の鍵は既に取り換えていて、今は外から入ってくるモノはいない。一先ずは家の中に戻れば安心はできる。
その筈なのに、まだ時々寝ていると夢現に老女のような嗄れた声が囁いている気がしているのだ。その声は変わらず耳元で、駄目になれ、不能になれと囁いている。寝ていて目を閉じているのが幸いで、老女の顔はまだ見ていない。だからこそ、矢根尾は自分に夢なのだといい聞かせられているし、夢だと信じることにしていられる。
気にしない。
だからそう自分に繰り返しながら、日々を以前と変わらないふりで過ごしているのだ。だが、今度は外で歩いていると時折ふとした時に背後から、安斉千奈美の声が聞こえるようになった。気にしないつもりでも、
「見損ないました、食べ物を粗末にするなんて。」
そう囁きかけた安斉千奈美の声に、矢根尾は悲鳴をあげて飛び上がって振り返る。振り返った先にいた気弱そうなスーツ姿の男性が、自分の一見意味もない行動に酷く訝しげに眉を潜めて横を通り抜けていく。勿論矢根尾の視線の先には、安斉千奈美の姿なんてない。それなのにあの声は確かに矢根尾を嘲笑うように耳元に囁きかけるのだ。他の人間も立ち止まって呆然としている矢根尾を訝しげに、胡散臭そうに眺めて歩き去っていく。
何でなんだ。
安斉千奈美は何故矢根尾に関わってきたのだろうか。経営者にも他の講師も生徒にも誰にも関わらないでいたのに、どうして矢根尾にだけ関わってきたのだろう。その意図が分からないことが酷く恐ろしかった。そんなわけで仕事を終えると大人しく家に帰り、ネットをして過ごすのが日課になりつつあり交友は狭まっていく。それでもネット上だけでは架空の自分に成り代わり、想像と妄想の中の尊大な自分を演じて楽しむことが出来る。それだけが楽しみになってしまいつつあることも分かっているが、その方が安全だった。
《フィさんって前にチャットしたことありますね。》
《そう?何処でかな?》
不意にそんな会話を持ちかけてきたネット上では自称マゾヒストの女に、矢根尾は目を細めた。本当に話したことがなくともこうやって話の切っ掛けにすることはよくあることだ。丁寧な口調で大人しそうな感じを受ける女は基本的に矢根尾の好みにあっている。元妻を思わせる口調でその女は柔らかな言葉を打ち込んできて、何処か矢根尾の興味を惹く。
《随分前ですから、覚えていらっしゃいませんよ。》
《どれくらい前かな?それを聞いたら思い出すかもよ?》
《ハンドルネームが違うから、分からないですよね。私。》
丁寧だが穏やかそうな口調で、気を惹くような話し方をするその女に矢根尾は目を細めた。ハンドルネームが違うから分からないと言うことは、本当に話したことがあるか、もしくはそれすらも話題のつもりかもしれない。
《じゃあ、調教されてみる?反応で思い出すかもな。》
《ふふ、前はそんな風に直ぐに誘わなかったのに、変わりましたね、がっついてるみたいですよ?》
カチンときた。だが、どうやら本当に以前話したことがある女らしい。しかも、チャット上で会話だけでなく、矢根尾の文字に従って一夜の奴隷を楽しんだことがある様子だ。
《冗談だよ。最近同じように声をかけられるからね、こう言うと知らないやつは逃げるだろ?》
《なるほど、そうなんですね。流石ベテランですよね。》
このチャットルームに矢根尾が長年通っている事も知っている様子が、その言葉から滲む。相手のハンドルネームはエイリとなっているが、そんなハンドルネームは本当に記憶がない。よくあるハンドルネームとは思えないし、本当に別なハンドルネームで以前に矢根尾と関わっているのだろう。大体にして女かどうかだって、ハッキリしないのだ。
《最近は奴隷さんはどうされているんです?》
え?と素直に驚く。それが誰の事を指しているかが、大きな問題だった。矢根尾が現実に完全な奴隷にしたのは元妻たった一人だけで、実は他の女は殆どが奴隷とはいえない。写真を撮ったりして脅しつけておかないと奴隷のふりすらするのを嫌がる女の方が殆どで、たまに喜んで奴隷になる女は何処かがイカれていた。脱がしてみたら骨と皮だけの肌に自傷行為の傷だらけなんて、やる気が下がるどころか正直萎える。
《どれのことかな?》
《ふふ、それもベテランの余裕ですか?分かってて焦らしますね。可愛い奴隷の話を自慢されたでしょう?》
ネット上で自分がしている話なんて殆どが嘘だらけだ。だが、過去には確かに本当の事を話していた時もあるのだから、矢根尾にとっては質が悪い相手だった。ここでの自分を現実に引き戻すような質問は、今の矢根尾には不要な会話なのだ。
《いや、本気で沢山いるからさ。》
《またまた、冗談きついですよ。》
《きついかな?》
どちらともとれる質問と回答に更に苛立つ。誰だってハッキリ言えよ、そうしたら反応のしようもあるのに。そう思いながら相手の口調で誰か思い出せないかと、真剣に考えるが思い出せるのは丁寧な口調でチャットをしていた元妻位だ。
《あれ?あの自慢、もしかして嘘ですか?》
更にカチンと来ることを言う。
《嘘って何で思う?》
《だって、あんなに自慢そうに調教話してましたよね?その相手が分かんないなんて。》
《だから、一人じゃないからどの奴隷の話か分かんないって》
暫くの無言。しかも盛り上がっているように見えるこの会話のせいで、他のチャットルームにいる者まで無言で静観し始めている。誰か茶々入れて話を変えてくれよ、ここでまで現実なんか見たくないんだって。そう考える矢根尾を嘲笑うように、エイリは矢根尾を狙い撃ちしているようだ。
《奴隷さん、何でも言うことを聞くんだって自慢してましたよね?外でも喜んで躾られるって。》
《そうなるように調教するのが基本だろ?》
《ふふ、じゃ今も奴隷さんは机の下ですか?》
そんな話何時したかなんて覚えていない。同時にしていないとも言い切れない自分は、なんと答えるのがベストなのか。しかも、殆ど常駐してる程のチャットルームでの、サディストとしての自分の地位。それを失うのはごめんだ。何て答えるのが、ここでの矢根尾らしいのか。
《さあ、どうかな?》
上手くしのいだ。これなら、いるともいないともとれるから、ここでの地位は変わらない。まるで駆け引きをしているような会話の攻防戦に舌打ちしたくなる。ただでさえ色々なものを最近失って、ここにしか拠り所がないのにこんな女に居場所を奪われてたまるか。
《あ、いないんですね、机の下。》
《何でそう思う?》
《フィさん、いるならいるって自慢しますもんね。》
くそ、なんだこの女。確かにいるって話をした時にはいるって設定で話をしたに違いないが、相手は矢根尾の嗜好や発言を熟知しているとしか思えない。
《それとも前の机の下の話も作り話だったりして。》
《はぁ?何言ってんだよ、お前。》
《あれ?フィさんもそんな口調になることあるんですね。》
腹立たしいことこの上ない。まるでこれでは自分の話が、全て作り話と言われてるも同然だ。しかも、エイリはあえてそうとられるように発言しているとしか思えない。
《嘘つき呼ばわりされて、普通に接するなんて無理だろ。》
《ふふ、ネットの上なのに躍起になるなんて、何時までたっても変わらないですよね。》
《あのなぁ、喧嘩売る暇があったらマゾらしく調教されてろよ。》
《喧嘩?何の事ですか?私まともなご主人様がいいんですよね。妄想癖のない、変に道具にばっかりこだわらない。》
再び苛立ちが胸の中で燃え上がり、思わずギリギリと奥歯を噛み締める。まるで自分に当て付けのように聞こえる言葉だと感じるのは何故だろう。
《口ばかり達者なマゾはめんどくさいな。》
《腹が立つって言うのは、それが図星だからですよね。》
何故腹をたてていると分かるのだ。確かに口調の変化は怒りにも見えるが、呆れにもとれる筈なのに。女が今やっているのはチャットルームで言う荒らし行為と同じなのに、何故周りは静観して誰も口を挟まないのだろう。
《ああ、そうだ、この間フィさんの元奴隷さんと話しましたよ。》
え?怒りが一瞬消えて、矢根尾は何度もその言葉を見つめ直す。元奴隷。そう言えるのはたった一人で、正直もう一度奴隷にしたいとすら考えている女。また、あの時の快適な生活を思い浮かべ、泣きながら四つん這いで犯される女の白い背中を思い出す。痛みに悲鳴を上げながら貫かれ、尻が腫れ上がるまで叩かれ達する女。鞭で打たれ首輪を嵌められ、穴に玩具を捩じ込まれ
《フィさんも話しました?隣のチャットルームでしたけど。》
なんだと?!妄想から我に返り驚愕に目を見開く。隣のチャットルームにあいつがいたなんて。何でその時話さないんだよ、この馬鹿女。隣の雑談ルームにリエの名前があるかどうか、慌ててウィンドウをもう一つ開く。勿論今はその名前もないし、ノンビリとした雑談に花が咲いている。くそ、何時いたのか言えよ!馬鹿女。しかも、話したって何を話したんだ。
《あ、そっか、話すわけないですよね。元ですもんね。》
そんなことはない。元妻は矢根尾の事を愛している筈だ。別れたのは病気のせいで、あいつの親が許さなかっただけ。あいつは矢根尾に服従して痛みの中で快楽に泣くのが、心底好きな女なんだ。
《あれぇ、フィさーん?》
《何だよ。》
《あー、話途中でネオチかと思いました。彼女、元気でしたよ。フィさんによろしくって。》
《結構来るのか?》
《元ですよね?》
《ああ、だけど話くらいしてやってもいい。》
《ふふふ、無駄じゃないですか?》
何でこいつは何時までも神経を逆撫でする言葉ばかりいい続けるのだろう。何をもって無駄と言いきるのか、元妻ならチャットルームに出没する理由は自分を探しているに違いない。
《自分を探してるとか調子いいこと考えてませんよね?》
調子いい?何がだよ。あの女の事も知らずに、馬鹿女め。矢根尾の方が元妻の事は十分な程理解できている。頭の中では再び淫靡な元妻の調教姿が延々と浮かぶ。大人しくてよく言うことを聞く女だった。今日はこの設定と言えばそれに従って、調教を受け淫らに泣き喘ぐ奴隷だ。縄で縛られるとくびりだされる乳が酷く大きく淫らに歪む。その妄想だけで自分の肉棒がそそりたつ。
《あれぇ、妄想中ですか?フィさん。》
《妄想なんかしてない。》
《彼女フィさんでいったことないって。》
何だと?イッタコトナイ?何のことだ?
《男としては残念ですね、あ、演技なの気がついてないですか?》
何だと?この馬鹿女は一体何を言い出しているのか、矢根尾には全く分からない。しかし、ハッと我に帰った瞬間、怒りに目の前が赤くなるのが分かった。元妻がセックスでいったことがないなんてあり得ない。この女の言うことは全部ハッタリだ。
《はは、怒らせようといくらお前が嘘ついても、いい加減付き合うのが馬鹿馬鹿しくなってきたな。》
《何故嘘だって思いました?》
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自信満々の矢根尾の言葉に、一瞬相手の言葉が止まるのが分かった。反論しようにも矢根尾の言葉が真実なのだから、反論のしようがないのだ。モニターの前でニヤニヤ笑いが顔に浮かぶのが分かる。これで形勢は逆転で、嘘つきはこの馬鹿女の方だ。
《まともな調教も出来ないで、ヒモでDV男の癖に。》
エイリが吐き捨てた言葉に、勝ち誇っていた筈の矢根尾は凍りついた。矢根尾が無職で元妻に食わせてもらっていたのを知っているのは、既にここには来ないトノやその後ここでの仲間になったコウやテイ。後はもうこちらも姿を見なくなって久しいがクボ位な筈だ。それ以外の奴がヒモになっていた自分の事を知っている筈がない。しかも、それに加えて馬鹿女は何て言った?
《何?》
《パンパカパーン、仕事明日から行きません♪》
何処かで見覚えのある文字に矢根尾はポカーンとしてモニターを見つめたままだ。何故この女はその文面を知っているのか、元妻と話していて聞いたのか。
《最低な屑ですね、こんなこと平気で言う男。そう思いません?フィさん。》
矢根尾はその言葉に何も答えを返さずに、チャットを無言のままで見つめた。この女は誰からそれを聞いたのか、それを聞き出すのが何故か怖くて出来ない。他の面子には彼女が何を言っているのかすらわからないだろうが、それは矢根尾にとってはよく分かる文面だった。
矢根尾がよかれと思って仕事を辞めて、元妻に送ったメールの文章。その後矢根尾は事実、元妻のヒモになって食わせてもらう生活をした。元妻が勝手に喫茶店のバイトを探しだしてくるまで、まさに小遣いすら貰って日々遊び呆けていたのだ。あの時の生活は良かった、何せ元妻が家事は全部していて何時でも言いつければ飯を作り車の送迎もする。
だが、今ではその生活がどれ程元妻を追い詰めたかだけは、タイムテーブルが理解出来るようになったから分かった。何処で眠るのかすら全く分からない日々を、元妻は矢根尾が仕事をしているときから過ごし続けていたのだ。
《そんな屑男なんて、不能になればいいんですよ。まぁ、元々早漏って聞きましたけど。三擦り半以下だとかって。》
《早漏なんかじゃない!!》
思わず怒りに任せて打った瞬間、矢根尾は長くここで築いてきた何もかもが失われたのを音として聞いた気がした。目の前の馬鹿女の誘導尋問に引っ掛かって、自分の事だと半ば認めてしまったのだ。いたたまれない空気がそこに漂っているのに、矢根尾は泣きそうになりながら拠り所の退室ボタンをクリックした。
※※※
自分が言葉もなく笑いだしたのに、久保田は目を丸くして自分を眺めた。何がおかしいって一番の拠り所を自分で放棄するなんて、なんともこの男には相応しいじゃないか。未だに家族や弟が助けてくれないのが悪いとか言いながら、しかも元妻が戻ってくるとも信じているなんて。正直不快を通り越して呆れすら感じる。だが、自分の言葉で大事な場所を失わせるなんて、相手は誰なのだろうとは思う。
エイリ、鋭利?えいり、eir……
そこまで呟いていて、一瞬それに思考が固まる。視線をあげると目の前の久保田はいつもと変わらぬ微笑みを讃えたままだった。
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