都市街下奇譚

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六十七夜目『   』

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これは、私の特別な友人から聞いた話なんですけどね、そうマスターの久保田はグラスを磨きながら口を開く。芳しい珈琲と紅茶の香りのする店内には客足は奇妙なほど途絶えている。白磁のポットが見守る中で、その言葉を耳にしたのは自分ただ一人だった。



※※※



そこは真っ暗な世界だった。扉を開いて中に入った途端、視界が真っ暗に代わり、とびこんでしまった自分は思わず立ち止まる。しかも背後で閉じた扉の音と共に更に深い闇に飲み込まれてしまう。壁を探すのを思い付いた時には既に遅く、鼻をつままれても分からない漆黒の闇の中に飲み込まれていた。大概漆黒の闇なんて表現は良くあるものだが、窓の隙間やら何やらで仄かに陽射しやら光が差し込むものだ。勿論夜だからと言って光源は様々あるから、暫くして目が慣れれば暗闇の中でも僅かに見えるはずと安易に考えてもいた。ところが何時まで断っても闇は闇のままで、自分の体すら目にすることが出来ない。次第に闇の中に取り残されているような気がして、不安が増してくるのが分かった。

何で…少しも見えないんだ……

窓がない気密性が高い部屋、例えば音楽スタジオのような、ワインセラーのような部屋の可能性はある。もしくは窓があっても雨戸等で閉じられた上に、遮光カーテン等で完全に塞がれているか。だがどちらかと言えば後者は、ほんの僅かな隙間があれば光源ができる。つまりは前者の可能性が高い。ソロソロと手を伸ばし、足を摺らせながら物にぶつからないよう気をつけて壁に触れるのを期待して進む。暗闇の中での感覚は、視覚が無い分予測もつかない。音も聞こえず空気の動きも感じない周囲に、不安感だけが増えていく。

壁だ、まず壁を探すしかない。

この暗闇なら壁に電気のスイッチがある可能性は高い。ただ電気が通っているかどうかは微妙な点ではあるが、壁が見つかればまた方法は変わる。手を突きだし空間を探りながら、ソロソロと歩く不様な姿だとは理解していたが方法はそれしかない。

なんで、壁に当たらないんだよ?しかも、物にも当たらない。

随分長く歩いているような気がするのに、一向に何も物にも壁にも当たらない。今では人が住んでいない筈の場所だから室内に物が無いのは仕方がないかもしれない、しかし壁が触れないのは可笑しい。もしかして、一直線に歩いているつもりだが、微妙に曲がっていてグルグルと回っているのかもしれない。そんな馬鹿なとは思うが見えていないということは、そう言う可能性だって無いわけではないのだ。一旦足を止めて床に座り、深呼吸をすると冷静になろうと努める。フゥと深い溜め息をついて、何故こんな状況に陥っているのかを思案してみる。階段を上がり扉を開いて入ったわけだから、二階の一室なのは間違いない。二階の部屋がどれだけの広さなのかは全く分からないが、かなりの広さがありそうだ。ということは自分が目指した部屋とは違うか、もしくはこの先に繋がるドアがあるかの二つに一つ。どちらかと言えば後者の方が有り得そうだ。何しろ階段を上がった時に見えた扉はたった一つだったから。もしかすればもう一つ階段があって部屋を通り抜け、そちらからも出入りできるという可能性もある。兎も角何とかして、この真っ暗な部屋からでないことには話は進まない。そうなるとまた進む方向の話に戻る。せめて物に当たるとかしてくれればいいが、人間は顔の向きや床の傾斜で単純に真っ直ぐ歩くことは難しい。靴の僅かな磨り減りの差ですら、真っ直ぐ歩くことをさせないのだ。そうなるとこの空間で真っ直ぐ歩くのは難しい。何しろ鼻をつままれても、分からない程の暗さなのだ。

スマートフォンを持っていたはずなのに、扉を潜った瞬間に手放してしまったのか?

手には何もなく、こんなに動き回ってしまっては探しようもない。耳を澄ましても聞こえるはずの音は何も聞こえないし、明かりの気配もない暗闇。真夜中近いからこの暗さなのかは分からないが、流石に陽射しが昇れば隙間から光が射し込むかもしれない。ただ、そうなるとこの屋敷に来た理由を放置して、朝までじっとするということだ。

そんなこと許せるか。

腹立たしさに頭に血が昇り、再び手探りを始め壁を探す。床を這うようにして家の大きさを考えればどんなにグルグル回っていたとしても、こうしていればどこかには当たる筈だ。どうしてもあの男を引き留めないと、あれは自分のものなのだと怒りにまみれた頭が泥々と感情を噴き上げる。床を探りながら這い回っているうち、次第に違和感と共に頭が再び冷えていくのが分かった。どんなに広い部屋だとしても、二階の一室床を這い回っているにすぎない。それなのにどんなに楕円に回っているとしても、歩いているのよりは広範囲を確認している筈だ。なのに何時までたっても、壁を見つけることが出来ない。光もなく、次第に時間の感覚も失い始めている。

そう言えば……あいつ………

電話をしてきた奴の名前。名前を呼んでここに迎えにこさせる事を考え付いたのに、あの男の名前が浮かばない。

茂木ではないし、貞友でもないし、小早川でもないし、小泉でもない……

女の名前は……そう考えた瞬間。ザッと血の気が引いていくのが分かった。混乱しているせいか、女の名前が全く出てこないのだ。あの女の名前は、安斉ではないし小松川でもない。出てこないから呼ぶことも出来ない。暗がりから抜け出すための方法が何一つ頭に浮かばない自分に、床を這い回りながら罠にかかった虫のようだと心の何処かで考えていた。



※※※



その話……誰から聞いたんですか?

恐る恐る声をかけると、久保田は暫く考え込んで誰でしたかねぇとわざとらしく言葉を濁した。友人から聞いたと話すのにその相手が説明できないのは、この話は作り話だから?そんな風に一瞬頭の中で考える。ところが久保田はそれに気がついていたように、賑やかに笑いながらこう告げるのだ。

なんでか、名前が思い出せないんですよ、まるで暗闇に置いてきてしまったみたいにね。

何気ないその言葉に頭の中で暗闇の中で手で床を探りながら這い回る男の姿が見えた気がした。



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