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七十二夜目『擬き』
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あんた、随分久保田の話し相手してるんだな?
『茶樹』の常連らしい盲目の男が口を開く。男は歳は四十代位だが、目のある筈の場所は醜い傷で抉られたようになっていて義眼と分かる目が両目に嵌められている。普段は濃いサングラスをかけているが、カウンターのスツールに座って見ればその傷は一目瞭然だ。それ以外にも首にも深そうな傷があり声も掠れているし、歩く時の動きを見れば足にも怪我をしていそうだ。マスターの久保田はグラスを磨きながら、外崎宏太と言う男の話を聞いている。芳しい珈琲の香りのする店内に客足は奇妙なほど途絶えたまま、その言葉を耳にしたのは自分ただ一人だった。
※※※
擬態なんて言葉があっているのか分からないが、人間の中には人間擬きがいると思う。人間擬きは言葉の通り擬きで、一見すると普通の人間にしか見えないのに、その中身が普通とは全く違う存在だ。元から人間擬きとして生活している事もあるし、突然自分が人間擬きなのだと自分で気がつく事もある。人間擬きだったからと言って、何か困ることがあるわけでもないから世の中にはこの人間擬きが山のようにいるんだと外崎宏太は考えていた。そして、外崎宏太自身、自分もその人間擬きの一人なのだと考えている。何しろ自分は普通の人間なら当然の感情が、幾つかそっくり欠落しているからだ。そういうのが生まれつきないのか、それとも成長の途中で何かしら間違いがあって身に付かなかったのかは分からない。でも自分だけでなく、そんな人間が最近、ドンドンと増えているような気がする。モンスターペアレントなんて呼ばれてみたり、クレーマーとか言われてみたり、終いにはサイコパスなんて呼ばれる人間まで現れた。千差万別の種類なのに、その危険性は大概大差がない。強いて言えば肉体を傷つけるのか、精神を傷つけるのか程度の差しかないのだ。
げに恐ろしきは……だよな。
無意識に何時もの癖で街中に耳を澄ましていると、その会話の端からその気配が過分に漂っていた。
「ねぇ、だからさぁ?」
「ええ?えーと、でもさぁ。」
「大丈夫だって、ねぇお願ぁい。」
女の方が相手に甘え声を出せば、何でも叶えてもらえると思っているのが分かる。しかも、女の方はそれを当然の権利だと思っているのが、早くしてよと言いたげな口調で感じられた。自分の願いは全て叶えなければ自分は手に入らないと言いたげな口調、しかも断られればじゃあいいわ私の事が要らないんでしょうと言えば相手が折れることも理解している。この手の女は無理難題を相手が必死に叶えようと足掻くのを見て楽しむ口で、願いが叶ったからといって満足することは絶対ない。何しろ欲望に忠実で底無しだから、叶えば次の願いを口に出すだけなのだ。男の方は気が弱くて無理なことを無理とは言えないし、女を手にいれたいと必死なので最悪限界まで金品を強請とられる。それこそ身ぐるみ剥がす勢いなのだから、このタイプ女は怖い。
「ねぇ、お願ぁい!ねぇー。」
「仕方がないなぁ……今回だけだよ?」
可哀想に一回折れたら二度も三度も同じ事だ。そう考えていた瞬間、何か違和感を感じた。女の方じゃない、男の方にそこまでの印象とは全く違う何かを聞き付けたのだ。
何だ?違和感……?
困惑した様子の男は歓喜の声を上げる女に、引きずられるようにして歩き出す。宏太は今の違和感がなんだったのかジックリ考えながら、その二人から一定の距離を保って歩き出した。その間隔はマトモな人間では聞くことも出来なければ、後をついてきているとも思えない。聴覚が異常に過敏な宏太だから出来る事で、二人が自分達の会話と行動を聞いているとは思いもしていない筈だ。
何だったんだ?あの違和感。
どうやらブランドバックか財布を買えと女が強請っている様子だが、男には先程感じた違和感は存在しない。先程の女のお強請りにおれた瞬間、自分は何を違和感だと感じたのだろう。
「でもさぁ、この間もお財布買ったよ?」
「でもぉ、欲しいんだよねぇ。」
「そっかぁ……、欲しいんだ?」
男の声がワントーン低くなったのに気がついて、宏太はおやと耳をそばだてた。男の声はけして女の要求を納得しているわけではないのに気がついたのだ。男の声が低くなるのは、基本的には怒りの表現の事が多い。怒りが極限になると、突然声は甲高く羽上がるが、それまでは冷静さを装って声は低くなる。ただ、今のように落ち着いた口調で低くなる時には、冷静に考え判断していて理性的でもあるのだ。つまり、男は女に財布を貢いでいて、二度目のカモにされるのが正しいかどうか考えているというところ。だが、まだ違和感が何だったか分からない。
「ねぇ、お店そっちじゃないよぉ?」
「あ、うん、ATM寄っていきたいんだ、いいかな?」
「勿論だよぉ、保くん。」
女を連れて角を曲がるが、その先にはATMがない。街の中をよく知っている宏太にはよく分かっているが、女の方はそこら辺は適当そうだ。曲がり角を三度曲がると行き止まりの路地。そんな道に入る理由は、宏太には一つくらいしか思い浮かばない。角を曲がることもせずビルの外壁に寄りかかり、まるで休憩しているように俯き気味に佇む。
「ねぇ、たもつくーん、こんな暗い道大丈夫?」
「うん、ここ行くと抜けられるから。」
当然のように言いながら角を二つ曲がった二人は、最後の三つ目の角を曲がって突き当たりに行きつく。
「たもつくーん、行き止まり……?」
唐突にグググッと息の詰まるような音を立てて、女の言葉が途切れたのに宏太は眉を潜めた。その後に続いたのは、何かを伝い落ちる水音と何かがバサバサと路面に飛び散る音。やがて静まり返った路地の奥で、小さな舌打ちの音が響く。
「めんどくせぇ……。仕方がねぇな、……はここまでだ……。」
誰も見ていない・聞いていないと考え囁いた声に、宏太は先程の違和感が何だったか不意に理解した。女が強請る言葉に男は承諾しながら、微かな舌打ちをしていたのだ。望まない事を強請られる不快感に、自然と出た舌打ちは気弱な彼氏には似合わない。そうして男は妙な事を言った。
なにはここまで?
その言葉の意味を考えようとしたら、不意に相手が息を忍ばせたのに気がついた。もしかしたらこちらに気かついたかもしれないと思った瞬間、目の前を同じような強請り声を上げて男に甘える声が響く。
「秋奈は、可愛いなぁ。」
「嬉しい、バック欲しかったのぉ。」
こちらの二人の方はお互いの感情が読み取りやすく、駆け引きも単純。女はただ男から金を引き出したいだけで、感情は一片もない。男の方は男の方で、女のことを征服したいだけの興奮に満ちた感情的に上ずった声で話す。
恐らくネオン街に見当った女と、それよりは十は年上の男。その女の方が一瞬会話が途切れたのに気がつくが、背後から近寄ってくる息を殺すような気配に冷や汗が滲んでくる。
「何だよ、秋奈。俺といるのに他の男見てんなよ。」
「違うよぉ、あの人こっちじっと見てて気持ち悪いなぁって。」
その言葉に注意を向けるどころじゃない宏太に、その分かりやすい方の二人が足を向けて歩みよってくる。
「何だよ、なんかようか?おっさん。」
何だとと思わず顔…と言うより耳を向けると、やっと相手は宏太が視力のない人間なのだと気がついたようだ。背後の気配は角を一つ曲がりジリジリと近寄っているのに、目の前を塞いだ男は相手が弱者だと信じて疑わない。耳のいいこの男は普通の人間なら目が見えなくても、難なく叩きのめせるのだと知ったらどうするだろう。目が見えなくても耳のお陰で腕が飛んでくる方向は分かるし、足の踏み音一つでどちらの手が飛んでくるかも分かる。それに昔通った合気道のお陰で相手の勢いをいなすのには、何にも問題がない。
「もしかして、俺に言ったのかな?ん?」
聞き取りにくい掠れ声の自分の声。ハスキーとか言う問題ではない。空気が漏れるみたいな音なのはよく分かっているが、この声のお陰で相手が自分が目だけでなく何処かに怪我をしているのだと教えてくれる。大体にして人が顔を向けただけで気持ち悪いとか、何か用かとか絡むにしても最悪だろう。只でさえ自分の傷が醜く、気持ち悪いことぐらい知っているのに腹立たしい事この上ない。しかも背後の気配は更に角を曲がって、もう少しでこちらに向かってくるのだ。
「顔を向けただけで言いがかりとは、大人気ない。女の前で格好つけたいかい?ん?」
苛立ち紛れに宏太はつい何時もの口調で言い返してしまったが、それが大きな間違いだった。背後に気をとられたせいで、目の前の相手が拳を握って振り上げたのを一瞬聞き逃してしまったのだ。ガツンと鈍い音をさせて殴り付けられ、数歩後退ると顔からサングラスが外れて顔が顕になるのが分かる。相手の女が息を飲んだのが聞こえて自分の醜い顔を晒されたのが分かるが、こっちが後退りしたせいで背後の気配が一言呟いて掻き消したのが分かった。
助かった……この騒ぎのせいで向こうが面倒になったようだ。
背後から暮明に引きずり込まれずに済んだ安堵に宏太がフゥと溜め息をつくと、顔馴染みのカラオケボックスの店長が自分に向かって駆け寄ってくるのが聞こえる。
「トノ!絡まれてんのか?!」
顔馴染みのカラオケボックス店長の宮直行は、案外目端の効く人間で長い付き合いだから何か起こりそうだと気にかけていたに違いない。それ以外にも何人もの顔馴染みの連中が、集まってきたのに目の前の単細胞は舌打ちをする。ところがそのまま踵を返した男に女は従わなかった。わざわざ道に落ちていたらしい宏太のサングラスを取り上げ駆け寄ったのだ。
なんだ、案外マトモな人間だったのか。
あの甘え声の出し方を聞いた時には、さっきの女と何にも変わらないかと思ったのに彼女はコッソリ隠れるようにしてサングラスを手渡そうとしている。
ねぇちゃん、あの単細胞はマトモな人間の理屈は効かねぇ人間擬きだぞ?
単細胞な分マトモな理屈は聞かないし盲人を殴って逃げるような男に、金の駆け引きは危険だろう。道に落ちたサングラスを拾い上げ宏太の手に押し付けるように乗せた瞬間、宏太は彼女の手を強く握ると、あの掠れた声で低く囁いた。
「あいつは止めとけ、ねえちゃん。」
その言葉は一瞬の事で、彼女は意図が掴めないまま宏太の言葉を受け取った。そのまま単細胞の元に駆け寄って、腕をとりながら歩み去っていくのが音で分かる。
少し助けてやるか、あの気配から助けてもらったことだしな
※※※
それから暫くしてその上原秋菜と再会し、単細胞の人間擬きに殴られていた彼女を助けることにはなった。だが、方やたもつと言う人間については何一つ調べることが出来なかった。何故なら同じ年頃の同じ名前の人間を確認にも行ってみたが、あの男には一度も出会えない。
そしてあの行き止まりの路地から、暫くして若い女性の遺体が見つかったのは知人から耳に入ったのだった。
「……今度会ったらただじゃ済まさない……。」
たもつの呟いた最後の言葉が、何処かから微かに聞こえる気がするのは気のせいだろうか…
※※※
直ぐ路地を確認に行かなかったんですか?
自分の問いかけに、外崎は何を言ってるんだと言いたげに眉を上げる。
俺だって自分から死にたい訳じゃねぇんだよ。
今じゃ嫁だっているんだから、長生きしねぇとなんねぇしと外崎は初めて人間味のある笑顔を浮かべた。そう言われれば直ぐ様路地に入ったらその男とはちあわせてしまう事に気がつく。それにしても、たもつと言う名前を以前に聞いたような気がする。
大体にして、中身がなんなのかわかんねぇだろ?
そういわれた瞬間、以前ここで久保田から聞いた話を思い出して、自分は背筋が寒くなる気がした。
『茶樹』の常連らしい盲目の男が口を開く。男は歳は四十代位だが、目のある筈の場所は醜い傷で抉られたようになっていて義眼と分かる目が両目に嵌められている。普段は濃いサングラスをかけているが、カウンターのスツールに座って見ればその傷は一目瞭然だ。それ以外にも首にも深そうな傷があり声も掠れているし、歩く時の動きを見れば足にも怪我をしていそうだ。マスターの久保田はグラスを磨きながら、外崎宏太と言う男の話を聞いている。芳しい珈琲の香りのする店内に客足は奇妙なほど途絶えたまま、その言葉を耳にしたのは自分ただ一人だった。
※※※
擬態なんて言葉があっているのか分からないが、人間の中には人間擬きがいると思う。人間擬きは言葉の通り擬きで、一見すると普通の人間にしか見えないのに、その中身が普通とは全く違う存在だ。元から人間擬きとして生活している事もあるし、突然自分が人間擬きなのだと自分で気がつく事もある。人間擬きだったからと言って、何か困ることがあるわけでもないから世の中にはこの人間擬きが山のようにいるんだと外崎宏太は考えていた。そして、外崎宏太自身、自分もその人間擬きの一人なのだと考えている。何しろ自分は普通の人間なら当然の感情が、幾つかそっくり欠落しているからだ。そういうのが生まれつきないのか、それとも成長の途中で何かしら間違いがあって身に付かなかったのかは分からない。でも自分だけでなく、そんな人間が最近、ドンドンと増えているような気がする。モンスターペアレントなんて呼ばれてみたり、クレーマーとか言われてみたり、終いにはサイコパスなんて呼ばれる人間まで現れた。千差万別の種類なのに、その危険性は大概大差がない。強いて言えば肉体を傷つけるのか、精神を傷つけるのか程度の差しかないのだ。
げに恐ろしきは……だよな。
無意識に何時もの癖で街中に耳を澄ましていると、その会話の端からその気配が過分に漂っていた。
「ねぇ、だからさぁ?」
「ええ?えーと、でもさぁ。」
「大丈夫だって、ねぇお願ぁい。」
女の方が相手に甘え声を出せば、何でも叶えてもらえると思っているのが分かる。しかも、女の方はそれを当然の権利だと思っているのが、早くしてよと言いたげな口調で感じられた。自分の願いは全て叶えなければ自分は手に入らないと言いたげな口調、しかも断られればじゃあいいわ私の事が要らないんでしょうと言えば相手が折れることも理解している。この手の女は無理難題を相手が必死に叶えようと足掻くのを見て楽しむ口で、願いが叶ったからといって満足することは絶対ない。何しろ欲望に忠実で底無しだから、叶えば次の願いを口に出すだけなのだ。男の方は気が弱くて無理なことを無理とは言えないし、女を手にいれたいと必死なので最悪限界まで金品を強請とられる。それこそ身ぐるみ剥がす勢いなのだから、このタイプ女は怖い。
「ねぇ、お願ぁい!ねぇー。」
「仕方がないなぁ……今回だけだよ?」
可哀想に一回折れたら二度も三度も同じ事だ。そう考えていた瞬間、何か違和感を感じた。女の方じゃない、男の方にそこまでの印象とは全く違う何かを聞き付けたのだ。
何だ?違和感……?
困惑した様子の男は歓喜の声を上げる女に、引きずられるようにして歩き出す。宏太は今の違和感がなんだったのかジックリ考えながら、その二人から一定の距離を保って歩き出した。その間隔はマトモな人間では聞くことも出来なければ、後をついてきているとも思えない。聴覚が異常に過敏な宏太だから出来る事で、二人が自分達の会話と行動を聞いているとは思いもしていない筈だ。
何だったんだ?あの違和感。
どうやらブランドバックか財布を買えと女が強請っている様子だが、男には先程感じた違和感は存在しない。先程の女のお強請りにおれた瞬間、自分は何を違和感だと感じたのだろう。
「でもさぁ、この間もお財布買ったよ?」
「でもぉ、欲しいんだよねぇ。」
「そっかぁ……、欲しいんだ?」
男の声がワントーン低くなったのに気がついて、宏太はおやと耳をそばだてた。男の声はけして女の要求を納得しているわけではないのに気がついたのだ。男の声が低くなるのは、基本的には怒りの表現の事が多い。怒りが極限になると、突然声は甲高く羽上がるが、それまでは冷静さを装って声は低くなる。ただ、今のように落ち着いた口調で低くなる時には、冷静に考え判断していて理性的でもあるのだ。つまり、男は女に財布を貢いでいて、二度目のカモにされるのが正しいかどうか考えているというところ。だが、まだ違和感が何だったか分からない。
「ねぇ、お店そっちじゃないよぉ?」
「あ、うん、ATM寄っていきたいんだ、いいかな?」
「勿論だよぉ、保くん。」
女を連れて角を曲がるが、その先にはATMがない。街の中をよく知っている宏太にはよく分かっているが、女の方はそこら辺は適当そうだ。曲がり角を三度曲がると行き止まりの路地。そんな道に入る理由は、宏太には一つくらいしか思い浮かばない。角を曲がることもせずビルの外壁に寄りかかり、まるで休憩しているように俯き気味に佇む。
「ねぇ、たもつくーん、こんな暗い道大丈夫?」
「うん、ここ行くと抜けられるから。」
当然のように言いながら角を二つ曲がった二人は、最後の三つ目の角を曲がって突き当たりに行きつく。
「たもつくーん、行き止まり……?」
唐突にグググッと息の詰まるような音を立てて、女の言葉が途切れたのに宏太は眉を潜めた。その後に続いたのは、何かを伝い落ちる水音と何かがバサバサと路面に飛び散る音。やがて静まり返った路地の奥で、小さな舌打ちの音が響く。
「めんどくせぇ……。仕方がねぇな、……はここまでだ……。」
誰も見ていない・聞いていないと考え囁いた声に、宏太は先程の違和感が何だったか不意に理解した。女が強請る言葉に男は承諾しながら、微かな舌打ちをしていたのだ。望まない事を強請られる不快感に、自然と出た舌打ちは気弱な彼氏には似合わない。そうして男は妙な事を言った。
なにはここまで?
その言葉の意味を考えようとしたら、不意に相手が息を忍ばせたのに気がついた。もしかしたらこちらに気かついたかもしれないと思った瞬間、目の前を同じような強請り声を上げて男に甘える声が響く。
「秋奈は、可愛いなぁ。」
「嬉しい、バック欲しかったのぉ。」
こちらの二人の方はお互いの感情が読み取りやすく、駆け引きも単純。女はただ男から金を引き出したいだけで、感情は一片もない。男の方は男の方で、女のことを征服したいだけの興奮に満ちた感情的に上ずった声で話す。
恐らくネオン街に見当った女と、それよりは十は年上の男。その女の方が一瞬会話が途切れたのに気がつくが、背後から近寄ってくる息を殺すような気配に冷や汗が滲んでくる。
「何だよ、秋奈。俺といるのに他の男見てんなよ。」
「違うよぉ、あの人こっちじっと見てて気持ち悪いなぁって。」
その言葉に注意を向けるどころじゃない宏太に、その分かりやすい方の二人が足を向けて歩みよってくる。
「何だよ、なんかようか?おっさん。」
何だとと思わず顔…と言うより耳を向けると、やっと相手は宏太が視力のない人間なのだと気がついたようだ。背後の気配は角を一つ曲がりジリジリと近寄っているのに、目の前を塞いだ男は相手が弱者だと信じて疑わない。耳のいいこの男は普通の人間なら目が見えなくても、難なく叩きのめせるのだと知ったらどうするだろう。目が見えなくても耳のお陰で腕が飛んでくる方向は分かるし、足の踏み音一つでどちらの手が飛んでくるかも分かる。それに昔通った合気道のお陰で相手の勢いをいなすのには、何にも問題がない。
「もしかして、俺に言ったのかな?ん?」
聞き取りにくい掠れ声の自分の声。ハスキーとか言う問題ではない。空気が漏れるみたいな音なのはよく分かっているが、この声のお陰で相手が自分が目だけでなく何処かに怪我をしているのだと教えてくれる。大体にして人が顔を向けただけで気持ち悪いとか、何か用かとか絡むにしても最悪だろう。只でさえ自分の傷が醜く、気持ち悪いことぐらい知っているのに腹立たしい事この上ない。しかも背後の気配は更に角を曲がって、もう少しでこちらに向かってくるのだ。
「顔を向けただけで言いがかりとは、大人気ない。女の前で格好つけたいかい?ん?」
苛立ち紛れに宏太はつい何時もの口調で言い返してしまったが、それが大きな間違いだった。背後に気をとられたせいで、目の前の相手が拳を握って振り上げたのを一瞬聞き逃してしまったのだ。ガツンと鈍い音をさせて殴り付けられ、数歩後退ると顔からサングラスが外れて顔が顕になるのが分かる。相手の女が息を飲んだのが聞こえて自分の醜い顔を晒されたのが分かるが、こっちが後退りしたせいで背後の気配が一言呟いて掻き消したのが分かった。
助かった……この騒ぎのせいで向こうが面倒になったようだ。
背後から暮明に引きずり込まれずに済んだ安堵に宏太がフゥと溜め息をつくと、顔馴染みのカラオケボックスの店長が自分に向かって駆け寄ってくるのが聞こえる。
「トノ!絡まれてんのか?!」
顔馴染みのカラオケボックス店長の宮直行は、案外目端の効く人間で長い付き合いだから何か起こりそうだと気にかけていたに違いない。それ以外にも何人もの顔馴染みの連中が、集まってきたのに目の前の単細胞は舌打ちをする。ところがそのまま踵を返した男に女は従わなかった。わざわざ道に落ちていたらしい宏太のサングラスを取り上げ駆け寄ったのだ。
なんだ、案外マトモな人間だったのか。
あの甘え声の出し方を聞いた時には、さっきの女と何にも変わらないかと思ったのに彼女はコッソリ隠れるようにしてサングラスを手渡そうとしている。
ねぇちゃん、あの単細胞はマトモな人間の理屈は効かねぇ人間擬きだぞ?
単細胞な分マトモな理屈は聞かないし盲人を殴って逃げるような男に、金の駆け引きは危険だろう。道に落ちたサングラスを拾い上げ宏太の手に押し付けるように乗せた瞬間、宏太は彼女の手を強く握ると、あの掠れた声で低く囁いた。
「あいつは止めとけ、ねえちゃん。」
その言葉は一瞬の事で、彼女は意図が掴めないまま宏太の言葉を受け取った。そのまま単細胞の元に駆け寄って、腕をとりながら歩み去っていくのが音で分かる。
少し助けてやるか、あの気配から助けてもらったことだしな
※※※
それから暫くしてその上原秋菜と再会し、単細胞の人間擬きに殴られていた彼女を助けることにはなった。だが、方やたもつと言う人間については何一つ調べることが出来なかった。何故なら同じ年頃の同じ名前の人間を確認にも行ってみたが、あの男には一度も出会えない。
そしてあの行き止まりの路地から、暫くして若い女性の遺体が見つかったのは知人から耳に入ったのだった。
「……今度会ったらただじゃ済まさない……。」
たもつの呟いた最後の言葉が、何処かから微かに聞こえる気がするのは気のせいだろうか…
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直ぐ路地を確認に行かなかったんですか?
自分の問いかけに、外崎は何を言ってるんだと言いたげに眉を上げる。
俺だって自分から死にたい訳じゃねぇんだよ。
今じゃ嫁だっているんだから、長生きしねぇとなんねぇしと外崎は初めて人間味のある笑顔を浮かべた。そう言われれば直ぐ様路地に入ったらその男とはちあわせてしまう事に気がつく。それにしても、たもつと言う名前を以前に聞いたような気がする。
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