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七十五夜目『きかん』
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これは、私の特別な友人から聞いた話なんですけどね、そうマスターの久保田はグラスを磨きながら口を開く。芳しい珈琲と紅茶の香りのする店内には客足は奇妙なほど途絶えている。白磁のポットが見守る中で、その言葉を耳にしたのは自分ただ一人だった。
※※※
気がつくと暗闇の中に奇妙に浮き上がる一人の人間が、ボンヤリとこちらを見下ろして立ち尽くしている。と言うのもこちらが床に座り込んでいるからで、相手は裸足の足を見せて立っているから見下ろす形になっているのだ。白く浮き上がる顔は血の気もなく、唇がホンノリとだけ色を落としている。
黒目勝ちの瞳、艶やかな黒髪、日に当たらない白い肌。
その女を男はずっと探していたのだった。
やっと見つけた、俺の……
そう考えた瞬間何故お前は俺を見下ろしているんだと、怒りが沸き上がった。奥歯を噛み締めるような仕草で女を見上げると、女は無表情のまま自分を見下ろした姿勢を変えようとしない。
お仕置きされたいみたいだな、お前は。
心の中でそう男は呟くと女に向かって手を伸ばす。ところが女はその手を蔑んだ視線で見下ろすと、吐き捨てるように呟く。
『……何も出来ないくずの癖に。』
その声は氷のように冷たく、男の心に突き刺さる。今まで一度たりともこの女にこんな風に蔑まれたことはなかった。だけど、それを許して放置するわけにはいかないと、男は心を奮い立たせようとする。
『……あんたも、同じ目に遭わせてやる……覚えてろ。』
そう女は低く歪んだ声で呟くと姿を消す。男は慌てて女に向かって這いずったかと思うと、当然奈落の底に向かって落下し始めていたのだった。
男が次に気がつくと頭上から懐中電灯の明かりで照らされていた。
「動くな!名前を言え!!」
上から目線の声だが、懐中電灯のせいでその相手が誰なのか見えない。眩しさに目を腕で覆うが相手は動くなを繰り返すばかりで、男は呻き声を上げてしまっていた。
※※※
階段を上がって上の階に向かったはずなのに、自分が発見されて出てきたのは地下室。しかも、自分がこの家に忍び込んでから、奇妙なことに長い時間が過ぎていた。
長い時間……時間単位では約千五百時間。
つまりは約二ヶ月の時間が過ぎ去っていたが、その間の記憶は矢根尾俊一には何一つ残されていない。病院で二ヶ月行方不明だったと聞いてもピンと来ないし、母親が泣きながら縋ってきても何が何だかわからないのだ。何しろ矢根尾はほんの一晩あの廃墟に潜り込んだだけのつもりなのだから。
「ショックによる若年性の健忘症状でしょう。」
脳波やらCTやら散々検査をして、はっきりしたのはショックで自分が二ヶ月間の記憶を失っているのではないかと言う仮定だけ。記憶をなくしている違和感は全くないし、二ヶ月もどこでどうしていたのか体調も変化なし。一体これは何なのだろうと思うが、あの暗闇の中であの女に出会ったことは鮮明なのだ。体調にも問題がないから退院して自宅に戻されたが、自宅は窮屈で居心地が悪かった。一人で外に出てアパートに戻った矢根尾はポカーンと立ち尽くしてしまう。
アパート……が、消えてる。
あの幽霊アパートが存在しない。それで始めて自分が行方不明だったというのが実感できた。実質最後の入居者だった矢根尾が行方不明になったから、大家はアパートを廃業したらしい。更地は隣の土地と一緒に道路建設予定地となっていて、背後の竹林の工事が始まっている。どうやら、少し道路を拡張する気らしい。呆然としながら駅前の通りまで戻りながら、自分はどうしたらいいのかと考えてしまう。
「矢根尾さん?!」
唐突に駅前で声をかけてきたのは茂木という男で、自分が貞友という男とよくつるんでいた男だった。夏ごろまではよく一緒に遊んでいたが、最近は少し疎遠になっていたのだ。ふと、矢根尾はあの時電話で呼び出された事を思いだし、咄嗟にスマホを取り出した。
あの時の男は誰なんだ?
矢根尾は友人だと考えて記憶していたが、名前も声すらも思い出せない。女を自由にされて腹をたてていたが、考えてみるとあの男は誰だったのだろう。こいつらと関わってって考えたのは記憶にあるが、茂木でも貞友でもないし勿論通話の記録もない。そこで始めて矢根尾は、背筋がゾッと凍ったのに気がついた。あの時の電話も既に可笑しなことの一部だったのだ。
「矢根尾さん?チョー久しぶり、電話しても女が出てさぁ?忙しいからって拒否られるから矢根尾さん束縛系女子に食われたって貞友も言ってたよ?」
え?と驚きに目が丸くなる。矢根尾にはその記憶が全くないし、着信拒否した記憶もないのだ。何が起こっているのか分からないが、ジワリと更に不安感が増して思わず矢根尾は奥歯を噛み締める。また、得体の知れない女の存在だ。自分を襲った安斉に、アパートに忍び込んでいた女に、電話に出ている女。もしかして、矢根尾の探している女は当にこの世の者ではないのかもしれない。何しろ別れる寸前には何度も迷惑を考えもせず、自殺未遂を繰り返していたのだから。それに、こうなってくると
何かが悪意をもって近寄っている気がする……
そう考えながら思わず辺りを見渡すと、突然人混みの向こうで何かが起きたらしい悲鳴が上がるのが聞こえる。その悲鳴にビクリと体を震わせた矢根尾に目と前の茂木が不思議そうに首を傾げていた。
※※※
人間が二ヶ月も消えるって難しいですよね。
自分がポツリとそう言うと、厨房から顔を出した鈴徳が、そうでもないですよと笑う。そう言えば彼も二ヶ月間の記憶のない人間だった。しかもその間に彼は海外から日本に戻り、アパートの解約や新居の契約を普通にしている。しかし、彼の場合と話の男の場合は期間は同じでも、中身が違う気がするのは何故だろうか?
帰還のしかたでしょうね?
久保田がそう笑いながらいったのに、自分は息を飲んで考え込んでいた。
※※※
気がつくと暗闇の中に奇妙に浮き上がる一人の人間が、ボンヤリとこちらを見下ろして立ち尽くしている。と言うのもこちらが床に座り込んでいるからで、相手は裸足の足を見せて立っているから見下ろす形になっているのだ。白く浮き上がる顔は血の気もなく、唇がホンノリとだけ色を落としている。
黒目勝ちの瞳、艶やかな黒髪、日に当たらない白い肌。
その女を男はずっと探していたのだった。
やっと見つけた、俺の……
そう考えた瞬間何故お前は俺を見下ろしているんだと、怒りが沸き上がった。奥歯を噛み締めるような仕草で女を見上げると、女は無表情のまま自分を見下ろした姿勢を変えようとしない。
お仕置きされたいみたいだな、お前は。
心の中でそう男は呟くと女に向かって手を伸ばす。ところが女はその手を蔑んだ視線で見下ろすと、吐き捨てるように呟く。
『……何も出来ないくずの癖に。』
その声は氷のように冷たく、男の心に突き刺さる。今まで一度たりともこの女にこんな風に蔑まれたことはなかった。だけど、それを許して放置するわけにはいかないと、男は心を奮い立たせようとする。
『……あんたも、同じ目に遭わせてやる……覚えてろ。』
そう女は低く歪んだ声で呟くと姿を消す。男は慌てて女に向かって這いずったかと思うと、当然奈落の底に向かって落下し始めていたのだった。
男が次に気がつくと頭上から懐中電灯の明かりで照らされていた。
「動くな!名前を言え!!」
上から目線の声だが、懐中電灯のせいでその相手が誰なのか見えない。眩しさに目を腕で覆うが相手は動くなを繰り返すばかりで、男は呻き声を上げてしまっていた。
※※※
階段を上がって上の階に向かったはずなのに、自分が発見されて出てきたのは地下室。しかも、自分がこの家に忍び込んでから、奇妙なことに長い時間が過ぎていた。
長い時間……時間単位では約千五百時間。
つまりは約二ヶ月の時間が過ぎ去っていたが、その間の記憶は矢根尾俊一には何一つ残されていない。病院で二ヶ月行方不明だったと聞いてもピンと来ないし、母親が泣きながら縋ってきても何が何だかわからないのだ。何しろ矢根尾はほんの一晩あの廃墟に潜り込んだだけのつもりなのだから。
「ショックによる若年性の健忘症状でしょう。」
脳波やらCTやら散々検査をして、はっきりしたのはショックで自分が二ヶ月間の記憶を失っているのではないかと言う仮定だけ。記憶をなくしている違和感は全くないし、二ヶ月もどこでどうしていたのか体調も変化なし。一体これは何なのだろうと思うが、あの暗闇の中であの女に出会ったことは鮮明なのだ。体調にも問題がないから退院して自宅に戻されたが、自宅は窮屈で居心地が悪かった。一人で外に出てアパートに戻った矢根尾はポカーンと立ち尽くしてしまう。
アパート……が、消えてる。
あの幽霊アパートが存在しない。それで始めて自分が行方不明だったというのが実感できた。実質最後の入居者だった矢根尾が行方不明になったから、大家はアパートを廃業したらしい。更地は隣の土地と一緒に道路建設予定地となっていて、背後の竹林の工事が始まっている。どうやら、少し道路を拡張する気らしい。呆然としながら駅前の通りまで戻りながら、自分はどうしたらいいのかと考えてしまう。
「矢根尾さん?!」
唐突に駅前で声をかけてきたのは茂木という男で、自分が貞友という男とよくつるんでいた男だった。夏ごろまではよく一緒に遊んでいたが、最近は少し疎遠になっていたのだ。ふと、矢根尾はあの時電話で呼び出された事を思いだし、咄嗟にスマホを取り出した。
あの時の男は誰なんだ?
矢根尾は友人だと考えて記憶していたが、名前も声すらも思い出せない。女を自由にされて腹をたてていたが、考えてみるとあの男は誰だったのだろう。こいつらと関わってって考えたのは記憶にあるが、茂木でも貞友でもないし勿論通話の記録もない。そこで始めて矢根尾は、背筋がゾッと凍ったのに気がついた。あの時の電話も既に可笑しなことの一部だったのだ。
「矢根尾さん?チョー久しぶり、電話しても女が出てさぁ?忙しいからって拒否られるから矢根尾さん束縛系女子に食われたって貞友も言ってたよ?」
え?と驚きに目が丸くなる。矢根尾にはその記憶が全くないし、着信拒否した記憶もないのだ。何が起こっているのか分からないが、ジワリと更に不安感が増して思わず矢根尾は奥歯を噛み締める。また、得体の知れない女の存在だ。自分を襲った安斉に、アパートに忍び込んでいた女に、電話に出ている女。もしかして、矢根尾の探している女は当にこの世の者ではないのかもしれない。何しろ別れる寸前には何度も迷惑を考えもせず、自殺未遂を繰り返していたのだから。それに、こうなってくると
何かが悪意をもって近寄っている気がする……
そう考えながら思わず辺りを見渡すと、突然人混みの向こうで何かが起きたらしい悲鳴が上がるのが聞こえる。その悲鳴にビクリと体を震わせた矢根尾に目と前の茂木が不思議そうに首を傾げていた。
※※※
人間が二ヶ月も消えるって難しいですよね。
自分がポツリとそう言うと、厨房から顔を出した鈴徳が、そうでもないですよと笑う。そう言えば彼も二ヶ月間の記憶のない人間だった。しかもその間に彼は海外から日本に戻り、アパートの解約や新居の契約を普通にしている。しかし、彼の場合と話の男の場合は期間は同じでも、中身が違う気がするのは何故だろうか?
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