都市街下奇譚

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八十一夜目『した』

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これは、私の特別な友人から聞いた話なんですけどね、そうマスターの久保田はグラスを磨きながら口を開く。芳しい珈琲と紅茶の香りのする店内には客足は奇妙なほど途絶えている。白磁のポットが見守る中で、その言葉を耳にしたのは自分ただ一人だった。



※※※



夜半からシトシトと音をたてて雨が降り続いている。雨樋を滴り落ちる雨の音が絶え間無く、音楽のようにタツタツと敷き詰められた玉砂利を叩く音もしていた。空気は長く降り続く雨のせいでヒンヤリと足元を冷やそうとしていて、昼間暖められていた大地から熱を奪い白い靄に変わって低く地表を覆い漂う。
夜の世界の中に人間の姿は何処にもなく、ただ静かな雨音だけが周囲に響き渡る。それを室内のベットに横になりながら聞いているのだが、窓の外を覗くわけでもないのに雨足が強くなるのが感じられた。最近では雨が降ると漏れなく災害や何かを気にするようになったのは、世の中の流れから仕方がない。しかも独り暮らしの自分は何もかも一人でやらないとならないから、身の安全を図る必要もあるし。

こういう時に……結婚してたりすれば違ったかな…………。

それには当然相手が必要だから、そう簡単な話ではないのだが一人きりで雨足の強まるのを聞いていると染々と思ってしまう。暖かい食費や和やかな空気、相手がいることで起こる軋轢もあるとは思うが、一人きりで冷たい雨の音を不安になりながら聞くよりはましかもしれない。

婚活……しようかなぁ……

自分には何も出会いもないのだから、考えられる方法としてはこれくらいしか検討できない。それにしても婚活なんて言葉が、自分に必要になってくるとは思っても見なかった。世の中ってものは本当に世知辛いものだ。こんなことを鬱々と考えている隙があるのなら、さっさと寝てしまうべきなのだろう。それにしても雨足がドンドン強まっていくのが耳障りで、眠りが上手いこと訪れてくれない。最初はシトシトと降り始めていた雨は今では、機関銃でも撃っているかのように大粒に変わりバケツをひっくり返したような音に変わっている。雨樋から溢れた雨水がザザッザザッと地面に激しく降りかかる音が響く。

起きてしまおうか

そう思うが、今寝ておかないと翌日に触る。そう分かっているから眠ろうとしているのに、ヤッパリ目を開ける気持ちにならないまま雨音を聞き続けていた。

「……て、……ってね。」

微かな微かな声がその雨足の合間に聞こえて、自分は目を閉じたまま眉を潜める。声はだいぶ近かった気がするが雨足が激しく上手く聞き取れない。それでも耳にはいると絶え間なく、ほんの微かにだか声が聞こえていた。

「……って。…………って。」

隣の部屋の電話の音だろうか?それにしても音があるという認識が生まれたら、この微かな声が何だか気にかかって仕方がない。強い雨足の合間をきちんと狙い済ましたような、微かな声は男なのか女なのかもわからないでいる。会話をしているにしては合間がないような?でも、先に話していてと言うこともありえるかもしれない。何にせよ、言葉が聞き取れれば答えは見える筈だ。

「…………って。…………てって、…………って。」

まるで何か単語を繰り返しているような音の具合だが、何かを説明しているようにも取れる。声が小さ過ぎて男か女かは未だに判別できないでいるが、繰り返されている言葉には抑揚が感じ取れないからかもしれない。

「…………って、………………てって……。」

眠りたいのに声が気になる。
雨の音なら兎も角、この単調な口調は結構耳障りだ。そんなことを考えながら、ベットの上でゴロリと寝返りをうつ。

「ねぇ」

突然下に敷いた耳にその声が飛び込んできた。一瞬自分はそのまま凍りつき、今の声がなんだったのか息を詰める。ドクドクと脈打つ自分の心音が聞こえるが、声はそのまま聞こえない。聞き間違いか、もしかして体勢を変えたから音が違う伝わりかたをしたのか。再び雨の音が耳に入り始め次第に心音が落ち着いてくると、さっきのは聞き間違いもと何処かで考え始める。まるで耳元で聞こえたような掠れた弱い声だったが、男なのか女なのか判断はできなかった。そのまま眠ってしまおうとすると再び雨音の合間に、微かに単調な声が混じり始める。

やっぱり体勢を一瞬変えたせいで、聞こえたんだな。

納得しながら、一体何時まで同じように話し続けているのだろうと舌打ちしてしまう。すると突然ピタリと声が止まったのだ。そうか、自分に聞こえるということは、相手にもこちらの声が聞こえているのかと今更気がついてしまった。舌打ちがきっと聞こえて言葉が止まったのは分かるが、今度は向こうも息を詰めてこちらを伺っているような気がする。そうなると今度はこちらも下手に身動きがとれずに、向こうが諦めるのを待つ体勢に追い込まれた。

気にしないで、再開してくれ……

なんとなく居心地悪い空気が流れる上に、相手がこちらを伺っていると思うと寝ることもできない。雨足は変わることなくシトシトと続くのに、息を詰めた妙な緊張感だけが独り暮らしの筈の室内に漂う。どうしたものか思案にくれていた矢先神の助けのように雷鳴が鳴り響き、ホッと息をついた。激しい雷鳴が微かに床が揺れる程の音をたてて、張り詰めていた空気を切り裂く。

よかった、これで

「おい」

ハッとしたようにその声に再び凍りつく。それはやっぱり下に敷いた耳の方に言葉として飛び込んできて、折角の雷の音を吹き飛ばした。下に敷いた耳に聞こえるってどういうこと?下に、下に何?下、ベットの下に、下に、下に?そんな筈はないと思うけれど、もうこれは聞き間違いではなくて下から響いた声であって。壁を伝ったわけでもなければ、窓の外からでもなく、マットレスの下から耳に聞こえた音で。ゾッと背筋が凍って、これをどうしたら良いのか分からない。
覗く?
いやそんな馬鹿な行動はできない。
ベットの上で起き上がる?
起きたら、気がついているとバレる。
再び大きな雷鳴が鳴り響き床がビリビリと揺れるのに、咄嗟に寝返りをうち壁際を向く。

「おぉい」

どうしよう、やっぱり下に敷いた耳に聞こえてくる。どう考えても真下から上に向かって話していて、雷を良いことに壁に向いたはいいが、これは逆にヤバい。もし今這い出してベットの下から出てきたら、背中を向けてたらダメじゃないか?でももし逆を向いてて目があったら余計怖い。
雨足が激しくなり始め途切れなくサァッと鳴り始めた。よかったこれで合間の声は聞こえないと安堵したのに、緊張感は張り詰めたままで変わらない。それは当然だ、だって下に誰かいるのに何もできない。

「…………って…………。」

ブツブツと微かに聞こえ始めた言葉に逆にホッとする。下の奴はどうやらこっちは気がついてないと考えて、最初の独り言を再開するつもりになったようだ。なら、このままそっとしておけば…………そっとしておいてどうなるんだろう?これ、いつまで堪えれば良いのか分からないし、もし堪えてたとしてこの後どうなる?

「……くって、…………てって……って。」

耳を押し付け集中していたせいか、言葉が少しだけ聞き取れた。
何をやって?何してって?
ってこれを聞いていていいのか?
ドドンッと雷が壮大な音をたてて床を揺らし、雨足が更に強まる。こんな強い雨足では相手の言葉がハッキリしないし、これを気がつかないふりでどうしのぐのか?寝てると思って出ていってくれるだろうか?それには鼾でもかけばいいのだろうか。

「……くって、……してって、……かって。」

次第に聞こえるのは下の奴の声が大きくなってるからじゃないだうか。そう気がついたら余計に背筋が冷えてくる。雨足が酷くなって雷が鳴ってるから声が大きくなってるのか、わざと大きくしてるのか。気がつかないふりでトイレに駆け込んだらいいかもしれないが、そうなると今度はトイレから出られない。そのまま外に駆け出すか?この雷の中に?パジャマにしているこんな薄着で?でも、それが……駄目だ、ドアにドアガードがかかってる。出る前に這い出され背後から襲われたら、それこそお仕舞いだ。震えることも出来ずに息を詰めていると、ドンッと再び床が揺れるような雷の音が鳴り響く。

「……くって、……としてって、……つかって。」

男なのか女なのか未だに分からないのに、低く響く声は耳に通り始めている。血の気が引き気を失いそうな恐怖に飲み込まれながら、鳴り響く雷に負けないほど押し当てた耳には言葉が流れ込み始める。

「くくって、おとしてって、つかって。」

なんだ?くくって?くくる?括る?!
おとしてって、落として?!
つかるって浸かるか?!
これ聞いてちゃダメなやつじゃないか?!もうこんなのたえられない!
雷の音に紛れるように自分は一気に跳ね起き、窓を開けると咄嗟に窓から飛び降りた。マンションは低層だし、窓の下は生け垣だから頭から落ちなきゃ死なないって思ったんだ。



※※※



確かに自分は死ななかったし、運良く通りかかった人が驚いて救急車も警察も呼んでくれて。足首は折れたけど一先ず手術も受けたし、少しすれば退院できるといわれた。警察にはベットの下の声の話は説明したけど何しろ窓を開けて飛び降りた自分のせいで部屋は水浸しになってたし、警察がマスターキーを入手して扉を開けた時には部屋の中は雨風でゴジャゴジャになっていたという。

でも、ドアガードはかかってなかった……。

鍵はかかってたけど、ドアガードはかかってなかったという。自分が本当はかけ忘れていたのか、中にいたベットの下の奴が出ていったからなのかはハッキリしない。それに誰かいかたかどうかも分からないなんていうんだ。少なくとも退院したら実家に帰って、あの部屋は引き払おう。そう決意するには十分の出来事だと思うし、世の中こうしてみると何が起きるか分かったもんじゃない。とは言え、病院の看護師さんが優しく綺麗なのには、少しだけ得した気がしなくもないのはここだけの話だ。

「主任さんって彼氏いんのかなぁ?田川さん。」

若い看護師さんにそんなことを聞くと、当然ですよなんて笑われてしまう。看護師達の中でも抜群に綺麗でたおやかな主任看護師に目をつけたのに、とっくにイケメン彼氏とラブラブですと答えられてしまったのだ。

「はーい、じゃ採血しますよー。手を出してくださーい。」
「骨折なのに、何でこんなに何度も採血するのかなぁ……?」
「センセの指示でーす。」

ちゃんとどうして必要なのか教えてくれる主任さんと違って、若い看護師はこれだ、先生の指示と言えば納得すると思っている。しかも、この若い看護師はそれほど採血が上手ではない。そう思って渋々右手を差し出し、覚悟のため目を閉じる。案の定一回では血管に針を入れられなくてもう一度右の手を探り回して二度目が始まった。そんな時

「おぉい」

不意にハッキリと左の耳元で聞こえた声に、自分は目を閉じたまま凍りついていた。



※※※



それは…………怖いですね

ベットの下から病院まで?と思うが、それにしては辻褄があわない。看護師がベットの下の人間?とも思うが看護師は右腕に針を指してるということは、左側から話しかけるのは誰なんだろう。それにベットの下の声がいったのは、何の事だったのか全く分からない。何しろ当人は足の骨を折りはしたけど…………

うち、ベットなんですよ…………

思わずそう答えるとおやおやと久保田は笑って、そうして簡単に対処できますよというのだ。どうするんですかと問い返すと、久保田は和やかな声で下に寝ればいいんですよと微笑んだのだった。


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