都市街下奇譚

文字の大きさ
93 / 111

八十二夜目『かのじょ』

しおりを挟む
これは、私の特別な友人から聞いた話なんですけどね、そうマスターの久保田はグラスを磨きながら口を開く。芳しい珈琲と紅茶の香りのする店内には客足は奇妙なほど途絶えている。白磁のポットが見守る中で、その言葉を耳にしたのは自分ただ一人だった。



※※※



恋をしていた。
初めて出会った時、なんて可愛い子だろうと思ったのだ。
必死で格好をつけて大人ぶって見せたのに目の前で失敗してしまった俺に、彼女はその方が安心するみたいにはにかんだ微笑みを浮かべて首を傾げる。
本当に相手は自分でいいのかと思うような、可愛らしくて綺麗な肌をした子だった。
最初は悉くなかなか上手くいかなくて、彼女は俯き加減でいることが多くて。何時も小柄な彼女の長い睫毛が落とす影ばかり見ていた気がする。それに出会った辺りには、実は俺には別に付き合っている女性もいて。いや、三角関係とかじゃないんだ。俺が彼女に一目惚れしたのは本当で、その時偶々他にカノジョがまだいたってことで。

…………言い繕っても駄目だよな、付き合ってるカノジョがいるんだから浮気って言えば浮気だ。

でも、俺は出会った彼女に一目惚れしてしまったんだ。
当時のカノジョとはもう覚めていて、でも別れるのに少しゴタゴタした。カノジョは束縛系ってやつだったから、別れようっていってからも結構大変だったんだ。けどちゃんとけりはつけてから、彼女に改めて好きだと言った。
彼女は最初は戸惑いはしてたけど、やがて俺の彼女になってくれたんだ。
少しして、俺は彼女と一緒に暮らすことにした。独り暮らしの彼女は余りにも可愛いから、変な男に付きまとわれていて怯えてて、守ってやれるのは俺だけだなんて考えもしたんだ。だから結婚する気で婚約者だなんた宣言してマンションも借りたし、一緒に暮らし始めたし。
彼女は年下だけど凄くしっかりしていて、料理も抜群に旨い。
作ってくれるものは大概何でも旨かったけど、角煮を作ってくれたのにはかなり驚いた。
前の日から下茹でして脂を抜いて作るんだなんて凄く手間をかけてて、出てきたのは店で食べるより柔らかで俺の苦手な八角とかの味がなくて凄い旨い。毎回は無理だよと笑う彼女は、それでも俺が何度も頼むと笑いながら作ってくれた。他に旨いって思ったのは何?そうだな、色々作ってくれたけど一番は生姜焼きかな。肉が柔らかくてタレが他で食べるのとは違ってて、他で食べるのとは全然違うんだ。

隠し味があるの。

そんな風に彼女は笑って、何をいれてるのか聞くと愛情なんて可愛く誤魔化したりして。何時いても結局何が入っているのか教えてくれなくって今でもその隠し味は何なのか分からないし、それに教えてもらったとしても同じものは作れない。
本当に可愛くて大人しくていい子だったんだ。
何でも完璧にやってくれて、いつも笑ってて、可愛らしくて綺麗な白い肌。艶のある黒髪で、大きな瞳。
コンタクトにすることもあったけど、苦手で外せないって何時もフニャーッてなるのが可愛くて、でも普段の眼鏡姿も可愛くて。
それに全て気がつくと、何でも先に準備してあるんだ。
翌日仕事に行くためのスーツや、ワイシャツ、ネクタイ、靴下まで。キチンと洗濯してアイロンがかけてあって、清潔な物。それがちゃんと準備してあって、ワイシャツの襟が汚いなんてことは絶対ない。
彼女だって俺以上に仕事をしてたんだ、看護師で泊まりの仕事もあって、しかも泊まりは夕方から翌日の朝までで。でも、俺が起きると彼女はいなくても準備がしてあって、食事まで作ってあって、そうして彼女は少し疲れた顔で丸くなって眠っている。
洗濯も掃除も、ゴミ捨てすら俺はしなかった。
だって今までもしないで一人で暮らしてて、最悪洗濯は限界までいったらする程度。でも彼女は日々キチンとそれをこなして、一緒のベットなのにまるで隅っこに小動物見たいに丸くなって眠る。正直俺に抱きついてくれたりしてもいいと思っているのに、小柄な彼女はダブルサイズのマットレスの五分の一も使わずに小さくなって眠るんだ。

少し痩せたかな…………。

一緒に住むようになって彼女は少しずつ痩せ始めている。元々少しふっくらした感じの子だから、少し痩せただけで抜群のスタイルで気がついたら人目を惹くようになっていた。何人も俺の友達が彼女が可愛いとか俺には勿体ないと言い出して、時には勝手に俺の知らない内に飲みに誘ったりしているようで腹立たしい。しかも彼女は天然なのか自己評価が低いからか、下心丸出しで誘われているのにまるで気にかけていなくて、俺の彼女だから誘われたとしか考えていないのだ。それでも俺が困ることはないように、何時も身の回りのことは完璧にこなしてくれていた。

でも人間ってやつは、何事にも馴れてしまうとダメなんだよな。

俺は彼女が何も言わないのを良いことに、本当に好き勝手にしていた。正直上げ連ねたら人でなしって叫ばれてもしかたかないって思う。最初は二股で、彼女にしてから中絶もさせてるし、浮気もして、給料はびた一文渡さなかった。どうやって暮らしてたのかって?彼女が何も言わないから、そこら辺は彼女が何とかしてたんだと思う。俺の金は全部俺自身の遊びや浮気でつかってるから。酷いよな、でもそうしても彼女が何も言わないから、俺は調子に乗ったんだ。やがて俺は仕事を辞めて、彼女の金で遊ぶようになった。

所謂ヒモってやつ。

そうして彼女から搾り取れるだけ搾り取っていたのに、彼女は何も言わなかった。彼女はどんどん疲れきって窶れて痩せて行くけど、俺にはお金を入れてほしいとかそういうことは言わないんだ。友人達が流石にヤバイと思って忠告してくれたけど、当時の俺は本人が何も言わないのに余計なお世話だと突っぱねた。だって、彼女は何も言わないから、大丈夫だと思ったんだ。
それに俺にしてみれば遊んでいるだけで暮らせるんだから、ほんと気楽で楽しい生活だったよ。
彼女は実は限界だったんだろうな。窶れて痩せ干そって笑顔すらまるで見えなくなって、何だか陰気な感じになったから俺は更に外で女遊びしてたよ。その金?そりゃ彼女が稼いだものだけど。
そうして、ある日突然、彼女は俺のもとから去った。
窶れて痩せほそって別人のようになっていたって周りは言うが、俺はあんまり彼女の変化に気がついていなかったんだ。逃げられたって皆から言われたけど、そんな状況だったろうかなんて暢気に考えてたし、きっと戻ってくるって信じてた。少ししたら気持ちが落ち着いて、帰ってくるに違いないって。

「本気でそう思ってんの?」

友人にそう聞かれたけど、そうだとしか言えない。友人には深い溜め息をつかれたけれど、何しろ本気でそう思っていたから。そう思っていて、そのまま彼女と暮らした場所で待っていると、気がついたんだ。ベットの彼女が丸くなって眠っていた場所が、時々沈みこむのに。

そう、彼女が眠っているみたいにだ。

もしかして、彼女は見えないだけでここにいるのかもしれない。何て考えてしまったのは寝ていて寝返りをしたら、そこに何かいて手が当たった感触があったからだ。もしかして。そう思ったら気になって、そこばかり見てしまう。それに普段彼女がよくいた場所も、つい眼を向けてしまうようになる。
まるでもう一度恋をしたように。
ずっと眼で追って、どこかに彼女がいないかと探してしまう。今度は彼女が戻ってきたら、心を入れ換えて一緒に過ごそうと思ってる。仕事も真面目にしているし、部屋もなんとか綺麗にしているし生ゴミなんかも貯めないし、部屋にはフローラルな芳香剤も置いた。だらしなかった面は心を入れ換えてちゃんとやり直しているから、きっと彼女が何時戻ってきても上手くやれる筈だと思っている。そうしている内に彼女の気配は少しずつ寝室だけでなく、リビングやキッチンでも浮かぶようになってきていた。

もしかしたらもう少ししたら姿が見えるようになるかも。

そう心のどこかで考えながら日々を過ごしている。そしてついに彼女は姿は見えないがガチャリとリビングの扉を開けたのだ。俺は期待して視線を向け、きっと彼女がそこから入ってくるのだと思った。キィとドアの揺れる音がして、ゆっくり扉が開くがそこには誰の姿もない。そうか、まだ時間がかかるのかと溜め息を溢したが、大丈夫まだ、ゆっくり待てばいいだけだ。
それを友人に話したら、酷く哀れみの視線で見つめられてしまった。

「……それは気のせいだよ。」
「そんなこと考えてないで新しい人探しなよ。」
「そういうの、信じないから。」
「そう言うことあんまり言わない方がいいよ。」

反応は様々。しかもどいつもこいつも自分の話は信じていないし、それを指摘したら呆れ果てたようにこう言うのだ。

「だって、彼女は逃げ出したんだろ?死んでないんじゃないの。」

そう言われれば確かにそうだった。
彼女は痩せ細ってはいたけれど、逃げ出したのであって死んだわけではなかったのだ。あれ?じゃなんで俺はあんなにあれは彼女だと信じきっていたのだろう。しかも日々あれが姿を表すのを心待にしていたのは、何故だろうかと首を傾げてしまう有り様だ。それでも家に一人きりになると、物音や何かで存在をアピールするそれが彼女だと信じてしまう。

「それって……なんか別なものにとりつかれてんじゃないの?引っ越したら?」

そんなことを言ってもここから出たら…………何が問題なんだろう?そう考えはするのに家に帰るとこれでいい、間違っていないんだと自分に言い聞かせている。それに彼女じゃないとしても、もう少ししたらあれは姿を見せるだろうから、何だったのかハッキリすれば気持ちも落ち着くに違いない。そう自分で自分に言い聞かせている。



※※※



「なぁ、あいつ最近どうしてるかな?」
「さぁ。」

こんな風に言うと友達がいがないとは思うが、最近のあいつは会うと逃げた女が透明になって戻ってくるなんて話をし続けるからうんざりしてしまう。何しろあいつが言う逃げた透明女は、自分達が知りうる限り誰も一度も出会ったことがないのだ。あいつにはずっと普通に彼女は居たけど、それのどれかかとは思うが、同棲した相手がいないから何処までが本当なのか分からないのだ。メンタルの問題で仕事を辞めてから、妄想なのか空想なのか架空の女に大事にされてるなんて話を始めた時点で、誰もがこいつは危険かもとは思っていたけど。どんどん進行しているのか、何処かは本当なのか。
兎も角最近何をしているか全く耳に入らなくなってしまった。心配ではあるが関わりたくもない。微妙な友人関係になり果ててしまった。

「どうする?会いに行ってみる?」
「え……うーん…………やめとく。」

友達がいがないなんて言わないで欲しい。だってただの友達に過ぎないのにあいての妄想に付き合ってやるほど、親密にはなれないと思うだろう。



※※※



最近ではぼぉっとしていると自分の背中に寄りかかる感触がする。小柄で色白の彼女が寄りかかっているのに、俺は思わず微笑んでしまう。こんな風に甘えるようなことをしてくる彼女が可愛いなと思うのだ。部屋はキチンと整えていて、部屋には変な臭いがしないように消臭剤も置いてある。最近では空気を清浄にするっていうから竹炭とかも置いてるし。洗濯ものだって室内には、生乾き臭がしないようかけないことにしている。傍にいる気配はハッキリしているから、振り返れば黒い髪が一瞬見えた気がするのだ。



※※※



……それは……どっちが本当なんですかね?

自分の言葉に久保田はにこやかにどちらとは?と問い返す。自分はなんと聞いたらいいのかわからなくて彼女はいたんですかね?と問いかけると、久保田はにこやかにどうでしょうねぇと笑うのだ。周囲は知らない彼女の存在は本物だとしたら、逃げたのか死んだのか疑問でもある。それにしてもどれが本当のことでも、あまりいい答えではない気がする。モヤモヤとした気持ちでそんなことを考えていたら、背後でカランと扉の開く音がした。珍しく久保田が何も言わないのに気がついて視線を上げると、久保田は代わりなくグラスを磨いていて視線すら向けていない。思わず咄嗟に振り返ると音をたてて扉が閉まるところだったのに、自分は凍ったままそれを見つめていた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

17歳男子高生と32歳主婦の境界線

MisakiNonagase
恋愛
32歳主婦のカレンはインスタグラムで20歳大学生の晴人と知り合う。親密な関係となった3度目のデートのときに、晴人が実は17歳の高校2年生だと知る。 カレンと晴人はその後、どうなる?

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

熟女愛好家ユウスケの青春(熟女漁り)

MisakiNonagase
恋愛
高校まで勉強一筋で大学デビューをしたユウスケは家庭教師の教え子の母親と不倫交際するが、彼にとって彼女とが初の男女交際。そこでユウスケは自分が熟女好きだと自覚する。それからユウスケは戦略と実戦を重ねて、清潔感と聞き上手を武器にたくさんの熟女と付き合うことになるストーリーです。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

10秒で読めるちょっと怖い話。

絢郷水沙
ホラー
 ほんのりと不条理な『ギャグ』が香るホラーテイスト・ショートショートです。意味怖的要素も含んでおりますので、意味怖好きならぜひ読んでみてください。(毎日昼頃1話更新中!)

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

中1でEカップって巨乳だから熱く甘く生きたいと思う真理(マリー)と小説家を目指す男子、光(みつ)のラブな日常物語

jun( ̄▽ ̄)ノ
大衆娯楽
 中1でバスト92cmのブラはEカップというマリーと小説家を目指す男子、光の日常ラブ  ★作品はマリーの語り、一人称で進行します。

JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――

のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」 高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。 そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。 でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。 昼間は生徒会長、夜は…ご主人様? しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。 「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」 手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。 なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。 怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。 だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって―― 「…ほんとは、ずっと前から、私…」 ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。 恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。

処理中です...