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九十一夜目『自動販売機その2』
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これは、私の特別な友人から聞いた話なんですけどね、そうマスターの久保田はグラスを磨きながら口を開く。芳しい珈琲と紅茶の香りのする店内には客足は奇妙なほど途絶えている。白磁のポットが見守る中で、その言葉を耳にしたのは自分ただ一人だった。
※※※
その日は普段とは少しだけ事情が違ったのは、交通事故で入院した友人・茂木公太の見舞いに行った帰り道で普段とは歩く距離が違ったからかもしれない。その茂木は数日前に車道に飛び出して車に撥ね飛ばされ、幾つものの骨が粉砕して救急車で病院に運ばれたのだ。意識はあったみたいで左手はなんとか使えるとLINEが来たのに、見舞いに行ったらステンレスの棒を何本も様々なところに刺されて固定されるという無様な姿でベットに横になっている茂木がいる。ベットに固定なんて言葉じゃないのは、どうみても茂木は茂木自身の体に固定器具をつけているわけで。ハッキリ言えばSF映画擬きで、それ痛くないの?の世界にいる
「いや、痛くないの?それ。」
「痛いって。最悪だよ。でも、痛いのより痒い方がマジでしんどい。」
「はは、文句言えんならいいっか。でもなにやってんの?酔ってたわけ?」
そう頭は無事だったけど首の固定のために金属で固定されている茂木を見下ろして聞くが、茂木は自分から車道に飛び出したことすら記憶になくて前後に何があったか何も覚えていないのだという。多分事故の衝撃で記憶が飛んだのだと思うというが、晴一としては茂木は酩酊していたかカッコ悪くて忘れた不利をしているに違いないと考えていた。何しろ茂木はそういう点では極度のカッコつけで、体裁の悪いことを隠したがる傾向にある。それに気がついたのは二人が共通で師匠と仰いでいた人間と親密に付き合い始めてからの事なのだが、時々茂木はどれだけ大丈夫と説明しても人の目が気になるのを訴えていた。
でもさ?あの女子高生、妊娠してたんだぞ?俺もお前もゴムなしでやりまくったし……
その女子高生とは師匠であった矢根尾の元M奴隷のことで、矢根尾が躾てきた女だったのだが見た目はまずまずで従順ではあるけれど乳が小さいから飽きたと矢根尾は言っていた。矢根尾は一流の調教師の腕を持つ男で、貞友はずっと矢根尾のように女を調教して奴隷してみたいとは考えてきたけれど。
過去形になったなぁ
そう、過去形で語るしかなくなったのは、矢根尾俊一が殺人容疑で逮捕されてしまったからだった。元妻である女性を殺害し、近郊に火をつけ多人数を焼死させた極悪人。その半生は面白おかしく一ヶ月くらいテレビで放送されまくって、親戚が経営するホテルやら何やらには悪戯の貼り紙やスプレーでの落書きが続いたとか。
残念だ…………
晴一は認めていたけれど、世の中で暮らすには矢根尾は落伍者なのだ。そして晴一は調教の腕は認めることはあっても、人生の落伍者になりたいわけではない。その点では矢根尾は自分のコントロールができない人間で、自分はそうはなりたくないのだ。
そんなわけで友人の見舞いに行った晴一はボンヤリ考え事をしながら、人気のなくなった午後の外来棟迄降りてきていた。午前だけで午後診療のない科が集まる外来診療の棟は電気も落としてあって薄暗く別世界のように見えて、何とはなしに気が向いて晴一は足を向けてしまったのだ。
ホラー映画なら、こういうとこに入り込むのは破滅フラグだよなぁ
ニヤニヤそんなことを考えていた晴一は、思わず誰もいない廊下の先を見つめて立ち尽くしていた。何故か廊下のずっと先にあり得ないものをみた気がして、晴一は息を飲んで薄暗い廊下の先に目を凝らす。
まさか…………
廊下の先に一瞬縫いぐるみのような黄色が見えた気がして背筋が冷えたのだが、それは見間違い。今視線の先にいるのは、警察に犯罪者として捕まった筈の男だった。以前よりは病衣を着た体は少し痩せているけれど、遠目からでも矢根尾だと分かるのは薄暗がりの中で歯を剥き出しているのが見えるから。矢根尾は癖なのか何時も奥歯を噛んで、歯を剥き出すような表情を浮かべる。
怒っていても、笑っていても
まるで牛が歯茎を剥き出して歯を見せているような、異様な表情を浮かべる癖のあった矢根尾俊一が廊下の先に立ち尽くしているのだ。たけどこんな場所で出会う筈のない相手が、目の前に立っていて、しかもあの顔をしている。あの表情が怒りか喜びか判別できない晴一としては、もし怒りだとして矢根尾がこっちにきたとしたら、矢根尾は元友人ではあるが殺人犯なのだ。
どうする?逃げるか?
ユラユラ体を動かして歩き始めようとする矢根尾の様子に、何故か頭の中は再び以前晴一に恐怖感を与えた縫いぐるみを思い起こさせた。彼女が欲しがったからゲーセンでとってやった熊の縫いぐるみ、あれは彼女と別れたのを期にごみ袋に捩じ込んでごみ捨て場に投げ込んでやったのだ。次第にこちらに向かって来る矢根尾の歯を剥き出したままの顔に、何故かあの黒いボタンの熊の瞳を思い浮かべて震え上がってしまうのは何故だろう。
あの縫いぐるみ…………そうだ、玄関に
いや、思い出すなと頭の中で何かが遮る声がするのに、晴一は咄嗟に踵を返して病院の中だというのに全力で駆け出してしまっていた。何故か誰にも制止どころか注意すらうけず晴一は病院を飛び出してかけ続けていたのだが、それがつい先ほどまでの話なのだ。そして夜の闇の中腑に落ちない気分で帰途についた訳なのだが、何故あそこに矢根尾がいたのかと晴一は考え込む。
殺人犯だぞ……?
振り返っても当然、背後を追いかけてくる矢根尾の姿はない。もしかしたらあれは白昼夢みたいなもので直前まで病院という環境と矢根尾の事を考えていたからかもしれないと思い付いた辺り、晴一は自分が異様に喉が渇いていたのに気がついたのだった。
緊張に加えて、大分走ってもいたから
そしてタイミングよく目に入ったのが、その自動販売機はなのだった。そこに自動販売機があるのは以前から知っているし、それは何時も電気が消えている。でも最近の自動販売機というやつはエコやら何やらで、消費電力を削っているから金を入れないと電気がつかないものも多い。だからその自販機もそんなものの一つなのだとずっと気にも止めていなかった晴一は、常にその自販機の前を素通りして歩いていた。何しろそこで何かを買う必要性もなければ、家の傍にはコンビニもあるわけで自販機で買ったものを必要とする場所ではないのだ。だけど今は喉を潤すには最適のタイミングで、晴一はそのマイナーな見たことのない社名の自販機に歩み寄る。
どこのかと思ったけど……
大手の自販機ではないけれど個人が置いてでもいるのか品揃えは思ったよりましで、晴一が何時も買うような商品ばかりが三段にバッチリ並んでいる。しかも安価設定らしくて百円玉をいれたら、八割がたのボタンランプにブルーのライトが灯る。それでも機械全体の設定が間違っているのか商品を照らすライトがつかないのには眉を潜めるが、購入ボタンはついたのだから問題でもない。
ガション……
音を立てて落ちてきた缶ジュースを取り出して徐にプルタブを引き上げて一気に飲み干していく晴一は、ふと視線の先にまだ青いライトが灯ったままなのに気がついていた。自販機にはたまに当たり外れがついているタイプもあって、どうやら音は出なかったがこの自販機はそれだったらしいのだ。
当たったってことか。
何気なく同じボタンを繰り返して押して、同じ缶ジュースをもう一本取り出して視線をあげる。流石に今度は真っ暗に沈黙した自動販売機に、少し得したなと内心思いながら晴一は気にもかけずに再び帰途についていたのだった。
※※※
それから時々その自販機をつかうようになったのだけど、この自販機何故か当たりが出やすい。もしかしたら設定が間違っているのかもしれないし、接触がおかしいのかもしれないけど三回に一回は当たりになるのだ。まあ、当たって得をしているわけだから文句を言うつもりもないし、喉が渇くから購入しているのだから別に問題もない。そんなわけで少し利用が増えて自販機だってWINWINだろうと、勝手に考えもしたりしていた矢先だ。
その日は喉が渇いていたわけではなかったから通りすぎるつもりだったのに、何故か視線の先がブルーに灯っ手足を止めていた。金はいれていない、それどころか自販機の一メートル以内に寄ってもいない。それなのに商品選択のブルーライトが、揺れ誘うように光っているのだ。
何で?
一瞬戸惑ったが、直ぐにその理由に思い付いた。この自販機当たり外れ付きだと気がつきにくいから直前に買った人間が、当たりに気がつかずに立ち去ったのだろう。それはもったいなかったなと心の中で呟きながらブルーライトを眺めているが、これはいつまで点灯したままなのかと思案する。誰かが押してくれる迄このままブルーライトをつけて待っているのも何となく可哀想な気もして、晴一は何気なく歩み寄り何時ものボタンをおす。
ガション
当然のように取り出し口に落ちてくる缶ジュースを取り出して、手に取り何故か晴一はポツンと呟く。
「ありがとな。」
別に誰に向かって言ったわけではなくて、もしかしたら直前に買って当たりが出たのに気がつかなかった人物に向けてなのか、それに気がつかせてくれたブルーライトなのかはわからない。ただ何となくそう口にして晴一は、再び帰り道を歩きだしたのだった。
使い勝手の良い、当たりの多い自動販売機。
ただそれだけの筈なのたが、それからというものの何故か通りかかると視線がブルーライトを捉えるようになっていた。勿論毎回ただで他人の当たりを貰うのもなんだし喉が渇いていなければ傍にも寄らないけれど、時々ブルーライトはついていて晴一は眉を潜める。
もしかして、壊れてる?
音がでない電気がつかないだけでなく、もしかしたら接触不良で壊れているのかもとふと思う。でもブルーの商品選択ボタンが点灯していない時もちゃんと存在しているから、壊れているのに管理している人間もまだ気かつかないのかもしれない。そして横を通りすぎようとした晴一の足を止めたのは、取り出し口に物の落ちる音が突然暮明に鳴り響いたからだ。
ガション!!
何時もより勢いよく大きく人気のない夜道に響いた音に、晴一は飛び上がるほどに驚き凍りついた。勢いがよすぎたせいなのか微かに取り出し口のアクリルの蓋が揺れキィと掠れた音を立てているのに、晴一は身動き一つ出来ずに目を丸くして見つめる。
金はいれてない、ボタンは押してない、それに……近寄ってない…………
そう大前提として自動販売機から二メートルも離れた場所にいる晴一は自動販売機にふれてもいないのだが、今も取り出し口の蓋はキィキィと音をさせて取りに来てと手招く。
なんか…………おかしくないか?
何故だろう、たかが自販機に何らかの意思を感じてしまう。意図して何か自販機にアプローチされているような、妙な不快感に背筋が少し寒くなるのは気のせいだろうか。せめて商品陳列のライトくらいつけば良いのにと思いながら、そろそろと近づく晴一は蓋の向こうに透けて見える何時もの缶ジュースに視線を落とす。晴一がこの自販機で何時も買う商品。当たりは別なものにすることもあるが、自分で金銭を支払う時は何時もこれだ。それが当然のように取り出し口にあって、晴一はソロソロと手を伸ばして冷えた缶を取り出す。何の変哲もないただの缶ジュースが一本、取り出し口に噛みつかれることもなければ、爆発することもない。
なんかなんて馬鹿げてるか…………
ただ単にこの自販機が壊れているだけで、自分は偶々得しただけなのだと頭で繰り返す。それでも少しこの自販機から、物を買うのは控えようと何故か心の中で思っていた。
※※※
あえて自販機の前を通らないようになっていた。それでも帰途が遠回りになるのが嫌で自販機の前を通ることはあるのだが、なるべく自販機のほうはみない。買わないオーラを放ちながら歩くようになったら、それほど自販機のアプローチは気にならなくなった気がする。
まあ、故障なんだもんな、アプローチでもなんでもない。
ブルーライトがついているかどうかも気にしないし、傍に寄らない顔も向けない。あれから通りかかっても勝手に商品が出てくることもないから、やはりあれはただの故障だったので管理している人間も流石に故障に気がついたに違いないのだ。試しに何度か買ってみたが、もう当たりのブルーライトはつかなかったから、完全に調整されて自販機は直ったのだろうと春一は少しだけ残念に感じながら取り出し口から缶を取り出す。
そんな矢先の事だった。
『なぁ、聞いてくれよ、貞友。』
その電話は言うまでもなく茂木からで、茂木は僅かに動く左手でこの電話を掛けてきたのだ。茂木はベットから降りることも出来ず、身動ぎすら出来ない状態のまま過ごしていて少しずつ奇妙な事をLINEしてくるようになっていた。
……ベットから動けなくて精神的におかしくなってきてんじゃねぇかな…………こいつ。
そう感じてしまうのは次第に言動が現実とは思えない話に傾き始めているからだった。例えば誰かが毎夜毎夜病室に来て自分を眺めているとか、その眺めているのが矢根尾だったとか、足元に血まみれの赤ん坊がいたんだとか。どれもこれもあり得ないことばかりだが、茂木が実は矢根尾が廃棄した女子高生奴隷を気に入っていたのを知っていれば理解できなくもない。
『思い出したんだよ…………俺、あたりを引いたんだ…………。』
何を言ってるんだと首を捻るが弱々しい声でポツリポツリと説明をする茂木の話では、茂木は何かでアタリというものを引いたから交通事故にあったのだといいたいらしい。こじつけにもほどがあるし、アタリなら良いことが起きるもんだろと指摘するが、茂木は晴一の話を全く聞かないのだ。
『…………あたりって出たんだ…………じは…………。』
突然ブツンと電話が切れて、晴一は戸惑いながら何度か茂木の名前を呼び、入院中と知っていてかけるのは問題になるかもと思いながらも折り返し茂木に電話をかける。それでも何度かけても茂木は、一向に電話を取らないままなのだった。
あたりが出たんだ…………じは……
その言葉に何故か、あの闇の中に佇まむ矢根尾俊一の顔と電気のつかない自販機が重なる。まるで関連のない二つが、あたかも同一のも世であるように頭の中には浮かび上がっていて晴一は何故か震えが起こるのを感じていた。
※※※
それは…………前の話の自販機と関係あるんですかね?
思わずそう問いかけてしまった自分に、久保田はチラリと厨房の入り口を眺めてどうでしょうねと囁く。前の話の自販機は、久保田ではなく鈴徳が話してくれたことだから関係かあるかどうかは分からないのだと気がつく。それにしても当たり付きの自販機なんて今時まだありますか?と思うのは、自分には最近見かけないからかもしれない。
まだ幾つかありますよ?試してみますか?場所教えますけど
そうにこやかに久保田に言われて思わず即答で断った自分に、自分でも思わず笑ってしまったのは当たりが出る前提で考えていたのに気がついてしまったからだった。
※※※
その日は普段とは少しだけ事情が違ったのは、交通事故で入院した友人・茂木公太の見舞いに行った帰り道で普段とは歩く距離が違ったからかもしれない。その茂木は数日前に車道に飛び出して車に撥ね飛ばされ、幾つものの骨が粉砕して救急車で病院に運ばれたのだ。意識はあったみたいで左手はなんとか使えるとLINEが来たのに、見舞いに行ったらステンレスの棒を何本も様々なところに刺されて固定されるという無様な姿でベットに横になっている茂木がいる。ベットに固定なんて言葉じゃないのは、どうみても茂木は茂木自身の体に固定器具をつけているわけで。ハッキリ言えばSF映画擬きで、それ痛くないの?の世界にいる
「いや、痛くないの?それ。」
「痛いって。最悪だよ。でも、痛いのより痒い方がマジでしんどい。」
「はは、文句言えんならいいっか。でもなにやってんの?酔ってたわけ?」
そう頭は無事だったけど首の固定のために金属で固定されている茂木を見下ろして聞くが、茂木は自分から車道に飛び出したことすら記憶になくて前後に何があったか何も覚えていないのだという。多分事故の衝撃で記憶が飛んだのだと思うというが、晴一としては茂木は酩酊していたかカッコ悪くて忘れた不利をしているに違いないと考えていた。何しろ茂木はそういう点では極度のカッコつけで、体裁の悪いことを隠したがる傾向にある。それに気がついたのは二人が共通で師匠と仰いでいた人間と親密に付き合い始めてからの事なのだが、時々茂木はどれだけ大丈夫と説明しても人の目が気になるのを訴えていた。
でもさ?あの女子高生、妊娠してたんだぞ?俺もお前もゴムなしでやりまくったし……
その女子高生とは師匠であった矢根尾の元M奴隷のことで、矢根尾が躾てきた女だったのだが見た目はまずまずで従順ではあるけれど乳が小さいから飽きたと矢根尾は言っていた。矢根尾は一流の調教師の腕を持つ男で、貞友はずっと矢根尾のように女を調教して奴隷してみたいとは考えてきたけれど。
過去形になったなぁ
そう、過去形で語るしかなくなったのは、矢根尾俊一が殺人容疑で逮捕されてしまったからだった。元妻である女性を殺害し、近郊に火をつけ多人数を焼死させた極悪人。その半生は面白おかしく一ヶ月くらいテレビで放送されまくって、親戚が経営するホテルやら何やらには悪戯の貼り紙やスプレーでの落書きが続いたとか。
残念だ…………
晴一は認めていたけれど、世の中で暮らすには矢根尾は落伍者なのだ。そして晴一は調教の腕は認めることはあっても、人生の落伍者になりたいわけではない。その点では矢根尾は自分のコントロールができない人間で、自分はそうはなりたくないのだ。
そんなわけで友人の見舞いに行った晴一はボンヤリ考え事をしながら、人気のなくなった午後の外来棟迄降りてきていた。午前だけで午後診療のない科が集まる外来診療の棟は電気も落としてあって薄暗く別世界のように見えて、何とはなしに気が向いて晴一は足を向けてしまったのだ。
ホラー映画なら、こういうとこに入り込むのは破滅フラグだよなぁ
ニヤニヤそんなことを考えていた晴一は、思わず誰もいない廊下の先を見つめて立ち尽くしていた。何故か廊下のずっと先にあり得ないものをみた気がして、晴一は息を飲んで薄暗い廊下の先に目を凝らす。
まさか…………
廊下の先に一瞬縫いぐるみのような黄色が見えた気がして背筋が冷えたのだが、それは見間違い。今視線の先にいるのは、警察に犯罪者として捕まった筈の男だった。以前よりは病衣を着た体は少し痩せているけれど、遠目からでも矢根尾だと分かるのは薄暗がりの中で歯を剥き出しているのが見えるから。矢根尾は癖なのか何時も奥歯を噛んで、歯を剥き出すような表情を浮かべる。
怒っていても、笑っていても
まるで牛が歯茎を剥き出して歯を見せているような、異様な表情を浮かべる癖のあった矢根尾俊一が廊下の先に立ち尽くしているのだ。たけどこんな場所で出会う筈のない相手が、目の前に立っていて、しかもあの顔をしている。あの表情が怒りか喜びか判別できない晴一としては、もし怒りだとして矢根尾がこっちにきたとしたら、矢根尾は元友人ではあるが殺人犯なのだ。
どうする?逃げるか?
ユラユラ体を動かして歩き始めようとする矢根尾の様子に、何故か頭の中は再び以前晴一に恐怖感を与えた縫いぐるみを思い起こさせた。彼女が欲しがったからゲーセンでとってやった熊の縫いぐるみ、あれは彼女と別れたのを期にごみ袋に捩じ込んでごみ捨て場に投げ込んでやったのだ。次第にこちらに向かって来る矢根尾の歯を剥き出したままの顔に、何故かあの黒いボタンの熊の瞳を思い浮かべて震え上がってしまうのは何故だろう。
あの縫いぐるみ…………そうだ、玄関に
いや、思い出すなと頭の中で何かが遮る声がするのに、晴一は咄嗟に踵を返して病院の中だというのに全力で駆け出してしまっていた。何故か誰にも制止どころか注意すらうけず晴一は病院を飛び出してかけ続けていたのだが、それがつい先ほどまでの話なのだ。そして夜の闇の中腑に落ちない気分で帰途についた訳なのだが、何故あそこに矢根尾がいたのかと晴一は考え込む。
殺人犯だぞ……?
振り返っても当然、背後を追いかけてくる矢根尾の姿はない。もしかしたらあれは白昼夢みたいなもので直前まで病院という環境と矢根尾の事を考えていたからかもしれないと思い付いた辺り、晴一は自分が異様に喉が渇いていたのに気がついたのだった。
緊張に加えて、大分走ってもいたから
そしてタイミングよく目に入ったのが、その自動販売機はなのだった。そこに自動販売機があるのは以前から知っているし、それは何時も電気が消えている。でも最近の自動販売機というやつはエコやら何やらで、消費電力を削っているから金を入れないと電気がつかないものも多い。だからその自販機もそんなものの一つなのだとずっと気にも止めていなかった晴一は、常にその自販機の前を素通りして歩いていた。何しろそこで何かを買う必要性もなければ、家の傍にはコンビニもあるわけで自販機で買ったものを必要とする場所ではないのだ。だけど今は喉を潤すには最適のタイミングで、晴一はそのマイナーな見たことのない社名の自販機に歩み寄る。
どこのかと思ったけど……
大手の自販機ではないけれど個人が置いてでもいるのか品揃えは思ったよりましで、晴一が何時も買うような商品ばかりが三段にバッチリ並んでいる。しかも安価設定らしくて百円玉をいれたら、八割がたのボタンランプにブルーのライトが灯る。それでも機械全体の設定が間違っているのか商品を照らすライトがつかないのには眉を潜めるが、購入ボタンはついたのだから問題でもない。
ガション……
音を立てて落ちてきた缶ジュースを取り出して徐にプルタブを引き上げて一気に飲み干していく晴一は、ふと視線の先にまだ青いライトが灯ったままなのに気がついていた。自販機にはたまに当たり外れがついているタイプもあって、どうやら音は出なかったがこの自販機はそれだったらしいのだ。
当たったってことか。
何気なく同じボタンを繰り返して押して、同じ缶ジュースをもう一本取り出して視線をあげる。流石に今度は真っ暗に沈黙した自動販売機に、少し得したなと内心思いながら晴一は気にもかけずに再び帰途についていたのだった。
※※※
それから時々その自販機をつかうようになったのだけど、この自販機何故か当たりが出やすい。もしかしたら設定が間違っているのかもしれないし、接触がおかしいのかもしれないけど三回に一回は当たりになるのだ。まあ、当たって得をしているわけだから文句を言うつもりもないし、喉が渇くから購入しているのだから別に問題もない。そんなわけで少し利用が増えて自販機だってWINWINだろうと、勝手に考えもしたりしていた矢先だ。
その日は喉が渇いていたわけではなかったから通りすぎるつもりだったのに、何故か視線の先がブルーに灯っ手足を止めていた。金はいれていない、それどころか自販機の一メートル以内に寄ってもいない。それなのに商品選択のブルーライトが、揺れ誘うように光っているのだ。
何で?
一瞬戸惑ったが、直ぐにその理由に思い付いた。この自販機当たり外れ付きだと気がつきにくいから直前に買った人間が、当たりに気がつかずに立ち去ったのだろう。それはもったいなかったなと心の中で呟きながらブルーライトを眺めているが、これはいつまで点灯したままなのかと思案する。誰かが押してくれる迄このままブルーライトをつけて待っているのも何となく可哀想な気もして、晴一は何気なく歩み寄り何時ものボタンをおす。
ガション
当然のように取り出し口に落ちてくる缶ジュースを取り出して、手に取り何故か晴一はポツンと呟く。
「ありがとな。」
別に誰に向かって言ったわけではなくて、もしかしたら直前に買って当たりが出たのに気がつかなかった人物に向けてなのか、それに気がつかせてくれたブルーライトなのかはわからない。ただ何となくそう口にして晴一は、再び帰り道を歩きだしたのだった。
使い勝手の良い、当たりの多い自動販売機。
ただそれだけの筈なのたが、それからというものの何故か通りかかると視線がブルーライトを捉えるようになっていた。勿論毎回ただで他人の当たりを貰うのもなんだし喉が渇いていなければ傍にも寄らないけれど、時々ブルーライトはついていて晴一は眉を潜める。
もしかして、壊れてる?
音がでない電気がつかないだけでなく、もしかしたら接触不良で壊れているのかもとふと思う。でもブルーの商品選択ボタンが点灯していない時もちゃんと存在しているから、壊れているのに管理している人間もまだ気かつかないのかもしれない。そして横を通りすぎようとした晴一の足を止めたのは、取り出し口に物の落ちる音が突然暮明に鳴り響いたからだ。
ガション!!
何時もより勢いよく大きく人気のない夜道に響いた音に、晴一は飛び上がるほどに驚き凍りついた。勢いがよすぎたせいなのか微かに取り出し口のアクリルの蓋が揺れキィと掠れた音を立てているのに、晴一は身動き一つ出来ずに目を丸くして見つめる。
金はいれてない、ボタンは押してない、それに……近寄ってない…………
そう大前提として自動販売機から二メートルも離れた場所にいる晴一は自動販売機にふれてもいないのだが、今も取り出し口の蓋はキィキィと音をさせて取りに来てと手招く。
なんか…………おかしくないか?
何故だろう、たかが自販機に何らかの意思を感じてしまう。意図して何か自販機にアプローチされているような、妙な不快感に背筋が少し寒くなるのは気のせいだろうか。せめて商品陳列のライトくらいつけば良いのにと思いながら、そろそろと近づく晴一は蓋の向こうに透けて見える何時もの缶ジュースに視線を落とす。晴一がこの自販機で何時も買う商品。当たりは別なものにすることもあるが、自分で金銭を支払う時は何時もこれだ。それが当然のように取り出し口にあって、晴一はソロソロと手を伸ばして冷えた缶を取り出す。何の変哲もないただの缶ジュースが一本、取り出し口に噛みつかれることもなければ、爆発することもない。
なんかなんて馬鹿げてるか…………
ただ単にこの自販機が壊れているだけで、自分は偶々得しただけなのだと頭で繰り返す。それでも少しこの自販機から、物を買うのは控えようと何故か心の中で思っていた。
※※※
あえて自販機の前を通らないようになっていた。それでも帰途が遠回りになるのが嫌で自販機の前を通ることはあるのだが、なるべく自販機のほうはみない。買わないオーラを放ちながら歩くようになったら、それほど自販機のアプローチは気にならなくなった気がする。
まあ、故障なんだもんな、アプローチでもなんでもない。
ブルーライトがついているかどうかも気にしないし、傍に寄らない顔も向けない。あれから通りかかっても勝手に商品が出てくることもないから、やはりあれはただの故障だったので管理している人間も流石に故障に気がついたに違いないのだ。試しに何度か買ってみたが、もう当たりのブルーライトはつかなかったから、完全に調整されて自販機は直ったのだろうと春一は少しだけ残念に感じながら取り出し口から缶を取り出す。
そんな矢先の事だった。
『なぁ、聞いてくれよ、貞友。』
その電話は言うまでもなく茂木からで、茂木は僅かに動く左手でこの電話を掛けてきたのだ。茂木はベットから降りることも出来ず、身動ぎすら出来ない状態のまま過ごしていて少しずつ奇妙な事をLINEしてくるようになっていた。
……ベットから動けなくて精神的におかしくなってきてんじゃねぇかな…………こいつ。
そう感じてしまうのは次第に言動が現実とは思えない話に傾き始めているからだった。例えば誰かが毎夜毎夜病室に来て自分を眺めているとか、その眺めているのが矢根尾だったとか、足元に血まみれの赤ん坊がいたんだとか。どれもこれもあり得ないことばかりだが、茂木が実は矢根尾が廃棄した女子高生奴隷を気に入っていたのを知っていれば理解できなくもない。
『思い出したんだよ…………俺、あたりを引いたんだ…………。』
何を言ってるんだと首を捻るが弱々しい声でポツリポツリと説明をする茂木の話では、茂木は何かでアタリというものを引いたから交通事故にあったのだといいたいらしい。こじつけにもほどがあるし、アタリなら良いことが起きるもんだろと指摘するが、茂木は晴一の話を全く聞かないのだ。
『…………あたりって出たんだ…………じは…………。』
突然ブツンと電話が切れて、晴一は戸惑いながら何度か茂木の名前を呼び、入院中と知っていてかけるのは問題になるかもと思いながらも折り返し茂木に電話をかける。それでも何度かけても茂木は、一向に電話を取らないままなのだった。
あたりが出たんだ…………じは……
その言葉に何故か、あの闇の中に佇まむ矢根尾俊一の顔と電気のつかない自販機が重なる。まるで関連のない二つが、あたかも同一のも世であるように頭の中には浮かび上がっていて晴一は何故か震えが起こるのを感じていた。
※※※
それは…………前の話の自販機と関係あるんですかね?
思わずそう問いかけてしまった自分に、久保田はチラリと厨房の入り口を眺めてどうでしょうねと囁く。前の話の自販機は、久保田ではなく鈴徳が話してくれたことだから関係かあるかどうかは分からないのだと気がつく。それにしても当たり付きの自販機なんて今時まだありますか?と思うのは、自分には最近見かけないからかもしれない。
まだ幾つかありますよ?試してみますか?場所教えますけど
そうにこやかに久保田に言われて思わず即答で断った自分に、自分でも思わず笑ってしまったのは当たりが出る前提で考えていたのに気がついてしまったからだった。
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昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
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