鵺の哭く刻

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悪化

127.

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一晩中眠ることも出来ずに空虚な冷え冷えとした室内を眺めていた。アキコの荷物は大型のもの以外はキチンと梱包されて明日搬出しやすいように、窓辺にキチンと積み上げられていて、それに何かしてやることもできたが流石にそれは止める。

そんなことをして、もし戻るつもりになりかけているのが変わったら困る……

それと同時にそんなことをして、アキコの父親を激怒させるのも実は怖いのだ。正論ばかりと噛みつきたくなるが、相手の言う言葉は両親の正論より理路整然としていて何故か酷く恐ろしい。自分の過ちを一目で見抜かれる気がして恐ろしいから余り怒らせたくなかったし、真っ直ぐに貫くように見つめるアキコの目が父親似だと気がついてしまった。二人が親子なんだと実感したらアキコを怒らせるのも同等に恐ろしい。

明日…………

あの時腕を掴み引き留めて何時までいるのかと問いかけたらアキコは冷ややかにシュンイチを見上げると、それになんの意味があるのと問いたげな目をした。愛情の欠片すら感じさせない冷えた瞳でみられているのに戸惑い不安になるが、アキコの方はそれを気にかけた様子もない。

愛していないのか?

そう問いかけたくなったが、そう思ったら最初からアキコは自分を好きだったのだろうかと疑問に感じてしまう。八月の窶れ果てた容貌とは変わって目の前に姿を見せたアキコは別人のように見えたのは、快活な表情だけでなく両親には向けられる笑顔を見てしまったからだ。

綺麗だ

一番最初に出会った頃にはまだあったあどけない子供っぽさは、等の昔に消え去ってそこにいたのは歳を重ね大人びて穏やかに微笑む黒髪の整った顔立ち。母親似だと今更気がつく卵形の綺麗な顔立ちに、ハッキリとした二重の瞳で、微笑むと自然とエクボが出来る。こんなに美人だったのかと思わず改めて見つめてしまうアキコは、シュンイチに気を向けるでもなく両親と等しく手早い作業で梱包を続けた。シュンイチが余り物を渡さなかったから梱包はそれほどかからないのに気がついて、鍋や食器なんてそんなに欲しくもないんだから渡せば良かったと考えている自分に気がつく。あっという間に渡したものを梱包し終えて、手配した業者に不要なものを引き取らせ、シュンイチが無理矢理一緒にゴミを引き取らせたのにもただ深い溜め息をつくだけだった。

文句ももう言わない、ただ呆れた溜め息を溢しただけ

業者が奇妙な顔ぶれに次第に状況を察しながら、同時に綺麗なアキコに見とれる視線。それは俺のものと思いかけて、既にヤネオアキコではない彼女に気がつく。このままではアキコを永遠に失うと気がついたのは、その時だった。綺麗で颯爽とした表情で荷物を運びやすくまとめる彼女には、もう以前のように『お前は嫁いだんだ』と脅かすこともできない。

「時間があるなら今後の事を話し合いたい。」

なんとか繋ぎ止める方法を探るその言葉に、アキコは今まで見たことがない顔を浮かべてシュンイチをみた。あなたは何を言っているのですかという、あからさまな嫌悪感に満ちた硝子のような冷たい瞳で、アキコは氷のように冷えた笑みすらない顔でシュンイチを見る。今まで一度も見せたことのない自分に向けられたハッキリした明らかなアキコの嫌悪。それを見た瞬間シュンイチは胸に蛇の毒牙が突き刺さったような気がした。
深々と突き刺さり、ジワジワと致死性の毒が注ぎ込まれていく。
それともこれはもっと遥か昔に仕込まれていた毒なのだろうかと暗闇の中で考えてしまう。湿った土蔵の中でなのか、実家の母と二人きりの和室の中なのか。どちらにせよ、それは自分とアキコの関係性を保つものには成り得ない。媚薬のように互いを狂わせる毒なら兎も角、アキコのあの瞳は愛しい相手を見る瞳ではなくなっていた。まるで別人のように硝子玉のように感情もなく自分の存在を、道に転がるただの石でも見るように見た瞳。

怖い……

アキコに捨てられる。今までの何年も当然のように尽くしてきた甲斐甲斐しい女が中身を全て入れ換えられて戻ってきたようで、それが土蔵の中に潜んでいた者のような気がしてしまう。奥歯を噛んで歪に広角を開き、歯を剥き出した笑っているような顔で、母の顔や自分の顔の仮面で闇に潜む影。夢の中か妄想の世界の中で、シュンイチと一緒に綺麗な顔をしたアキコそっくりの白無垢の花嫁を一緒になって狂うほどに犯した影の存在を、今更のように怖いと考えていた。

あれがアキコを犯したのが体内に入り込むためだとしたら?あれが夢でないとしたら?

あの土蔵の中には本当のアキコが監禁されていて、今のアキコの中身は土蔵の中に封じられた何か。そんな思考に何故か確信のような気持ちに包まれるシュンイチがいて、射干玉の闇の中で瞬きもせずにこれが真実ならとありもしない事を想像する。

あれが乗っ取られたアキコだと知っていたら、俺も危ない……

何が危ないのか、何故危ないのかは知らないから答えられない。それでも自分は特別な唯一無二の存在でアキコもそうだから、摩訶不思議な出来事に巻き込まれてもおかしくはないのではないかと思い込む。何しろあの土蔵の空気や存在感は夢だと言うには、強すぎて明確すぎるのだ。もしかしたらアキコだけでなく両親も乗っ取られているかもしれない、だから思う通りにならないのだと確信する。

それなら、ここにいたら危ない。

そう考えてシュンイチは当然のように闇の中で起き上がると、イソイソとゲームセンターに向かうためにコバヤカワに連絡を取っていた。部屋はゴミがあらかた片付いたせいか空気がヒンヤリしていて、まるで冷蔵庫のようで無音のままなんの存在も感じない空虚な箱のようだ。

ヒョーゥ

怯えながらその場を後にする耳にほんの微かに悲しげな哭き声を聞いた気がして、シュンイチは車のドアに手をかけながら立ち止まる。夜更けの闇の中に冷たく沈み込んだアパート、窓の中は暗く沈んだ射干玉の闇が漂うだけ。周囲の物音が奇妙に途絶え、風の音も生活音も何一つ聞こえない闇の中でシュンイチは立ち尽くす。

ヒョー…………ゥ……

再び微かに遠退く物悲しく寂しげな哭き声に、思わずこれはなんの哭き声なのだと初めて考えていた。夜にしか哭かない物悲しく切ない声は、掠れて遠く弱く、まるで閨のアキコの声のように儚い。これを聞き始めたのも確かアキコと出会ってからのような気がするが、そこまで結びつけるのはおかしいだろうか。
潮騒の微かに聞こえる電話の向こうで、そしてアキコの生活する不思議な靄に包まれる土地で、そして何時の間にやらこうして直ぐ傍で聞いているのに気がつく。

…………ヒョ…………ゥ……



※※※



その日の昼前、前日の夜中に唐突に連絡を取ってきたシュンイチの行動に疑問を感じたコバヤカワケイは、何気なく徒歩圏内にあるヤネオのアパートに足を向けていた。普段なら連絡があったからと気にかかることもないし、他のコイズミやハルカワからは付き合うの早めろと苦言を呈されてもいる。

もう付き合わない方がいいって、コバ
あれ、絶対いつか警察に捕まると思うよ、俺

正直いえばコバヤカワもシュンイチが、危険な人間に変わりつつあるのは分かっていた。大学に入学してからの付き合いで、少し年上でちょっと頼りないけど完全な悪人とは思わなかったが、ヤネオがマトモじゃないなぁとは感じてきた。でも性癖とかってなるとそうなった理由がないことも多いし、あの母親だもんなと誰しも折り合いをつけて付き合い続けていたのだ。シュンイチが知っているかどうかは知らないが、殆どの友人はシュンイチの母親とシュンイチの家の周辺で鉢合わせている。そして、過保護ママの典型のような言葉を浴びせかけられ、あれと付き合うには女は苦労するなと皆で口にしたものだ。でも同じような過保護な親を持っていてもハルカワのように普通に過ごせている人間もいるし、育っていく姿は自己責任だと今は思う。
虫の知らせなのかもしれないし、そこに足を向けたのが運命のような気もする。
正直なことをいうとコバヤカワケイはお世辞でもなんでもなく、ヤネオアキコのことを日々気にするうちに彼女に密かに好意を持つようになっていた。傷つけられても何度も必死にシュンイチだけに尽くして、誠心誠意という言葉がこんなにも当てはまる人間がいるだろうかと思う。でも出会ったのがシュンイチの後だったのと彼女の真摯なシュンイチへの想いは、コバヤカワをただの弟のようにシュンイチの大事な友人として扱い変わることがない。

これで扱いが変わるような人だったら、何時もと同じく、ねとって終われてたんだろうけど……

そうならなかったのは、相手がアキコが全くコバヤカワを異性としてみてくれなかったからだ。それでもコバヤカワは密かにアキコを見つめていて、本当は何とかシュンイチが彼女を傷つけるのを防いでやりたかった。でもやがて彼女は姿を消して、コバヤカワは自分が失敗していたのに気がつく。

自殺未遂に追い込まれるほど、一人で必死に耐えていた

そんなことを心のどこかで考えながら足を向けたコバヤカワの目の前には、以前とは別人のように穏やかに笑うアキコがいた。凛として真っ直ぐにそして綺麗に微笑みながらアキコは、訪れたコバヤカワの姿にいち早く気がついくと作業を中断して駆け寄ってくる。

「アキさん……。」
「コバヤカワ君、これまで色々ありがとう……。」

その言葉で彼女が遂に、シュンイチに尽くすのを完全に諦めたのだと理解した。目の前では無償の愛を与えても気がついてもくれなければ疲弊して磨り減るばかりだったアキコが、別人のように穏やかに柔らかに美しく微笑みかけてくる。

「…………アキさん、これからどうするの……?」

その言葉に彼女はただ微笑むばかりで答えてはくれない。シュンイチと別れるのと問いかけたら、それにだけは彼女はもう別れたのとだけ穏やかに答えてくれた。その先は何も答えてくれないし、願っても連絡先を交換しても貰えない。そんな都合のよい展開にはならないし、アキコの瞳は全てを見透かして邪な都合のいい願いを抱いたコバヤカワの思う通りにはならないのが分かる。

「アキさん……俺。」

その先の言葉を告げる前に彼女は友人にするように真っ白な手を差し出して、もう一度穏やかにこれまでありがとうと告げてコバヤカワの言葉を封じ込んだ。

「元気でね?ケイ君。」

そして最後の最後に彼女は初めてコバヤカワケイの名前を穏やかな声で言うのに、コバヤカワは諦めたように目を細めて笑いながら元気でねと返す。きっと彼女はコバヤカワケイが出会う前はこんな風に確りと自分の意思を持った強い人だったのだろうとケイは気がつかされて、同時に全てが過去に変わりつつあるのを教えられてしまう。本気で好きだったのならもっと出来ることはあったかもしれないが、ケイが今更のように彼女と繋がりを求めても都合がよすぎる。

子供の我儘だよね、でも、もし今度…………

心の中でそう考えたケイを完全に見透かすようにして、アキコの瞳が穏やかに微笑み緩んで見せていた。



※※※



ヤネオアキコは完全に姿を消して、元のアキコがそこにはいる。ただ今までの幾ばくかの時間に感じた多くの深い感情を思い、それを少し悼んではいる。それでもアキコは穏やかにそれを思うことが出来るようになっていた。
深く命をかけた愛情と憎しみ。
そんなものがここには確かに存在したのだ。
それだけは拭いようもない事実だった事を少しの間だけ悼む。そしてそれを糧にして育っていったものにアキコは言葉もなく想いを馳せるが、やがて思い出したように自分の携帯電話を取り出しておもむろに自分の夫だった液晶に浮かぶ名前を見下ろした。

ヤネオシュンイチ

長くも短くもある時の中でシュンイチのことを愛した事を悔やみはしないし、同時に今までになく憎んだことも今更のように悔やみはしない。ただ、お互いが選ぶ道がそれぞれに間違っていたから、袂を別つただけのこと。
そうアキコは今は知っている。
これからその人間がどう生きていくかは、もうアキコの心の範疇ではない世界だ。互いに幼い頃に問題を秘めながら育ってきたが、それを理由に狂気に飲まれてそれぞれが仕出かしてしまったことを肯定はしない。そして自分は知ってしまったから、もう繰り返さないと決めた。

ばいばい。

アキコは微かに揺らめくような視界の中で、迷わずにその名前を記録ごと消去した。
そうしてアキコはその部屋を後にして、ドアの鍵をかける。小さな封筒にその鍵を落としてコトンと音を立ててポストの中に落とし込む。それを言葉もなく見下ろしてから、彼女は微かな低い物悲しい声で最後とばかりに一声ヒョウと哭く。
そして両親の元に向かって踵を返した彼女はもう二度とその扉を振り返る事はしなかった。
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