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元々昔から雨の音は嫌いではないし、雨の中を歩くのもそれ程嫌いではないのだ。まあ、最近良くあるゲリラ豪雨とかどしゃ降りの中を歩くとなると話はまた違うが、シトシトと降る雨の音を聞くのも傘を差し掛け歩くのもそれ程嫌いではない。
その日も家にいてただ雨脚を眺めるだけなら何もなかったかもしれないのだが、何故かその日は偶々気が向いて傘を差しその店に脚を向けていた。
『茶樹』
随分と昔にヤネオシュンイチを何とか働かせようとして、ヤネオアキコがバイトの件でと電話を掛けたことのある紅茶の美味しい喫茶店。何でそこに今更行こうと思ったのかを言葉で説明するのが難しいのは、自分の過去の探訪としてではなくて、体内にまだ僅かに存在を残すリュウヘイの魂が来訪の理由だったからだ。過去となにも変わらない場所で、昔より遥かに深味を加えて続けられてきた喫茶店の中には芳しく珈琲と紅茶の香りが入り交じっている。リュウヘイの記憶には折に触れてその店が触れていて、しかもアキコが喰ってしまった魂は次第に意識が遠退いて後数日もすれば完全に『鵺』に吸収されてしまうだろう。四十九日とは良く言ったもので、後十日もすればリュウヘイが死んで魂を食ってから丁度それくらいが経ち、その頃には胎内にリュウヘイを感じることもなくなるのだとアキコも知っていた。そして魂を喰ったからリュウヘイの全てとアキコが通じるわけではないが、リュウヘイにとってはこの店は特別な存在だったらしいのだけは分かる。この店がというよりも、この店のマスターがリュウヘイにとっては特別な人間だったのだ。
…………ソウイチとアキコは似ている
魂が囁くソウイチというのがここのマスターのことで、昔にアキコが電話で会話を交わした店長なのは店に入って直ぐに分かった。何が似ているのか問いかけても、断片的なリュウヘイの囁きは上手く答えを伝えてはくれない。アキコの何かとソウイチというマスターの何かが似通っているようだが、アキコとしては流石にそれを一目見て分かるほどでもないのだ。
それでも十年前に比べれば流石に年を重ねてはいるが、この店をお気に入りにしていた頃と店内はそれほど変化もない。記憶の中の店内の芳しい紅茶の香りもそのままで、加わったのは珈琲の香りくらいなもののような気がする。
…………アッサムのセカンドフラッシュの匂いだな…………
リュウヘイが実は紅茶派で茶葉に関してもとても詳しかったのを思い浮かべると、この店の存在も理由にあったのだろうかと密かに心の内で考えてしまう。茶葉の香りだけで種類が分かって、しかもその茶葉の摘んだ時期まで分かるのだ。
「アッサムのセカンドフラッシュ…………。」
「おや、よくお分かりですね。お詳しいんですか?」
気がついたらいつの間にかマスターが真横に立っていて、アキコがつられて呟いた言葉を聞いていたようすだ。紅茶の茶葉の産地は幾つかあって、インドの辺りの茶葉の産地ではどれもが三度ほどの茶葉の摘み取り時期をもっている。しかもそれぞれ茶葉の特性が変わり風味や味わいも変わるから、それに適した飲み方も存在したりするのだ。アキコはそれ程詳しいわけではないけれど、苦味を嫌うからとリュウヘイがミルクティーに一番いいからと持参してくれたのがアッサムのセカンドフラッシュと呼ばれる夏摘みの茶葉だ。
「いえ、知り合いが教えてくれたので。」
「匂いで分かるなら、もう詳しい範疇ですよ。ご注文は?アッサムで?」
「…………そうですね、ミルクティーにしてもらえますか?」
一番の楽しみかたですねと微笑まれて、そうなのかと改めてリュウヘイが自分に色々と気を使っていたのに気がついてしまう。ブレンドでもなく単一の茶葉を厳選するには当然価格が上がるし、アキコのように苦味を嫌うからと時期によって茶葉は異なっていて、時にはマスカットのような香りがしたり薔薇のような香りがしたりもした。
世間というものは実はとても狭くてほんの直ぐ隣にいるのに気がつかないことも多々あって、だからリュウヘイが意図してここを大事にしていたと知ってアキコも改めてここを訪れたくなったのだ。
紅茶が好きで、空が好きで…………
本当はリュウヘイとアキコとが良く趣味も嗜好も似ていたのだと、こうして魂を喰らってから今更のように知ってしまった。空が好きだったらアキコの実家のある地方に来たら呆れる程に広い空を見せてやったのに、リュウヘイはずっとこの街で四角く区切られた窓越しの空しか眺めていないのだ。しかも『茶樹』にリュウヘイが通ったのは遥か昔で、もしかしたらまだヤネオアキコだった時ここに通っていた頃にリュウヘイともすれ違ってもいたのかも知れないことに気がついてしまう。今更のように芳しい紅茶を口に含みながら、そんなことをここで苦く考えてしまう。
ほんと狡い子よね?…………リュウヘイは。
本当のことは隠してばかりで、悪人に思われるように装ってばかり。密かにリュウヘイが隠していたことを、素直に表に出していたら苦もなく幸せになれた筈なのに。それに自分と出逢ってからでも教えてくれたら、一緒に紅茶を楽しんだり空を見に行ったり一緒に沢山のことをしたのにと胎内の魂に向かってアキコが悪態をつく。それでも今が幸せなんだとリュウヘイの魂の残りが確かに穏やかに幸せそうに囁くから、ティーカップを見下ろしアキコはまた泣き出しそうになる。
…………凄く…………親不孝よ?リュウヘイ…………。
人のことは言えないけれど、そう囁きかけたくなる。こんなにも胸が痛くて泣きたくなるような深くて強い哀しみ。そんなものをここに来て知ってしまっては、『鵺』の本来の滓を求めて人の不幸を願い哭くことはできなくなる。子供を失う母が必ず存在するのに、どうしてその子供を不幸にして妬みや嫉みの滓を得られるだろうか。アキコ自身も過去にしてしまったことなのだと知っているのだけど、子供が死んでしまうのは本当に哀しいし苦しい。例えそれが最善でも、どんなに相手の願い通りでも、アキコには酷く悲しく寂しい。
そんな苦い思いに店で密かに浸りきって帰途につこうとした時には、夕方から降り始めていた雨は全く止む気配もなく次第に勢いを増し激しくアスファルトを叩いていた。日付はあと数時間で七月になろうとしていて、もう梅雨も明けてもいいのにその気配はまだなく雨足に湿度だけが一段と増しているのが分かる。
「…………雨足が酷いですよ、もう少しここでお待ちになったら?」
会計を済ませたアキコに、年を重ねたその店主は心配そうにそう声をかけてきた。思わずその顔を正面から見つめ返すと、相手がおやと眉を潜めるのに気がついてしまう。アキコはこの店に十年以上前とはいえ暫しウノシズコと足しげく通ってはいたけれど、電話でシュンイチのバイトのことで話した以外に店主と親しくしていたわけではない。それなのにこうして真正面から向き合ってしまったら、確かにリュウヘイが似ていると感じたのが何処と無くだが肌で分かる気がする。何処か似ているのは、気配というか雰囲気というか、同類のような奇妙な親近感があるのだ。それを考えるとどこかで何時か手をとられる程近くで、彼の声を聞いたことがあったような気がする。
…………のこ…………
それはずっと過去でシュンイチとここで暮らしていたよりも前のような気がするが、これが自分の記憶なのかリュウヘイの魂の記憶なのかは分からない。自分の記憶のような気もするけれど、もしかするとリュウヘイの記憶かもしれないのだ。けれど、もしリュウヘイの記憶なら相手が、アキコを見て不思議そうな顔をした理由にはならないのに気がつく。でも同時にそう言えば自分は暫く前、それこそ髪を切る前にテレビで顔が出てしまったのだったことを思い出し、アキコは咄嗟に視線を下げて俯く。テレビに出た顔を見た記憶があって、不思議そうな顔をしたのだとしたら余り顔を見せているのは余計なことになりそうだと思う。
「………………いえ、…………ここから駅まで歩いて直ぐですから……。」
アキコが薄く微笑みながら取り繕うようにそういうと、店主は気を取り直したように、そうですかとにこやかで穏やかな笑みを敷いた。そうしてお気をつけてお帰りくださいと柔らかな声で告げる声を背中に、アキコはユックリと扉を開き雨の中に足を踏み出す。
※※※
そうしてどしゃ降りの中を一人リュウヘイのことを考えながら、アキコが帰途についたのがこの最後の運命の始まりだった。雨足は更に激しくアスファルトの上を川のように水が流れていて何時も使うアンダーパスは少し危険そうだから、少し遠回りをして駅の構内を通過して線路を越え再び雨の中に足を踏み入れる。気がつけば風に紛れて強い雨を降らせる雲の気配がその目にもありありと見えて、今夜は一晩中荒れるのではないかとドンヨリとした重い雲をアキコは何気なく見上げた。
その時、何か背後に違和感を感じとったのだ。
チリチリと首筋に刺さるような不快感を伴う何かに咄嗟に振り返ったアキコの視界に、眩い雷光が走り世界を白く塗り込め上げてそこに立つ暗く大きな影を見た。瞬時にそれが危険なモノだと肌で感じたアキコが咄嗟に駆け出したのに、その影もアキコに追い縋るようにバシャバシャと音を立てて駆け出す。傘に落ちる雨足が強すぎて相手との距離感がまるで音で掴めない上に、闇雲に駆け出したせいで自宅とはずれて違う方向に駆け出してしまっていたのに気づくまでそう時間はかからなかった。こうなったら交番や店舗何処でも良いから駆け込まないとと考えるが、この雷雨の激しさのためなのか店舗はシャッターを下ろして早じまいしている。しかも助けを求めて叫ぼうにも、雷鳴が強すぎるのと雨のせいで道に人の気配もないのだ。
いけない!せめて、駅前に何とか戻らないと!
そう思っても駆け出してしまった方向は、暮明な上に更に間が悪い住宅地に紛れ込んでいく。宅地の道を駆けながら次第に視界に竹林が見えたのに、アキコは失敗したと心の中で思い切り舌打ちしたくなっていた。暮明の上に雨のせいで方向性がまるで掴めていないまま、駅から最も離れていてしかも人気のない北西側の竹林近くにいつの間にかアキコは追い込まれていたのだ。
「逃がさないぞ…………。」
低く呻くような声が直ぐ背後で囁いたのに、アキコは意を決して咄嗟に身を翻し竹林に向かって飛び込んだ。目を凝らして高い孟宗竹を盾にしながら回り込もうとするが、肥って老いているように見えてもやはり相手は男だった。腕を捕まれたのに咄嗟に傘で振り払い、さらに転びそうになりながら駆ける。
哭けばいい
そう心の中では思うが哭いてもしこの人間の体を失ったら、カズキを守ることが出来なくなる。そう思ったら非力なこの体のまま逃げるしか方法がないアキコを、背後から追い縋る男は声をたてて嗤いだしていた。相手はこうしてアキコが逃げ回るのをお楽しみの一環としか考えていない上に、もしかしたら今度は監禁では済まないかもしれない。スカートが草木に絡み音を立てて裂けるのを感じながら、アキコは少しでも明るさを感じる方に目を凝らして竹林を逃げ惑っている。
※※※
その姿を見つけたのは本当に偶々だった。
何気なく大通りを歩いていたら、『茶樹』のある角を曲がって見慣れた後ろ姿が俯き加減で歩み出てきたのだ。これは運命だとしか思えない。雨脚が強く傘を差し掛けて俯き加減で歩く女は自分には全く気がついておらず、このまま棲みかを見つけ出せるかもと思ったのだ。ところがやはりアキコはアキコで、駅を越えて歩き出して暫くしたら何かを察知したように振り返ったかと思うと自分の姿を認めて脱兎の如く駆け出していたのだ。
いいぞ、狩りだ。
獲物は目の前の雌奴隷で、自分にとっても楽しい追いかけっこの始まりだった。流石に年を重ねて以前ほどの速度はないが、アキはそれほど運動が得意ではなかったのに対して自分は昔はフットサルで鍛えていたこともあるから持久力はある筈だ。それにここに来てせっかく見つけた獲物を逃がすつもりはないし、捕まえたら妄想の世界そのままに思うがまま散々躾直して犯し尽くす。狂って孕むまで何時まででも犯し尽くして、今度こそアキが真実として自分の雌奴隷に生まれ変わる時が来たのだ。そう考えると自然と嗤いが溢れ落ちて、雨の中に陰鬱に響き渡る。
しかも次第にアキは人気のない方向ばかり選んで進み、自分は思わず奥歯を噛み歯を剥き出し笑う。
結局お前は、俺のモノになりたいんだ。
あの夜自分の顔を覗き込む母親の顔をした何かの眼の中に何かを見た気がするが、目を覚ました時にはなにもかも記憶の底で自分が怯えていたから見た夢なのだと思うしかなかった。怯えたのはアキが変わらないのに自分だけが置き去りにされてしまったせいで、アキをもう一度手にいれるしかないと決意させるのに十分だった。だからこそ毎日毎日駅前を中心に彷彷徨歩き、アキを探し続けてしたのだ。そしてまんまと罠にかかった女を逃すつもりもなく、竹林に飛び込んだ背中が稲妻に照らされた時には面白くて仕方がないくらいだった。
竹林の中でレイプごっこか?スキモノめ
追い付いて服を引き裂き、後ろから獣のように逸物を捩じ込む。それだけを考えて息が切れるのも構うことなく追いかけ続けているのに、その顔からは全くあの表情が消えることもない。しかも何時しか自分では無意識に歯を打ちならして、ガチガチと音を立てているのにすら気がつかないままでいる。
その日も家にいてただ雨脚を眺めるだけなら何もなかったかもしれないのだが、何故かその日は偶々気が向いて傘を差しその店に脚を向けていた。
『茶樹』
随分と昔にヤネオシュンイチを何とか働かせようとして、ヤネオアキコがバイトの件でと電話を掛けたことのある紅茶の美味しい喫茶店。何でそこに今更行こうと思ったのかを言葉で説明するのが難しいのは、自分の過去の探訪としてではなくて、体内にまだ僅かに存在を残すリュウヘイの魂が来訪の理由だったからだ。過去となにも変わらない場所で、昔より遥かに深味を加えて続けられてきた喫茶店の中には芳しく珈琲と紅茶の香りが入り交じっている。リュウヘイの記憶には折に触れてその店が触れていて、しかもアキコが喰ってしまった魂は次第に意識が遠退いて後数日もすれば完全に『鵺』に吸収されてしまうだろう。四十九日とは良く言ったもので、後十日もすればリュウヘイが死んで魂を食ってから丁度それくらいが経ち、その頃には胎内にリュウヘイを感じることもなくなるのだとアキコも知っていた。そして魂を喰ったからリュウヘイの全てとアキコが通じるわけではないが、リュウヘイにとってはこの店は特別な存在だったらしいのだけは分かる。この店がというよりも、この店のマスターがリュウヘイにとっては特別な人間だったのだ。
…………ソウイチとアキコは似ている
魂が囁くソウイチというのがここのマスターのことで、昔にアキコが電話で会話を交わした店長なのは店に入って直ぐに分かった。何が似ているのか問いかけても、断片的なリュウヘイの囁きは上手く答えを伝えてはくれない。アキコの何かとソウイチというマスターの何かが似通っているようだが、アキコとしては流石にそれを一目見て分かるほどでもないのだ。
それでも十年前に比べれば流石に年を重ねてはいるが、この店をお気に入りにしていた頃と店内はそれほど変化もない。記憶の中の店内の芳しい紅茶の香りもそのままで、加わったのは珈琲の香りくらいなもののような気がする。
…………アッサムのセカンドフラッシュの匂いだな…………
リュウヘイが実は紅茶派で茶葉に関してもとても詳しかったのを思い浮かべると、この店の存在も理由にあったのだろうかと密かに心の内で考えてしまう。茶葉の香りだけで種類が分かって、しかもその茶葉の摘んだ時期まで分かるのだ。
「アッサムのセカンドフラッシュ…………。」
「おや、よくお分かりですね。お詳しいんですか?」
気がついたらいつの間にかマスターが真横に立っていて、アキコがつられて呟いた言葉を聞いていたようすだ。紅茶の茶葉の産地は幾つかあって、インドの辺りの茶葉の産地ではどれもが三度ほどの茶葉の摘み取り時期をもっている。しかもそれぞれ茶葉の特性が変わり風味や味わいも変わるから、それに適した飲み方も存在したりするのだ。アキコはそれ程詳しいわけではないけれど、苦味を嫌うからとリュウヘイがミルクティーに一番いいからと持参してくれたのがアッサムのセカンドフラッシュと呼ばれる夏摘みの茶葉だ。
「いえ、知り合いが教えてくれたので。」
「匂いで分かるなら、もう詳しい範疇ですよ。ご注文は?アッサムで?」
「…………そうですね、ミルクティーにしてもらえますか?」
一番の楽しみかたですねと微笑まれて、そうなのかと改めてリュウヘイが自分に色々と気を使っていたのに気がついてしまう。ブレンドでもなく単一の茶葉を厳選するには当然価格が上がるし、アキコのように苦味を嫌うからと時期によって茶葉は異なっていて、時にはマスカットのような香りがしたり薔薇のような香りがしたりもした。
世間というものは実はとても狭くてほんの直ぐ隣にいるのに気がつかないことも多々あって、だからリュウヘイが意図してここを大事にしていたと知ってアキコも改めてここを訪れたくなったのだ。
紅茶が好きで、空が好きで…………
本当はリュウヘイとアキコとが良く趣味も嗜好も似ていたのだと、こうして魂を喰らってから今更のように知ってしまった。空が好きだったらアキコの実家のある地方に来たら呆れる程に広い空を見せてやったのに、リュウヘイはずっとこの街で四角く区切られた窓越しの空しか眺めていないのだ。しかも『茶樹』にリュウヘイが通ったのは遥か昔で、もしかしたらまだヤネオアキコだった時ここに通っていた頃にリュウヘイともすれ違ってもいたのかも知れないことに気がついてしまう。今更のように芳しい紅茶を口に含みながら、そんなことをここで苦く考えてしまう。
ほんと狡い子よね?…………リュウヘイは。
本当のことは隠してばかりで、悪人に思われるように装ってばかり。密かにリュウヘイが隠していたことを、素直に表に出していたら苦もなく幸せになれた筈なのに。それに自分と出逢ってからでも教えてくれたら、一緒に紅茶を楽しんだり空を見に行ったり一緒に沢山のことをしたのにと胎内の魂に向かってアキコが悪態をつく。それでも今が幸せなんだとリュウヘイの魂の残りが確かに穏やかに幸せそうに囁くから、ティーカップを見下ろしアキコはまた泣き出しそうになる。
…………凄く…………親不孝よ?リュウヘイ…………。
人のことは言えないけれど、そう囁きかけたくなる。こんなにも胸が痛くて泣きたくなるような深くて強い哀しみ。そんなものをここに来て知ってしまっては、『鵺』の本来の滓を求めて人の不幸を願い哭くことはできなくなる。子供を失う母が必ず存在するのに、どうしてその子供を不幸にして妬みや嫉みの滓を得られるだろうか。アキコ自身も過去にしてしまったことなのだと知っているのだけど、子供が死んでしまうのは本当に哀しいし苦しい。例えそれが最善でも、どんなに相手の願い通りでも、アキコには酷く悲しく寂しい。
そんな苦い思いに店で密かに浸りきって帰途につこうとした時には、夕方から降り始めていた雨は全く止む気配もなく次第に勢いを増し激しくアスファルトを叩いていた。日付はあと数時間で七月になろうとしていて、もう梅雨も明けてもいいのにその気配はまだなく雨足に湿度だけが一段と増しているのが分かる。
「…………雨足が酷いですよ、もう少しここでお待ちになったら?」
会計を済ませたアキコに、年を重ねたその店主は心配そうにそう声をかけてきた。思わずその顔を正面から見つめ返すと、相手がおやと眉を潜めるのに気がついてしまう。アキコはこの店に十年以上前とはいえ暫しウノシズコと足しげく通ってはいたけれど、電話でシュンイチのバイトのことで話した以外に店主と親しくしていたわけではない。それなのにこうして真正面から向き合ってしまったら、確かにリュウヘイが似ていると感じたのが何処と無くだが肌で分かる気がする。何処か似ているのは、気配というか雰囲気というか、同類のような奇妙な親近感があるのだ。それを考えるとどこかで何時か手をとられる程近くで、彼の声を聞いたことがあったような気がする。
…………のこ…………
それはずっと過去でシュンイチとここで暮らしていたよりも前のような気がするが、これが自分の記憶なのかリュウヘイの魂の記憶なのかは分からない。自分の記憶のような気もするけれど、もしかするとリュウヘイの記憶かもしれないのだ。けれど、もしリュウヘイの記憶なら相手が、アキコを見て不思議そうな顔をした理由にはならないのに気がつく。でも同時にそう言えば自分は暫く前、それこそ髪を切る前にテレビで顔が出てしまったのだったことを思い出し、アキコは咄嗟に視線を下げて俯く。テレビに出た顔を見た記憶があって、不思議そうな顔をしたのだとしたら余り顔を見せているのは余計なことになりそうだと思う。
「………………いえ、…………ここから駅まで歩いて直ぐですから……。」
アキコが薄く微笑みながら取り繕うようにそういうと、店主は気を取り直したように、そうですかとにこやかで穏やかな笑みを敷いた。そうしてお気をつけてお帰りくださいと柔らかな声で告げる声を背中に、アキコはユックリと扉を開き雨の中に足を踏み出す。
※※※
そうしてどしゃ降りの中を一人リュウヘイのことを考えながら、アキコが帰途についたのがこの最後の運命の始まりだった。雨足は更に激しくアスファルトの上を川のように水が流れていて何時も使うアンダーパスは少し危険そうだから、少し遠回りをして駅の構内を通過して線路を越え再び雨の中に足を踏み入れる。気がつけば風に紛れて強い雨を降らせる雲の気配がその目にもありありと見えて、今夜は一晩中荒れるのではないかとドンヨリとした重い雲をアキコは何気なく見上げた。
その時、何か背後に違和感を感じとったのだ。
チリチリと首筋に刺さるような不快感を伴う何かに咄嗟に振り返ったアキコの視界に、眩い雷光が走り世界を白く塗り込め上げてそこに立つ暗く大きな影を見た。瞬時にそれが危険なモノだと肌で感じたアキコが咄嗟に駆け出したのに、その影もアキコに追い縋るようにバシャバシャと音を立てて駆け出す。傘に落ちる雨足が強すぎて相手との距離感がまるで音で掴めない上に、闇雲に駆け出したせいで自宅とはずれて違う方向に駆け出してしまっていたのに気づくまでそう時間はかからなかった。こうなったら交番や店舗何処でも良いから駆け込まないとと考えるが、この雷雨の激しさのためなのか店舗はシャッターを下ろして早じまいしている。しかも助けを求めて叫ぼうにも、雷鳴が強すぎるのと雨のせいで道に人の気配もないのだ。
いけない!せめて、駅前に何とか戻らないと!
そう思っても駆け出してしまった方向は、暮明な上に更に間が悪い住宅地に紛れ込んでいく。宅地の道を駆けながら次第に視界に竹林が見えたのに、アキコは失敗したと心の中で思い切り舌打ちしたくなっていた。暮明の上に雨のせいで方向性がまるで掴めていないまま、駅から最も離れていてしかも人気のない北西側の竹林近くにいつの間にかアキコは追い込まれていたのだ。
「逃がさないぞ…………。」
低く呻くような声が直ぐ背後で囁いたのに、アキコは意を決して咄嗟に身を翻し竹林に向かって飛び込んだ。目を凝らして高い孟宗竹を盾にしながら回り込もうとするが、肥って老いているように見えてもやはり相手は男だった。腕を捕まれたのに咄嗟に傘で振り払い、さらに転びそうになりながら駆ける。
哭けばいい
そう心の中では思うが哭いてもしこの人間の体を失ったら、カズキを守ることが出来なくなる。そう思ったら非力なこの体のまま逃げるしか方法がないアキコを、背後から追い縋る男は声をたてて嗤いだしていた。相手はこうしてアキコが逃げ回るのをお楽しみの一環としか考えていない上に、もしかしたら今度は監禁では済まないかもしれない。スカートが草木に絡み音を立てて裂けるのを感じながら、アキコは少しでも明るさを感じる方に目を凝らして竹林を逃げ惑っている。
※※※
その姿を見つけたのは本当に偶々だった。
何気なく大通りを歩いていたら、『茶樹』のある角を曲がって見慣れた後ろ姿が俯き加減で歩み出てきたのだ。これは運命だとしか思えない。雨脚が強く傘を差し掛けて俯き加減で歩く女は自分には全く気がついておらず、このまま棲みかを見つけ出せるかもと思ったのだ。ところがやはりアキコはアキコで、駅を越えて歩き出して暫くしたら何かを察知したように振り返ったかと思うと自分の姿を認めて脱兎の如く駆け出していたのだ。
いいぞ、狩りだ。
獲物は目の前の雌奴隷で、自分にとっても楽しい追いかけっこの始まりだった。流石に年を重ねて以前ほどの速度はないが、アキはそれほど運動が得意ではなかったのに対して自分は昔はフットサルで鍛えていたこともあるから持久力はある筈だ。それにここに来てせっかく見つけた獲物を逃がすつもりはないし、捕まえたら妄想の世界そのままに思うがまま散々躾直して犯し尽くす。狂って孕むまで何時まででも犯し尽くして、今度こそアキが真実として自分の雌奴隷に生まれ変わる時が来たのだ。そう考えると自然と嗤いが溢れ落ちて、雨の中に陰鬱に響き渡る。
しかも次第にアキは人気のない方向ばかり選んで進み、自分は思わず奥歯を噛み歯を剥き出し笑う。
結局お前は、俺のモノになりたいんだ。
あの夜自分の顔を覗き込む母親の顔をした何かの眼の中に何かを見た気がするが、目を覚ました時にはなにもかも記憶の底で自分が怯えていたから見た夢なのだと思うしかなかった。怯えたのはアキが変わらないのに自分だけが置き去りにされてしまったせいで、アキをもう一度手にいれるしかないと決意させるのに十分だった。だからこそ毎日毎日駅前を中心に彷彷徨歩き、アキを探し続けてしたのだ。そしてまんまと罠にかかった女を逃すつもりもなく、竹林に飛び込んだ背中が稲妻に照らされた時には面白くて仕方がないくらいだった。
竹林の中でレイプごっこか?スキモノめ
追い付いて服を引き裂き、後ろから獣のように逸物を捩じ込む。それだけを考えて息が切れるのも構うことなく追いかけ続けているのに、その顔からは全くあの表情が消えることもない。しかも何時しか自分では無意識に歯を打ちならして、ガチガチと音を立てているのにすら気がつかないままでいる。
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