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166.
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傘を閉じて咄嗟に竹林に飛び込んで相手を撒こうとしたのに、どんなに駆けても後ろの気配が遠退かない。竹林を掻き分けるようにして必死で駆け続けても、雷鳴と雨足のせいで狙った街の方向が一向に掴めないのにも更に絶望しそうになる。しかもアキコのこの身体は元々走るのに向いていない上に、ここのところ滓を食べもせず力ばかりを使い身を削ったせいで体力もないのに気が付いてしまった。
どうしたらいいの?!
吐く息が夜風と雨に白く煙るように放たれて自分が限界のように熱い息をついているのを知りながら、必死で竹林を掻き分けぬかるんだ土に足をとられながらも走り続ける。北東に向かって駆けて相手を撒く事が無理なら東に向かって住宅地に抜けだして回り込むように駅に向かって南下していく筈だったのに、激しい雨足のせいで方向がまるで分からないのが忌々しい。あのままマスターの言う通りもう少し『茶樹』にとどまっていれば良かったとか、近くても駅前からタクシーを使えば良かったとか、何時ものようにアンダーパスを通って帰る道を使えばよかったとか。こんなことを悔やんでも、全て今更だった。
ここでアキコが叫んだとしてもこの雨の音と成り続く雷鳴で、きっと紛れて誰の耳にも届かないのは考えなくても分かる。つまりは何とかしてこの竹林で相手を撒いて、街中に戻り、どこでもいいから人に助けを求めるしか今のアキコには手がないのだ。そう息を切らせて考えた次の瞬間ガサガサと駆け続ける腕を背後から鷲掴みにされて、振り払おうにもその腕の方に逆にあっという間に引き摺り倒されていた。音を立てて倒れ込み湿った土の臭いと雨の臭いに全身を包まれたと思ったら、直ぐ様シュンイチの体が放つ異臭が近づいてきて鼻につく。上からのし掛かろうとしたヤネオシュンイチの臭いと言う気配に、アキコは咄嗟にその方向に足を突きだし全力で蹴り飛ばす。
「うぐぅ!!」
アキコとしてもそれ程の力ではないと思うが、シュンイチは予想外の行動だったのか太く空も見えないほど覆い被さる孟宗竹にあっさりと撥ね飛ばされていた。一瞬の間隔、それを期に男から何とか離れようともがくように地面をアキコは這ったが、やはりこの体は脆くて非力過ぎる。あっという間に後ろから飛びかかりひっくり返されたかと思うと腹の上にドカリと跨がられていて、アキコは息が詰まるのと同時に重さという苦痛に呻きをあげていた。
「ううっ!!」
「ははぁ!!捕まえたぞ!!雌犬!」
百五十センチしかない上に小柄で痩せたアキコに、百八十も身長があって中年特有の肉のたっぷりとついた体がどっかりと跨がってしまってはどうしても身動きもとれない。しかも、シュンイチは今もニタニタと嗤いながら、あの何時もの顔で奥歯を噛み歯を剥き出していた。このままこんな場所で服を引き裂かれ犯されるかもしれない恐怖と、同時に今度はこの男に何をされるか分からない不安に飲まれる。少なくとも以前のような暴力が最低ラインだとしたら、自分はこのままここで殺されるのだろうか。いや、この男はアキコを奴隷にしたいのだから殺しはしないだろうが、酷い目には合わされるだろう。酷い目のラインがどれくらいかの差だろうけれど、最初の時のようにアキコとしてこの男を受け入れる余地は今のアキコには全くない。つまりはどんなに犯されてもアキコは、もうシュンイチを受け入れられないのだ。それなのに男の威圧に負けて、アキコの身体は凍り付きつつある。
アキコ!逃げろ!!
体内で断片の魂が驚愕に声を上げて、恐怖に飲まれて凍りついている場合じゃないとアキコを我に返らせてくれる。そうでなければ身体は凍り付いた状態で止まったままに、相手にいいようにされてしまうところだった。咄嗟に手足をバタつかせ少しでも相手を遠ざけようと、必死で抵抗の声を上げる。
「やめて!離して!!」
「いいぞ、もっと懇願してみせろ!ははぁ!いいぞ!!」
そうだった、この男には拒絶の言葉が何一つ伝わらない。どんなにアキコが本気で嫌がっていても、それはこの男の中では蹂躙のためのプレイの一貫と変換され演技だとしか考えないのだから、こうしてただ喜ぶだけなのだ。それでもこの男の欲望に再び素直に従ってどうぞお好きに犯してくださいなんて一片も思える筈がないし、この男に触れられるのも二度とごめんだ。その思いでアキコは泥に汚れることも厭わずに、更に必死に暴れ続ける。
「……やめて!!」
誰か助けてと思うが、こんな竹林の真っ只中に誰が誰が来ると言うのだろう。覆い被さってくる強い腐臭がこの雨の中だと言うのに、臭いの素を鼻の前に突き出されたように酷く臭うのに吐き気がする。しかもどんなにアキコが手を突っ張っても相手は構うことなくニタニタ嗤っていて、嬉々としてアキコの襟元に手を伸ばしてきていた。
「いやっ!!」
こんな風に闇の中で叫んでも幼い頃に誰かに体を舐め回された現実は変わらないし、風呂や寝室を覗かれたのも変わらない。何度も体の中の影が欲する渇望に呑まれてセックスをして、それでも何も満たされたわけでもなく、やがてはこの男に出会い蹂躙され狂いそうになって逃げだしたアキコ。何よりも強い滓を生じさせる死を選んで遂に魂は逃れたのに、またこの男はアキコの体を捕まえて獣のように蹂躙しようとしている。グイと濡れた服の襟元を掴んだ逆光の中の影は、最初に体を舐め回したモノと何も変わりがないように見えていた。
また……
悪意の形は違っても、結局行為をするのは人間だ。様々な悪意や憎悪や恐怖は滓になって体を包みはするが、行為をしているのは最終的には人間そのもの。胎内で眠り滓を食べて成長しきるまでに、影として自分がそれをこの身体に散々と惹き付けたのは十分に理解している。でも同時に今は自分はアキコでもあるのだ。つまりは、した側のこともされた側のことも理解できていて、今はこの身体が必要でこれを逃れる術をもたないし、そんなことを今更組み敷かれながら考えても何も助けにはならない。ビィと布が簡単に裂ける音がして、頭に浮かんだのはやはり力一杯哭くことだった。『鵺』として本気で哭いてしまえばいい、相手に向かって災厄を捩じ込むように。
「やめて!!」
哭けばいいのにと分かっていて頭に浮かぶのは、リュウヘイの頼むという声と自分を慕って自分しか頼れなくなっているカズキのこと。どれだけ哭けば容易いと分かっていても、カズキを独りにすると思うと哭く声がどうしても出せない。
カズキ
大事な子。だってあの子はリュウヘイの残した子供。それを託されたのは自分の事をリュウヘイが好きでいてくれて、自分がそれを受け止めたのはリュウヘイが好きだったから。頭の中でそう閃く思考は自分でも自分らしくない思考なのは分かりきっていて、それでも覆す事の出来ない深くて得体の知れない新しい『好き』という感情のせいだ。『鵺』の自分には永遠に理解できない筈の人間の感情の一つで、それを知ってしまった自分は『鵺』でもいられなくなる。
アキコ!
リュウヘイの自分を呼ぶ悲鳴のような声が何故か嬉しいのは、リュウヘイがアキコの身を案じていて魂が助けを求めて叫ぶからだ。そんな風に大切に思われているのが分かって嬉しいのは、人間もそうなのだろうか。そう頭の片隅に思った瞬間、撓る孟宗竹を折れるほどの勢いで掻き分けるようにして雨の中駆けつけてくる足音が聞こえていた。
「何やってんだ!!」
鋭い叱責の声と同時に覆い被さるシュンイチの襟首を掴み引き剥がし、傘で容赦なく殴り付けて突き飛ばした人影がそこにあった。アキコに背を向けたその人影の髪は雷光に反射して陽光のように光る金色。アキコの瞳には、まるでカズキが助けに来たようにも見えて目を丸くする。
カズキ…………?
もしかしてリュウヘイの声が聞こえて、助けに来てくれたのかと一瞬考えてしまう。だけどアキコを背後に庇うようにして背を向けたままの青年の髪の毛が、激しい雨にもまるで色を変えないのに気が付いてアキコはじっとその後ろ姿を見上げていた。カズキの髪の毛は元の地毛は黒で染めたりして金色にしているから濡れると少しだけ色合が変わるのだが、目の前の髪の毛は濡れても殆んど色合が変化しない。つまりは自然の色がこれなのだと分かるから、こんなに後ろ姿が似ていてもカズキではないのだ。
良く似てる……カズキと…………でも、
突き飛ばされ勢い良く太い孟宗竹に叩きつけらた反動で、鬱蒼とした孟宗竹の葉が激しい雨と一緒に振動にザアッと降り落ちてくる。その中でシュンイチはギラギラと光を反射する瞳で、間に入ってきた金髪の青年を睨み付けていた。
「なんだ?お前……。」
低くシュンイチが呻くように言う。雨足も孟宗竹の葉の音も、それこそ雷鳴の激しい音にすら紛れず、ギリギリと割れるばかりの奥歯の軋る音がする。奥歯を噛みゾロリと歯を剥き出して嗤っているようにも見えるシュンイチの顔に、間に立った青年は不快そうに目を細めていた。
「それは……俺の女だ……!邪魔するな!!」
シュンイチはまるで気にもかけていないし記憶の中にも残っていないようだが、実は間に入った青年の方は何度か今までにシュンイチと街中で出くわしていた。それこそ丁度アキコではなくシュンイチが二号と呼んでいた女子高生をカラオケボックス助けに入った男性二人の友人でもあってあの時実は店舗にも来ていたし、その助けた女子高生ともそれ以降は知り合いになって公園で彼女に詰め寄ったシュンイチと対峙もしている。何よりもほんの数ヵ月前にミウラカズキの実家の地下室にいたシュンイチを発見したのは、実はこの青年だったのだ。それがマキヤマタダシというこの青年で、実はカズキの幼稚園からの幼馴染み、カズキがまだ記憶できる数人の一人だとは流石にアキコも知らない。そしてカズキが意識的に金髪にしたり彼に似た雰囲気の様相を好むのも、元から彼が親友で自分にはない面に惹かれていたからなのもアキコはまだ知らないことだった。それでもこうして人が助けに入ってきたということは案外竹林の中を闇雲に走っていたようで目的に近づいてはいたのかもしれないと、アキコは自分を庇い揺るがない背中を見上げながら思う。
「どけぇ!!」
シュンイチは不快な臭気を口から放ちながら、ノソリと青年に向かって身を揺らしつつ歩み寄ってくる。今のシュンイチは普段の相手に抵抗されると直ぐ折れるようなシュンイチではなくて、スッカリ正気ではなくなっていて狂気に染まった別人のようだった。しかも腐臭は口だけでなくその全身から、雨に紛れることなく辺りに放たれている。正直その悪臭は感情に煽られたように更に強まっていて顔を背けたくなる程で、おぞましい臭気を放つのにアキコは不快感に吐き出さないよう雨の中で荒い息を吐く。言った通り人間の体臭は病の知らせでもあるしドブのような臭いは肝臓の病を持っていたりするシグナルの一つではるけれど、これはもうその範疇では済まされない。生きながら身体の中が完全に腐り果てているような、とてつもない悪臭なのだ。
「退けっていってんだろぉ!!」
悪意が吹き出すような腐臭が風になって男から吹き付けてくるのに、間の青年も耐えきれずに眉を潜めて思わず腕で口許を覆う。自分からの臭いに咄嗟に現れた仕草に、シュンイチはまるで憤怒の鬼のように顔を染めてギジギジと奥歯を割れるほど噛みしめて怒号をあげた。
「そんなに臭いか!腐った臭いでもするか?!ああ?!」
その声と同時にシュンイチは両の手を鉤爪のようにして、突然青年に向かって一直線に飛びかかり掴みかかってくる。異様な臭気を放っていても一見すればただの人間にしか見えないシュンイチに、青年は一瞬戸惑いながらサッとその突き出された腕をとるとシュンイチの足を薙ぎ払った。
「うあああっ!!」
自分自身が駆け出していた反動もあるのか、一瞬シュンイチの体がフワリと浮かんだかと思うと揉んどりうって仰向けに倒れこむ。余りにも勢いよく倒れこんだシュンイチは一瞬ううっ!!と無様な呻きを上げて、そのまま凍り付いていた。もしかして頭を庇うことなく仰向けになってしまったから、頭を打って脳震盪でも起こしたか。そう考えた隙に青年が背後のアキコを振り返って咄嗟にその腕をとると、サッと立ち上がらせてくれていた。それでも既にスッカリ雨に濡れた細い腕は冷えきって氷のように微かに粟立っているのが、反対に炎のように熱い青年の手には伝わる。見上げるようにその青年の顔を見るとキツい目元をしていて、甘えたで笑ってばかりのカズキとは全く似ていない。それなのに顔を見ても何故かカズキに何処と無く似ているなんて思ってしまうのは、こうして助けに来てくれたからなのだろうか。
どうしたらいいの?!
吐く息が夜風と雨に白く煙るように放たれて自分が限界のように熱い息をついているのを知りながら、必死で竹林を掻き分けぬかるんだ土に足をとられながらも走り続ける。北東に向かって駆けて相手を撒く事が無理なら東に向かって住宅地に抜けだして回り込むように駅に向かって南下していく筈だったのに、激しい雨足のせいで方向がまるで分からないのが忌々しい。あのままマスターの言う通りもう少し『茶樹』にとどまっていれば良かったとか、近くても駅前からタクシーを使えば良かったとか、何時ものようにアンダーパスを通って帰る道を使えばよかったとか。こんなことを悔やんでも、全て今更だった。
ここでアキコが叫んだとしてもこの雨の音と成り続く雷鳴で、きっと紛れて誰の耳にも届かないのは考えなくても分かる。つまりは何とかしてこの竹林で相手を撒いて、街中に戻り、どこでもいいから人に助けを求めるしか今のアキコには手がないのだ。そう息を切らせて考えた次の瞬間ガサガサと駆け続ける腕を背後から鷲掴みにされて、振り払おうにもその腕の方に逆にあっという間に引き摺り倒されていた。音を立てて倒れ込み湿った土の臭いと雨の臭いに全身を包まれたと思ったら、直ぐ様シュンイチの体が放つ異臭が近づいてきて鼻につく。上からのし掛かろうとしたヤネオシュンイチの臭いと言う気配に、アキコは咄嗟にその方向に足を突きだし全力で蹴り飛ばす。
「うぐぅ!!」
アキコとしてもそれ程の力ではないと思うが、シュンイチは予想外の行動だったのか太く空も見えないほど覆い被さる孟宗竹にあっさりと撥ね飛ばされていた。一瞬の間隔、それを期に男から何とか離れようともがくように地面をアキコは這ったが、やはりこの体は脆くて非力過ぎる。あっという間に後ろから飛びかかりひっくり返されたかと思うと腹の上にドカリと跨がられていて、アキコは息が詰まるのと同時に重さという苦痛に呻きをあげていた。
「ううっ!!」
「ははぁ!!捕まえたぞ!!雌犬!」
百五十センチしかない上に小柄で痩せたアキコに、百八十も身長があって中年特有の肉のたっぷりとついた体がどっかりと跨がってしまってはどうしても身動きもとれない。しかも、シュンイチは今もニタニタと嗤いながら、あの何時もの顔で奥歯を噛み歯を剥き出していた。このままこんな場所で服を引き裂かれ犯されるかもしれない恐怖と、同時に今度はこの男に何をされるか分からない不安に飲まれる。少なくとも以前のような暴力が最低ラインだとしたら、自分はこのままここで殺されるのだろうか。いや、この男はアキコを奴隷にしたいのだから殺しはしないだろうが、酷い目には合わされるだろう。酷い目のラインがどれくらいかの差だろうけれど、最初の時のようにアキコとしてこの男を受け入れる余地は今のアキコには全くない。つまりはどんなに犯されてもアキコは、もうシュンイチを受け入れられないのだ。それなのに男の威圧に負けて、アキコの身体は凍り付きつつある。
アキコ!逃げろ!!
体内で断片の魂が驚愕に声を上げて、恐怖に飲まれて凍りついている場合じゃないとアキコを我に返らせてくれる。そうでなければ身体は凍り付いた状態で止まったままに、相手にいいようにされてしまうところだった。咄嗟に手足をバタつかせ少しでも相手を遠ざけようと、必死で抵抗の声を上げる。
「やめて!離して!!」
「いいぞ、もっと懇願してみせろ!ははぁ!いいぞ!!」
そうだった、この男には拒絶の言葉が何一つ伝わらない。どんなにアキコが本気で嫌がっていても、それはこの男の中では蹂躙のためのプレイの一貫と変換され演技だとしか考えないのだから、こうしてただ喜ぶだけなのだ。それでもこの男の欲望に再び素直に従ってどうぞお好きに犯してくださいなんて一片も思える筈がないし、この男に触れられるのも二度とごめんだ。その思いでアキコは泥に汚れることも厭わずに、更に必死に暴れ続ける。
「……やめて!!」
誰か助けてと思うが、こんな竹林の真っ只中に誰が誰が来ると言うのだろう。覆い被さってくる強い腐臭がこの雨の中だと言うのに、臭いの素を鼻の前に突き出されたように酷く臭うのに吐き気がする。しかもどんなにアキコが手を突っ張っても相手は構うことなくニタニタ嗤っていて、嬉々としてアキコの襟元に手を伸ばしてきていた。
「いやっ!!」
こんな風に闇の中で叫んでも幼い頃に誰かに体を舐め回された現実は変わらないし、風呂や寝室を覗かれたのも変わらない。何度も体の中の影が欲する渇望に呑まれてセックスをして、それでも何も満たされたわけでもなく、やがてはこの男に出会い蹂躙され狂いそうになって逃げだしたアキコ。何よりも強い滓を生じさせる死を選んで遂に魂は逃れたのに、またこの男はアキコの体を捕まえて獣のように蹂躙しようとしている。グイと濡れた服の襟元を掴んだ逆光の中の影は、最初に体を舐め回したモノと何も変わりがないように見えていた。
また……
悪意の形は違っても、結局行為をするのは人間だ。様々な悪意や憎悪や恐怖は滓になって体を包みはするが、行為をしているのは最終的には人間そのもの。胎内で眠り滓を食べて成長しきるまでに、影として自分がそれをこの身体に散々と惹き付けたのは十分に理解している。でも同時に今は自分はアキコでもあるのだ。つまりは、した側のこともされた側のことも理解できていて、今はこの身体が必要でこれを逃れる術をもたないし、そんなことを今更組み敷かれながら考えても何も助けにはならない。ビィと布が簡単に裂ける音がして、頭に浮かんだのはやはり力一杯哭くことだった。『鵺』として本気で哭いてしまえばいい、相手に向かって災厄を捩じ込むように。
「やめて!!」
哭けばいいのにと分かっていて頭に浮かぶのは、リュウヘイの頼むという声と自分を慕って自分しか頼れなくなっているカズキのこと。どれだけ哭けば容易いと分かっていても、カズキを独りにすると思うと哭く声がどうしても出せない。
カズキ
大事な子。だってあの子はリュウヘイの残した子供。それを託されたのは自分の事をリュウヘイが好きでいてくれて、自分がそれを受け止めたのはリュウヘイが好きだったから。頭の中でそう閃く思考は自分でも自分らしくない思考なのは分かりきっていて、それでも覆す事の出来ない深くて得体の知れない新しい『好き』という感情のせいだ。『鵺』の自分には永遠に理解できない筈の人間の感情の一つで、それを知ってしまった自分は『鵺』でもいられなくなる。
アキコ!
リュウヘイの自分を呼ぶ悲鳴のような声が何故か嬉しいのは、リュウヘイがアキコの身を案じていて魂が助けを求めて叫ぶからだ。そんな風に大切に思われているのが分かって嬉しいのは、人間もそうなのだろうか。そう頭の片隅に思った瞬間、撓る孟宗竹を折れるほどの勢いで掻き分けるようにして雨の中駆けつけてくる足音が聞こえていた。
「何やってんだ!!」
鋭い叱責の声と同時に覆い被さるシュンイチの襟首を掴み引き剥がし、傘で容赦なく殴り付けて突き飛ばした人影がそこにあった。アキコに背を向けたその人影の髪は雷光に反射して陽光のように光る金色。アキコの瞳には、まるでカズキが助けに来たようにも見えて目を丸くする。
カズキ…………?
もしかしてリュウヘイの声が聞こえて、助けに来てくれたのかと一瞬考えてしまう。だけどアキコを背後に庇うようにして背を向けたままの青年の髪の毛が、激しい雨にもまるで色を変えないのに気が付いてアキコはじっとその後ろ姿を見上げていた。カズキの髪の毛は元の地毛は黒で染めたりして金色にしているから濡れると少しだけ色合が変わるのだが、目の前の髪の毛は濡れても殆んど色合が変化しない。つまりは自然の色がこれなのだと分かるから、こんなに後ろ姿が似ていてもカズキではないのだ。
良く似てる……カズキと…………でも、
突き飛ばされ勢い良く太い孟宗竹に叩きつけらた反動で、鬱蒼とした孟宗竹の葉が激しい雨と一緒に振動にザアッと降り落ちてくる。その中でシュンイチはギラギラと光を反射する瞳で、間に入ってきた金髪の青年を睨み付けていた。
「なんだ?お前……。」
低くシュンイチが呻くように言う。雨足も孟宗竹の葉の音も、それこそ雷鳴の激しい音にすら紛れず、ギリギリと割れるばかりの奥歯の軋る音がする。奥歯を噛みゾロリと歯を剥き出して嗤っているようにも見えるシュンイチの顔に、間に立った青年は不快そうに目を細めていた。
「それは……俺の女だ……!邪魔するな!!」
シュンイチはまるで気にもかけていないし記憶の中にも残っていないようだが、実は間に入った青年の方は何度か今までにシュンイチと街中で出くわしていた。それこそ丁度アキコではなくシュンイチが二号と呼んでいた女子高生をカラオケボックス助けに入った男性二人の友人でもあってあの時実は店舗にも来ていたし、その助けた女子高生ともそれ以降は知り合いになって公園で彼女に詰め寄ったシュンイチと対峙もしている。何よりもほんの数ヵ月前にミウラカズキの実家の地下室にいたシュンイチを発見したのは、実はこの青年だったのだ。それがマキヤマタダシというこの青年で、実はカズキの幼稚園からの幼馴染み、カズキがまだ記憶できる数人の一人だとは流石にアキコも知らない。そしてカズキが意識的に金髪にしたり彼に似た雰囲気の様相を好むのも、元から彼が親友で自分にはない面に惹かれていたからなのもアキコはまだ知らないことだった。それでもこうして人が助けに入ってきたということは案外竹林の中を闇雲に走っていたようで目的に近づいてはいたのかもしれないと、アキコは自分を庇い揺るがない背中を見上げながら思う。
「どけぇ!!」
シュンイチは不快な臭気を口から放ちながら、ノソリと青年に向かって身を揺らしつつ歩み寄ってくる。今のシュンイチは普段の相手に抵抗されると直ぐ折れるようなシュンイチではなくて、スッカリ正気ではなくなっていて狂気に染まった別人のようだった。しかも腐臭は口だけでなくその全身から、雨に紛れることなく辺りに放たれている。正直その悪臭は感情に煽られたように更に強まっていて顔を背けたくなる程で、おぞましい臭気を放つのにアキコは不快感に吐き出さないよう雨の中で荒い息を吐く。言った通り人間の体臭は病の知らせでもあるしドブのような臭いは肝臓の病を持っていたりするシグナルの一つではるけれど、これはもうその範疇では済まされない。生きながら身体の中が完全に腐り果てているような、とてつもない悪臭なのだ。
「退けっていってんだろぉ!!」
悪意が吹き出すような腐臭が風になって男から吹き付けてくるのに、間の青年も耐えきれずに眉を潜めて思わず腕で口許を覆う。自分からの臭いに咄嗟に現れた仕草に、シュンイチはまるで憤怒の鬼のように顔を染めてギジギジと奥歯を割れるほど噛みしめて怒号をあげた。
「そんなに臭いか!腐った臭いでもするか?!ああ?!」
その声と同時にシュンイチは両の手を鉤爪のようにして、突然青年に向かって一直線に飛びかかり掴みかかってくる。異様な臭気を放っていても一見すればただの人間にしか見えないシュンイチに、青年は一瞬戸惑いながらサッとその突き出された腕をとるとシュンイチの足を薙ぎ払った。
「うあああっ!!」
自分自身が駆け出していた反動もあるのか、一瞬シュンイチの体がフワリと浮かんだかと思うと揉んどりうって仰向けに倒れこむ。余りにも勢いよく倒れこんだシュンイチは一瞬ううっ!!と無様な呻きを上げて、そのまま凍り付いていた。もしかして頭を庇うことなく仰向けになってしまったから、頭を打って脳震盪でも起こしたか。そう考えた隙に青年が背後のアキコを振り返って咄嗟にその腕をとると、サッと立ち上がらせてくれていた。それでも既にスッカリ雨に濡れた細い腕は冷えきって氷のように微かに粟立っているのが、反対に炎のように熱い青年の手には伝わる。見上げるようにその青年の顔を見るとキツい目元をしていて、甘えたで笑ってばかりのカズキとは全く似ていない。それなのに顔を見ても何故かカズキに何処と無く似ているなんて思ってしまうのは、こうして助けに来てくれたからなのだろうか。
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