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そして新たな感染
177.
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勢いよくドサドサと梁よりも遥か上の何もない空間から、音を経ててそれらは一時に落ち込んでいた。
その内の一つであった鵺は蒼い焔に全身を焼かれながら落ちる衝撃に、落ちることを予期していたとはいえ思わず苦痛の呻きをあげてしまっている。それでも我が子を食った大蛇の体にたてた黒曜石の爪をピクリとも動かさず、鵺はその身体を離す事はない。更に大蛇の体は鵺の虎の体の下敷きになって、グシャリと背骨を潰されてビクリとその尾が目の前で大きく跳ねていた。
大きな損傷、既に大分焔にも焼かれていて、その上大事な背骨がへし折れた音がしている。
それでもまだこの見たことの無い空間に落ちるまでは、大蛇は幾分かずつではあるが傷は自然に塞がり治癒していくのがちゃんと分かっていた。ところがこの空間に落ちた途端に、自分の身体の細胞の再生に歯止めがかかったのを感じて大蛇は驚愕してもいる。
傷が塞がらないっ!
何もない当たり前の空間であれば、己の細胞の再生は可能なことなのだと知っていた。人間の世界でも狭間の世界でも、自分の身体は永遠に細胞を分裂させ再生し続けていられる能力があるのだ。ところがここではその常識が通用しない。この空間は目の前の焔に飲まれて燃え尽きようとしている鵺の支配下にあるのだと、何故か瞬時に大蛇も理解する。となればこのままこの体で傷が癒えるのをどれだけ待っていたとしても、下手すると永遠にこの傷のままこの空間にここに閉じ込められかねない。高々広さが十畳もないような、狭苦しい土蔵のような場所に身動きもとれないような傷を負い、鵺の重い巨体の下で永遠を過ごすなんて。
駄目だ、そんなことは、駄目だ!!
必死に辺りを見渡すと、僅かに何処からか薄い日の光が射し込んでいる。その光を目で追うと土蔵の扉が開いているのに気がついて、咄嗟に纏っていた大蛇の肉の体をそれは自ら放棄していた。
こんな場所に封じ込められてたまるものか!私はここにとどまるような存在ではない!
その蛇の根元となったのは、とある人間の魂だった。齢は八十を越えて老いぼれ果てていて認知症という病に犯されて、過去を失い自分の存在すら保てなくなりつつある、ただの一人の老人の魂。止まらない老いに怯え、次々と消えさる記憶消失に怯えた老人。若さを保つ他の人間を憎悪して、何十年も足掻き生き続けながら、その老人は密かに多くのことを試し続けていた。実はその老人はクラハシアキコのような特殊な立場にいる人間のことを知っていて、長年研究し続けていたのだ。
世の中には間の子と呼ばれる存在がいて
それを教えたのが誰で何時なのかは、既に老人の記憶には残念ながら影も形も存在していない。それでも誰かがこの老人に世の中には人と人でないものの特性を受け継ぐ人間が存在していることを教え、この老人は自分自身がそれになろうと長年に渡り足掻き続けていた。
そのためにその老人はアキコ達が隔離されたあの奇妙な建物を作り、自分が欲している血や能力を持つ人間を捕獲していたのだ。そんなことが現実で可能な筈がないと誰もが思うだろうが、この老人はそれが可能な立場に長年立ち続けていて、真実としてそれを模索して来たのだった。人が間の子に変わるために必要なものは所謂血縁…………つまり血液だと調べあげてもいたが、その血液を持つ人間は稀だ。しかも一見しただけでは、その血液は普通のものと何らかわりがないのだから、簡単に証明も出来ない。つまりはどんなに稀な存在なのかどうかは、現在の人間の検査では殆んど何一つ分からない投手な血縁。
それでも探す、大概は特殊な五感の発達があったり、何かしら特殊な技能があったりするから
異常な聴覚、異常な嗅覚、異常な視力。そんな言葉で片付けられないほどの鋭敏さを、大概稀な血液を持つ人間は示すことが多く、それに伴う身体的な変化もきたすことがある。それは長じることもあれば、その逆もあった。例えば異常な聴覚を示すものは同時に極端な視力の低下を示すこともあるようだし、聴覚が鋭すぎて幻聴と錯覚する場合もあったようだ。人並外れた五感は結局、現実社会との折り合いをつけられないもので、人間はそれを殆んどが狂気なのだと錯覚する。狂気だと思わずそれに身体ごと順応したものだけが、新たな間の子に変わり生きられる器だということなのだと老人は辿り着いてもいた。
だったら、自分も
なのに自分はそれに順応できない。全く順応できず、狂気に落ちていきながら、老人はそれに成れないことを恨むしか出来なくなった。そしてその怨みは老人の知らないところで、滓という存在に変化していくのを老人は知るよしもない。そしてその滓こそが人間を異界の存在に順応させるために最も必要なものだと、老人は知るよしもないのだった。
濃く深い滓
多くの人間の憎悪の視線を浴びながら、男はそれでも老いに様々なものを奪い取られながら生きていく。知識、記憶、最初に何故間の子に成りたかったのかの理由までも老いに奪い取られ、何故今も自分がこうして苦悩の中で生きていかなければならないのかと苦悩する。何故自分だけが老いに踊らされて、あれらのような強靭な能力や肉体を与えられないのか。それを誰よりも怨むのは当然ではないだろうか。
怨み憎み、滓を浴び続け、遂に願っていた災厄を呼ぶ異形の蛇に生まれ変わった老人は、人間の時の名をトウジョウイワオといった。だけどそれを捨てて強い身体と力を持つ存在に生まれ変わった筈なのだが、老人はもう一つ大事なことを失念していたことを知る。
どんなに強い力をもって生まれても、赤子は赤子
強い力があっても、それを使いこなせなければ意味がない。その失態で結局窮地に陥る羽目になった老人は、何処かから逃げようとして、偶々傍にいたミウラカズキの傷だらけの右腕から体内に潜り込んだ。それであわよくば、人間の世界まで連れ帰って貰い隙を見て一端逃げ出そうと待ち構えていたのだった。
隙をみて人間の世界に逃げ込み、間の子として生きる
そのつもりだったのに結局は逃げ出す隙どころか別な異界を持つ異形の『鵺』という化け物に、隙をつかれ闇に引きずり込まれてしまっていた。人間の世界どころか、こんな訳の分からない世界に手も足も出ない状態で閉じ込められるのはごめんだ。それにはこの傷をおって回復することも出来ない重すぎる肉は邪魔でしかないと、咄嗟にほんの魂でしかない影になって闇の中に這い出していた。
外にででこの世界から逃げ、また人をのめば…………
滓を生み出す人間を呑み込めば、また同じように力を得ることが出来るに違いない。だがその為には人間が多くいる世界に戻らないとならないし、この『鵺』の支配する空間には人間の影も形もないのだ。それが分かっていて、こんな場所に閉じ込められてはいられない。
そう必死に考え飛び出した扉の外。
土蔵の扉の外から日光のようなものが射し込んでいたように見えていた筈なのに、慌てて飛び出した扉の外は何故か漆黒の闇で何も視界には見えない世界だった。
射干玉の闇
ほんの一寸先に何があるかすら見えず、影にすぎない自分の身体は、完全にそれに溶け込んでしまっている。つまりは自分の姿の境界線も判別出来ない奇妙な世界に、元は老いた人間の魂の成の果ては這い出していた。
※※※
大蛇の中身は土蔵に完全に閉じ込められる前に、鵺が上に乗っていて逃げ出すのに邪魔な傷ついた身体を捨て核のような魂だけで解放されたままの扉から闇に向かって這い出していった。そんなことが出来るなんて、恐らくまだ化け物に成りたてだったのか、それとも新種とでもいうのかは『鵺』には分からない。
世の中にはこうだと分かっていたと思っても、その常識なんてものは案外簡単に覆されるものだ。
何しろ正確な齢すら分からない上に、過去にはこの国を納める人間すら災厄に落とそうとした筈の『鵺』が、こうしてたった一人や二人の人間のために自分を犠牲にしたりするのだから。力を使いきり燃え尽きて燐のように全身からチラチラと青い炎をあげ続ける鵺に怯え、慌てて闇の中に逃げ込んでいく滓の塊のようなもの。鵺は顔をあげて視線だけはそれに向けたが、未だに身動ぎも出来ず古ぼけた畳の上で虎の身体はグッタリと横たわったままだった。
扉が開いているせいか、昔ほど湿った空気ではない。
以前のように土間の湿気を含んだ空気は扉から漏れ出たのだろうし、乾いた空気にさらされて土蔵の中は何処か古ぼけ風化している。幾度もここで外に出ることを願ってきた土蔵のなれの果てで一度は抜け出したものの、何処か蛇を閉じ込めると考えたら思い付く場所はここしかなかった。しかも我が子を食ってしまった大蛇を封じ込めるつもりで必死にここまで引き込んだのに、鵺にはもうその力が僅かにも残されていない。既に今は必死で頭を上げるのが精一杯で、手足を動かすことも出来ないのだ。
でも…………落ちた衝撃で、あれは体を捨てて……闇に潜った……
散々と鵺の災厄を呼ぶ声に当てられたまま、蛇の身体を捨ててまで射干玉の闇の中に這い出した愚かな行動。この世界は土蔵だけが存在しているわけではないし、土蔵の戸口が開いていても繋がる場所が日の当たる場所だとは限らない。
恐らく自分達の成り立ちとは違う生まれ方をしたのだろうとボンヤリと思うが、長い年月を生きている『鵺』の力を侮っている。あの大蛇だったものは、影に潜っても他の影の引き起こす災厄に巻き込まれていくに違いないとわかっているだろうか。様々な滓の共食いに巻き込まれる闇の中で、あれが生き残るには『鵺』の災厄は最悪の付加なのだ。その意味ではまだこの土蔵の中の方が安全で、しかも時間がかかろうとキチンと条件を果たして『光の中』に出ることが必要なのだ。
愚か…………ね
自ら最も苦しむ道に飛び出して行ったことも知らない。永劫の闇の中に何が巣くうかも知らずに、強固な大蛇の身体を捨てて逃げ込んだつもりだろうが、それこそが大きな間違いだ。大蛇の身体が魂を失って崩れていくのを我が身の下に感じながら、ニヤリと意地悪く口角を微かにあげて鵺は燃え尽き崩れ落ちていく体を再びドサリと重たげに横たえていた。
※※※
闇の中は永劫のように広大で、何処まで進んでも果てが見えない。いや、見えないという表現は多分誤りで、闇の中に落ちて何もかも黒一色で塗り込められてしまっているから判別出来ないという方が正しいのだろう。
真っ暗な漆黒、射干玉の闇。
這っても這っても果てがない永劫の黒。
一体何処まで這い続ければ終焉が訪れるのかも分からない。
何処かに同じように這い回り射干玉の闇の中をさ迷う男のような影を見た気がするが、それすらも真実なのか夢なのかも分からない。手探りしようにも、脚を探ろうにも、この身体はその手足を放棄して蛇に落ちた。北国の蛇神のように翼を持った蛇になれれば違ったかもしれないが、この闇の中で宙に舞ったからといっても闇の中で天地が分からず落下するだけになったかもしれない。蛇神は全身が薄い墨色で目と口の周りが朱色、俵のような胴体で頭と尾が細く、鋭く尖った鼻先をした姿だと言われている。それを思うとあの『鵺』の尾の蛇の姿はまさにその表現に相応しいのに気がつく。だが気がついたからといって、それがなんの足しになるわけでもない。
闇の中には何かが潜んでいるのか、それも判別出来ないでいる。
あまりにも闇が濃くて世界を黒一色で塗り込めているものだから、自分が小さいのか大きいのかすら分からなくなってしまっていた。つまりは自分の存在がどんなものなのかすら、既にこの闇の中では分からなくなりつつあるのだ。
誰か…………
誰とはなんなのだと自分に思わず問いかける。随分前に見た気がする同じ様に這い回る男に向けて呼び掛けたのかもしれないが、あれが現実なのかどうか分からないし、大体にしてみたこと自体本当なのかどうかすら判断が出来ないのに。しかもその問いかけをしたものが自分なのか、それ以外のものなのかも理解できないし、既に自分の境界ですら理解を失いつつあった。何故自分がここにあり、何故自分が闇の中で這い続けているのか。大体にして今も自分は進んでいるのか、今も這っているのかすら分からない。
分からない。
分からないのがなんなのかすら分からなくなると、自分の存在すら理解できなくなって、時間も何もかもが失われていく。何もかも失われ闇の中に溶け込んで…………自分という認識すら失われて、それはただの闇に溶けたまま『自分』という存在意義を忘れ去っていく。
なんで…………だ………………?
そう問いかけようにも、何が疑問なのかすら既に失われているのに気がつくこともない。そうしてそれは闇に呑み込まれ、闇の一部に溶け込んで、何もかもを失ってしまっていたのだった。
その内の一つであった鵺は蒼い焔に全身を焼かれながら落ちる衝撃に、落ちることを予期していたとはいえ思わず苦痛の呻きをあげてしまっている。それでも我が子を食った大蛇の体にたてた黒曜石の爪をピクリとも動かさず、鵺はその身体を離す事はない。更に大蛇の体は鵺の虎の体の下敷きになって、グシャリと背骨を潰されてビクリとその尾が目の前で大きく跳ねていた。
大きな損傷、既に大分焔にも焼かれていて、その上大事な背骨がへし折れた音がしている。
それでもまだこの見たことの無い空間に落ちるまでは、大蛇は幾分かずつではあるが傷は自然に塞がり治癒していくのがちゃんと分かっていた。ところがこの空間に落ちた途端に、自分の身体の細胞の再生に歯止めがかかったのを感じて大蛇は驚愕してもいる。
傷が塞がらないっ!
何もない当たり前の空間であれば、己の細胞の再生は可能なことなのだと知っていた。人間の世界でも狭間の世界でも、自分の身体は永遠に細胞を分裂させ再生し続けていられる能力があるのだ。ところがここではその常識が通用しない。この空間は目の前の焔に飲まれて燃え尽きようとしている鵺の支配下にあるのだと、何故か瞬時に大蛇も理解する。となればこのままこの体で傷が癒えるのをどれだけ待っていたとしても、下手すると永遠にこの傷のままこの空間にここに閉じ込められかねない。高々広さが十畳もないような、狭苦しい土蔵のような場所に身動きもとれないような傷を負い、鵺の重い巨体の下で永遠を過ごすなんて。
駄目だ、そんなことは、駄目だ!!
必死に辺りを見渡すと、僅かに何処からか薄い日の光が射し込んでいる。その光を目で追うと土蔵の扉が開いているのに気がついて、咄嗟に纏っていた大蛇の肉の体をそれは自ら放棄していた。
こんな場所に封じ込められてたまるものか!私はここにとどまるような存在ではない!
その蛇の根元となったのは、とある人間の魂だった。齢は八十を越えて老いぼれ果てていて認知症という病に犯されて、過去を失い自分の存在すら保てなくなりつつある、ただの一人の老人の魂。止まらない老いに怯え、次々と消えさる記憶消失に怯えた老人。若さを保つ他の人間を憎悪して、何十年も足掻き生き続けながら、その老人は密かに多くのことを試し続けていた。実はその老人はクラハシアキコのような特殊な立場にいる人間のことを知っていて、長年研究し続けていたのだ。
世の中には間の子と呼ばれる存在がいて
それを教えたのが誰で何時なのかは、既に老人の記憶には残念ながら影も形も存在していない。それでも誰かがこの老人に世の中には人と人でないものの特性を受け継ぐ人間が存在していることを教え、この老人は自分自身がそれになろうと長年に渡り足掻き続けていた。
そのためにその老人はアキコ達が隔離されたあの奇妙な建物を作り、自分が欲している血や能力を持つ人間を捕獲していたのだ。そんなことが現実で可能な筈がないと誰もが思うだろうが、この老人はそれが可能な立場に長年立ち続けていて、真実としてそれを模索して来たのだった。人が間の子に変わるために必要なものは所謂血縁…………つまり血液だと調べあげてもいたが、その血液を持つ人間は稀だ。しかも一見しただけでは、その血液は普通のものと何らかわりがないのだから、簡単に証明も出来ない。つまりはどんなに稀な存在なのかどうかは、現在の人間の検査では殆んど何一つ分からない投手な血縁。
それでも探す、大概は特殊な五感の発達があったり、何かしら特殊な技能があったりするから
異常な聴覚、異常な嗅覚、異常な視力。そんな言葉で片付けられないほどの鋭敏さを、大概稀な血液を持つ人間は示すことが多く、それに伴う身体的な変化もきたすことがある。それは長じることもあれば、その逆もあった。例えば異常な聴覚を示すものは同時に極端な視力の低下を示すこともあるようだし、聴覚が鋭すぎて幻聴と錯覚する場合もあったようだ。人並外れた五感は結局、現実社会との折り合いをつけられないもので、人間はそれを殆んどが狂気なのだと錯覚する。狂気だと思わずそれに身体ごと順応したものだけが、新たな間の子に変わり生きられる器だということなのだと老人は辿り着いてもいた。
だったら、自分も
なのに自分はそれに順応できない。全く順応できず、狂気に落ちていきながら、老人はそれに成れないことを恨むしか出来なくなった。そしてその怨みは老人の知らないところで、滓という存在に変化していくのを老人は知るよしもない。そしてその滓こそが人間を異界の存在に順応させるために最も必要なものだと、老人は知るよしもないのだった。
濃く深い滓
多くの人間の憎悪の視線を浴びながら、男はそれでも老いに様々なものを奪い取られながら生きていく。知識、記憶、最初に何故間の子に成りたかったのかの理由までも老いに奪い取られ、何故今も自分がこうして苦悩の中で生きていかなければならないのかと苦悩する。何故自分だけが老いに踊らされて、あれらのような強靭な能力や肉体を与えられないのか。それを誰よりも怨むのは当然ではないだろうか。
怨み憎み、滓を浴び続け、遂に願っていた災厄を呼ぶ異形の蛇に生まれ変わった老人は、人間の時の名をトウジョウイワオといった。だけどそれを捨てて強い身体と力を持つ存在に生まれ変わった筈なのだが、老人はもう一つ大事なことを失念していたことを知る。
どんなに強い力をもって生まれても、赤子は赤子
強い力があっても、それを使いこなせなければ意味がない。その失態で結局窮地に陥る羽目になった老人は、何処かから逃げようとして、偶々傍にいたミウラカズキの傷だらけの右腕から体内に潜り込んだ。それであわよくば、人間の世界まで連れ帰って貰い隙を見て一端逃げ出そうと待ち構えていたのだった。
隙をみて人間の世界に逃げ込み、間の子として生きる
そのつもりだったのに結局は逃げ出す隙どころか別な異界を持つ異形の『鵺』という化け物に、隙をつかれ闇に引きずり込まれてしまっていた。人間の世界どころか、こんな訳の分からない世界に手も足も出ない状態で閉じ込められるのはごめんだ。それにはこの傷をおって回復することも出来ない重すぎる肉は邪魔でしかないと、咄嗟にほんの魂でしかない影になって闇の中に這い出していた。
外にででこの世界から逃げ、また人をのめば…………
滓を生み出す人間を呑み込めば、また同じように力を得ることが出来るに違いない。だがその為には人間が多くいる世界に戻らないとならないし、この『鵺』の支配する空間には人間の影も形もないのだ。それが分かっていて、こんな場所に閉じ込められてはいられない。
そう必死に考え飛び出した扉の外。
土蔵の扉の外から日光のようなものが射し込んでいたように見えていた筈なのに、慌てて飛び出した扉の外は何故か漆黒の闇で何も視界には見えない世界だった。
射干玉の闇
ほんの一寸先に何があるかすら見えず、影にすぎない自分の身体は、完全にそれに溶け込んでしまっている。つまりは自分の姿の境界線も判別出来ない奇妙な世界に、元は老いた人間の魂の成の果ては這い出していた。
※※※
大蛇の中身は土蔵に完全に閉じ込められる前に、鵺が上に乗っていて逃げ出すのに邪魔な傷ついた身体を捨て核のような魂だけで解放されたままの扉から闇に向かって這い出していった。そんなことが出来るなんて、恐らくまだ化け物に成りたてだったのか、それとも新種とでもいうのかは『鵺』には分からない。
世の中にはこうだと分かっていたと思っても、その常識なんてものは案外簡単に覆されるものだ。
何しろ正確な齢すら分からない上に、過去にはこの国を納める人間すら災厄に落とそうとした筈の『鵺』が、こうしてたった一人や二人の人間のために自分を犠牲にしたりするのだから。力を使いきり燃え尽きて燐のように全身からチラチラと青い炎をあげ続ける鵺に怯え、慌てて闇の中に逃げ込んでいく滓の塊のようなもの。鵺は顔をあげて視線だけはそれに向けたが、未だに身動ぎも出来ず古ぼけた畳の上で虎の身体はグッタリと横たわったままだった。
扉が開いているせいか、昔ほど湿った空気ではない。
以前のように土間の湿気を含んだ空気は扉から漏れ出たのだろうし、乾いた空気にさらされて土蔵の中は何処か古ぼけ風化している。幾度もここで外に出ることを願ってきた土蔵のなれの果てで一度は抜け出したものの、何処か蛇を閉じ込めると考えたら思い付く場所はここしかなかった。しかも我が子を食ってしまった大蛇を封じ込めるつもりで必死にここまで引き込んだのに、鵺にはもうその力が僅かにも残されていない。既に今は必死で頭を上げるのが精一杯で、手足を動かすことも出来ないのだ。
でも…………落ちた衝撃で、あれは体を捨てて……闇に潜った……
散々と鵺の災厄を呼ぶ声に当てられたまま、蛇の身体を捨ててまで射干玉の闇の中に這い出した愚かな行動。この世界は土蔵だけが存在しているわけではないし、土蔵の戸口が開いていても繋がる場所が日の当たる場所だとは限らない。
恐らく自分達の成り立ちとは違う生まれ方をしたのだろうとボンヤリと思うが、長い年月を生きている『鵺』の力を侮っている。あの大蛇だったものは、影に潜っても他の影の引き起こす災厄に巻き込まれていくに違いないとわかっているだろうか。様々な滓の共食いに巻き込まれる闇の中で、あれが生き残るには『鵺』の災厄は最悪の付加なのだ。その意味ではまだこの土蔵の中の方が安全で、しかも時間がかかろうとキチンと条件を果たして『光の中』に出ることが必要なのだ。
愚か…………ね
自ら最も苦しむ道に飛び出して行ったことも知らない。永劫の闇の中に何が巣くうかも知らずに、強固な大蛇の身体を捨てて逃げ込んだつもりだろうが、それこそが大きな間違いだ。大蛇の身体が魂を失って崩れていくのを我が身の下に感じながら、ニヤリと意地悪く口角を微かにあげて鵺は燃え尽き崩れ落ちていく体を再びドサリと重たげに横たえていた。
※※※
闇の中は永劫のように広大で、何処まで進んでも果てが見えない。いや、見えないという表現は多分誤りで、闇の中に落ちて何もかも黒一色で塗り込められてしまっているから判別出来ないという方が正しいのだろう。
真っ暗な漆黒、射干玉の闇。
這っても這っても果てがない永劫の黒。
一体何処まで這い続ければ終焉が訪れるのかも分からない。
何処かに同じように這い回り射干玉の闇の中をさ迷う男のような影を見た気がするが、それすらも真実なのか夢なのかも分からない。手探りしようにも、脚を探ろうにも、この身体はその手足を放棄して蛇に落ちた。北国の蛇神のように翼を持った蛇になれれば違ったかもしれないが、この闇の中で宙に舞ったからといっても闇の中で天地が分からず落下するだけになったかもしれない。蛇神は全身が薄い墨色で目と口の周りが朱色、俵のような胴体で頭と尾が細く、鋭く尖った鼻先をした姿だと言われている。それを思うとあの『鵺』の尾の蛇の姿はまさにその表現に相応しいのに気がつく。だが気がついたからといって、それがなんの足しになるわけでもない。
闇の中には何かが潜んでいるのか、それも判別出来ないでいる。
あまりにも闇が濃くて世界を黒一色で塗り込めているものだから、自分が小さいのか大きいのかすら分からなくなってしまっていた。つまりは自分の存在がどんなものなのかすら、既にこの闇の中では分からなくなりつつあるのだ。
誰か…………
誰とはなんなのだと自分に思わず問いかける。随分前に見た気がする同じ様に這い回る男に向けて呼び掛けたのかもしれないが、あれが現実なのかどうか分からないし、大体にしてみたこと自体本当なのかどうかすら判断が出来ないのに。しかもその問いかけをしたものが自分なのか、それ以外のものなのかも理解できないし、既に自分の境界ですら理解を失いつつあった。何故自分がここにあり、何故自分が闇の中で這い続けているのか。大体にして今も自分は進んでいるのか、今も這っているのかすら分からない。
分からない。
分からないのがなんなのかすら分からなくなると、自分の存在すら理解できなくなって、時間も何もかもが失われていく。何もかも失われ闇の中に溶け込んで…………自分という認識すら失われて、それはただの闇に溶けたまま『自分』という存在意義を忘れ去っていく。
なんで…………だ………………?
そう問いかけようにも、何が疑問なのかすら既に失われているのに気がつくこともない。そうしてそれは闇に呑み込まれ、闇の一部に溶け込んで、何もかもを失ってしまっていたのだった。
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