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第七話 葛藤と真実
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ある日のことです。
年配の執事長が、私がラポール伯爵家へ来て数回目の夕食について、尋ねてきました。
「お夕食の支度は整っておりますが、いかがいたしますか?」
未だに伯爵やその家族との食事は叶わず、一人きりでの食事にも慣れてきた私は、いつもどおり返事をします。
「ここでいただくわ。伯爵はどうなさっているか、聞いても?」
「先ほどお出かけになられました。ベルナール様やラルフ様と、地元の商工会議所での懇親会がございまして」
「あら、そう。やはりお忙しいのね、大変だわ」
ラポール伯爵とフィーの会話を盗み聞きしてしまってから、私はまだラポール伯爵と話ができていません。ご子息たちを連れて市内での仕事に出かけ、多忙にしていることは知っていましたが、どうやら今日もそのようです。
ところが、今日は少し違いました。
年配の執事長から、こんな提案があったのです。
「旦那様より、もし一人での食事が寂しいのであれば、フィルフィリシア様を同席させてもよいと仰せが。お呼びしましょうか?」
「フィルフィ……誰のこと? もしかして、騎士のフィー?」
「はい、その方です」
私はこのとき初めて、フィーの本名を知りました。本名は呼びづらいと言っていましたし、確かに長くてよその地域では聞かないような名前です。ラポール伯爵の本名も長くて変な名前でしたから、このあたりの慣習なのかもしれません。
とにかく、一人で黙々と食べるよりも、誰かと話しながら食事をしたほうが楽しいはずです。それが気の許せる友人なら、なおのこといいでしょう。
「じゃあ、フィーの都合がつけば、次から夕食に呼んでいただける?」
「かしこまりました」
ここ数日の小雨でフィーの勤め先である騎士団の建物には近づけていないため、私はフィーにも会えていませんでした。
雨が降ると石橋を歩いて渡るのは遠慮してほしい、と年配の執事長に注意されたからです。滑ると危ないですし、湖のすぐそばですから注意するに越したことはありません。
翌日夕方、ようやく数日ぶりに会えたフィーは、相変わらずのハスキーボイスとツヤたっぷりの栗毛をなびかせ——私の友人役としてなのか、それとも本心からなのか——「お誘いいただき光栄です」と柔和な笑みを浮かべていました。
部屋にはすでに二人分のテーブルと椅子が並べられ、今日のメインディッシュはテリーヌの一種である鴨肉とナスのパプトンでした。
彩りよくトマトソースとともに皿へと盛られたパプトンにナイフを入れつつ、私はフィーに身の上話を聞かせていました。
「では、ご実家であるグリフィン伯爵家の家督は弟のアンリ様がお継ぎに?」
「うん。まだ十一歳だから随分先の話になるだろうけれど、王都のいい寄宿学校に通えれば上流階級とのコネクションも作れるし、勉強だってできる。そうしたら、あの子の代では少しはいい生活が送れるだろうから。ラポール伯爵には……感謝してもし足りないわ」
『白い結婚』 という不名誉を受け入れてくれたのだから、という一言は思いつきましたが、余計なので口にしません。私だってそのくらいの気遣いはできます。
それに、フィーは私なんかに感心して、頷いてくれました。
「ご立派です。私はラポール伯爵領で生まれ育ちましたから、王都に上ったことはありませんが、人の多い場所は確かにチャンスも多くあることでしょう」
「やっぱりそう思う?」
「はい。他領の騎士たちはこの十年で随分と騎士称号を返上し、そのほとんどは傭兵にならざるをえなかったと聞きます。都会ならば他に仕事があったかもしれません、しかし産業の乏しい田舎ではよそへ働きに出る以外の選択肢がなかったのです」
「……その人たちは、軍には入らなかったの?」
「かつての騎士階級は、市民中心の今の軍に居場所はありません。それに、軍縮の真っ只中、とても元騎士たちを養う余裕はないでしょう。培ってきた技量が評価されないとなれば、尚更です」
なるほど、と私はフィーの話を聞き、外の世界の厳しい情勢を噛み締めます。
前の戦争で私は兄を亡くしましたが、グリフィン伯爵家以外にも多数の貴族たちが没落していきました。おそらく、私のように肉親を亡くした貴族はごまんといるでしょう。台頭する市民に対して文句を言われないために張り切って戦いに赴いたものの、結果は散々だったのです。
戦争の敗因は、貴族にだけあるわけではないでしょう。しかし、人は決めつけたがるものです。悪いことが起きれば、原因を求め、責任を取らせろと叫ぶものです。
ちょうど弱っていた貴族たちが、その『原因』と『責任』の槍玉に上がり、トドメを刺された。ラポール伯爵家のような例外を除いて、大多数の市民の怒りの矛先を向けられて衰退の道へと突き飛ばされたのです。
その背後には、貴族から抑圧された市民の、長年の蓄積した怒りも含まれているでしょう。しばらくは、その潮流が変わることはありません。
私は強引に、話題を変えました。
「やめやめ、暗い話題ばかりじゃ気が滅入るわ。フィー、お化粧はしていないの?」
「冬の乾燥する時期だけは化粧水を使います。それ以外は特に」
「羨ましいわ。私は髪が白っぽいせいで、肌が汚いとみっともなくなるから念入りにケアしないといけなくて。チークも口紅もちょっと薄めにしないと目立ちすぎるの、別に倹約しているわけじゃなくて、本当よ?」
実際のところ、私はほとんど化粧をしません。単純に化粧品が高くて買えないだけですが、さておき。
ジョークのつもりではなかったのですが、フィーを苦笑いさせてしまいました。
「まあ、そこまで気を遣ったって誰にも見られないし、伯爵だって気にもしないでしょうね。下手に着飾るとあらぬ疑いをかけられるから……今度からは控えるわ。化粧代だって馬鹿にならないもの。あーあ、私だってフィーみたいに美人だったらよかったのに」
それもまた、私の本心でした。フィーは、武芸の腕だけでなく美貌も要求される近衛騎士にだってなれそうな容姿です。王家の姫君のそばにいたって不思議ではないでしょう。
ラポール伯爵の考える騎士団の今後のあり方、要人や拠点警護を重視していくという方針は、ひょっとするとフィーを見て思いついたのかもしれない。そんなふうに考えてしまいます。
それから、私はフィーと毎日の夕食をともに摂ることになりました。
騎士団の仕事を終えてから、フィーは屋敷の私の部屋に来て、夕食と食後のお茶を堪能して帰ります。
一向にラポール伯爵と会う時間が取れないことにやきもきしつつ、私は屋敷の中でできること——ラポール伯爵からのプレゼントである積読中の本を、少しでも消化することにしました。
これがまた、難解な本ばかりなのです。
最初に手に取ったのは、経済学の本でした。ものの数分で辞書を探す羽目になり、年配の執事長に相談してもっと初級の本を用意してもらい、やっとの思いで半分ほど読み終えました。
そこで私は一旦経済学の本にしおりを挟んで閉じ、別の文学の本に手を出しました。古典文芸なら私もひと通り読んだことがあります、何とかなるはずでした。
まさかの外国語、それも二ヶ国語併記バージョンだとは思いませんでした。どちらの言葉も私の母語ではなく、またしてもそれぞれの辞書を探しに部屋から出たのです。
ラポール伯爵のこの選書は、もはや嫌がらせか何かかとさえ思いますが、ここで挫けるのも癪です。
無用な反抗心がまたしても芽を出した私は、年配の執事長に教えてもらった、私が使ってもいい伯爵の書斎へ向かいます。そこに辞書の類は集められているので、密かに借りに行くのです。
私が書斎に入った直後、閉まりかけた扉の隙間から、廊下での話し声が聞こえてきました。
「あなたも大変ね、世話役みたいなものでしょう」
「いいえ、そのようなことは決して」
聞こえたのは知らない女性の声と、特徴あるハスキーボイスです。
フィーが、誰かと話していました。
「我が家に代々仕える騎士が、よりによって年頃の娘の話し相手など任されてつまらないでしょう。お義父様も酷なことをおっしゃるわ、ねえあなた?」
「うーむ……その年頃の娘とお前のような若い騎士を二人きりにさせるのは、外聞はよろしくないだろう。いかに父上の命令とはいえ」
「もし間違いがあったらどうするの? あなたにその気はなくても、あのくらいの娘は盲目的に恋に恋するものよ」
その場の事情が飲み込めてきましたが、新たな疑問も湧いてしまいます。
おそらく、廊下の話し声から察するに、そこにいるのはラポール伯爵の長男ベルナール氏とその妻、それからフィーの三人です。
ベルナール氏夫妻がフィーを見かけて声をかけた、そんなところでしょうか。
しかし、話の内容は私に関して、それも私とフィーが恋に落ちたら問題だ、という指摘です。
(どうしてフィーにそんなことを……私のことが気に入らないからだろうけれど、恋って……?)
フィーは女性ですから、私との間違いなど起きようがありません。第一、主人に忠義を尽くす騎士に対して、その妻との不義があるのでは、などと疑うのは最悪の侮辱です。
怒り半分、戸惑い半分、私はフィーの弁護に飛び出すべきかどうか迷います。
ここで私が姿を見せたほうがややこしくならないか、ベルナール氏夫妻の不況を買ってラポール伯爵やフィーに迷惑がかからないか……私がそんな消極的打算を巡らせているうちに、フィーはあっさりとベルナール氏夫妻へこう言ってのけたのです。
「お言葉ですが、アルビナ様は貞淑かつ我慢強いお方です。いかに貴族令嬢の宿命とはいえ、見知らぬ土地へ嫁いできたばかりで不安に駆られて寂しく思われることもあるでしょう。しかしあの方は、少なくともラポール伯爵家への恨み言は一つたりとも漏らしておりません。伯爵閣下へもご家族へも、無論のことです」
フィーは惑わされることなく堂々と、そう言いました。あまりにもはっきり断言され、ベルナール氏夫妻はすぐには反論できなかったようです。
さらに、フィーはこう付け足しました。
「それに、私とのおしゃべりにしても、髪の手入れの仕方を教えてほしいとおっしゃるのですよ。年頃の娘らしく可愛らしいではありませんか」
朗らかにそう言ってのけたフィーへ、それ以上の追及はありませんでした。
嬉しくもあり、そして無力でもあり、いたたまれない気持ちになり、私は苦しい胸を押さえつけます。
(フィー、ありがとう。だけど……私は、伯爵やフィーに庇ってもらうだけの価値があるのかしら)
そう思ってしまっては、私はいてもたってもいられず、その場から離れました。
ですが、ベルナール氏夫妻が指摘したように、私とフィーがよく話す仲であることについては知れ渡っており、部屋にいたって外の噂が聞こえてくる始末です。
屋敷のそれぞれの部屋は、中の音が外に漏れず、外の音が中によく聞こえるという仕組みだと年配の執事長から教わりました。
だとしても、しばしメイドたちの噂話が届いては、私は心穏やかではありませんでした。
「ほら、言ったとおり。騎士にお熱じゃない」
「若い女はこれだから。老伯爵閣下の手には負えないね」
私が読書室に籠る間に、メイドたちが寝室の掃除を始めたときのことでした。
きっとメイドたちは私に聞こえているとは知りません。そもそも、読書室に私がいることさえ知らないのかもしれませんでした。
私は、じっとメイドたちの噂話に耳を傾け、自分の評価を知ろうとしました。
そこへ、年配の執事長もやってきて、メイドへ注意します。
「何をおしゃべりしている。寝室の掃除が済んだなら、早く次へ行け」
「はいはい。執事さんも大変だね、あの若奥様に色目使われてないかい?」
「そんなことはない。まったく」
「じゃあ、あの騎士は? 最近は夕食にお誘いしてるじゃない」
「お前たちは一人で夕食を摂ったことはないのか? 食事時に喋る相手くらいいてもいいだろう。ましてや、奥様の境遇を考えれば」
「顔のいい騎士に傾くのも当然かね」
「違いない。ああいう田舎の小娘は、ちょっと優しくされればすぐにコロッと騙されるんだから」
やはり、自分に対する悪口は、分かっていても堪えます。私がフィーを友人と思うことさえも、傍目にはよく映らないのです。
しかし、私は一つ、思い違いをしていました。
年配の執事長が、口を滑らせたのです。
「こほん! お前たち、口が過ぎるぞ。それに、奥様はフィルフィリシアのことを女性だと思っている」
「あら、そうなのかい。まあ分からなくもないね」
「じゃあ、女友達くらいに思っているわけだ。はしたない真似をする前に、早く教えなくていいのかい」
くすくすと笑い声がして、年配の執事長のお叱りがまた響きました。
私は持っていた本を膝に落とし、衝撃の事実に遠慮なく頭を打たれたような感覚に陥りました。
年配の執事長が口にした、「奥様はフィルフィリシアのことを女性だと思っている」という言葉の意味は——深く考えるまでもありません。
「フィーは……そう、だから……」
私はまた、大きなため息を吐きました。
それは、これまでで一番大きな、深いため息でした。
年配の執事長が、私がラポール伯爵家へ来て数回目の夕食について、尋ねてきました。
「お夕食の支度は整っておりますが、いかがいたしますか?」
未だに伯爵やその家族との食事は叶わず、一人きりでの食事にも慣れてきた私は、いつもどおり返事をします。
「ここでいただくわ。伯爵はどうなさっているか、聞いても?」
「先ほどお出かけになられました。ベルナール様やラルフ様と、地元の商工会議所での懇親会がございまして」
「あら、そう。やはりお忙しいのね、大変だわ」
ラポール伯爵とフィーの会話を盗み聞きしてしまってから、私はまだラポール伯爵と話ができていません。ご子息たちを連れて市内での仕事に出かけ、多忙にしていることは知っていましたが、どうやら今日もそのようです。
ところが、今日は少し違いました。
年配の執事長から、こんな提案があったのです。
「旦那様より、もし一人での食事が寂しいのであれば、フィルフィリシア様を同席させてもよいと仰せが。お呼びしましょうか?」
「フィルフィ……誰のこと? もしかして、騎士のフィー?」
「はい、その方です」
私はこのとき初めて、フィーの本名を知りました。本名は呼びづらいと言っていましたし、確かに長くてよその地域では聞かないような名前です。ラポール伯爵の本名も長くて変な名前でしたから、このあたりの慣習なのかもしれません。
とにかく、一人で黙々と食べるよりも、誰かと話しながら食事をしたほうが楽しいはずです。それが気の許せる友人なら、なおのこといいでしょう。
「じゃあ、フィーの都合がつけば、次から夕食に呼んでいただける?」
「かしこまりました」
ここ数日の小雨でフィーの勤め先である騎士団の建物には近づけていないため、私はフィーにも会えていませんでした。
雨が降ると石橋を歩いて渡るのは遠慮してほしい、と年配の執事長に注意されたからです。滑ると危ないですし、湖のすぐそばですから注意するに越したことはありません。
翌日夕方、ようやく数日ぶりに会えたフィーは、相変わらずのハスキーボイスとツヤたっぷりの栗毛をなびかせ——私の友人役としてなのか、それとも本心からなのか——「お誘いいただき光栄です」と柔和な笑みを浮かべていました。
部屋にはすでに二人分のテーブルと椅子が並べられ、今日のメインディッシュはテリーヌの一種である鴨肉とナスのパプトンでした。
彩りよくトマトソースとともに皿へと盛られたパプトンにナイフを入れつつ、私はフィーに身の上話を聞かせていました。
「では、ご実家であるグリフィン伯爵家の家督は弟のアンリ様がお継ぎに?」
「うん。まだ十一歳だから随分先の話になるだろうけれど、王都のいい寄宿学校に通えれば上流階級とのコネクションも作れるし、勉強だってできる。そうしたら、あの子の代では少しはいい生活が送れるだろうから。ラポール伯爵には……感謝してもし足りないわ」
『白い結婚』 という不名誉を受け入れてくれたのだから、という一言は思いつきましたが、余計なので口にしません。私だってそのくらいの気遣いはできます。
それに、フィーは私なんかに感心して、頷いてくれました。
「ご立派です。私はラポール伯爵領で生まれ育ちましたから、王都に上ったことはありませんが、人の多い場所は確かにチャンスも多くあることでしょう」
「やっぱりそう思う?」
「はい。他領の騎士たちはこの十年で随分と騎士称号を返上し、そのほとんどは傭兵にならざるをえなかったと聞きます。都会ならば他に仕事があったかもしれません、しかし産業の乏しい田舎ではよそへ働きに出る以外の選択肢がなかったのです」
「……その人たちは、軍には入らなかったの?」
「かつての騎士階級は、市民中心の今の軍に居場所はありません。それに、軍縮の真っ只中、とても元騎士たちを養う余裕はないでしょう。培ってきた技量が評価されないとなれば、尚更です」
なるほど、と私はフィーの話を聞き、外の世界の厳しい情勢を噛み締めます。
前の戦争で私は兄を亡くしましたが、グリフィン伯爵家以外にも多数の貴族たちが没落していきました。おそらく、私のように肉親を亡くした貴族はごまんといるでしょう。台頭する市民に対して文句を言われないために張り切って戦いに赴いたものの、結果は散々だったのです。
戦争の敗因は、貴族にだけあるわけではないでしょう。しかし、人は決めつけたがるものです。悪いことが起きれば、原因を求め、責任を取らせろと叫ぶものです。
ちょうど弱っていた貴族たちが、その『原因』と『責任』の槍玉に上がり、トドメを刺された。ラポール伯爵家のような例外を除いて、大多数の市民の怒りの矛先を向けられて衰退の道へと突き飛ばされたのです。
その背後には、貴族から抑圧された市民の、長年の蓄積した怒りも含まれているでしょう。しばらくは、その潮流が変わることはありません。
私は強引に、話題を変えました。
「やめやめ、暗い話題ばかりじゃ気が滅入るわ。フィー、お化粧はしていないの?」
「冬の乾燥する時期だけは化粧水を使います。それ以外は特に」
「羨ましいわ。私は髪が白っぽいせいで、肌が汚いとみっともなくなるから念入りにケアしないといけなくて。チークも口紅もちょっと薄めにしないと目立ちすぎるの、別に倹約しているわけじゃなくて、本当よ?」
実際のところ、私はほとんど化粧をしません。単純に化粧品が高くて買えないだけですが、さておき。
ジョークのつもりではなかったのですが、フィーを苦笑いさせてしまいました。
「まあ、そこまで気を遣ったって誰にも見られないし、伯爵だって気にもしないでしょうね。下手に着飾るとあらぬ疑いをかけられるから……今度からは控えるわ。化粧代だって馬鹿にならないもの。あーあ、私だってフィーみたいに美人だったらよかったのに」
それもまた、私の本心でした。フィーは、武芸の腕だけでなく美貌も要求される近衛騎士にだってなれそうな容姿です。王家の姫君のそばにいたって不思議ではないでしょう。
ラポール伯爵の考える騎士団の今後のあり方、要人や拠点警護を重視していくという方針は、ひょっとするとフィーを見て思いついたのかもしれない。そんなふうに考えてしまいます。
それから、私はフィーと毎日の夕食をともに摂ることになりました。
騎士団の仕事を終えてから、フィーは屋敷の私の部屋に来て、夕食と食後のお茶を堪能して帰ります。
一向にラポール伯爵と会う時間が取れないことにやきもきしつつ、私は屋敷の中でできること——ラポール伯爵からのプレゼントである積読中の本を、少しでも消化することにしました。
これがまた、難解な本ばかりなのです。
最初に手に取ったのは、経済学の本でした。ものの数分で辞書を探す羽目になり、年配の執事長に相談してもっと初級の本を用意してもらい、やっとの思いで半分ほど読み終えました。
そこで私は一旦経済学の本にしおりを挟んで閉じ、別の文学の本に手を出しました。古典文芸なら私もひと通り読んだことがあります、何とかなるはずでした。
まさかの外国語、それも二ヶ国語併記バージョンだとは思いませんでした。どちらの言葉も私の母語ではなく、またしてもそれぞれの辞書を探しに部屋から出たのです。
ラポール伯爵のこの選書は、もはや嫌がらせか何かかとさえ思いますが、ここで挫けるのも癪です。
無用な反抗心がまたしても芽を出した私は、年配の執事長に教えてもらった、私が使ってもいい伯爵の書斎へ向かいます。そこに辞書の類は集められているので、密かに借りに行くのです。
私が書斎に入った直後、閉まりかけた扉の隙間から、廊下での話し声が聞こえてきました。
「あなたも大変ね、世話役みたいなものでしょう」
「いいえ、そのようなことは決して」
聞こえたのは知らない女性の声と、特徴あるハスキーボイスです。
フィーが、誰かと話していました。
「我が家に代々仕える騎士が、よりによって年頃の娘の話し相手など任されてつまらないでしょう。お義父様も酷なことをおっしゃるわ、ねえあなた?」
「うーむ……その年頃の娘とお前のような若い騎士を二人きりにさせるのは、外聞はよろしくないだろう。いかに父上の命令とはいえ」
「もし間違いがあったらどうするの? あなたにその気はなくても、あのくらいの娘は盲目的に恋に恋するものよ」
その場の事情が飲み込めてきましたが、新たな疑問も湧いてしまいます。
おそらく、廊下の話し声から察するに、そこにいるのはラポール伯爵の長男ベルナール氏とその妻、それからフィーの三人です。
ベルナール氏夫妻がフィーを見かけて声をかけた、そんなところでしょうか。
しかし、話の内容は私に関して、それも私とフィーが恋に落ちたら問題だ、という指摘です。
(どうしてフィーにそんなことを……私のことが気に入らないからだろうけれど、恋って……?)
フィーは女性ですから、私との間違いなど起きようがありません。第一、主人に忠義を尽くす騎士に対して、その妻との不義があるのでは、などと疑うのは最悪の侮辱です。
怒り半分、戸惑い半分、私はフィーの弁護に飛び出すべきかどうか迷います。
ここで私が姿を見せたほうがややこしくならないか、ベルナール氏夫妻の不況を買ってラポール伯爵やフィーに迷惑がかからないか……私がそんな消極的打算を巡らせているうちに、フィーはあっさりとベルナール氏夫妻へこう言ってのけたのです。
「お言葉ですが、アルビナ様は貞淑かつ我慢強いお方です。いかに貴族令嬢の宿命とはいえ、見知らぬ土地へ嫁いできたばかりで不安に駆られて寂しく思われることもあるでしょう。しかしあの方は、少なくともラポール伯爵家への恨み言は一つたりとも漏らしておりません。伯爵閣下へもご家族へも、無論のことです」
フィーは惑わされることなく堂々と、そう言いました。あまりにもはっきり断言され、ベルナール氏夫妻はすぐには反論できなかったようです。
さらに、フィーはこう付け足しました。
「それに、私とのおしゃべりにしても、髪の手入れの仕方を教えてほしいとおっしゃるのですよ。年頃の娘らしく可愛らしいではありませんか」
朗らかにそう言ってのけたフィーへ、それ以上の追及はありませんでした。
嬉しくもあり、そして無力でもあり、いたたまれない気持ちになり、私は苦しい胸を押さえつけます。
(フィー、ありがとう。だけど……私は、伯爵やフィーに庇ってもらうだけの価値があるのかしら)
そう思ってしまっては、私はいてもたってもいられず、その場から離れました。
ですが、ベルナール氏夫妻が指摘したように、私とフィーがよく話す仲であることについては知れ渡っており、部屋にいたって外の噂が聞こえてくる始末です。
屋敷のそれぞれの部屋は、中の音が外に漏れず、外の音が中によく聞こえるという仕組みだと年配の執事長から教わりました。
だとしても、しばしメイドたちの噂話が届いては、私は心穏やかではありませんでした。
「ほら、言ったとおり。騎士にお熱じゃない」
「若い女はこれだから。老伯爵閣下の手には負えないね」
私が読書室に籠る間に、メイドたちが寝室の掃除を始めたときのことでした。
きっとメイドたちは私に聞こえているとは知りません。そもそも、読書室に私がいることさえ知らないのかもしれませんでした。
私は、じっとメイドたちの噂話に耳を傾け、自分の評価を知ろうとしました。
そこへ、年配の執事長もやってきて、メイドへ注意します。
「何をおしゃべりしている。寝室の掃除が済んだなら、早く次へ行け」
「はいはい。執事さんも大変だね、あの若奥様に色目使われてないかい?」
「そんなことはない。まったく」
「じゃあ、あの騎士は? 最近は夕食にお誘いしてるじゃない」
「お前たちは一人で夕食を摂ったことはないのか? 食事時に喋る相手くらいいてもいいだろう。ましてや、奥様の境遇を考えれば」
「顔のいい騎士に傾くのも当然かね」
「違いない。ああいう田舎の小娘は、ちょっと優しくされればすぐにコロッと騙されるんだから」
やはり、自分に対する悪口は、分かっていても堪えます。私がフィーを友人と思うことさえも、傍目にはよく映らないのです。
しかし、私は一つ、思い違いをしていました。
年配の執事長が、口を滑らせたのです。
「こほん! お前たち、口が過ぎるぞ。それに、奥様はフィルフィリシアのことを女性だと思っている」
「あら、そうなのかい。まあ分からなくもないね」
「じゃあ、女友達くらいに思っているわけだ。はしたない真似をする前に、早く教えなくていいのかい」
くすくすと笑い声がして、年配の執事長のお叱りがまた響きました。
私は持っていた本を膝に落とし、衝撃の事実に遠慮なく頭を打たれたような感覚に陥りました。
年配の執事長が口にした、「奥様はフィルフィリシアのことを女性だと思っている」という言葉の意味は——深く考えるまでもありません。
「フィーは……そう、だから……」
私はまた、大きなため息を吐きました。
それは、これまでで一番大きな、深いため息でした。
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