二重のカーテン (スカートの下の黒い意志)

MisakiNonagase

文字の大きさ
4 / 15

第4話:エスカレーターの静寂

しおりを挟む
夕食の支度を終えた愛子は、ふと、先週末に夫の清孝(47)と二人で出かけた時のことを思い出した。

駅の長いエスカレーターに差し掛かった時のことだ。二人のすぐ前を歩いていたのは、眩しいほどのミニスカートを履いた若い女性だった。エスカレーターの乗り口が近づき、そのまま進めば清孝がその女性の真後ろに立つことになる。

その瞬間、清孝は自然な動作でふっと歩調を緩めた。彼はあえてすぐには乗り込まず、脇から来た別の乗客を数人、先に生かせたのだ。自分と彼女の間に「他人の壁」ができるのを待ってから、ようやく重い腰を上げるようにしてステップに乗った。

愛子は、そんな清孝のすぐ後ろ、エスカレーターの左側に続いて立った。
すぐ目の前にある夫の背中は、心なしかいつもより強張っているように見えた。清孝はスマホを取り出すわけでもなく、ただぼんやりと斜め下の広告を見つめ、石像のように固まっている。前を歩く女性に威圧感を与えないよう、そして「見ていないこと」を証明するかのような、それはもはやひとつの「儀式」に近い沈黙だった。

「そういえばあの時、パパ、わざと人を間に入れてたわね」

愛子がリビングでくつろぐ清孝に声をかけると、彼は少し苦笑いしながら、視線を泳がせた。

「ああ……気づいてたか。いや、最近は色々とうるさいからさ。もし俺が真後ろに立って、あの子がちょっとでも視線を感じて不安になったりしたら、お互いにいいことないだろ? だから、間に誰か挟んで『直接の視線』を物理的に遮断するのが一番なんだよ」

清孝の言うことは、あまりにも現実的で、そして少しだけ悲しいものだった。彼は続ける。

「エスカレーターだけじゃないよ。通勤電車だって、混んでいる時はできるだけ女性の後ろや付近は避けるようにしてる。両手で吊り革を掴むか、スマホを胸の高さでじっと持っておくか……。普通に立っているだけでも、今は加害者予備軍みたいに扱われちゃうこともあるからな。男性側も、今は無意識に自衛のスイッチが入るんだよ。最近はさ、中高生の女の子でもスラックスを履いている子が増えただろ? あれを見ると、正直ちょっとホッとするんだ。こっちも余計な気を使わなくて済むからね。……まあ、制服としての可愛さは少し減っちゃうのかもしれないけどさ(笑)」

清孝の言葉を聞きながら、愛子は四半世紀前の自分の姿を思い返していた。

「私たちの頃は、パパみたいな苦労をさせてなかったわね……。っていうか、今思うと本当に無防備だった」

愛子が女子高生だった頃、階段でスカートの裾を押さえる子なんてまずいなかった。黒パンもインナーパンツもない時代。たぶん、今よりもずっと、めっちゃ見られていたのだと思う。影になって見えるはずもないのに、下着のシミやシワまで見られているんじゃないかと、そんな想像さえ及ばないほどに、彼女たちは自由で、無防備だった。

中には、下着のラインが出るのを嫌って、制服の下にTバックを履いている友達だって珍しくなかった。今の娘たちが聞いたら、腰を抜かして驚くかもしれない。

「昔は『悪意』が今ほど可視化されていなかっただけなのよね。男性側も、これほどまでに『容疑をかけられないための努力』を強いられることはなかったし。ある意味、お互いに鈍感でいられた幸せな時代だったのかも」

「本当にね。今はもう、その『鈍感さ』が許されない。女性が黒パンで身を守るように、俺たち男も『無関心』を装って、物理的な距離を置くことで自分たちを守らないといけないんだ」

清孝は少しだけ誇らしげに、でもどこか肩の荷が重そうな笑みを浮かべて、テレビに目を戻した。

娘たちが黒い布一枚で必死に境界線を引いているように、清孝のような誠実な男性たちもまた、あらぬ誤解を受けないよう、神経をすり減らしながら「一人分の空白」を作り続けている。

誰もが何かを隠し、誰もが見ないふりをする。
そんな少しだけ窮屈な、けれど精一杯の配慮が折り重なったこの街の風景を、愛子は愛おしく、そして少しだけ切なく思うのだった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

母の下着 タンスと洗濯籠の秘密

MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。 颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。 物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。 しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。 センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。 これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。 どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。

還暦の性 若い彼との恋愛模様

MisakiNonagase
恋愛
還暦を迎えた和子。保持する資格の更新講習で二十代後半の青年、健太に出会った。何気なくてLINE交換してメッセージをやりとりするうちに、胸が高鳴りはじめ、長年忘れていた恋心に花が咲く。 そんな還暦女性と二十代の青年の恋模様。 その後、結婚、そして永遠の別れまでを描いたストーリーです。 全7話

熟女愛好家ユウスケの青春(熟女漁り)その後

MisakiNonagase
恋愛
高校まで勉強一筋で大学デビューをしたユウスケは家庭教師の教え子の母親と不倫交際するが、彼にとって彼女とが初の男女交際。そこでユウスケは自分が熟女好きだと自覚する。それからユウスケは戦略と実戦を重ねて、清潔感と聞き上手を武器にたくさんの熟女と付き合つまた。 その後、大学を卒業した祐輔(ユウスケ)の新たなストーリーが始まった。 全15話を予定

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

17歳男子高生と32歳主婦の境界線

MisakiNonagase
恋愛
32歳の主婦・加恋。冷え切った家庭で孤独に苛まれる彼女を救い出したのは、ネットの向こう側にいた二十歳(はたち)と偽っていた17歳の少年・晴人だった。 「未成年との不倫」という、社会から断罪されるべき背徳。それでも二人は、震える手で未来への約束を交わす。少年が大学生になり、社会人となり、守られる存在から「守る男」へと成長していく中で、加恋は自らの手で「妻」という仮面を脱ぎ捨てていく…

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

お父さんのお嫁さんに私はなる

色部耀
恋愛
お父さんのお嫁さんになるという約束……。私は今夜それを叶える――。

処理中です...