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第4話:エスカレーターの静寂
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夕食の支度を終えた愛子は、ふと、先週末に夫の清孝(47)と二人で出かけた時のことを思い出した。
駅の長いエスカレーターに差し掛かった時のことだ。二人のすぐ前を歩いていたのは、眩しいほどのミニスカートを履いた若い女性だった。エスカレーターの乗り口が近づき、そのまま進めば清孝がその女性の真後ろに立つことになる。
その瞬間、清孝は自然な動作でふっと歩調を緩めた。彼はあえてすぐには乗り込まず、脇から来た別の乗客を数人、先に生かせたのだ。自分と彼女の間に「他人の壁」ができるのを待ってから、ようやく重い腰を上げるようにしてステップに乗った。
愛子は、そんな清孝のすぐ後ろ、エスカレーターの左側に続いて立った。
すぐ目の前にある夫の背中は、心なしかいつもより強張っているように見えた。清孝はスマホを取り出すわけでもなく、ただぼんやりと斜め下の広告を見つめ、石像のように固まっている。前を歩く女性に威圧感を与えないよう、そして「見ていないこと」を証明するかのような、それはもはやひとつの「儀式」に近い沈黙だった。
「そういえばあの時、パパ、わざと人を間に入れてたわね」
愛子がリビングでくつろぐ清孝に声をかけると、彼は少し苦笑いしながら、視線を泳がせた。
「ああ……気づいてたか。いや、最近は色々とうるさいからさ。もし俺が真後ろに立って、あの子がちょっとでも視線を感じて不安になったりしたら、お互いにいいことないだろ? だから、間に誰か挟んで『直接の視線』を物理的に遮断するのが一番なんだよ」
清孝の言うことは、あまりにも現実的で、そして少しだけ悲しいものだった。彼は続ける。
「エスカレーターだけじゃないよ。通勤電車だって、混んでいる時はできるだけ女性の後ろや付近は避けるようにしてる。両手で吊り革を掴むか、スマホを胸の高さでじっと持っておくか……。普通に立っているだけでも、今は加害者予備軍みたいに扱われちゃうこともあるからな。男性側も、今は無意識に自衛のスイッチが入るんだよ。最近はさ、中高生の女の子でもスラックスを履いている子が増えただろ? あれを見ると、正直ちょっとホッとするんだ。こっちも余計な気を使わなくて済むからね。……まあ、制服としての可愛さは少し減っちゃうのかもしれないけどさ(笑)」
清孝の言葉を聞きながら、愛子は四半世紀前の自分の姿を思い返していた。
「私たちの頃は、パパみたいな苦労をさせてなかったわね……。っていうか、今思うと本当に無防備だった」
愛子が女子高生だった頃、階段でスカートの裾を押さえる子なんてまずいなかった。黒パンもインナーパンツもない時代。たぶん、今よりもずっと、めっちゃ見られていたのだと思う。影になって見えるはずもないのに、下着のシミやシワまで見られているんじゃないかと、そんな想像さえ及ばないほどに、彼女たちは自由で、無防備だった。
中には、下着のラインが出るのを嫌って、制服の下にTバックを履いている友達だって珍しくなかった。今の娘たちが聞いたら、腰を抜かして驚くかもしれない。
「昔は『悪意』が今ほど可視化されていなかっただけなのよね。男性側も、これほどまでに『容疑をかけられないための努力』を強いられることはなかったし。ある意味、お互いに鈍感でいられた幸せな時代だったのかも」
「本当にね。今はもう、その『鈍感さ』が許されない。女性が黒パンで身を守るように、俺たち男も『無関心』を装って、物理的な距離を置くことで自分たちを守らないといけないんだ」
清孝は少しだけ誇らしげに、でもどこか肩の荷が重そうな笑みを浮かべて、テレビに目を戻した。
娘たちが黒い布一枚で必死に境界線を引いているように、清孝のような誠実な男性たちもまた、あらぬ誤解を受けないよう、神経をすり減らしながら「一人分の空白」を作り続けている。
誰もが何かを隠し、誰もが見ないふりをする。
そんな少しだけ窮屈な、けれど精一杯の配慮が折り重なったこの街の風景を、愛子は愛おしく、そして少しだけ切なく思うのだった。
駅の長いエスカレーターに差し掛かった時のことだ。二人のすぐ前を歩いていたのは、眩しいほどのミニスカートを履いた若い女性だった。エスカレーターの乗り口が近づき、そのまま進めば清孝がその女性の真後ろに立つことになる。
その瞬間、清孝は自然な動作でふっと歩調を緩めた。彼はあえてすぐには乗り込まず、脇から来た別の乗客を数人、先に生かせたのだ。自分と彼女の間に「他人の壁」ができるのを待ってから、ようやく重い腰を上げるようにしてステップに乗った。
愛子は、そんな清孝のすぐ後ろ、エスカレーターの左側に続いて立った。
すぐ目の前にある夫の背中は、心なしかいつもより強張っているように見えた。清孝はスマホを取り出すわけでもなく、ただぼんやりと斜め下の広告を見つめ、石像のように固まっている。前を歩く女性に威圧感を与えないよう、そして「見ていないこと」を証明するかのような、それはもはやひとつの「儀式」に近い沈黙だった。
「そういえばあの時、パパ、わざと人を間に入れてたわね」
愛子がリビングでくつろぐ清孝に声をかけると、彼は少し苦笑いしながら、視線を泳がせた。
「ああ……気づいてたか。いや、最近は色々とうるさいからさ。もし俺が真後ろに立って、あの子がちょっとでも視線を感じて不安になったりしたら、お互いにいいことないだろ? だから、間に誰か挟んで『直接の視線』を物理的に遮断するのが一番なんだよ」
清孝の言うことは、あまりにも現実的で、そして少しだけ悲しいものだった。彼は続ける。
「エスカレーターだけじゃないよ。通勤電車だって、混んでいる時はできるだけ女性の後ろや付近は避けるようにしてる。両手で吊り革を掴むか、スマホを胸の高さでじっと持っておくか……。普通に立っているだけでも、今は加害者予備軍みたいに扱われちゃうこともあるからな。男性側も、今は無意識に自衛のスイッチが入るんだよ。最近はさ、中高生の女の子でもスラックスを履いている子が増えただろ? あれを見ると、正直ちょっとホッとするんだ。こっちも余計な気を使わなくて済むからね。……まあ、制服としての可愛さは少し減っちゃうのかもしれないけどさ(笑)」
清孝の言葉を聞きながら、愛子は四半世紀前の自分の姿を思い返していた。
「私たちの頃は、パパみたいな苦労をさせてなかったわね……。っていうか、今思うと本当に無防備だった」
愛子が女子高生だった頃、階段でスカートの裾を押さえる子なんてまずいなかった。黒パンもインナーパンツもない時代。たぶん、今よりもずっと、めっちゃ見られていたのだと思う。影になって見えるはずもないのに、下着のシミやシワまで見られているんじゃないかと、そんな想像さえ及ばないほどに、彼女たちは自由で、無防備だった。
中には、下着のラインが出るのを嫌って、制服の下にTバックを履いている友達だって珍しくなかった。今の娘たちが聞いたら、腰を抜かして驚くかもしれない。
「昔は『悪意』が今ほど可視化されていなかっただけなのよね。男性側も、これほどまでに『容疑をかけられないための努力』を強いられることはなかったし。ある意味、お互いに鈍感でいられた幸せな時代だったのかも」
「本当にね。今はもう、その『鈍感さ』が許されない。女性が黒パンで身を守るように、俺たち男も『無関心』を装って、物理的な距離を置くことで自分たちを守らないといけないんだ」
清孝は少しだけ誇らしげに、でもどこか肩の荷が重そうな笑みを浮かべて、テレビに目を戻した。
娘たちが黒い布一枚で必死に境界線を引いているように、清孝のような誠実な男性たちもまた、あらぬ誤解を受けないよう、神経をすり減らしながら「一人分の空白」を作り続けている。
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