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30.アビゲイル嬢の苦悩①
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洗濯籠を抱えながらふと窓の外を見やると、すっかり暗くなっていた。中庭の薔薇園では、今は誰も座っていない白いベンチが薄闇のなかで淡く浮いているように見える。昨夜、あのベンチでグラシアンはわたしの身体をまさぐったのだ。
思い出した途端、わたしの顔は火が出るかという勢いで熱くなった。
――本当に誰だったのよ? あの男。
本人に違いないのに、物腰と言葉遣いがまるで別人だった。あれは双子の兄弟ですと言われた方がまだ理解できる。あの無礼千万、傲岸不遜な姿がわたしの『完璧な婚約者』の本性だった事実が全く信じられない。
――あの、ドスケベ! 王太女への貞潔の誓いはどこへ行ったのよ!?
わたしは今日一日、胃を火傷させるような怒りに支配されていた。
「……ロル! キャロル!」
何度か呼ばれて、ようやくそれが今の自分の名前であることに気づいた。振り返ると、メイド仲間が必死に追いかけてきているではないか。
「……ごめん、ブレンダ。なんだったかしら?」
「グラシアン様の靴下、落としてたわよ」
黒い布の塊を手渡されて、わたしはガクリと肩を落とす。――いくら動揺しているとはいえ、主人の洗濯ものを落とすなんてどうかしている。少なくとも、王宮にそんなヘマをする使用人はいない。
「……ありがとう」
ブレンダが怪訝そうに、わたしの顔を覗き込んできた。
「こころここにあらずね。今朝から様子が変よ。昨晩まで普通だったのに」
「……そうかな? ごめんね、気を付ける」
実をいうと、昨晩は考えすぎて全然眠れなかった。今朝はグラシアンと顔が合わせづらくて、彼が朝食に行っている間に急ピッチでベッドメイキングと掃除を終わらせたのだ。その後、グラシアンはどこかへ出かけたらしく顔を見ていない。いくら相手が無礼で不埒で巨大な猫を被った人間でも、わたしがメイドとしてここにいる以上は仕事をしなくてはいけない。呼ばれたら仕方ないと諦めていたが、今日一日呼ばれなかった。おかげでそう望んだにもかかわらず、昨晩からの悩みは解消されないままだ。
ブレンダと二人歩いていると、廊下の真ん中でうずくまる老人の姿があった。あの白髪と痩せた体躯は、グラシアンの従僕のガスに違いない。
「どうしました? 大丈夫ですか?」
「うっ、腰が……痛くての……、今ぐきっと……」
「ガスさん! ぎっくり腰やったばかりで、無理しちゃだめじゃないの」
ブレンダもしゃがんで、ガスを覗き込んだ。
「う……っ、若様が王宮に引っ越されるまでは、わしが面倒を見て差し上げたかったんじゃがのう……忘れっぽくなって体も弱くなって、わしもすっかり年じゃ」
ガスは散々気持ちを吐露したのち、わたしの存在に気が付いて凝視してきた。
「あ……あんた、若様のメイドだったかのぅ?」
「はい、キャロルと言います」
「あんたなら、大丈夫か。済まんが、若様にこのバスローブを届けてもらえんかね? うっかり忘れておってな」
「……わかりました。そんなことでよければ」
ついにグラシアンとまみえるときが来たか! それにしても、わたしなら大丈夫ってどういう意味?
ブレンダが、床に置いてあった洗濯籠を持ち上げる。
「これはわたしが責任をもって、洗濯係に渡しておくから。キャロルはグラシアン様にお届けしてよ」
「ありがとう。助かるわ」
「すまんのう」
座り込んだまま悔しそうに発する従僕に、ブレンダが声をかけた。
「ガスさん、立てる?」
「う……っ」
従僕は床に両手をついて、脂汗をかいている。かなり痛そうだった。わたしは気の毒に思い、ガスの腰に軽く手を添える。指先に集中して、少しずつ癒しのマナを注いでいった。
――この人が良くなりますように。
すると、ガスは突然目をぱちくりさせて、ひょいっと腰を起こしたのだ。
「おや。……急に、腰が軽くなったぞ……?」
「え、そうなの? 何か知らないけれど、良かったね」
わたしは二人の声を背後に捉えながら、預かったローブを抱えてグラシアンの部屋へと向かうことにした。
思い出した途端、わたしの顔は火が出るかという勢いで熱くなった。
――本当に誰だったのよ? あの男。
本人に違いないのに、物腰と言葉遣いがまるで別人だった。あれは双子の兄弟ですと言われた方がまだ理解できる。あの無礼千万、傲岸不遜な姿がわたしの『完璧な婚約者』の本性だった事実が全く信じられない。
――あの、ドスケベ! 王太女への貞潔の誓いはどこへ行ったのよ!?
わたしは今日一日、胃を火傷させるような怒りに支配されていた。
「……ロル! キャロル!」
何度か呼ばれて、ようやくそれが今の自分の名前であることに気づいた。振り返ると、メイド仲間が必死に追いかけてきているではないか。
「……ごめん、ブレンダ。なんだったかしら?」
「グラシアン様の靴下、落としてたわよ」
黒い布の塊を手渡されて、わたしはガクリと肩を落とす。――いくら動揺しているとはいえ、主人の洗濯ものを落とすなんてどうかしている。少なくとも、王宮にそんなヘマをする使用人はいない。
「……ありがとう」
ブレンダが怪訝そうに、わたしの顔を覗き込んできた。
「こころここにあらずね。今朝から様子が変よ。昨晩まで普通だったのに」
「……そうかな? ごめんね、気を付ける」
実をいうと、昨晩は考えすぎて全然眠れなかった。今朝はグラシアンと顔が合わせづらくて、彼が朝食に行っている間に急ピッチでベッドメイキングと掃除を終わらせたのだ。その後、グラシアンはどこかへ出かけたらしく顔を見ていない。いくら相手が無礼で不埒で巨大な猫を被った人間でも、わたしがメイドとしてここにいる以上は仕事をしなくてはいけない。呼ばれたら仕方ないと諦めていたが、今日一日呼ばれなかった。おかげでそう望んだにもかかわらず、昨晩からの悩みは解消されないままだ。
ブレンダと二人歩いていると、廊下の真ん中でうずくまる老人の姿があった。あの白髪と痩せた体躯は、グラシアンの従僕のガスに違いない。
「どうしました? 大丈夫ですか?」
「うっ、腰が……痛くての……、今ぐきっと……」
「ガスさん! ぎっくり腰やったばかりで、無理しちゃだめじゃないの」
ブレンダもしゃがんで、ガスを覗き込んだ。
「う……っ、若様が王宮に引っ越されるまでは、わしが面倒を見て差し上げたかったんじゃがのう……忘れっぽくなって体も弱くなって、わしもすっかり年じゃ」
ガスは散々気持ちを吐露したのち、わたしの存在に気が付いて凝視してきた。
「あ……あんた、若様のメイドだったかのぅ?」
「はい、キャロルと言います」
「あんたなら、大丈夫か。済まんが、若様にこのバスローブを届けてもらえんかね? うっかり忘れておってな」
「……わかりました。そんなことでよければ」
ついにグラシアンとまみえるときが来たか! それにしても、わたしなら大丈夫ってどういう意味?
ブレンダが、床に置いてあった洗濯籠を持ち上げる。
「これはわたしが責任をもって、洗濯係に渡しておくから。キャロルはグラシアン様にお届けしてよ」
「ありがとう。助かるわ」
「すまんのう」
座り込んだまま悔しそうに発する従僕に、ブレンダが声をかけた。
「ガスさん、立てる?」
「う……っ」
従僕は床に両手をついて、脂汗をかいている。かなり痛そうだった。わたしは気の毒に思い、ガスの腰に軽く手を添える。指先に集中して、少しずつ癒しのマナを注いでいった。
――この人が良くなりますように。
すると、ガスは突然目をぱちくりさせて、ひょいっと腰を起こしたのだ。
「おや。……急に、腰が軽くなったぞ……?」
「え、そうなの? 何か知らないけれど、良かったね」
わたしは二人の声を背後に捉えながら、預かったローブを抱えてグラシアンの部屋へと向かうことにした。
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