2 / 58
第2話 医師の目、あるいは見えざる敵との対峙
しおりを挟む「呪いではない。病だ」
大聖堂の張り詰めた空気の中で、マイルズの放った言葉は、石造りの壁に反響し、人々の鼓膜を揺さぶった。
一瞬の静寂。
それを破ったのは、父ロッシュの低い、しかし切迫した声だった。
「病だと……? マイルズ、お前は今、何を言っているのか分かっているのか」
ロッシュは玉座から降り、マイルズの目の前まで歩み寄った。その威圧感は凄まじい。歴戦の武人でもある父の気迫に、普通の子供なら萎縮していただろう。
だが、マイルズは一歩も引かなかった。
彼の中にあるのは、三十年以上の医師としての経験と、目の前の危機に対する職業倫理だけだった。
「分かっております、父上。衛兵の報告にあった高熱、発疹。そして感染の拡大速度。これは呪いなどという不確かなものではなく、明確な感染源を持つ伝染病の特徴です」
「だが、侍医たちですら匙を投げたのだぞ。お前ごときに何が分かる」
「侍医たちが知らないだけです。あるいは、見るべき場所を間違えているか」
マイルズは淀みなく答える。
「父上。私に、この事態の収拾を任せていただけませんか」
「……お前に?」
「はい。先ほど、神より賜った『生命』のスキル。これがあれば、人体の内部を詳細に観察し、病の原因を特定することが可能です。……試す価値はあるはずです」
ロッシュは息子の瞳を覗き込んだ。
そこにあるのは、功名心や子供じみた冒険心ではない。
確固たる自信と、理知的な輝き。
そして何より、先ほど起きた奇跡――測定不能の魔力と、『生命』『創造』という伝説級のスキル発現。
ロッシュは決断の早い男だった。
「……よかろう。ただし、私も同行する。衛兵、マイルズを護衛せよ! 司教殿、儀式は中断だ。直ちに貧民区へ向かう!」
ニース王国の春の日差しは柔らかいが、領都の西側、通称「貧民区」に近づくにつれて、空気は重く、澱んでいくように感じられた。
馬車は舗装された大通りを外れ、ぬかるんだ土の道へと入っていく。
マイルズは馬車の中で、頭の中でシミュレーションを繰り返していた。
(高熱と発疹。可能性が高いのは麻疹、天然痘、あるいは発疹チフス。衛生環境の悪い貧民区発祥という点を鑑みれば、媒介生物がいる可能性が高い)
現場に到着する直前、マイルズは馬車の中で「実験」を行った。
(『創造』。イメージするのは、高密度の不織布。そしてニトリルゴムの手袋)
マイルズが小さく手をかざすと、掌に淡い光が集束する。
一瞬の後、そこにはこの世界には存在しないはずの、真っ白なN95規格相当のマスクと、青色の医療用手袋が生成されていた。
魔力消費は微々たるものだ。イメージさえ具体的であれば、物質構造を理解していれば、『創造』は容易い。
「な、なんだそれは……」
同乗していたロッシュが目を見開く。
「感染予防のための防具です。父上、これを着けてください。私も着けます」
マイルズは余分に生成したマスクと手袋を父に渡した。
「病は、呼吸や接触で移ります。魔物と戦う時に鎧を着るのと同じです」
ロッシュは怪訝な顔をしながらも、息子の真剣な様子に、黙ってその奇妙な布を口元に当てた。
馬車が止まった。
貧民区の入り口だ。
扉を開けた瞬間、鼻をつく強烈な悪臭がマスク越しにも漂ってきた。
腐敗臭。排泄物の臭い。そして、死の予感のする独特の甘ったるい臭気。
(……酷いな)
マイルズは眉をひそめた。
道の真ん中を汚水が流れ、その脇に建て付けの悪い木造のバラックが密集している。
栄養失調で腹の膨れた子供たちが、虚ろな目で一行を見ている。
そして、奥の長屋から、苦しげな咳と呻き声が聞こえてきた。
「ここです、伯爵様」
先行していた衛兵が、布で口を覆いながら案内する。
「この長屋の住人が、最初に発症しました」
薄暗い小屋の中に入る。
床には藁が敷き詰められ、そこに数人の男女が横たわっていた。
熱気で空気が歪んでいる。
マイルズは躊躇なく患者の一人、七つくらいの少年の元へ歩み寄った。
「マイルズ様、危険です!」
駆けつけていた侍医長――老齢の男、ガレンが声を上げる。彼は恐怖で顔を青ざめさせていた。
「離れてください! これは『赤斑の呪い』です! 触れれば呪いが移ります!」
「下がっていろ、ガレン。邪魔だ」
マイルズは冷たく言い放つと、少年の傍らに膝をついた。
少年は意識が混濁しており、呼吸は浅く速い。
肌は乾燥し、高熱を発していることが触れずとも分かる。
そして、全身に広がる赤い斑点。
マイルズはゴム手袋をした手で、少年の瞼を押し上げ、眼球を確認する。結膜の充血。
次に、首筋のリンパ節を触診する。腫れている。
(脈拍は百二十を超えている。不整脈あり。脱水症状も顕著だ)
「『生命(ヴィータ)』・走査(スキャン)」
マイルズが小さく詠唱する。
これは彼が独自に編み出した魔法の行使法だ。スキルの概念を、前世のMRIやCTスキャンのイメージに当てはめる。
淡い緑色の光が、少年の体を包み込む。
マイルズの脳内に、少年の体内の映像が、驚くほど鮮明に投影された。
血管の中を流れる血液。肺の炎症。肥大した肝臓と脾臓。
そして、血管内皮細胞に巣食う、微細な病原体の姿。
(……見つけた)
それは細菌よりも小さく、ウイルスよりは大きい。
リケッチアだ。
血管の中で増殖し、炎症を引き起こし、全身の臓器不全を招く。
(やはり、発疹チフスに近い。いや、この世界の固有種か。だが構造は似ている)
マイルズはスキャンを続けながら、少年の体表、特に髪の毛や衣服の縫い目を詳細に観察した。
そして、一匹の小さな虫を見つけ出した。
シラミだ。コロモジラミ。
不衛生な環境で爆発的に増殖し、病原体を媒介する運び屋(ベクター)。
「……父上。それから、そこにいる医師」
マイルズは立ち上がり、手袋をした手で、その小さな虫を摘まみ上げた。
「原因は、呪いでも悪霊でもありません」
マイルズはその虫を彼らの前に突き出した。
「こいつです」
「……虫?」
ロッシュが眉を寄せる。
「シラミです。この虫が、病の毒を腹の中に持っている。こいつが人の血を吸う時、あるいは潰された死骸や糞が傷口から入ることで、人は病に侵されるのです」
「馬鹿な! たかが虫ごときが、人を殺せるものか!」
侍医長のガレンが叫んだ。「病とは体液の不調和、あるいは悪い気(ミアズマ)によって起こるものだ! そのような小さな虫に……」
「黙れ」
マイルズの声には、絶対的な説得力があった。
「私の『生命』のスキルは、お前たちの想像を遥かに超える精度で生命を見通す。この少年の血液の中に、この虫が持つのと同じ毒が回っているのを、私は確かに見た」
マイルズは周囲を見渡した。
狭い部屋。密集する人々。せんべい布団代わりの藁。
「見てください。ここはシラミの楽園だ。不衛生な寝具、過密な住環境、そして栄養不足による抵抗力の低下。これらが、感染爆発(パンデミック)の下地を作ったのです」
マイルズは次々と指示を出し始めた。その口調は、もはや十歳の子供のものではなく、災害医療の指揮官のそれだった。
「父上、直ちにこの区画を封鎖してください。人の出入りを完全に禁じます」
「ふ、封鎖だと? しかし……」
「外に出せば、シラミと共に病が領都中に広がります。そうなれば、バーンズ領は全滅です」
「……分かった。衛兵隊長! この区画の周囲を固めろ! 一匹の鼠も逃がすな!」
ロッシュの決断は早かった。
「次に、水です」
マイルズは部屋の隅にある水瓶を指差した。
「飲み水は全て煮沸させてください。生水は厳禁です。そして、患者の衣類、寝具は全て焼却処分にします」
「焼却!? 彼らの財産を燃やせと言うのですか!」
ガレンが反論する。
「代わりの衣服と寝具は、我が家から支給します。命と古着、どちらが大事か子供でも分かります」
マイルズは冷たく切り捨てた。
「そして、患者たちを隔離します。症状の重い者、軽い者、まだ発症していない者を分け、接触を断ちます」
マイルズは再び患者の少年に向き直った。
原因が分かれば、治療の方針も立つ。
この世界には抗生物質はない。だが、マイルズには『生命』のスキルがある。
(病原体の構造は把握した。ならば、それを選択的に排除する魔力を流せばいい)
マイルズは少年の胸に手を当てた。
『生命』・浄化(ピュリファイ)。
イメージするのは、テトラサイクリン系抗生物質の作用機序。リケッチアのタンパク合成を阻害し、増殖を止める。同時に、患者自身の免疫力を活性化させる。
黄金色の魔力が、マイルズの手から少年の体内へと流れ込む。
ドクン、と少年の心臓が強く脈打った。
苦しげだった呼吸が、徐々に穏やかになっていく。
赤黒く変色していた発疹が、見る見るうちに薄れていく。
「お、おお……」
周囲から感嘆の声が漏れる。
それはまさに、奇跡の光景だった。
「熱が……下がっている」
母親らしき女性が、泣き崩れながら少年の手を握りしめた。
マイルズは額の汗を拭い、立ち上がった。
魔力消費はそれなりに大きい。だが、手応えはある。
「……この子はもう大丈夫です。あとは水分と栄養を摂れば回復します」
マイルズは父と、呆然とする侍医長に向き直った。
「証明しましたよ。これは病であり、治療可能であると」
「……ああ。見事だ、マイルズ」
ロッシュの声は震えていた。息子への畏敬の念すら滲んでいる。
「だが、患者は多い。私一人で全員に魔法をかけて回るわけにはいきません。私の魔力にも限界がある」
マイルズの目は、現実を見据えていた。
「根本的な解決が必要です。媒介虫(ベクター)の駆除、衛生環境の改善、そして栄養状態の向上。……ここからが、本当の戦いです」
マイルズは小屋の外に出た。
新鮮な空気を吸おうとしたが、そこにあるのは相変わらずの悪臭だった。
彼はその臭いを肺一杯に吸い込み、覚悟を決めた。
この悪臭こそが、自分が戦うべき敵なのだ。
「父上。私は領主代行としての権限をいただきたい。この貧民区を拠点に、領都全体の公衆衛生改革(サニテーション)を行います」
十歳の少年の背中は、ニース王国のどの医師よりも、頼もしく見えた。
796
あなたにおすすめの小説
転生したら領主の息子だったので快適な暮らしのために知識チートを実践しました
SOU 5月17日10作同時連載開始❗❗
ファンタジー
不摂生が祟ったのか浴槽で溺死したブラック企業務めの社畜は、ステップド騎士家の長男エルに転生する。
不便な異世界で生活環境を改善するためにエルは知恵を絞る。
14万文字執筆済み。2025年8月25日~9月30日まで毎日7:10、12:10の一日二回更新。
【㊗️受賞!】神のミスで転生したけど、幼児化しちゃった!〜もふもふと一緒に、異世界ライフを楽しもう!〜
一ノ蔵(いちのくら)
ファンタジー
※第18回ファンタジー小説大賞にて、奨励賞を受賞しました!投票して頂いた皆様には、感謝申し上げますm(_ _)m
✩物語は、ゆっくり進みます。冒険より、日常に重きありの異世界ライフです。
【あらすじ】
神のミスにより、異世界転生が決まったミオ。調子に乗って、スキルを欲張り過ぎた結果、幼児化してしまった!
そんなハプニングがありつつも、ミオは、大好きな異世界で送る第二の人生に、希望いっぱい!
事故のお詫びに遣わされた、守護獣神のジョウとともに、ミオは異世界ライフを楽しみます!
カクヨム(吉野 ひな)にて、先行投稿しています。
辺境領主は大貴族に成り上がる! チート知識でのびのび領地経営します
潮ノ海月@2025/11月新刊発売予定!
ファンタジー
旧題:転生貴族の領地経営~チート知識を活用して、辺境領主は成り上がる!
トールデント帝国と国境を接していたフレンハイム子爵領の領主バルトハイドは、突如、侵攻を開始した帝国軍から領地を守るためにルッセン砦で迎撃に向かうが、守り切れず戦死してしまう。
領主バルトハイドが戦争で死亡した事で、唯一の後継者であったアクスが跡目を継ぐことになってしまう。
アクスの前世は日本人であり、争いごとが極端に苦手であったが、領民を守るために立ち上がることを決意する。
だが、兵士の証言からしてラッセル砦を陥落させた帝国軍の数は10倍以上であることが明らかになってしまう
完全に手詰まりの中で、アクスは日本人として暮らしてきた知識を活用し、さらには領都から避難してきた獣人や亜人を仲間に引き入れ秘策を練る。
果たしてアクスは帝国軍に勝利できるのか!?
これは転生貴族アクスが領地経営に奮闘し、大貴族へ成りあがる物語。
《作者からのお知らせ!》
※2025/11月中旬、 辺境領主の3巻が刊行となります。
今回は3巻はほぼ全編を書き下ろしとなっています。
【貧乏貴族の領地の話や魔導車オーディションなど、】連載にはないストーリーが盛りだくさん!
※また加筆によって新しい展開になったことに伴い、今まで投稿サイトに連載していた続話は、全て取り下げさせていただきます。何卒よろしくお願いいたします。
元おっさんの俺、公爵家嫡男に転生~普通にしてるだけなのに、次々と問題が降りかかってくる~
おとら@ 書籍発売中
ファンタジー
アルカディア王国の公爵家嫡男であるアレク(十六歳)はある日突然、前触れもなく前世の記憶を蘇らせる。
どうやら、それまでの自分はグータラ生活を送っていて、ろくでもない評判のようだ。
そんな中、アラフォー社畜だった前世の記憶が蘇り混乱しつつも、今の生活に慣れようとするが……。
その行動は以前とは違く見え、色々と勘違いをされる羽目に。
その結果、様々な女性に迫られることになる。
元婚約者にしてツンデレ王女、専属メイドのお調子者エルフ、決闘を仕掛けてくるクーデレ竜人姫、世話をすることなったドジっ子犬耳娘など……。
「ハーレムは嫌だァァァァ! どうしてこうなった!?」
今日も、そんな彼の悲鳴が響き渡る。
人質5歳の生存戦略! ―悪役王子はなんとか死ぬ気で生き延びたい!冤罪処刑はほんとムリぃ!―
ほしみ
ファンタジー
「え! ぼく、死ぬの!?」
前世、15歳で人生を終えたぼく。
目が覚めたら異世界の、5歳の王子様!
けど、人質として大国に送られた危ない身分。
そして、夢で思い出してしまった最悪な事実。
「ぼく、このお話知ってる!!」
生まれ変わった先は、小説の中の悪役王子様!?
このままだと、10年後に無実の罪であっさり処刑されちゃう!!
「むりむりむりむり、ぜったいにムリ!!」
生き延びるには、なんとか好感度を稼ぐしかない。
とにかく周りに気を使いまくって!
王子様たちは全力尊重!
侍女さんたちには迷惑かけない!
ひたすら頑張れ、ぼく!
――猶予は後10年。
原作のお話は知ってる――でも、5歳の頭と体じゃうまくいかない!
お菓子に惑わされて、勘違いで空回りして、毎回ドタバタのアタフタのアワアワ。
それでも、ぼくは諦めない。
だって、絶対の絶対に死にたくないからっ!
原作とはちょっと違う王子様たち、なんかびっくりな王様。
健気に奮闘する(ポンコツ)王子と、見守る人たち。
どうにか生き延びたい5才の、ほのぼのコミカル可愛いふわふわ物語。
(全年齢/ほのぼの/男性キャラ中心/嫌なキャラなし/1エピソード完結型/ほぼ毎日更新中)
伯爵家の三男に転生しました。風属性と回復属性で成り上がります
竹桜
ファンタジー
武田健人は、消防士として、風力発電所の事故に駆けつけ、救助活動をしている途中に、上から瓦礫が降ってきて、それに踏み潰されてしまった。次に、目が覚めると真っ白な空間にいた。そして、神と名乗る男が出てきて、ほとんど説明がないまま異世界転生をしてしまう。
転生してから、ステータスを見てみると、風属性と回復属性だけ適性が10もあった。この世界では、5が最大と言われていた。俺の異世界転生は、どうなってしまうんだ。
【完結】兄の事を皆が期待していたので僕は離れます
まりぃべる
ファンタジー
一つ年上の兄は、国の為にと言われて意気揚々と村を離れた。お伽話にある、奇跡の聖人だと幼き頃より誰からも言われていた為、それは必然だと。
貧しい村で育った弟は、小さな頃より家の事を兄の分までせねばならず、兄は素晴らしい人物で対して自分は凡人であると思い込まされ、自分は必要ないのだからと弟は村を離れる事にした。
そんな弟が、自分を必要としてくれる人に会い、幸せを掴むお話。
☆まりぃべるの世界観です。緩い設定で、現実世界とは違う部分も多々ありますがそこをあえて楽しんでいただけると幸いです。
☆現実世界にも同じような名前、地名、言葉などがありますが、関係ありません。
転生貴族のスローライフ
マツユキ
ファンタジー
現代の日本で、病気により若くして死んでしまった主人公。気づいたら異世界で貴族の三男として転生していた
しかし、生まれた家は力主義を掲げる辺境伯家。自分の力を上手く使えない主人公は、追放されてしまう事に。しかも、追放先は誰も足を踏み入れようとはしない場所だった
これは、転生者である主人公が最凶の地で、国よりも最強の街を起こす物語である
*基本は1日空けて更新したいと思っています。連日更新をする場合もありますので、よろしくお願いします
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる