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第5話 汚名と黄金、そして銀の翼
しおりを挟む季節は春から初夏へと移ろおうとしていた。
バーンズ領を救った「石鹸」の出荷が始まり、王都からの現金収入が金庫を潤し始めた頃。
領都の北外れ、かつて荒れ地だった場所に、異様な建造物が姿を現していた。
それは、マイルズが『創造』と土魔法の使い手たちを総動員して作り上げた、巨大な石造りのプラントだった。
高さ五メートルはある円筒形のサイロが十基、整然と並んでいる。
だが、その威容とは裏腹に、そこから漂ってくる「臭気」は、風向きによっては領都の住民たちを顔をしかめさせるものだった。
「……若様。本気でございますか」
ハンカチで鼻を押さえながら、家令のセバスが呻くように言った。
「本気だとも」
マイルズは平然と答えた。彼は作業着に身を包み、あろうことかその臭気の源である「搬入路」の真ん中に立っていた。
そこには、領内中から集められた荷馬車が列を成していた。
積まれているのは、家畜の糞尿、家庭から出た生ゴミ、枯れ草、そして下水処理場から回収された汚泥。
いわゆる「汚物」の山である。
「石鹸で綺麗になることを教えたかと思えば、今度はゴミを集めて何をするおつもりか……領民たちは皆、首を傾げておりますぞ。『若様は汚れ仕事がお好きになってしまわれた』と」
セバスの嘆きも無理はない。
貴族、それも伯爵家の跡取りが、汚物の処理場に入り浸っているのだ。
「今は何とでも言わせておけばいい」
マイルズは、搬入された汚物が巨大な撹拌槽(ミキサー)へと投入される様を見守った。
「彼らは、これがただのゴミだと思っている。だが、私の目には『黄金』に見えているんだ」
マイルズが建設したのは、有機廃棄物を高速で発酵・分解させ、良質な堆肥へと変える『有機肥料センター(バイオマス・プラント)』だった。
通常、堆肥を作るには数ヶ月から半年、自然発酵を待たねばならない。
だが、マイルズには時間がない。冬までに、痩せた大地を蘇らせ、秋蒔きの作物を育てねばならないのだ。
だからこそ、彼は『生命』スキルを使った。
前世の記憶にある「好気性発酵菌」や「放線菌」の構造をイメージし、魔力で強化培養した『特製発酵菌』を開発したのだ。
これを投入し、土魔法で適切な温度(六十度から七十度)を維持しながら空気を送り込めば、わずか一週間で完熟堆肥が出来上がる。
「温度よし、水分量よし。……菌たちは元気に働いているな」
マイルズは撹拌槽の側面にある点検窓から、湯気を上げて発酵する茶色の塊を確認した。
七十度の発酵熱は、病原菌や雑草の種子を死滅させる。
出来上がるのは、無臭で、栄養分(窒素・リン酸・カリウム)をたっぷりと含んだ、最高の土壌改良剤だ。
「あと十日だ、セバス。十日後、最初のロットが完成する。そうすれば、この臭いも『豊穣の香り』に変わるさ」
マイルズは不敵に笑い、作業に戻っていった。
十歳の少年の背中は、汚泥にまみれていても、どこか孤高の輝きを放っていた。
◇
それから二週間が経過した。
季節は完全に夏を迎えた。
マイルズの予言通り、肥料センターはフル稼働を開始し、黒々とした完熟堆肥が山のように生産され始めていた。
しかし、新たな問題がマイルズを悩ませていた。
領主館の執務室。
マイルズは、一枚の報告書を睨みつけていた。
「……買えない、だと?」
「はい、若様」
報告に来た商業ギルドの男が、脂汗を拭いながら答えた。
「隣のドルトン子爵領、および西の穀倉地帯を持つ諸侯が、バーンズ領への小麦の販売を渋っております」
石鹸の売上で、資金は潤沢にある。
だが、肝心の「物」が入ってこない。
「理由は?」
「表向きは『自領の備蓄も心許ない』と。ですが、裏では……『バーンズ家が石鹸で暴利を貪っているのが気に入らない』とか、『飢えさせて足元を見てやろう』という談合が行われているようです」
経済封鎖。
出る杭は打たれる。バーンズ領の急激な経済成長と、マイルズという「神童」の噂に、周辺貴族が警戒と嫉妬を抱いたのだ。
彼らは価格を通常の三倍、いや五倍に吊り上げようとしている。
それに応じれば、せっかくの石鹸の利益が全て食い潰されてしまう。
「……愚かな。民の命を交渉材料にするとは」
マイルズの瞳に、冷たい光が宿った。
「いいだろう。近隣が売らないというなら、もっと遠く、しがらみのない相手と手を組むまでだ」
「しかし、遠方の商会となると、輸送コストが……それに、大規模な取引となると相手も限られます」
「心当たりはある。……いや、向こうから来るはずだ」
マイルズは、窓の外、王都へと続く街道を見下ろした。
「石鹸の噂を聞きつけて、金に鼻の利く『大物』がな」
その言葉を裏付けるように、執務室の扉がノックされた。
「マイルズ様。お客様です」
侍女が告げる。
「王都より、『銀翼商会』の方が見えられました」
銀翼商会。
ニース王国でも五指に入る大手商会だ。王都を中心に広範な流通網を持ち、食糧から宝飾品まで手広く扱う怪物企業。
「通せ」
扉が開かれる。
入ってきたのは、一人の女性だった。
カツ、カツ、と硬質なヒールの音が、執務室の床を叩く。
「お初にお目にかかります。バーンズ伯爵家のご令息、マイルズ様」
艶やかな亜麻色の髪を高く結い上げ、体のラインを強調した最高級のドレスに身を包んだ美女。
年齢は十八歳前後だろうか。
少女のあどけなさは既に消え失せ、そこにあるのは大人の女性の色香と、それ以上に鋭い「商人」の眼光だった。
彼女は優雅にカーテシー(膝を折る礼)をしてみせたが、その視線はマイルズを値踏みするように上から見下ろしていた。
「私はエリーゼ。銀翼商会会長の娘であり、今回の交渉の全権を任されて参りました」
エリーゼ。
彼女の名前は、マイルズも聞き及んでいた。
商会長の愛娘にして、若くして王都の支店を一つ任されているという才媛。
「冷徹の美姫」という異名を持つ、商業界の若きカリスマだ。
「よく来られた、エリーゼ殿。歓迎する」
マイルズは十歳の子供らしく、しかし領主代行としての威厳を保って席を勧めた。
エリーゼは席に着くと、ふわりと扇子を開いた。
「単刀直入に申し上げますわ。マイルズ様、食糧の確保にお困りだとか?」
挨拶もそこそこに、いきなり核心を突いてきた。
「……耳が早いな」
「商売人の基本ですわ。近隣諸侯による経済封鎖。このままでは冬には領民の半数が飢える……違いますか?」
エリーゼは妖艶に微笑んだ。その笑みは、獲物を追い詰める肉食獣のそれだ。
「我が銀翼商会なら、その包囲網を無視して、西の大陸から安価で大量の小麦を調達できます。独自のルートがありますから」
「それはありがたい。して、条件は?」
マイルズが尋ねると、エリーゼは扇子で口元を隠し、目を細めた。
「『バーンズ・クリスタル・ソープ』。あの石鹸の、王都および全土における『独占販売権』をいただきとうございます」
やはり、そこか。
マイルズは内心で舌を出した。
石鹸の利益を、流通という首輪をつけることで根こそぎ奪うつもりだ。
食糧という弱みにつけ込んだ、典型的な不平等条約。
「……それは無理だ。姉のハール侯爵家との兼ね合いもある」
「侯爵夫人には、我が商会から相応の『礼金』をお支払いして納得していただきます。マイルズ様は、ただ契約書にサインしてくださればよろしいのです。……領民の命と、石鹸の権利。どちらが大事か、賢明なマイルズ様ならお分かりでしょう?」
エリーゼは余裕綽々だった。
相手は十歳の子供。いくら神童と呼ばれていようと、大人の、それも海千山千の商売の駆け引きに勝てるはずがない。
彼女はそう思っている。マイルズを、扱いやすい操り人形(パペット)だと見なしているのだ。
マイルズは、黙って紅茶を一口すすった。
そして、静かに小箱をテーブルの上に置いた。
「……これは?」
エリーゼが眉をひそめる。
「交渉の席だ。私の手札も見せないと不公平だろう」
マイルズは小箱を開けた。
中に入っていたのは、石鹸ではない。
乳白色のクリームが入った瓶と、琥珀色の液体が入った瓶だった。
「石鹸で洗った髪は、どうしても少しきしむ。……この『リンス』を使えば、そのきしみを消し、絹のような指通りを与える」
マイルズは説明した。
「そしてこちらは、高純度の『美容液』。石鹸で洗顔した後の肌に塗れば、冬の乾燥など恐れるに足りない」
エリーゼの目が釘付けになった。
彼女自身、あの石鹸のユーザーだ。その効果は認めているが、確かに洗髪後のきしみは気になっていた。
それが解決される? それどころか、さらなる美が得られる?
「こ、これを……石鹸とセットで売ると?」
エリーゼの声が、わずかに上ずった。
「ああ。だが、これはまだ序の口だ」
マイルズは身を乗り出した。十歳の少年の顔から、子供の仮面が剥がれ落ちる。
そこにあったのは、エリーゼすら気圧されるほどの、老獪な「支配者」の顔だった。
「エリーゼ殿。君の商会は、最近『香辛料』の扱いで失敗し、大きな損失を出したそうだな」
「なっ……!?」
エリーゼの顔色がさっと変わった。それは商会内部の極秘事項のはずだ。
前世の知識ではない。マイルズが独自に放った情報網(カクヨムや行商人からの噂話の統合)による分析だ。
「その穴埋めのために、私の石鹸という『確実なドル箱』を独占したい。……焦っているのは、私ではなく、君の方じゃないか?」
「……っ」
エリーゼは扇子を握りしめた。図星だった。
父である会長から「この失敗を取り戻せなければ、支店長の座を降ろす」と通告されていたのだ。
「独占権は渡さない」
マイルズは冷徹に告げた。
「だが、『優先販売パートナー』としての地位は与えよう。石鹸だけでなく、このリンス、美容液。そして今後私が開発する全ての商品を、銀翼商会には優先的に卸す」
「……条件は?」
エリーゼの声から、余裕が消えた。対等、いや、格上の相手に対する緊張感が滲む。
「小麦を適正価格で、即時納入すること。そして今後五年間、バーンズ領の農産物を、市場価格より一割高く買い取ること」
「一割高く!? 逆ですわ! 普通は安く買い叩くものでしょう!」
「来年の秋になれば分かる。私の領地で作る作物は、他とは質が違うからな。……その先物取引だと思えば安いものだ」
マイルズは、じっとエリーゼの瞳を見つめた。
「どうする? 私と組めば、君は香辛料の損失など数ヶ月で取り戻せる。そして『若き女傑』として、商会内での地位を盤石にできる。……断れば、私は別の商会にこの話を持っていく」
沈黙。
執務室には、時計の針の音だけが響く。
エリーゼは、目の前の少年を凝視した。
美しい銀髪。透き通るような青い瞳。
まだ声変わりもしていない子供。
だというのに、この圧倒的なプレッシャーは何だ。
彼は、自分の欲求も、弱点も、全て見透かした上で、逃げられない餌をぶら下げている。
(……なんて子なの)
屈辱よりも先に、背筋が震えるほどの興奮が駆け抜けた。
商売相手として、これほど刺激的で、恐ろしく、そして魅力的な男(あいて)には出会ったことがない。
十八歳のプライド高き令嬢の心が、十歳の少年に「完敗」を認めた瞬間だった。
エリーゼは扇子をパチリと閉じた。
そして、艶然と微笑んだ。今度の笑みは、作り物ではない、心からの敬意と、微かな熱を帯びたものだった。
「……負けましたわ、マイルズ様」
彼女は席を立ち、改めてマイルズの前に跪いた。カーテシーではない。臣下が主君に仕えるような、深い礼。
「銀翼商会は、あなたの提案を全面的に受け入れます。……いいえ、私個人としても、あなたという『才能』に投資させていただきたい」
「賢明な判断だ、エリーゼ殿」
マイルズは彼女の手を取り、立たせた。
その手は小さかったが、エリーゼには巨大な巨人の手のように感じられた。
「契約成立だ。……さて、食糧が確保できたなら、次はいよいよ『種蒔き』といこうか」
◇
数日後。
銀翼商会の馬車隊によって、大量の小麦がバーンズ領に運び込まれた。
領民たちの安堵の声が響く中、マイルズは別の場所にいた。
領都近郊の、試験農場。
そこには、あの肥料センターで作られた、完熟堆肥が山積みになっていた。
強烈な発酵臭……いや、土の匂いに近い、濃厚な香り。
「これが……若様の作った『肥料』……」
集まった農民たちが、恐る恐る黒い土を見る。
マイルズは、その山にスコップを突き立てた。
「そうだ。これこそが、痩せた大地を蘇らせる薬だ」
マイルズはすくい上げた堆肥を、乾いた畑にばら撒いた。
「臭いか? 汚いか? ……だがな、これは命の塊だ」
エリーゼも、その場に同行していた。
泥で汚れるのも厭わず、畑に立つマイルズの姿。
普通の貴族令嬢なら眉をひそめる光景だろう。
だが、彼女の目には、それがひどく眩しく映っていた。
(領地を救うために、泥にまみれる貴族……。本当に、底が知れない方)
彼女は、自分のドレスの裾が汚れるのも気にせず、マイルズに歩み寄った。
「マイルズ様。私もお手伝いしますわ」
「エリーゼ殿? 君のような綺麗な女性がする仕事じゃない」
「パートナーでしょう? あなたが撒くなら、私も撒きます」
エリーゼは悪戯っぽく笑い、シャベルを手に取った。
「それに……この『黄金』が、来年どれだけの利益を生むのか、この目で確かめておきたいのです」
「……ははっ。君は本当に商魂が逞しいな」
マイルズは笑った。
「いいだろう。見ていろ。来年の春、この畑は緑で埋め尽くされる」
十歳の領主代行と、十八歳の商会令嬢。
二人が並んで肥料を撒く奇妙な光景は、後にバーンズ領の「復興の象徴」として語り継がれることになる。
大地に撒かれた黒い土。
それは、バーンズ領の農業改革の、確かな第一歩だった。
マイルズの内政は、経済と農業の両輪を得て、加速していく。
だが、彼の改革が順調に進むことを、面白く思わない者たちが、領地の外で不穏な動きを見せ始めていた。
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