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第11話 鋼鉄の馬車と、魔都の姉
しおりを挟む王家からの召喚状が届いてから数日後。
バーンズ領主館の前には、一台の奇妙な馬車が停まっていた。
外見こそ、黒塗りの重厚な箱馬車だが、その足回りは従来のそれとは全く異なっていた。
車輪には鉄の枠ではなく、輸入した天然ゴムを焼き固めた黒い帯(ソリッドタイヤ)が巻かれ、車軸と車体の間には、幾層にも重ねられた湾曲した鋼鉄の板――板バネ(リーフスプリング)が噛まされている。
「……マイルズ。これは本当にお前の設計か?」
旅支度を整えた父ロッシュが、車輪を蹴りながら呆れたように言った。
「はい、父上。『バーンズ式公用馬車・一型』です」
マイルズは胸を張った。
「王都までの五日間、ガタガタと揺られ続けては、到着する頃には腰が砕けてしまいます。この『サスペンション』と『ゴムタイヤ』があれば、揺れは最小限。車内で書類仕事も可能です」
「書類仕事だと? 移動中くらい休ませろ……」
ロッシュは苦笑したが、その目は息子の発明への信頼に満ちていた。
今回の王都行き、同行するメンバーは精鋭に絞られた。
領主である父ロッシュ。
そしてマイルズ。
記録係兼秘書として、計算の天才少女シンシア。
さらに、道中の案内役と商談の補佐として、銀翼商会のエリーゼも同乗する。
「お兄様……本当に行っちゃうの?」
見送りに出た妹のリリアが、涙目でマイルズの服の裾を掴んでいる。
「すぐ戻るよ、リリア。お土産に、王都一番のお菓子を買ってくるから」
「お菓子もいいけど……絶対、絶対早く帰ってきてね!」
「ああ、約束だ」
マイルズは妹の頭を撫で、母マリアに目配せした。
「母上、留守中の領政をお願いします。セバスとガント親方には指示書を渡してあります」
「ええ、任せてちょうだい。マイルズも、体に気をつけるのよ。……王都は、空気が悪いですから」
マリアの言葉は、単なる比喩ではなく、物理的な意味も含んでいた。
「出発!」
御者の掛け声と共に、馬車が動き出した。
通常なら、発進時にガクンと衝撃が来るはずだが、この馬車は滑るように静かに走り出した。
車内。
向かい合わせの席に座ったロッシュとエリーゼが、目を見張った。
「……揺れない」
エリーゼが、手にしたティーカップを見つめる。紅茶の水面がほとんど波立っていない。
「信じられませんわ。これなら、本当に書き物ができます」
「だろう? 乗り心地も商品(プレゼン)の一つだ」
マイルズは窓の外、遠ざかる領都の風景を眺めた。
煙突から煙が上がり、活気に満ちた我が街。
(しばしの別れだ。……帰る頃には、もっと大きな土産を持って帰ってくる)
◇
道中、馬車の中は作戦会議室と化していた。
「マイルズ様。王都の勢力図について、改めてご説明します」
エリーゼが地図を広げる。
「現在、王宮は大きく分けて三つの派閥に分かれています」
彼女の美しい指が、地図上の貴族領をなぞる。
「一つは『国王派』。賢王と呼ばれる現国王、エドワード陛下を中心とした、王権強化を目指す派閥です。バーンズ家は代々ここに近い立ち位置ですが、中立を保っています」
「二つ目は『貴族派』。古い権益と伝統を重んじる、大貴族たちの集まりです。筆頭は、王弟でもあるゼファー公爵。……彼らは、新興勢力や平民の台頭を極端に嫌います」
エリーゼの声が少し低くなる。
「マイルズ様の行った『平民への教育』や『商会との癒着(と彼らが呼ぶ連携)』は、彼らにとって格好の攻撃材料になります」
「そして三つ目が『中立・静観派』。どちらにもつかず、風見鶏のように振る舞う小貴族たちです」
マイルズは顎に手を当てて考え込んだ。
「今回の召喚は、国王陛下からのものだ。つまり、国王派は私を取り込みたい。一方で、貴族派は私を潰したい……あるいは、利権を奪いたいと考えているわけか」
「その通りです」
ロッシュが腕組みをして頷く。
「ゼファー公爵は貪欲な男だ。お前の石鹸や肥料の利益を知れば、必ず『王家への忠誠』という名目で献上を迫ってくるだろう」
「献上、ですか」
マイルズは鼻で笑った。
「タダで渡すつもりはありませんよ。相手が公爵だろうと国王だろうと、ビジネスはビジネスです」
隣で速記を取っていたシンシアが、ふと顔を上げた。
「……マイルズ様。計算上、貴族派が武力や法的な圧力を行使してくる確率は六割。ですが、彼らが『バーンズ製品』の魅力に抗える確率は……限りなくゼロです」
「正解だ、シンシア」
マイルズはニヤリとした。
「武器は用意してある。石鹸、保存食、ストーブ。そして、この馬車。……彼らの欲望を刺激し、我々なしでは生活できないように依存させる。それが私の『侵略』だ」
◇
五日後。
快適な旅路の果てに、巨大な城壁が見えてきた。
ニース王国の心臓部、王都「ロイヤル・ニース」。
人口三十万を抱える、大陸有数の大都市だ。
「でかいな……」
マイルズは素直に感嘆した。
高さ十メートルを超える城壁。無数に立ち並ぶ尖塔。そして、門を出入りする人の波。
バーンズ領都とは桁が違う。
だが、門をくぐり、市街地に入った瞬間。
マイルズの眉間に深い皺が刻まれた。
「……臭い」
シンシアも鼻を押さえている。
華やかな大通りの裏から、腐敗臭と汚水の臭いが漂ってくるのだ。
石畳の道路の端には、汚物がそのまま流れる側溝があり、ハエがたかっている。
道行く人々は絹の服を着飾っているが、その裾は泥と汚物で汚れている。
「これが王都か」
マイルズは冷ややかな目で観察した。
「見た目は立派だが、中身は腐っている。……下水道の整備が全く追いついていない。人口過密による感染症の温床だ」
「以前流行った『赤い咳』も、完全には収束していないという噂です」
エリーゼが小声で補足する。
「……だろうな。この環境では、結核菌も喜び勇んで繁殖する」
マイルズの「医師」としての本能が、警鐘を鳴らしていた。
(内政のやりがいがありそうな街だ。……いや、今は他人の家を掃除している場合じゃないか)
馬車は、貴族街へと進んだ。
平民区とは打って変わり、清潔で静かな区画だ。
その一角にある、壮麗な屋敷。
「ハール侯爵邸」に到着した。
「お待ちしておりました、お父様! そしてマイルズ!」
馬車を降りるや否や、玄関ホールから一人の女性が駆け寄ってきた。
燃えるような赤髪を優雅に結い上げ、最新流行のドレスを着こなした美女。
マイルズの姉、リーナ・ハール侯爵夫人だ。
「姉上! お久しぶりです」
「まあまあ、マイルズ! なんて大きくなって! 手紙では読んでいたけれど、本当に天使みたいに美しくなったわね!」
リーナはマイルズを抱きしめ、頬ずりした。二十歳の人妻とは思えないほどのエネルギッシュさだ。
「苦しいです、姉上……」
「あらごめんなさい。でも、会いたかったのよ! あなたの送ってくれた石鹸のおかげで、私、今や王都の社交界の『女王』扱いなのよ?」
リーナは悪戯っぽくウィンクした。
「どのお茶会に行っても、『あの石鹸の作者のお姉様』って崇められるわ。おかげでハール家の発言力もうなぎ登り。旦那様も鼻が高いって喜んでるわ」
「それは何よりです。……姉上を広告塔にした甲斐がありました」
「ふふ、人聞きが悪いわね。『ビジネスパートナー』と呼んでちょうだい」
屋敷のサロンに通されると、そこには既に豪勢なお茶の用意がされていた。
エリーゼやシンシアも同席を許され、マイルズたちは旅の疲れを癒やした。
「さて、本題に入りましょうか」
お茶を一口飲むと、リーナの表情がキリリと引き締まった。
社交界の女王の顔だ。
「明後日、王宮で新年の祝賀会が開かれるわ。そこでマイルズ、あなたは陛下に拝謁することになる」
「はい」
「でも、気をつけて。会場は『戦場』よ」
リーナは警告した。
「貴族派のゼファー公爵夫人が、あなたを狙っているわ。あの方は、私の石鹸ブームを面白く思っていないの。『田舎の新参者が、王都の品位を乱している』ってね」
「逆恨みですね」
「ええ。でも、彼女の取り巻きは多いわ。おそらく、舞踏会の最中に、あなたに恥をかかせようと仕掛けてくるでしょう。……礼儀作法の不備を指摘するか、あるいは無理難題を吹っかけてくるか」
「なるほど」
マイルズは、カップをソーサーに戻した。
「田舎者と侮って、公衆の面前で叩きのめすつもりですか。……古典的ですが、効果的な手ですね」
「どうするの? マイルズ。私が間に入ってもいいけれど……」
心配する姉に、マイルズは優雅に微笑んで見せた。
十歳の少年の笑顔とは思えない、底知れぬ自信に満ちた笑み。
「ご心配なく、姉上。……売られた喧嘩は買います。ですが、ただ買うだけでは面白くない」
マイルズは、持参した鞄から、一つの小瓶を取り出した。
それは、石鹸工場の研究室で極秘に開発した、王都初披露となる「新商品」だった。
「彼女たちが『品位』や『美』で勝負を挑んでくるなら、それを逆手に取って、顧客(ファン)に変えてみせましょう。……この『香水(パルファム)』でね」
「香水……?」
リーナが小瓶を受け取り、蓋を開ける。
瞬間、サロンの中に、摘みたての花畑を凝縮したような、鮮烈で、かつ上品な香りが爆発的に広がった。
この世界にある、脂臭い安物の香油とは次元が違う。
アルコール抽出によって精製された、本物のパルファムだ。
「な、何これ……!?」
リーナが絶句する。
「素敵……! まるで、香りの宝石箱だわ……!」
「これを祝賀会で披露します。ゼファー公爵夫人に恥をかかされた瞬間にね」
マイルズは目を細めた。
「ピンチは最大のチャンスです。王都の貴族たちに、バーンズ領の技術力が『魔法』の領域にあることを、骨の髄まで教え込んでやりますよ」
ロッシュは天を仰ぎ、エリーゼはゾクゾクした顔でマイルズを見つめ、シンシアは無言で頷いた。
魔都ロイヤル・ニース。
その華やかな舞台裏で、マイルズの「商品」という名の牙が、研ぎ澄まされようとしていた。
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