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第15話 汚泥の巨人と、傲慢な握手
しおりを挟む王都の地下で「掃除」が行われてから、一ヶ月が経過していた。
マイルズの指揮の下、元犯罪者たちによる労働部隊と、赤錆山の職人たちが作り上げたコンクリートブロックによって、王都の地下水路網は驚異的な速度で拡張されていた。
だが、順調な歯車は、突如として軋みを上げて停止した。
「……止まった?」
地下工事現場の指令所。
マイルズは、沈黙した巨大な揚水ポンプを見上げた。
赤錆山の鉄で作られた、直径二メートルはある巨大なスクリューポンプ。
それが、ピクリとも動かない。
「はい、マイルズ様」
シンシアが、分厚い帳簿を抱えて報告する。
「故障ではありません。エネルギー切れです。……ポンプを動かすための『魔石(マナタイト)』の供給が、今朝から完全にストップしました」
魔石。
魔力を蓄えた鉱石であり、この世界のエネルギー源だ。
マイルズの作ったポンプは、電動ではなく魔力駆動エンジンを採用している。燃料がなければ、ただの鉄屑だ。
「在庫は?」
「ゼロです。……銀翼商会を通じて緊急手配をかけましたが、どこの問屋も『在庫がない』の一点張り。明らかに異常です」
シンシアの瞳が、冷徹な事実を告げていた。
「……なるほど。兵糧攻めか」
マイルズは、天井――地上の方角を見上げた。
この国で魔石の流通を牛耳っている男。
王弟、ゼファー公爵の顔が浮かんだ。
「上手い手だ。工事そのものを止めるのではなく、動力を断つとはな」
工事が止まれば、下水は溢れ、衛生改革は失敗に終わる。
マイルズの失脚を狙うには、最も効果的で、かつ陰湿な手段だった。
「どうする? 抗議するか?」
父ロッシュが憤るが、マイルズは首を横に振った。
「公爵は『品不足だ』としらを切るでしょう。証拠がない」
その時。
ズズズ……ン。
地響きのような音がしたかと思うと、天井からバラバラと塵が落ちてきた。
そして、指令所の外から、激しい雨音が聞こえてきた。
「……雨か」
マイルズの顔色が変わった。
「それも、豪雨だ」
悪いことは重なるものだ。
ポンプが止まった状態で、大量の雨水が地下に流れ込めばどうなるか。
未完成の水路に汚水と雨水が溢れ、逆流する。
それは単なる浸水被害では済まない。王都の地下に長年溜まっていた「魔力を帯びた汚泥」が、撹拌され、活性化する恐れがある。
「……まずいな。計算外の変数が来た」
マイルズは即断した。
「総員退避! 地下が水没するぞ! 地上へ脱出しろ!」
◇
地上は、バケツをひっくり返したような土砂降りだった。
王都の排水能力は限界を超え、大通りは既にくるぶしまで水に浸かっていた。
「マイルズ様! 数値異常! 地下第三区画の魔力濃度が、急激に上昇しています!」
地上に脱出したシンシアが、魔導計器を見ながら叫んだ。
「魔力濃度上昇? まさか……」
ドォォォォォォォン!!
マンホールの一つが、内側からの圧力で空高く吹き飛んだ。
噴き出したのは、水ではない。
ドロドロとした、黒紫色の粘液。
強烈な腐敗臭と共に、その粘液は生き物のように蠢き、周囲の汚水を巻き込んで巨大化していく。
「ググ……グオオオオオオオ……」
不定形の体が組み上がり、高さ十メートルを超える巨人の形を成した。
全身がヘドロとゴミで構成された、醜悪な怪物。
『汚泥の巨人(ヘドロ・ジャイアント)』。
地下の汚濁した魔力が、スライム状の微生物と融合して生まれた、都市型災害(ハザード)だ。
「な、なんだあれは!?」
「怪獣だ! 逃げろぉぉぉ!」
王都の民衆がパニックに陥り、逃げ惑う。
巨人は、咆哮を上げると、ゆっくりと歩き出した。
その進行方向は、魔力の匂いが最も強い場所――高級な魔導具が多く存在する「貴族街」だった。
そして、その中心にあるのは、他ならぬゼファー公爵邸だ。
「……皮肉なものですね」
マイルズは雨に打たれながら、その光景を見つめた。
「公爵が魔石を独占して溜め込んでいるから、あいつは餌の匂いに釣られてあそこへ向かっている」
「笑い事じゃないぞマイルズ! 公爵邸が潰されれば、国の威信に関わる!」
ロッシュが剣を抜こうとする。
「父上の剣では斬れません。あれは物理攻撃無効です」
マイルズは冷静に分析した。
「火魔法で焼けば爆発して汚泥を撒き散らす。氷魔法で凍らせても、雨ですぐに溶ける」
「じゃあどうするんだ!」
マイルズは、背中に背負ったタンクを叩いた。
「科学(かがく)で溶かします。……ですが、出力が足りない」
マイルズの装備もまた、魔石駆動なのだ。予備電源だけでは、あの巨体を消滅させるほどの薬剤を散布できない。
「……現地調達といきましょうか」
マイルズは不敵に笑い、駆け出した。
「父上、シンシア! ついてきてください! 商談の時間です!」
◇
ゼファー公爵邸の前は、地獄絵図となっていた。
「撃て! 撃てぇぇぇ!」
公爵の私兵団が、魔法や矢を浴びせるが、巨人はダメージを受けるどころか、それらを吸収してさらに巨大化していく。
ヘドロの腕が振るわれるたびに、豪華な塀が飴細工のように砕け散る。
「ひぃぃぃ! くるな! くるなぁぁぁ!」
バルコニーで、ゼファー公爵が腰を抜かしていた。
傲慢な貴族の面影はない。ただの怯える老人だ。
「お、お前たち! なんとかしろ! 私の屋敷が、財産がぁぁぁ!」
巨人の拳が振り上げられ、公爵邸の本館を粉砕しようとした、その時。
「お待ちください!」
雨音を切り裂く声と共に、一人の少年が公爵の前に躍り出た。
マイルズだ。
「マ、マイルズ!? なぜ貴様がここに!」
公爵が目を剥く。
「助けに来ましたよ、公爵閣下」
マイルズは悠然と言った。背後には、山のようにそびえ立つヘドロの巨人。
「私の開発した『特殊分解酵素』なら、あの怪物を溶かせます。……ですが」
マイルズは、わざとらしく肩をすくめた。
「残念なことに、私の機材はガス欠でしてね。市場から魔石が消えてしまったもので、動かないのです」
「ぐっ……!」
公爵の顔が歪んだ。自分がやったことだ。それが今、自分の首を絞めている。
「そ、それで、私に死ねと言うのか!?」
「いいえ。取引(ディール)です」
マイルズは右手を差し出した。
「あなたの地下倉庫に眠っている最高純度の魔石。……それを提供していただければ、私があなたと屋敷を守ります」
巨人が咆哮し、公爵の頭上にヘドロの飛沫が落ちる。
猶予はない。
公爵は、唇を噛み切りそうなほど悔しがったが、最後は絶叫した。
「持っていけぇぇぇ! 倉庫の鍵だ! 全部使え! だから助けろぉぉぉ!」
公爵が投げた鍵を、ロッシュが空中でキャッチした。
「父上、お願いします! 最高級品を特急で!」
「任せろ!」
数分後。
ロッシュと兵士たちが、バスケットボール大に輝く巨大な魔石を運んできた。
「でかいな……さすが公爵家、いい物を隠し持っている」
マイルズはそれを背中のタンクの動力炉に叩き込んだ。
キュイイイィィィン……!
甲高い駆動音が響き、タンクが青白く発光する。
エネルギー充填率、四〇〇パーセント。
「商談成立だ。……シンシア、配合比率変更! タンパク質分解酵素および界面活性剤、濃度最大!」
「了解。……バルブ解放」
マイルズは、巨大なノズルを巨人の足元に向けた。
「消えろ、汚物!」
ズバァァァァァァッ!!!
高圧洗浄砲から、白濁した液体がレーザーのように噴射された。
それは単なる水ではない。ヘドロの粘性を破壊し、分子レベルで分解する化学薬剤だ。
液体を浴びた巨人の足が、ジュワジュワと音を立てて泡になり始めた。
「グ、グオ……!?」
巨人がバランスを崩す。
だが、まだ倒れない。上半身が液状化して、津波のようにマイルズたちを飲み込もうとする。
「ちっ、でかすぎる! ……公爵!」
マイルズはバルコニーの公爵に向かって叫んだ。
「ボサッとしているな! あなたの私兵団の魔法使いに命じろ! 『風の結界(エア・バリア)』で、飛び散るヘドロを屋敷側にこさせないように壁を作れ!」
「わ、私に指図するな! ……おい! やれ! 結界だ! 汚れ一つ通すな!」
公爵の命令で、数十人の魔法使いが一斉に詠唱する。
透明な風の壁が、マイルズと巨人の間に展開された。
「いい腕だ! ……これで遠慮なく撃てる!」
マイルズは出力を限界まで上げた。
薬剤の奔流が、巨人の核を撃ち抜く。
科学による分解と、魔法による防御。
かつて敵対していた二つの力が、奇妙な連携を生み出していた。
「ア、アアアア……!」
巨人は断末魔を上げ、やがてドロドロのただの汚水となって崩れ落ちた。
大量の水は、マイルズたちが整備したばかりの排水溝へと吸い込まれていく。
雨が、上がりかけていた。
雲の切れ間から、夕日が差し込む。
公爵邸の前には、泥だらけになったマイルズと、腰を抜かしたままの公爵が残された。
◇
「……ふん。礼は言わんぞ」
身支度を整えたゼファー公爵が、広間でふんぞり返っていた。
危機は去ったが、プライドは傷ついたままだ。
「貴様の不手際で起きた事故だ。むしろ賠償を請求したいくらいだ」
「ええ。工事の遅れは私の責任です」
マイルズは悪びれずに紅茶を飲んでいた。
「ですが、魔石不足の原因を作ったのは誰でしたっけ?」
「……」
公爵が口ごもる。
マイルズはカップを置き、一枚の羊皮紙をテーブルに滑らせた。
「公爵閣下。新しい契約書です」
「契約だと? 賠償金か?」
「いいえ。……『業務提携』の提案です」
マイルズは説明した。
「今後、王都の下水道施設、およびバーンズ領の工場で使う全ての魔石を、ゼファー公爵家から『独占的』に買い入れます」
「……は?」
公爵が目を疑う。「独占? 私から?」
「ええ。ただし条件があります。市場価格での安定供給を保証すること。そして、二度と供給を止めないこと」
マイルズはニヤリと笑った。
「考えてもみてください。下水道ポンプは二十四時間、三六五日動きます。つまり、あなたは『未来永劫、安定した巨大な顧客』を手に入れることになる。……政治的な嫌がらせをするより、商売相手として手を組んだ方が、遥かに儲かると思いませんか?」
公爵は羊皮紙を睨み、そしてマイルズを見た。
この少年は、自分を殺そうとした敵に、塩を送るどころか、金のなる木を差し出している。
(……感情で動いていない。徹底した実利主義か)
公爵は、マイルズの中に、自分と同じ「怪物」の臭いを感じ取った。
それは、清廉潔白な兄王エドワードとは違う、泥水をすすってでも利益を掴み取る、政治家としての資質だ。
「……食えぬ小僧だ」
公爵は、口元を歪めた。それは、初めて見せる「同族」への笑みだった。
「よかろう。この契約、受けてやる。……だが勘違いするなよ。我々は友ではない」
「もちろんです。利害が一致しているだけの、健全なビジネスパートナーです」
マイルズは立ち上がり、手を差し出した。
ゼファー公爵は、少し躊躇った後、その小さな手を握り返した。
老獪な鷲の手と、泥にまみれた少年の手。
王都の裏側を支配する、奇妙な同盟が成立した瞬間だった。
「……それにしても、あの兵器。面白いな」
去り際、公爵が呟いた。
「高圧洗浄砲のことですか?」
「ああ。あれに毒や油を詰めれば、城攻めにも使えるだろう。……今度、設計図を見せろ」
「商魂が逞しいですね。……考えておきます」
マイルズは屋敷を出た。
外では、ロッシュやエリーゼが待っていた。
「マイルズ! 大丈夫だったか?」
「ええ、父上。……最強の『スポンサー』を手に入れましたよ」
雨上がりの王都。
空気は澄み渡り、かつての悪臭は消えていた。
下水道計画は、最大の障害を最大の味方に変えることで、盤石なものとなった。
だが、マイルズの快進撃は、国内だけでは収まらない。
その名声は国境を越え、隣国――軍事大国「ガレリア帝国」の耳にも届き始めていた。
「ニース王国に、神の知識を持つ少年がいるらしい」
帝国の皇帝が、玉座で目を光らせる。
内政は次なるステージへ。
国内の基盤を固めたマイルズに、今度は「外交」という荒波が押し寄せようとしていた。
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