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第39話 財務の鉄壁
しおりを挟む王都の一等地にオープンした「バーンズ商会本店」。
その三階、会長室。
マイルズは、革張りの椅子に深く腰掛け、目の前に立つ女性を見上げていた。
かつては無表情な人形のようだった彼女は今、自信に満ちた大人の女性の顔をしている。
左手の薬指には、安物だが手入れの行き届いた銀の指輪が光っている。
「……久しぶりだな、シンシア。新婚生活はどうだ?」
「はい、マイルズ様。……グレン様は不器用ですが、毎日無事に帰ってきてくださるだけで、私の幸福指数は上限を突破しています」
シンシアは微かに頬を染めて答えた。
惚気(のろけ)だ。かつての彼女からは想像もできない変化である。
「それは何よりだ。……だが、今日呼んだのは惚気話を聞くためじゃない」
マイルズは表情を引き締めた。
「この商会は、初日から爆発的な売上を記録している。……金貨が、川のように流れ込んできている状態だ」
急激な成長は、組織に歪みを生む。
横領、使い込み、計算ミス、そして外部からの不当な搾取。
「私が現場(店)と開発(ラボ)を見ている間、私の背中(金庫)を守る人間が必要だ。……私以上に金に厳しく、私以上に計算が速い人間が」
マイルズは、一枚の辞令書を差し出した。
「シンシア。バーンズ商会の『最高財務責任者(CFO)』に就任してくれ。……この商会の全ての金の流れを、君が支配しろ」
シンシアは辞令書を受け取り、静かに一礼した。
「……御意。マイルズ様の資産は無駄にはさせません」
◇
シンシアの仕事は迅速かつ冷徹だった。
彼女はまず、マイルズが導入していた「複式簿記」を商会全体に徹底させ、さらに独自の「相互監視システム」を構築した。
「仕入れ伝票と在庫数が合いません。担当者は誰ですか?」
「こ、これはその、誤差でして……」
「誤差? 誤差の範囲を超えています。……横領ですね? 衛兵を呼びます」
不正を働こうとした従業員は即座に摘発され、追放された。
彼女の頭脳は、何千という取引データを瞬時に処理し、違和感を決して見逃さない。
商会内では、彼女は「氷の金庫番」「歩く計算機」として恐れられ、同時に絶対的な信頼を集めるようになった。
だが、敵は内部だけではない。
「……責任者を出せ!」
ある日、商会の一階が騒がしくなった。
現れたのは、王都の徴税官を名乗る男、ゴイルとその部下たちだ。
彼らは、新興の商会に難癖をつけ、賄賂を巻き上げようとする「ハイエナ」だった。
「なんだこの売上は! 申告と違うぞ!」
ゴイルが帳簿(偽造されたもの)を振りかざして喚く。
「脱税の疑いがある! 調査が終わるまで、この店の資産は差し押さえる!」
店員たちが狼狽える中、マイルズが奥から出て行こうとした。
「お待ちください、会長」
シンシアが、書類の束を持ってマイルズを制した。
「ここは私の戦場です。……貴方様の手を煩わせるまでもありません」
彼女は眼鏡の位置を直し、カツカツとヒールを鳴らしてゴイルの前に立った。
「初めまして。財務責任者のシンシアです。……脱税、とおっしゃいましたか?」
「あ、ああ! そうだ! この帳簿を見ろ! 明らかにおかしい!」
「それは貴方が持参した帳簿ですね。……当商会の正式な帳簿はこちらです」
シンシアは、分厚いファイルを叩きつけた。
「全ての取引には、日付、担当者、そして購入者のサイン入りの記録があります。……どこに不備が?」
「うぐっ……! だ、だが、これだけの売上だ! 隠し財産があるはずだ!」
「ありません。……そもそも」
シンシアは冷ややかな目で男を見下ろした。
「当商会の納税額は、王都の規定に従い、既に『王宮財務局』への予納を済ませてあります。……その受領証がこれです」
彼女が見せたのは、王家の紋章が入った正式な書類だった。
「さらに、当商会の監査役には、第二王子ギルバート殿下の推薦を受けた王宮会計士が入っております。……貴方は、王家の監査にケチをつけるおつもりで?」
「な、なに……!?」
ゴイルが青ざめる。
単なる成金だと思って舐めていたら、バックに王家がついていたのだ。
しかも、書類に不備は一切ない。つけ入る隙が、ミクロン単位で存在しない。
「それともう一つ」
シンシアは、一枚のメモを取り出した。
「ゴイル様。……貴方個人の『裏帳簿』についても、少し計算させていただきました」
「は?」
「先月、とある商店から受け取った『賄賂』。先々月、別の商会への不当な追徴課税……。私の計算では、貴方の懐には金貨五百枚ほどの『説明のつかない金』があるようですが?」
「ひッ……!?」
「このデータを、貴方の上司……あるいは憲兵団に提出してもよろしいのですよ?」
シンシアの微笑みは、悪魔のように美しく、そして冷酷だった。
彼女は「情報」という武器で、相手の急所を正確に突き刺したのだ。
「……し、失礼しましたぁぁぁ!」
ゴイルたちは、蜘蛛の子を散らすように逃げ去っていった。
店内から拍手が沸き起こる。
マイルズは、二階のテラスからその様子を見て、肩をすくめた。
「……敵に回さなくてよかったよ」
執務室に戻ったシンシアは、いつもの無表情に戻っていた。
「処理完了。……通常業務に戻ります」
「見事だったよ、シンシア。……君のおかげで、私は枕を高くして眠れる」
マイルズは窓の外、故郷の方角を見た。
「金と組織は固まった。……いよいよ、本丸だ」
莫大な資金。強力なコネクション。
これらを使って、マイルズが次に挑むのは、バーンズ領における「命の砦」の建設。
「バーンズ総合医療センター」計画の始動である。
だが、金で建物は作れても、「人」は作れない。
マイルズは新たな壁――「医師不足」という深刻な問題に直面することになる。
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