没落貴族は最果ての港で夢を見る〜政敵の公爵令嬢と手を組み、忘れられた航路を拓いて帝国の海を制覇する〜

namisan

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第1章

第5話:絹の帆と老婆の誇り

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「素材がないなら、作ればいい」
俺の一言が投じた波紋は、想像以上に大きかった。造船所に満ちていた熱気は一瞬にして冷え切り、代わりに正気を疑うような冷ややかな空気が流れ始める。職人たちは、まるで理解不能な生き物を見るかのように、俺から距離を取った。
「若様……あんた、自分が何を言っているか分かっているのか」
最初に沈黙を破ったのは、ゲオルグだった。その岩のような顔には、怒りとも呆れともつかない複雑な色が浮かんでいる。
「帆布を、今から作るだと?糸を紡ぎ、機を織り、布を一枚仕上げるのにどれだけの手間と時間がかかると思っているんだ。話にならん」
「ゲオルグさんの言う通りですぜ、若様。それに、蚕だと?絹で帆を作るってんですかい。冗談きついぜ」
年嵩の職人が、嘲るように笑った。他の者たちも同調するようにざわめき始める。
「絹は水に濡れれば重くなるし、すぐに裂けちまう」
「そもそも、あんな高価なものを帆にするなんて、貴族の考えることは分からねえ」
彼らの反応はもっともだ。この世界の常識において、絹は貴婦人のドレスや高価な装飾品に使われる繊細で優美な素材。海の荒波と強風に晒される船の帆に使うなど、狂気の沙汰としか思えないだろう。
「皆の言う通り、ただの絹では話にならない。だが、もし、その絹が亜麻布よりも遥かに軽く、数倍の強度を持ち、そして一切水を通さないとしたら、どうだ?」
俺は、喧騒を制するように、静かだがよく通る声で言った。
職人たちのざわめきが、ぴたりと止まる。誰もが、俺の言葉の意味を測りかねていた。
俺は懐から木炭を取り出し、作業台の上に広げられていた木の板に、化学式に似た図を描き始めた。前世の記憶から、有機化学の知識を引っ張り出す。
「絹の主成分は、フィブロインというタンパク質繊維だ。この繊維構造は非常に強靭だが、水分子が入り込みやすい隙間がある。だから、水に弱い。だが、この隙間を別の物質で埋めてやればいい。例えば……魚油と、松脂(まつやに)。これらを特定の割合で調合し、加熱して作った特殊な油を絹布に染み込ませて乾燥させる。そうすることで、油の分子がタンパク質繊維の隙間に入り込み、強力な防水膜を形成する。さらに繊維同士の結びつきも強固になり、強度は飛躍的に増す」
俺が語っている内容は、この世界の人々にとっては魔法か、あるいは悪魔の戯言に聞こえたかもしれない。彼らは経験則として、油を塗れば防水効果があることは知っているだろう。しかし、分子レベルで素材の構造を理解し、化学変化を利用して全く新しい性質を持つ素材を創り出すという発想は、この世界の技術レベルには存在しない。
「……油を、塗るだと?そんな簡単なことで、あの繊細な絹が、帆に使えるようになると言うのか」
ゲオルグが、疑念に満ちた声で問うた。
「簡単ではない。調合の割合、加熱の温度、乾燥の時間。一つでも間違えれば、ただの油染みのついた布きれになるだけだ。だが、俺の指示通りに行えば、必ず成功する。俺たちが手にするのは、この時代のどんな船も装備したことのない、最強の帆だ。薄くて軽いがゆえに風を孕みやすく、強力な推進力を生み、そして水を含まないから、嵐の中でも船の速度を落とさない。まさに、夢の帆だ」
俺の言葉には、揺るぎない確信が込められていた。それは、前世でヨットのセイルクロス(帆の生地)開発に関する論文を読んだ記憶と、歴史上、一部の探検家が絹に防水加工を施したテントを使用していたという知識に裏打ちされたものだった。
造船所の誰もが、言葉を失っていた。彼らの常識と、俺の語る非常識。そのあまりの乖離に、思考が追いつかないでいる。
その重い沈黙を破ったのは、意外な人物だった。
「……お父さん」
これまで黙って成り行きを見守っていたエリアナが、口を開いた。
「この人の言うこと、試してみる価値はあると思う。だって、この人が描いた船の図面、最初はみんな馬鹿げてるって言ってた。でも、今、目の前にあるのは、私たちが今まで造ってきたどんな船よりも、速くて強そうな船じゃない」
彼女の真っ直ぐな瞳が、ゲオルグを、そして職人たちを見据える。
「それに、町のはずれの機織り小屋に住んでるマーサお婆さんなら……。気難しい人だけど、あの人の織る絹は、王都の商人ですら舌を巻くって評判よ。あの人なら、どんな無理な注文でも、やり遂げてくれるかもしれない」
エリアナの言葉は、膠着した空気を動かす一押しとなった。ゲオルグは、娘の顔と俺の顔を交互に見比べ、やがて天を仰いで深いため息をついた。
「……分かった。もう、どうにでもなれだ。若様の狂気に、最後まで付き合ってやる。おい!若い衆は若様の指示に従って、その『とくしゅゆ』だかを作る準備を始めろ!わしは、そのマーサとかいう婆さんの所に話をつけてくる!」
「いや、親方はここに残って船本体の仕上げを。マーサ殿の説得は、俺とダリオ殿で行く」
俺はゲオルグを制し、ダリオに目配せをした。頑固な職人を相手にするには、理屈だけでは足りない。時には、同じ職人としての誇りを刺激し、時には、全く別の角度からの交渉が必要になる。
俺とダリオは、町の中心から離れ、森へと続く小道の脇にひっそりと佇む一軒の小屋へと急いだ。月明かりだけが頼りの暗い道だったが、迷いはなかった。小屋からは、糸車の回る音と、規則正しく機を織る音が、静かな夜の空気の中に響いていた。
扉を叩くと、機を織る音がいったん止み、中からしわがれた声が聞こえた。
「……誰だい。こんな夜更けに。絹なら、もう今日の分は売り切れだよ」
「夜分に申し訳ない。代官のミナト・アークライトだ。織物職人のマーサ殿に、至急の依頼があって参った」
俺が身分を明かすと、しばしの沈黙の後、ギィ、と音を立てて扉がわずかに開いた。隙間から覗いたのは、鋭い光を宿した老婆の片目だった。年の頃は七十は超えているだろうか。背中は曲がり、顔には深い皺が刻まれているが、その眼光だけは、衰えを知らない職人のそれだった。
「代官様が、わしのような年寄りに何の用だい。お貴族様が着るような上等な服は、わしには織れんよ」
「服ではない。船の帆を織ってほしい」
俺がそう告げた瞬間、マーサの目がカッと見開かれた。
「……今、何と?聞き間違いかね。帆、だと?」
「そうだ。世界で一番軽くて丈夫な、絹の帆を。明日の昼までに、だ」
次の瞬間、扉はピシャリと閉められた。
「帰んな!あんた、頭がおかしいんじゃないのか!神様から授かった聖なる蚕の糸を、海の獣の餌にするような、そんな罰当たりな仕事ができるもんか!二度と来るんじゃないよ!」
扉の向こうから、怒りに満ちた罵声が飛んでくる。完全な門前払いだった。
「……だから言ったでしょうが。あの婆さんは、ああいう人なんだ」
ダリオが、諦めたように肩をすくめる。
だが、俺は引き下がらなかった。扉に向かって、静かに語りかける。
「マーサ殿。あなたの織る絹は、王国一だと聞いている。その薄さ、均一性、そして光沢。他の誰にも真似できない、神業だと」
扉の向こうの気配が、わずかに変わった。
「そのあなたの神業が、今、この港の未来を救う唯一の希望なんだ。俺が依頼しているのは、ただの海の道具ではない。アークライト家の再興と、このアルトマールの町の復活を賭けた、勝利の旗印だ」
「……綺麗事を言ったって、わしの心は動かないよ。わしは、ただ美しいものを織りたいだけさ」
声の調子が、少しだけ和らいでいる。俺は、さらに言葉を続けた。
「では、こう考えたらどうだ?あなたの織った絹が、風の力を極限まで受け止め、巨大な船を鳥のように滑らせる。陽の光を浴びて、海の上で白銀に輝くその帆は、もはやただの帆ではない。それは、あなたの技術の結晶が作り出した、海上を舞う最も美しい芸術品だ。誰も見たことのない、動く織物。そうは思わないか?」
「……」
扉の向こうの沈黙が長くなる。職人のプライドをくすぐる言葉。それが、彼女の心の奥に届いている手応えがあった。
「報酬は、言い値で払おう。ボルガ氏から預かった前金と、俺個人のなけなしの財産を全てここに積んでもいい。それでも足りなければ、必ず、この仕事で得た利益から支払うことを、アークライト家の名誉にかけて誓う」
最後の、そして最大の一押しだった。
長い、長い沈黙の後。
再び、ギィ、と扉が開いた。そこに立っていたマーサは、先ほどとは違う、職人としての覚悟を決めた目をしていた。
「……分かったよ。代官様のその狂気、買った。ただし、わし一人じゃ、どうしたって明日の昼までには間に合わない。町の女たち、腕の立つ織り子を全員、今すぐここへ集めておくれ!それから、一番上等の生糸を、蔵からあるだけ全部だ!今夜は、誰一人眠らせやしないよ!」
その言葉は、不可能への挑戦を受け入れた、戦士の宣言だった。
俺とダリオが、町の女たちに事情を話し、マーサの元へと集めている頃。
宿の一室で、セラフィーナは、窓の外から聞こえてくる、いつもとは違う喧騒に、眉をひそめていた。鉄を打つ音に混じって、多くの女性たちの声と、数え切れないほどの糸車と機織り機の音が、一つの大きなうねりとなって夜の港に響き渡っている。
「……一体、何が起きているというのです」
彼女は、護衛の騎士に尋ねた。
「は。報告によれば、ミナト様は、絹で帆を作ることを思いつかれたようで……。町の織り子を総動員し、徹夜で布を織らせている模様です」
「……絹で、帆を?」
セラフィーナは、一瞬、自分の耳を疑った。その発想は、あまりにも常軌を逸していた。非論理的で、非効率で、愚の骨頂。それが、彼女の最初の評価だった。
だが、同時に、彼女の胸の内に、これまで感じたことのない奇妙な感情が芽生え始めていた。それは、侮蔑や嘲笑とは違う、もっと複雑な感情。
あの男は、何を考えているのか。彼の行動は、全てが自分の理解の範疇を超えている。数字と論理だけを信じて生きてきた彼女の世界に、ミナト・アークライトという予測不能なバグが入り込んだかのような、不快で、それでいてどこか心をざわつかせる感覚。
「……明日、必ず見届けますわ。あなたのその狂気が、どのような結末を迎えるのかをね」
セラフィーナは、窓の外に広がる、異様な熱気に満ちた港の夜景を見つめながら、小さく、しかし確かな意志を込めて呟いた。
夜明けまで、あと数時間。
造船所では特殊な油が煮詰められる匂いが立ち込め、機織り小屋では女たちの歌声と共に、白銀の布が奇跡的な速さで織り上げられていく。
アルトマールの町は、その運命を賭けた、最も長く、そして最も熱い夜を迎えていた。
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