没落貴族は最果ての港で夢を見る〜政敵の公爵令嬢と手を組み、忘れられた航路を拓いて帝国の海を制覇する〜

namisan

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第1章

第8話:常識の崩壊

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隣町オーベルの港は、前代未聞の事態に騒然となっていた。
アルトマールから来たという、白銀の帆を持つ奇妙な船。それが、通常なら丸一日かかる航路を、わずか三時間で走破してきたという事実。港の管理人は、震える手で荷送り状にサインをしながら、何度も俺の顔と船を見比べ、現実を理解しようと努めていた。
「代官様……あなた様は、一体どのような魔法を……?」
「魔法ではありません。科学と、少しばかりの工夫ですよ」
俺はにこやかに答え、すぐに次の行動に移った。商人ボルガから預かった運送料を手に、町の穀物問屋へと直行する。アルトマールで最も不足しているもの、それは日々の糧となる食料だった。
「この金で、買えるだけの小麦をいただきたい。すぐに船に積み込めるよう、手配をお願いする」
俺の申し出に、問屋の主人は怪訝な顔をした。彼は窓の外を指差し、港に立つ旗が真西、つまりアルトマールの方角から強く吹かれているのを示す。
「お言葉ですが、代官様。風向きが変わりましたぜ。この強い向かい風では、アルトマールへ帰る船など一隻も出せません。風が変わるまで、二、三日はこの港で足止めを食らうことになりますが、よろしいですかな?」
周囲にいた他の商人たちも、気の毒そうな、あるいは少し嘲るような笑みを浮かべて頷いている。追い風に乗って早く着いたはいいが、これでは帰れない。運が良かっただけの、経験の浅い若造。彼らの目には、俺がそう映っているのだろう。
「ご心配には及びません。風なら、吹いている方が好都合ですので」
俺は謎めいた言葉を残し、最高の手間賃を払って、男たちに小麦の袋を大急ぎで海燕号へと運び込ませた。
荷積みが終わる頃には、俺たちがオーベルに到着したという噂が広まり、港には大勢の見物人が集まっていた。彼らの多くは、地元の船乗りたちだ。
「おい、見ろよ。本当に出航するつもりだぜ」
「馬鹿だろ、あの貴族。向かい風に船を出したら、岸壁に叩きつけられて終わりだ」
「追い風で調子に乗っちまったんだ。海の本当の怖さを知らねえのさ」
そんな嘲笑が飛び交う中、俺は再び海燕号の甲板に立った。
ダリオが、不安そうな顔で俺に近づいてくる。
「若様。本当に、この風の中を出るのですかい?わしの経験では、これは無謀です。自殺行為と言ってもいい」
「ダリオ殿。この船は、もうあなたの知っている船ではない。そして、これからの航海も、あなたの知らない航海になる」
俺は、彼の肩に手を置いた。
「帆は、風を後ろから受けて進むための『袋』ではありません。風を受け流し、力を生み出すための『翼』なのです」
俺は一枚の羊皮紙を取り出し、風に当ててみせた。紙が風を受けてしなり、上へと持ち上がる。
「帆に風が当たると、帆の表側と裏側で空気の流れの速さが変わります。すると、そこに圧力の差が生まれ、船を前へ引っ張る力、『揚力』が発生する。この力を使えば、船は真の向かい風でなければ、斜め前に進むことができるのです」
それは、この世界の航海術には存在しない、全く新しい理論だった。ダリオも、船員たちも、呆然として俺の言葉を聞いている。
「これから、我々はジグザグに進む。風上に向かって、斜めに。これを『タッキング(切り返し)』と呼ぶ。俺の指示通りに、舵と帆を操作してほしい。いいですね?」
半信半疑の船員たちを乗せ、海燕号は再びオーベルの港を離れた。
港の人々の嘲笑が、驚愕に変わるまで、そう時間はかからなかった。
海燕号は、港を出ると、真正面からの風に対して、わずかに船首を右に振った。そして、信じられないことに、前進を始めたのだ。速度は追い風の時ほどではない。だが、間違いなく、風上に向かって力強く進んでいる。
「舵をそのまま!帆の角度、よし!」
「しばらくこのまま進む!」
そして、ある程度進んだところで、俺は叫んだ。
「面舵(おもかじ)いっぱい!タックするぞ!」
ダリオが、俺の言葉を信じ、えいやっと舵輪を回す。船首が風を切り裂きながら、ぐうんと左へと向きを変える。一瞬、船の速度が落ちるが、帆が反対側から風を孕むと、再び力強い推進力を取り戻し、今度は風上に向かって左斜め前に進み始めた。
ジグザグ航法。風上性能(ウインドワードパフォーマンス)。
この世界の誰もが不可能だと信じていた、向かい風への航行が、今、現実のものとなった。
「……すげえ。進んでる。本当に、風上に向かって、進んでやがる……」
若い船員が、感動に声を震わせた。
ダリオは、もはや何も言わなかった。ただ、その目には、神の奇跡を目撃したかのような、畏怖の光が宿っていた。
俺の風詠みの力は、このタッキングにおいて、絶大な効果を発揮した。刻一刻と変わる風の強さと向きを的確に読み取り、最も効率的なタッキングの角度とタイミングを指示し続ける。
海燕号は、まるで知性を持った生き物のように、向かい風の中を、美しく、そして力強く突き進んでいった。
その頃、アルトマールの代官府では、セラフィーナが窓の外に広がる海を眺めていた。
強い西風が、港に白波を立てている。
「騎士団長。この風では、隣町からの帰還は不可能でしょうね」
「はっ。その通りであります、セラフィーナ様。通常の船であれば、港で風が変わるのを待つのが賢明な判断。ミナト・アークライト殿が戻られるのは、早くとも明日以降かと」
護衛の騎士団長の言葉に、セラフィーナは静かに頷いた。
(やはり、そう。行きは追い風という幸運に恵まれただけのこと。持続可能な航路の証明には、到底なりえない。これで、心置きなく閉鎖の勧告ができるわ)
彼女は、自分の予測が正しかったことに、安堵と、ほんのわずかな、自分でも気づかないほどの失望を感じていた。論理的に考えれば、当然の帰結。あの没落貴族の悪足掻きも、これで終わりだ。
だが、その時だった。
港を見下ろす丘の上の見張り台から、甲高い鐘の音が響き渡った。
船の接近を知らせる合図だ。
「……?何かの間違いでは?この風で、港に入ってくる船など……」
騎士団長が訝しむ。セラフィーナも、眉をひそめた。
だが、鐘の音は、間違いなく鳴り響いている。
彼女は、何かに引かれるように、従者と共に港へと急いだ。
港には、鐘の音を聞きつけた町の人々が集まり始めていた。誰もが、信じられないものを見る目で、沖の一点を指差している。
セラフィーナも、その方向へと視線を向け、そして、絶句した。
一隻の船。
間違いなく、今朝出航した、あの白銀の帆を持つ船だ。
だが、その動きがおかしい。まっすぐ港に向かってくるのではなく、まるで酔っ払いのように、海の上をジグザグに、しかし確実に、こちらへ向かってきている。そして、その進路は、明らかに、真正面から吹き付ける風に逆らうものだった。
「……ありえない」
セラフィーナの唇から、思わず声が漏れた。扇を持つ手が、微かに震える。
「騎士団長……あの船は……風に、逆らって進んでいませんこと……?」
「……はっ。わ、私の目がおかしくなったのでなければ……。間違いなく、風上に向かって航行しております。そ、そんなこと、神の御業でもなければ……」
騎士団長の声も、上ずっていた。
彼らが学んできた、この世界の全ての常識、物理法則が、目の前で、たった一隻の船によって、粉々に打ち砕かれようとしていた。
やがて、海燕号は、まるで勝利の凱旋のように、アルトマールの港へとその姿を現した。
計算され尽くした最後のタッキングで、美しく速度を殺し、吸い付くように桟橋に横付けされる。
まだ、日は高く、日没までは数時間の余裕があった。
タラップが下ろされ、俺が甲板に姿を現すと、それまで静まり返っていた港は、一瞬の後、爆発したような大歓声に包まれた。
「帰ってきた!本当に帰ってきたぞ!」
「向かい風の中を!神様だ!」
ゲオルグが、マーサが、町の誰もが、涙を流して叫んでいた。
船からは、オーベルで買い付けた小麦の袋が、次々と降ろされていく。それは、ただの食料ではなかった。この港が、再び交易拠点として機能することを証明する、希望の積荷だった。
俺は、歓声の中を真っ直ぐに歩き、呆然と立ち尽くすセラフィーナの前に立った。
彼女は、いつもの冷徹な仮面を保つことができず、紫水晶の瞳を大きく見開き、信じられないものを見る目で俺を見つめている。その手から、いつの間にか扇が滑り落ちていた。
俺は、煤と潮風で汚れた顔のまま、静かに、しかしはっきりと告げた。
「監察官殿。お約束通り、日没前に帰還いたしました。これが、アルト-マール港の『利益』と、そして、この港に眠る無限の『未来』です」
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