没落貴族は最果ての港で夢を見る〜政敵の公爵令嬢と手を組み、忘れられた航路を拓いて帝国の海を制覇する〜

namisan

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第1章

第9話:論理の降伏と新たな盤面

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俺の言葉は、熱狂に沸く港の喧騒を切り裂き、ただ一人、セラフィーナ・フォン・ルクスブルクの耳にだけ届いたようだった。
彼女は、まるで時が止まったかのように、身じろぎもせず俺を見つめている。その完璧なまでに整えられたポーカーフェイスは崩壊し、紫水晶の瞳には、論理と思考の限界を超えた現象を前にした、純粋な混乱と驚愕が浮かんでいた。彼女が足元に落とした扇が、この上級貴族令嬢の動揺を何よりも雄弁に物語っていた。
港の歓声は、俺と彼女を、まるで舞台の上の役者のように世界から切り離していく。
やがて、彼女はゆっくりと瞬きを一つした。それが、凍り付いた思考が再び動き出した合図だった。傍に控えていた騎士が慌てて扇を拾い上げ、彼女に差し出すが、セラフィーナはそれを受け取ろうともしない。
「……代官府へ、お戻りなさい」
ようやく発せられた彼女の声は、か細く、それでいて氷のように冷たい響きを持っていた。
「二人だけで、お話を伺います。今、ここで起きたことの、全てを」
その声は命令だった。有無を言わさぬ、絶対的な権力者の命令。俺は静かに頷き、ゲオルグとダリオに後のことを任せると、彼女の後を追って代官府へと向かった。町の人々が、俺たちの背中に畏敬と不安の入り混じった視線を送っているのが、肌で感じられた。
代官府の、俺が普段使っている簡素な執務室。そこに、不釣り合いなほど豪奢なドレスを纏ったセラフィーナと、煤汚れた作業着姿の俺が、テーブルを挟んで対峙していた。彼女は護衛の騎士さえも部屋から下がらせ、室内には息詰まるような沈黙が流れている。
先に口を開いたのは、セラフィーナだった。
「……説明なさい」
その言葉には、もはや貴族的な建前や皮肉は一切含まれていなかった。純粋な知的好奇心と、己の常識を破壊されたことに対する苛立ちに満ちた、探求者の問いだった。
「あなたが、何をしたのか。あの船は、なぜ風に逆らって進めるのか。あれは、魔法ですの?それとも、何か古代の遺物でも見つけたとでも言うのですか?」
「魔法ではありません。遺物でもない」
俺は、椅子に深く腰掛けたまま、落ち着いて答えた。
「あれは、技術です。監察官殿。あなたの知らない、新しい航海の技術に過ぎません」
「技術……ですって?」
彼女の声に、侮蔑の色が戻る。「ふざけないで。物理法則を無視したものが、技術であるはずがありませんわ。船は、風の力を受けて進むもの。風に逆らって進むなど、それ自体が世界の理に反しています」
「世界の理を、あなたが全て知っているとでも?」
俺は、初めて彼女に反問した。
「監察官殿。鳥は、なぜ空を飛べるのでしょう。風に逆らっても、悠々と空を舞っていられるのは、なぜだとお考えです?」
「それは……翼があるからですわ。当たり前のことを」
「では、その翼が、なぜ鳥を飛ばせるのか、その原理を説明できますか?」
俺の問いに、セラフィーナは言葉を詰まらせた。貴族としての高等教育を受けた彼女でも、そこまで深く考えたことはなかったのだろう。
俺は、テーブルの上に置かれていた一枚の羊皮紙を手に取った。
「翼の上面は、下面よりも少しだけ膨らんでいます。空気が翼に当たると、上面を流れる空気は、下面を流れる空気よりも少しだけ速く流れることになる。すると、そこに圧力の差が生まれるのです。空気の流れが速い方は圧力が低く、遅い方は圧力が高い。この圧力の差が、翼を上へと持ち上げる力……『揚力』となるのです」
俺は、羊皮紙を軽く折り曲げ、息を吹きかけた。紙が、ふわりと宙に浮き上がる。
「帆も、同じことです。これまでの帆は、風を受けるただの『袋』でした。ですが、あの絹の帆は、風を受け流すための『翼』なのです。帆の表と裏に圧力差を生み出し、船を前へ、あるいは斜め前へと引っ張る力を生み出す。これが、向かい風の中を航行するからくりです」
セラフィーナは、テーブルの上の羊皮紙と俺の顔を、信じられないものを見る目で見つめていた。俺が語っている理論は、彼女がこれまで学んできたどんな学問にも存在しない、全く新しい概念だった。だが、彼女は反論できなかった。なぜなら、その理論が引き起こした「結果」を、つい先ほど、自分の目で見てしまったからだ。
彼女の論理と理性が、俺の提示した圧倒的な事実の前に、降伏を強いられていた。
長い沈黙の後、セラフィーナは深いため息をついた。それは、敗北を認める者のため息だった。
「……分かりました。あなたの勝ちですわ、ミナト・アークライト殿」
彼女は、初めて俺の名前を、正確に口にした。
「約束通り、このアルトマール港の閉鎖を勧告する報告書は、提出を『無期限に延期』としましょう。あなたは、この賭けに勝ったのです」
ようやく、肩の荷が下りるのを感じた。だが、俺は表情を変えなかった。この女が、これで終わるはずがない。
案の定、セラフィーナは続けた。その瞳には、もはや驚愕の色はなく、代わりに、新たな獲物を見つけた狩人のような、冷たく鋭い光が宿っていた。
「ですが、私の監察官としての任務は、まだ終わっておりません」
彼女は、床に落ちていた扇を自ら拾い上げると、パチン、と小気味よい音を立てて開いた。いつもの彼女が、そこに戻っていた。
「これほどまでに革命的な技術……。そして、それをこともなげに語る、あなたという存在。これは、もはや一港町の存続問題ではありません。アラストリア王国全体の未来を揺るがしかねない、重大な案件です」
彼女は立ち上がり、窓辺に立つと、活気を取り戻した港を見下ろした。
「私は、しばらくこのアルトマールに滞在いたします。王命です。この新技術の有用性と危険性を、この目で見極めるまで、ここを離れるわけにはいきませんわ」
彼女は、俺の方を振り返った。その顔には、美しい、しかし一切の油断も許さない笑みが浮かんでいる。
「あなたの『事業』、間近で拝見させていただきます。せいぜい、私を退屈させないでくださいましね、ミナト・アークライト『殿』」
それは、事実上の監視宣言だった。
彼女は、俺という存在を、単なる没落貴族から、国家レベルで管理・分析すべき「特異点」として認識したのだ。
彼女が部屋から去った後、俺は一人、執務室に残された。
第一関門は突破した。港の閉鎖という、目先の最大の危機は回避できた。町の人々の信頼も勝ち取った。
だが、その代償として、俺はルクスブルク公爵家の至宝、セラフィーナ・フォン・ルクスブルクという、王国で最も厄介で、最も知的な監視役を手に入れてしまった。
これから俺がやろうとしていることは、単なる港の復興ではない。旧来の利権が絡み合う、この国の物流に革命を起こすことだ。それは、必ずや既存の権力……セラフィーナの実家であるルクスブルク公爵家とも、いずれは衝突することになるだろう。
俺の小さな船出は、終わった。
そして今、巨大な権力という名の監視船に見守られながら、本当の意味での、荒波の海へと漕ぎ出す時が来たのだ。
盤面は、完全に変わった。俺は、もはやただの駒ではない。だが、プレイヤーになるには、まだあまりにも非力だった。
俺は窓の外、夕日に染まる海を見つめながら、次の一手を思考し始めていた。
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