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どうやら、どっぷりと本の世界に浸っていたようだ。
「待たせて、悪かった」
ふっと現実に引き戻されて顔をあげると、黒い髪を後ろに撫でつけた、ちょっと見目のいい男――黒須健太郎が、そこには立っていた。
「君は、また本を読んでいたのか?」
彼がそう言うくらい、私は手持無沙汰な時間があれば本を読んでいる。
「時間は有限ですから」
言いながら、読んでいた文庫本を鞄にしまった。
健太郎さんは上着を脱ぎ、私の目の前に座る。
「お腹、空いただろう? 好きな物を頼んでくれ」
「好きな物って……」
どうせなら、おフランスのコース料理とか、くるくる回る中華のコースとか。一人では食べることができないようなメニューがよかったけれど、知り合いに見つからないように会うことが目的だったので、食べたい物についてはあきらめることにしてみた。
それに、ここだって居酒屋と言っておきながらも、ちょっとだけ高級感漂うような、そんな気配を感じる。
「飲み物は……ウーロン茶でいいか?」
健太郎さんがそう尋ねてきたことに、私はぎょっと目を見開く。
彼は、私が「まずは、生で乾杯」の女であることを知っているはず。
「あー、ジンジャーエールで」
「だったら、俺もそれにしよう。食べ物は、適当に選んでもいいか? ここの料理はすべてが手作りだから、君の口にも合うと思うのだが」
まるで、以前からこの店を知っているかのような口ぶりである。
「おまかせします」
すると彼は、嬉しそうに口元を緩めた。
――だめだめだめ。この笑顔に絆されては駄目。
そう。今日は彼にあのことを伝えにきたのだ。そして、同意書にしっかりとサインをもらわなければならない。法的には彼の同意は必須ではないのだけれども、通った病院ではやはり相手の同意を求められた。なんらかのトラブルを防ぐためらしい。
無意識のうちに、彼をぼんやりと眺めていた。
健太郎さんは店員を呼ぶと、慣れた口調でメニューを伝える。相手の店員も、彼のことを知っているかのような口ぶりで答えていた。
少しだけ、心の中がもやっとした。
「それで、今日は何かあったのか?」
健太郎さんは、同じ会社の部署違いだ。資材部門の部門長を務めている彼は、年も三十代前半だったと思うけれど、この部品入手難の時代にどこからともなく伝手を使って、部品をかき集めてくることから、神の手とも呼ばれている。
「何かなかったら、わざわざ会おうとはしませんよね」
「俺は、君に会いたいと思っていたが?」
「またまたぁ」
こういうことをしれっと言いきっちゃう辺りが、大人なのだろうか。第二新卒の私には、わからない世界だ。
「あのですね。こちらにサインをいただきたく……」
鞄から取り出した二つ折りの書類。料理や飲み物が届く前のこのテーブルなら、書類を広げても汚れることはない。
「何だ、この書類は。婚姻届けか?」
この顔で、この手の冗談は面白くない。
「なんでもいいですから、ここにちゃちゃっと名前を書いてください」
「なんでもいいわけはないだろう? 契約をするときは、きちんと契約内容を確認すべきだ」
「契約ではありませんから」
だけど健太郎さんは、契約をするときにはきちんと契約内容を確認する男のようだった。じっと渡した書類に視線を落としては、その顔色を変える。
――あ、バレたかな。
「待たせて、悪かった」
ふっと現実に引き戻されて顔をあげると、黒い髪を後ろに撫でつけた、ちょっと見目のいい男――黒須健太郎が、そこには立っていた。
「君は、また本を読んでいたのか?」
彼がそう言うくらい、私は手持無沙汰な時間があれば本を読んでいる。
「時間は有限ですから」
言いながら、読んでいた文庫本を鞄にしまった。
健太郎さんは上着を脱ぎ、私の目の前に座る。
「お腹、空いただろう? 好きな物を頼んでくれ」
「好きな物って……」
どうせなら、おフランスのコース料理とか、くるくる回る中華のコースとか。一人では食べることができないようなメニューがよかったけれど、知り合いに見つからないように会うことが目的だったので、食べたい物についてはあきらめることにしてみた。
それに、ここだって居酒屋と言っておきながらも、ちょっとだけ高級感漂うような、そんな気配を感じる。
「飲み物は……ウーロン茶でいいか?」
健太郎さんがそう尋ねてきたことに、私はぎょっと目を見開く。
彼は、私が「まずは、生で乾杯」の女であることを知っているはず。
「あー、ジンジャーエールで」
「だったら、俺もそれにしよう。食べ物は、適当に選んでもいいか? ここの料理はすべてが手作りだから、君の口にも合うと思うのだが」
まるで、以前からこの店を知っているかのような口ぶりである。
「おまかせします」
すると彼は、嬉しそうに口元を緩めた。
――だめだめだめ。この笑顔に絆されては駄目。
そう。今日は彼にあのことを伝えにきたのだ。そして、同意書にしっかりとサインをもらわなければならない。法的には彼の同意は必須ではないのだけれども、通った病院ではやはり相手の同意を求められた。なんらかのトラブルを防ぐためらしい。
無意識のうちに、彼をぼんやりと眺めていた。
健太郎さんは店員を呼ぶと、慣れた口調でメニューを伝える。相手の店員も、彼のことを知っているかのような口ぶりで答えていた。
少しだけ、心の中がもやっとした。
「それで、今日は何かあったのか?」
健太郎さんは、同じ会社の部署違いだ。資材部門の部門長を務めている彼は、年も三十代前半だったと思うけれど、この部品入手難の時代にどこからともなく伝手を使って、部品をかき集めてくることから、神の手とも呼ばれている。
「何かなかったら、わざわざ会おうとはしませんよね」
「俺は、君に会いたいと思っていたが?」
「またまたぁ」
こういうことをしれっと言いきっちゃう辺りが、大人なのだろうか。第二新卒の私には、わからない世界だ。
「あのですね。こちらにサインをいただきたく……」
鞄から取り出した二つ折りの書類。料理や飲み物が届く前のこのテーブルなら、書類を広げても汚れることはない。
「何だ、この書類は。婚姻届けか?」
この顔で、この手の冗談は面白くない。
「なんでもいいですから、ここにちゃちゃっと名前を書いてください」
「なんでもいいわけはないだろう? 契約をするときは、きちんと契約内容を確認すべきだ」
「契約ではありませんから」
だけど健太郎さんは、契約をするときにはきちんと契約内容を確認する男のようだった。じっと渡した書類に視線を落としては、その顔色を変える。
――あ、バレたかな。
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