あやかし夫(予定)の溺愛~真夏の雪

澤谷弥(さわたに わたる)

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「俺は、サインをしない」
「え?」
「責任はとる」
「いやいやいや。とらなくていいです」
「だから、俺の子どもを産んで欲しい」
「いやいやいや。責任で結婚とかされても困りますし」
「お待たせしました」

 割烹着姿の年配の女性が、飲み物と食べ物を手にして部屋に入ってきた。だから、私たちの話は中断。
 だけど、その女性は食べ物をテーブルの上に並べていくときに、あの書類を見てしまったらしい。

「ケンちゃん……。あなた、何をやっているの」

 ――ケンちゃんって……、健太郎さんのことよね?

「せっかくあなたの子を授かってくださったこの子に、中絶をすすめているの? ホント、男の風上にもおけない男ね。お母さん、そのような子に育てた覚えはありませんよ」

 ――お母さん? お母さんってママ? え? 健太郎さんのお母さま?

 お母さんもママも母親も同じような意味であるのに、私の頭の中は混乱していた。

 健太郎さんのお母さまと思われる女性を、まじまじと観察する。
 黒い髪をすっきりと一つにまとめ、ぱっちりとした二重には、目尻に少しだけしわが寄っている。

「今、彼女と大事な話をしているのです。いいから、それを置いたらさっさと出て行ってください」

 こんな健太郎さんを初めて見た。

「あなた、お名前は?」

 健太郎さんのお母さまが、いきなりそんなことを尋ねてきた。

「母さん」
「あ、はい。畑中珠美です」
「タマちゃんね。可愛いお名前。年は?」
「25になったところです」
「ケンちゃんが32だから……。ちょうどいいかしらね? それに、素敵な髪の毛。黒くて真っすぐで、力を感じるわ」

 お母さまが言った通り、私は髪を染めていないし、色も抜いていない。だから、地毛。真っ黒なままで、どこか重く感じる髪の毛。

「母さん。あなたが間に入るとややこしくなる。用が済んだなら、さっさと出て行ってください」

 こんなに声を荒げる健太郎さんも初めて見た。

「はいはい。ケンちゃん。きちんと自分の気持ちを伝えないと、彼女に逃げられるわよ」

 おほほほと、お上品に笑いながら、健太郎さんのお母さまは部屋を出ていった。

 パタン――。

 障子戸が閉められる。

「ここって……。健太郎さんのご実家なのですか?」
「実家ではないが、母の店だ」
「あぁ、なるほど」

 私は納得したような声をあげて、とりあえず目の前のジンジャーエールに手を伸ばす。

「とりあえず、乾杯しません?」
「何に乾杯する? 新しい命を授かったことか?」
「違います。今日一日、お疲れさまでした。乾杯」

 勢いよくジンジャーエールを飲んだ。空腹だったから、お腹の中で炭酸がしゅわしゅわ言っている。

「健太郎さんは、ビールじゃなくてよかったんですか?」
「君が飲めないのに、俺だけ飲むのは気が引ける」

 こういうところは律儀らしい。

「ま、とりあえず食べろ。料理は美味しい」
「見るからに美味しそうですもんね」

 私が褒めると、健太郎さんは目尻を下げた。身内を褒められるのは、やはり嬉しいのだろう。
 腹が減っては戦ができぬ、ということもあり、とりあえず私は食べた。
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