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矛盾の計画と究極の艦
海軍内の対立
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1930年代後半、日本海軍は来るべき世界大戦の嵐を予感し
その軍備増強を加速させていた。しかし、その根幹をなす海軍戦略
特に主力兵器のあり方を巡っては、内部で激しい思想的対立が繰り広げられていた。
それは、連綿と続く「大艦巨砲主義」と、新興の「航空主兵論」という
二つの潮流の激突であった。次期主力戦艦である計画は
まさにこの対立の縮図として、複雑な経緯を辿ることになる。
日本海軍の戦略思想の中核には、日露戦争における日本海海戦の勝利以来
「漸減邀撃作戦」という概念が深く根付いていた。
これは、来襲するであろうアメリカ太平洋艦隊を
潜水艦や航空機、そして巡洋艦による反復攻撃で消耗させた後
最終的に主力たる戦艦同士の艦隊決戦によって
雌雄を決するという戦略である。この思想の実現のためには
敵を凌駕する強力な戦艦、すなわち「大艦巨砲」こそが不可欠であるという信念が
多くの海軍将校、特に長老世代や艦隊勤務経験の
長い者たちの間で揺るぎないものとなっていた。
彼らにとって、戦艦とは国家の威信を体現する存在であり
その巨砲から放たれる一斉射撃は、いかなる敵をも粉砕する絶対的な力であった。
ワシントン海軍軍縮条約、そしてロンドン海軍軍縮条約によって
建造が制限されてきた主力戦艦の枠が、1936年末で失効することが確実視される中
日本海軍は来るべき「無条約時代」に向けて
条約の縛りから解き放たれた「世界最強の戦艦」を建造する機運を高めていた。
軍令部や艦政本部の首脳陣には、この大艦巨砲主義の信奉者が多数を占めていた。
彼らは、たとえ将来的に航空機の脅威が増大したとしても、
戦艦はあくまで艦隊決戦の主役であり続けると考え、
その防御力と攻撃力を最大限に追求することに力を注いだ。
彼らにとって、大和型計画は、「アメリカを凌駕する砲力を持つ超ド級戦艦」の
建造であり、それによって日米間の戦力差を埋め
抑止力を高めるという明確な目標があった。46cm主砲という、
当時としては想像を絶する大口径砲の搭載は、この思想の究極的な具現化であった。
一方で、世界情勢の変化、特に航空技術の急速な発展は
海軍戦略に新たな視点をもたらし始めていた。イタリアのドゥーエ
アメリカのミッチェルといった航空戦力信奉者たちが提唱する
「空軍独立論」や「航空優勢論」は、海軍内部にも徐々に浸透しつつあった。
日本海軍内部でも、少壮将校や航空畑の専門家の中には
来るべき戦いでは航空機が主役になるという「航空主兵論」を唱える者が現れ始めていた。
彼らは、航空機による攻撃が、たとえ堅牢な戦艦であっても
致命的な損害を与えうることを認識していた。例えば
1921年のオストフリースラント撃沈実験や、世界各地での演習や研究報告は
航空機の対艦攻撃能力が決して軽視できないレベルに達していることを示唆していた。
特に、航空機によって敵艦隊を遠距離から発見し
先制攻撃を仕掛けることで、従来の戦艦による艦隊決戦に持ち込むことなく
敵戦力を撃滅できるという考えは、当時の限られた予算と
資源の中で効率的な戦力を構築しようとする者たちにとって
非常に魅力的に映った。彼らは、航空母艦とその搭載機こそが
将来の海戦の主役であり、戦艦はその補助的な役割
あるいは航空機の脅威から艦隊を守る「防空艦」としての役割を重視すべきだと主張した。
彼らの主張は、既存の戦艦建造計画にも影響を与え始めた。
航空機からの防御を強化することの重要性が繰り返し提言され
設計段階から対空兵装の増強を求める声が高まっていった。
しかし、この時点ではまだ、彼らの声は主流派である大艦巨砲主義の影に隠れており
全面的に受け入れられるには至っていなかった。
このような思想対立の渦中にあって、日本海軍の軍備計画は進められた。
軍令部と海軍省は、両者の主張を完全に排斥することはできず、
結果として「二兎を追う」ような形で、双方の要求を満たそうとする姿勢を示した。
その結果として具体化したのが、翔鶴型航空母艦の建造と
次期主力戦艦(一号艦型)の計画推進である。
翔鶴型空母の建造は、航空主兵論者たちの主張が
一定の成果を収めた証であった。彼女たちは
これまでの日本空母を凌駕する搭載機数と速力、そして防御力を兼ね備え
真珠湾攻撃やミッドウェー海戦初期における日本海軍の快進撃を支えることになる。
これは、航空戦力の重要性が海軍全体で認識され始めたことを示す象徴的な出来事であった。
しかし、だからといって戦艦建造計画が立ち消えになったわけではない。
むしろ、無条約時代における日本の安全保障を確保するためには
依然として「他国を凌駕する戦艦」が必要であるという大艦巨砲主義の信念が
より一層強固になっていた。アメリカ海軍が「新戦艦」の
建造を計画しているという情報が日本に伝わると
それに対抗しうる艦を建造することの緊急性が叫ばれるようになった。
かくして、大和型戦艦は、「世界最強の攻撃力を持つ戦艦」という大艦巨砲主義の夢と
「航空攻撃から自己を防衛しうる艦」という
航空主兵論の現実的要請を、同一の艦に内包するという
極めて野心的な設計思想を持つことになった。
その軍備増強を加速させていた。しかし、その根幹をなす海軍戦略
特に主力兵器のあり方を巡っては、内部で激しい思想的対立が繰り広げられていた。
それは、連綿と続く「大艦巨砲主義」と、新興の「航空主兵論」という
二つの潮流の激突であった。次期主力戦艦である計画は
まさにこの対立の縮図として、複雑な経緯を辿ることになる。
日本海軍の戦略思想の中核には、日露戦争における日本海海戦の勝利以来
「漸減邀撃作戦」という概念が深く根付いていた。
これは、来襲するであろうアメリカ太平洋艦隊を
潜水艦や航空機、そして巡洋艦による反復攻撃で消耗させた後
最終的に主力たる戦艦同士の艦隊決戦によって
雌雄を決するという戦略である。この思想の実現のためには
敵を凌駕する強力な戦艦、すなわち「大艦巨砲」こそが不可欠であるという信念が
多くの海軍将校、特に長老世代や艦隊勤務経験の
長い者たちの間で揺るぎないものとなっていた。
彼らにとって、戦艦とは国家の威信を体現する存在であり
その巨砲から放たれる一斉射撃は、いかなる敵をも粉砕する絶対的な力であった。
ワシントン海軍軍縮条約、そしてロンドン海軍軍縮条約によって
建造が制限されてきた主力戦艦の枠が、1936年末で失効することが確実視される中
日本海軍は来るべき「無条約時代」に向けて
条約の縛りから解き放たれた「世界最強の戦艦」を建造する機運を高めていた。
軍令部や艦政本部の首脳陣には、この大艦巨砲主義の信奉者が多数を占めていた。
彼らは、たとえ将来的に航空機の脅威が増大したとしても、
戦艦はあくまで艦隊決戦の主役であり続けると考え、
その防御力と攻撃力を最大限に追求することに力を注いだ。
彼らにとって、大和型計画は、「アメリカを凌駕する砲力を持つ超ド級戦艦」の
建造であり、それによって日米間の戦力差を埋め
抑止力を高めるという明確な目標があった。46cm主砲という、
当時としては想像を絶する大口径砲の搭載は、この思想の究極的な具現化であった。
一方で、世界情勢の変化、特に航空技術の急速な発展は
海軍戦略に新たな視点をもたらし始めていた。イタリアのドゥーエ
アメリカのミッチェルといった航空戦力信奉者たちが提唱する
「空軍独立論」や「航空優勢論」は、海軍内部にも徐々に浸透しつつあった。
日本海軍内部でも、少壮将校や航空畑の専門家の中には
来るべき戦いでは航空機が主役になるという「航空主兵論」を唱える者が現れ始めていた。
彼らは、航空機による攻撃が、たとえ堅牢な戦艦であっても
致命的な損害を与えうることを認識していた。例えば
1921年のオストフリースラント撃沈実験や、世界各地での演習や研究報告は
航空機の対艦攻撃能力が決して軽視できないレベルに達していることを示唆していた。
特に、航空機によって敵艦隊を遠距離から発見し
先制攻撃を仕掛けることで、従来の戦艦による艦隊決戦に持ち込むことなく
敵戦力を撃滅できるという考えは、当時の限られた予算と
資源の中で効率的な戦力を構築しようとする者たちにとって
非常に魅力的に映った。彼らは、航空母艦とその搭載機こそが
将来の海戦の主役であり、戦艦はその補助的な役割
あるいは航空機の脅威から艦隊を守る「防空艦」としての役割を重視すべきだと主張した。
彼らの主張は、既存の戦艦建造計画にも影響を与え始めた。
航空機からの防御を強化することの重要性が繰り返し提言され
設計段階から対空兵装の増強を求める声が高まっていった。
しかし、この時点ではまだ、彼らの声は主流派である大艦巨砲主義の影に隠れており
全面的に受け入れられるには至っていなかった。
このような思想対立の渦中にあって、日本海軍の軍備計画は進められた。
軍令部と海軍省は、両者の主張を完全に排斥することはできず、
結果として「二兎を追う」ような形で、双方の要求を満たそうとする姿勢を示した。
その結果として具体化したのが、翔鶴型航空母艦の建造と
次期主力戦艦(一号艦型)の計画推進である。
翔鶴型空母の建造は、航空主兵論者たちの主張が
一定の成果を収めた証であった。彼女たちは
これまでの日本空母を凌駕する搭載機数と速力、そして防御力を兼ね備え
真珠湾攻撃やミッドウェー海戦初期における日本海軍の快進撃を支えることになる。
これは、航空戦力の重要性が海軍全体で認識され始めたことを示す象徴的な出来事であった。
しかし、だからといって戦艦建造計画が立ち消えになったわけではない。
むしろ、無条約時代における日本の安全保障を確保するためには
依然として「他国を凌駕する戦艦」が必要であるという大艦巨砲主義の信念が
より一層強固になっていた。アメリカ海軍が「新戦艦」の
建造を計画しているという情報が日本に伝わると
それに対抗しうる艦を建造することの緊急性が叫ばれるようになった。
かくして、大和型戦艦は、「世界最強の攻撃力を持つ戦艦」という大艦巨砲主義の夢と
「航空攻撃から自己を防衛しうる艦」という
航空主兵論の現実的要請を、同一の艦に内包するという
極めて野心的な設計思想を持つことになった。
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