紫電改345

みにみ

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ラバウル戦闘201空

命か戦果か

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1943年8月下旬。ラバウルの夕暮れは
まるで血の色のように濃く、空を覆っていた。
基地の格納庫は、今日もまた、重苦しい沈黙に包まれていた。

その日の空戦は、決して敗北ではなかった。黒田光正中尉率いる零戦隊は
寡兵をもって敵の爆撃隊を追い払い
黒田特機は、一撃離脱戦法で確実に二機のヘルキャットを撃墜した。

しかし、その戦果の影で、一つの命が帰らなかった。

森田一飛曹。新しく黒田の分隊に配属されたばかりの、まだ十代の若者だった。
彼は戦果を焦り、黒田の制止無線を無視して、一機のF6Fを深追いした。
その瞬間、彼はラバウルの空の厳しさを知ることになった。
米軍機は彼の未熟な追撃を待ち構え、一瞬の急旋回で体勢を逆転させ
森田の零戦に集中射撃を浴びせた。
彼の機体は、黒煙を噴き上げ、ソロモンの海へと消えていった。

格納庫の隅。森田の零戦を担当していた整備兵たちが
帰ってこない機体の空いたスペースを見つめ、声もなく泣き崩れていた。
機体を愛し、命を預けてきた彼らにとって
パイロットの死は、自分たちの仕事の敗北でもあった。

黒田は、自らの黒田特機の傍らに立ち、その光景を直視していた。
機首の十三粍機銃は、今日もしっかりと二機の敵機を仕留めた。
彼の戦術は間違っていなかったはずだ。
「一撃離脱を徹底しろ」「深追いはするな」――。彼の指示は、「堅実」そのものだった。

なぜだ?

なぜ、自分の「堅実」な戦術が、彼を救えなかったのか。
黒田の胸に、重く、鋭い「分隊長の重圧」がのしかかる。

彼は森田に、昨日の内に「生き残ることこそが最大の戦果だ」と語ったばかりだった。
その言葉が、今、彼自身の良心を責め立てていた。
言葉だけでは、人は救えない。彼の堅実さは、彼自身を生き残らせる術であっても
他者の情熱や焦りを制御する力はなかった。
このラバウルの地獄の空は、論理や戦術だけではどうにもならない
感情と死の境界線が支配する場所だった。


翌朝、黒田は201空の司令官、佐々木大佐に呼び出された。
司令室の空気は重く、壁には「必勝」の文字が虚しく貼られている。

佐々木大佐は、黒田の冷静な戦果報告書に目を通し、満足げに頷いた。

「黒田、貴官の分隊の技量は素晴らしい。
 昨日の戦闘は、我々の損害をゼロに抑えた上で、敵爆撃隊を追い払った。
 特に、貴官の一三粍機銃の精度は目を見張るものがある」

黒田は静かに頭を下げた。
「ありがとうございます。しかし、森田一飛曹を失いました」

司令官の顔が一瞬曇った。
「うむ……残念だ。戦果を焦ったようだな。
 だが、黒田、貴官が彼の死を気に病む必要はない。消耗は織り込み済みだ」

「消耗、ですか」
黒田は無表情ながら、声に僅かな力を込めた。

「そうだ。我々にはもう時間が無い。トラックへの転進も近い。
 今、貴官ら熟練搭乗員に求められているのは
 可能な限り敵の戦力を叩き、時間を稼ぐことだ」

大佐は机に広げられた地図を指さした。
それは、ラバウルへ向かう米軍の増援部隊の進路を示すものだった。

「貴官の戦術は『堅実』過ぎる。もっと積極的に敵の懐に飛び込め。
 一撃離脱だけでなく、格闘戦も辞するな。戦果を挙げなければ、彼らの死は犬死になる」

佐々木大佐は、「戦果報告の数字」が
本土の人間への唯一の「希望」となることを知っていた。
そのために、搭乗員の命を犠牲にすることは、この戦局では「必要な決断」だと考えていた。

黒田は、その理屈に真っ向から反論した。

「大佐。私は、搭乗員の消耗を防ぐことが、継続的な戦果に繋がると考えます。
 今の我々に、格闘戦を挑む余力はありません。
 一人失えば、戦力は単に一減るだけではない。残った搭乗員の士気も
 整備員の労力も、失われるのです。私が望むのは、一時的な戦果ではなく
 明日も明後日も、この空を飛び続ける戦力です」

司令官は苛立ちを露わにした。
「貴官は、戦況の深刻さが分かっていないのか!
 我々は未来のために、今を捨てねばならない時なのだぞ!」

「いいえ、大佐」
黒田は静かに言った。
「未来のためには、今、生きて帰らねばなりません。
 私の戦術は、そのためのものです」

議論は平行線を辿った。司令官は黒田の冷静な反論に
それ以上何も言えなかったが、その目には「非協力的」という評価が刻み込まれた。
黒田は、上官の命令に背く「分隊長の重圧」を、黙って受け入れた。


その日の夕食後、黒田は基地の裏手にある、小さな防空壕へと足を運んだ。
そこには、ラバウルの古参搭乗員で、偵察隊長を務める坂本紀人中佐(海兵68期)が
一人酒を飲んでいた。坂本は後の三四五空で
偵察108飛行隊長となる人物であり、黒田とは階級や期は違えど
戦場における「現実」を知る数少ない理解者だった。

「おう、黒田か。飲んでいけ」

坂本は、地面に敷いたゴザの上で、徳利を傾けた。
酒は、内地から秘密裏に運ばれた、僅かな上等なものだった。

黒田は坂本の隣に腰を下ろした。言葉は要らなかった。
坂本は森田の件を知っている。ラバウルの誰もが、誰かの死を背負って生きている。

「森田一飛曹のことは、残念だったな」
坂本は静かに言った。
「貴様の戦術は、このラバウルでは最も合理的だ。だがな、若者は焦るものだ」

黒田は自嘲気味に笑った。
「私の『堅実』は、彼らの『情熱』を抑え込めませんでした。
 私自身が、格闘戦に割って入らねばならなかった。あれこそ、私の戦術の敗北です」

坂本は徳利を黒田に渡し、受け取った黒田は一気に口をつけた。
火傷しそうなほど熱い酒が、胃に染み渡った。

「敗北だと?違うな」
坂本は首を振った。
「お前は、分隊長としてやるべきことをやった。
 あの時、お前が割って入らなければ、お前自身も危険に晒されたが
 森田は必ず落ち、お前の堅実な戦術が無力だったという烙印を押されただろう」

坂本の言葉は、黒田の胸の奥深くに響いた。

「お前の『堅実』は、『戦果』のためのものではない。
 それは、『生還』のためのものだ。誰もが戦果を追い求める中で
 お前は命を追い求めている。お前の零戦に十三粍を積んだのも
 敵を確実に葬り、早く離脱し、弾と命を節約するためだろう」

黒田は目を閉じた。坂本は、彼の心の奥底を見透かしていた。

「司令部がああ言うのは、仕方が無い。彼らは『数字』が欲しい。
 だがな、黒田。我々が、そしてお前が生き残ることは、数字よりも重い意味がある」

「……意味、ですか」

「そうだ。お前のような技量と戦術を持った搭乗員が
 もし内地に帰還し、教官になったらどうなる?」
坂本は、黒田の目を見て続けた。
「お前がこの地獄で学んだ『生きた戦術』を、次の世代に叩き込める。
 それこそが、この戦局において、一機の零戦を
 落とされないようにすることよりも、遥かに重要な戦果となる」

坂本の言葉は、黒田の凝り固まった罪悪感を、少しずつ解きほぐしていった。


坂本との会話を終えた黒田は、夜が明けるまで自問自答を続けた。
彼の「堅実」は、単なる防御や保身ではない。
それは、「未来への投資」である、と坂本は教えてくれた。

森田一飛曹は、未来を信じて戦果を焦り、命を散らした。
しかし、黒田は、その森田の死を、「無駄にしない」という形で未来に繋げなければならない。

彼は立ち上がり、夜明け前の基地を見渡した。
ボロボロになった格納庫、疲弊しきった整備員たち。
この地で、搭乗員が次々と散っていく現状は、日本の未来の空を失うことに直結していた。

「未来のために、今、生きて帰る」

黒田は、自らの「堅実」な戦術の最終目的を再認識した。
それは、逃避ではなく、継承のための戦いである。
自分が生き残って、このラバウルで学んだ対ヘルキャット
対コルセア戦の全てを、内地の若者たちに伝える義務がある。

その時、彼の心の中で、一つの決意が固まった。
もし、内地の空を守る新たな部隊が組織されるならば
彼はその部隊に加わり、自分が学んだ「生きた戦術」を、次世代の防空戦術の礎とする。

夜が明けた。黒田は清々しい表情で、格納庫へと向かった。
整備兵たちが、彼に深々と頭を下げる。

「隊長。今朝の出撃、必ず無事にお戻りください」

「ああ、必ずだ」

黒田は力強く頷いた。彼の零戦、黒田特機は、今日もまた
「命を持ち帰る」という最重要の使命を帯びて、ソロモンの空へと飛び立っていった
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