東亜の炎上 1940太平洋戦線

みにみ

文字の大きさ
2 / 8
戦禍へ

外交の狭間に

しおりを挟む
1940年7月の終わり、夜の東京は相変わらず蒸し暑かったが
日中の喧騒は影を潜め、提灯の柔らかな明かりが揺れる静けさに包まれていた。
しかし、外務省の一室だけは、その静寂とは無縁だった。

部屋の主、藤田慎太郎は、執務机に向かい、山積みの報告書に目を凝らしていた。
薄く開けられた窓からは、熱気を帯びた生ぬるい風が入ってくるものの
部屋に充満したタバコの煙は一向に晴れない。
吸いかけのタバコが灰皿の中で赤々と燃え
その煙が彼の焦燥を物語るように、ゆらゆらと宙に昇っていった。

外務省アジア局の若手エリートである藤田は、この数週間
文字通り眠る間も惜しんで欧米諸国からの情報収集に奔走していた。
ドイツ軍のフランス侵攻と、その後の電撃的な勝利の報は
彼の心を深く揺さぶっていた。国際情勢は、彼の想像をはるかに
超える速度で激変していた。かつての世界を主導した英仏の権威は地に落ち
ドイツが新たな世界の盟主として台頭しようとしていた。

だが、藤田が最も危惧していたのは、この激変の波に乗じ
日本がドイツ、イタリアとの軍事同盟へと傾倒していくことだった。
陸軍強硬派や一部の官僚たちは、ドイツの圧倒的な勝利に酔いしれ、
「今こそ欧米列強の勢力が弱まった隙を突き
 アジアにおける日本の覇権を確立する好機だ」と主張していた。
彼らは、ソ連の潜在的脅威と、南方資源地帯の確保を理由に
日独伊三国同盟の早期締結を強力に推し進めていた。

「国際協調こそ、日本の進むべき道だ」

藤田は、常にそう信じてきた。列強との協調路線を歩み
国際連盟を通して平和的な解決を図ることこそが
資源に乏しい島国である日本の生きる道だと考えていた。
しかし、彼の理想は、目前に迫る現実の波に飲み込まれようとしていた。
外務省内部でも、同盟締結を主張する親独派との議論は平行線を辿っていた。
彼らの言葉は熱を帯び、日本の国益を最大化するためには
「血盟」が必要だと力説した。
藤田は、彼らの情熱を理解できないわけではなかったが
その視線の先に、破滅的な結末が見えるような気がしてならなかった。

特に、アメリカとの関係悪化は、彼にとって最も避けたい事態だった。
米国は、日本にとって最大の貿易相手国であり
何よりも石油や鉄鋼といった戦略物資の主要な供給源だった。
アメリカとの決定的な対立は、日本の生命線を断ち切るに等しい。
彼は、日独伊三国同盟の締結が
アメリカを決定的な敵に回すトリガーとなることを
誰よりも明確に予見していた。

焦燥感が、藤田の全身を支配する。彼は自らの無力さに苛まれた。
外交官として、祖国の危機を回避するための道を模索しなければならない。
しかし、その道は、強硬な軍部の圧力と
国際情勢の激変という嵐の中で、次第に見えなくなりつつあった。


数日後の夕刻、藤田は密かに銀座の裏通りにある
ひっそりとしたバーに足を運んだ。店内はまだ客も少なく
ジャズの柔らかい調べが流れる静かな空間だった。テーブルには既に
彼の今日の相手が座っていた。在日アメリカ大使館の二等書記官
アダム・パーカー。同世代で、国際政治の複雑さを理解しようと努める
彼とは数年来の付き合いだった。

「やあ、藤田さん。今日は随分と遅いですね。」

パーカーは、グラスを傾けながら、柔らかな笑顔を見せた。
しかし、その瞳の奥には、どこか警戒の色が宿っているように藤田には見えた。
藤田は軽く頭を下げ、向かいの席に腰を下ろした。

「失礼しました、パーカーさん。近頃は、何かと忙殺されまして。」

藤田は疲れた声で答えると、マスターにウィスキーを注文した。
乾いた喉を潤すために、氷の入ったグラスに注がれる
琥珀色の液体をじっと見つめる。

互いに近況を軽く交わした後、本題に入ると
バーの空気は一変した。パーカーはウィスキーを一口含むと
率直な口調で切り出した。

「藤田さん。最近の貴国の動向について
 ワシントンは非常に懸念を抱いています。
 特に、貴国がドイツ、イタリアとの同盟へと傾倒していること
 そして南方資源地帯への強い関心を示していることについて、です。」

パーカーの言葉は、単なる外交辞令ではなかった。
それは、米国政府の明確な警告を含んでいた。

「貴国の南方進出は、太平洋における我々の国益を直接脅かす行為です。
 もし貴国が、武力をもってその強行に及べば
 米国は断固たる措置を取らざるを得ないでしょう。
 それは、経済制裁に始まり、場合によっては…戦争へも発展しかねません」

パーカーは言葉を濁したが、その視線は雄弁だった。
軍事的な衝突の可能性を暗に示している。
藤田は、胸の奥で冷たいものが広がるのを感じた。

「親日家の私としては、そのような事態はとりたくはない。
 本当に。貴国とは、平和的な関係を維持したいと心から願っています。
 しかし、我が国の損益を考えれば、そうならざるを得ないでしょう。
 そうならないように、期待していますよ、藤田さん。」

パーカーの言葉には、個人的な感情と国家の論理が複雑に絡み合っていた。
彼は、藤田への友情と、日本への理解を示しつつも
アメリカの国益を最優先するという、揺るぎない意思を明確に伝えてきた。

藤田は、その言葉の重みを痛感した。アメリカの警告は
これまでになく明確なものだった。外交による解決の道は
もはや風前の灯火だ。彼の胸には、政府内の強硬派の勢いに抗しきれない己の無力さと
祖国が歩もうとしている破滅的な道への深い絶望が募っていった。
グラスの中のウィスキーが
彼の心の奥底にある暗闇を映しているかのようだった。

「私たちは、一体どこへ向かっているのでしょう…」

藤田は、絞り出すような声で呟いた。パーカーはただ
静かに彼の言葉を受け止めるだけだった。バーの奥から聞こえるジャズの音色は
やがて来る嵐の前の静けさのように、寂しく響いていた。


同じ週末、横須賀の海軍航空隊基地は、珍しく静寂に包まれていた。
休日で多くの隊員が外出している中
山岡健一は、隊舎の自室で一人、静かに故郷の写真を眺めていた。

写真は、彼の故郷である瀬戸内海の、小さな漁村の風景だった。
穏やかな陽光の下、波がキラキラと輝き、遠くには緑豊かな島々が連なっている。
写真の中には、にこやかに手を振る彼の両親の姿が写っていた。
父は漁師で、逞しい腕をしていた。母はいつも優しい笑顔で、彼を見送ってくれた。

その平和な風景は、今、彼が身を置く軍隊の日常とは
あまりにもかけ離れていた。数日前、ラジオから流れたドイツの戦勝報告。
そして、同僚たちが口々に叫ぶ「鬼畜米英を叩き潰す」という言葉。
それは、彼の胸に漠然とした不安を広げていた。

「本当にこの選択が正しいのか?」

彼の自問自答は、誰にも言えない秘密の感情だった。パイロットとして
彼は国の命令に従い、敵と戦う義務がある。
しかし、その戦いの先に、故郷の穏やかな風景が
失われるのではないかという恐怖が、彼の心を締め付けていた。

彼は、指先で写真の風景をそっと撫でた。
故郷の匂い、潮風の感触、家族の声。それら全てが
これから始まるかもしれない戦争によって
奪われてしまうのではないか。そんな悪寒が走った。

「もし、この平和が、二度と戻らないものになってしまったら…」

彼の脳裏には、故郷の穏やかな風景が
次第に遠ざかっていくような感覚がよぎった。
それは、まだ見ぬ未来の予感。しかし、その予感は、確かな重みをもって
彼の胸にのしかかっていた。山岡は、写真を胸に抱き締め
静かに目を閉じた。彼の心は、高揚と不安、期待と恐怖の間で
激しく揺れ動いていた。この感情の渦から逃れる術は、彼にはなかった。
ただ、来るべき運命に身を委ねるしかない。
空の青さは、どこまでも遠く、彼の心を見透かすようだった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

世界はあるべき姿へ戻される 第二次世界大戦if戦記

颯野秋乃
歴史・時代
1929年に起きた、世界を巻き込んだ大恐慌。世界の大国たちはそれからの脱却を目指し、躍起になっていた。第一次世界大戦の敗戦国となったドイツ第三帝国は多額の賠償金に加えて襲いかかる恐慌に国の存続の危機に陥っていた。援助の約束をしたアメリカは恐慌を理由に賠償金の支援を破棄。フランスは、自らを救うために支払いの延期は認めない姿勢を貫く。 ドイツ第三帝国は自らの存続のために、世界に隠しながら軍備の拡張に奔走することになる。 また、極東の国大日本帝国。関係の悪化の一途を辿る日米関係によって受ける経済的打撃に苦しんでいた。 その解決法として提案された大東亜共栄圏。東南アジア諸国及び中国を含めた大経済圏、生存圏の構築に力を注ごうとしていた。 この小説は、ドイツ第三帝国と大日本帝国の2視点で進んでいく。現代では有り得なかった様々なイフが含まれる。それを楽しんで貰えたらと思う。 またこの小説はいかなる思想を賛美、賞賛するものでは無い。 この小説は現代とは似て非なるもの。登場人物は史実には沿わないので悪しからず… 大日本帝国視点は都合上休止中です。気分により再開するらもしれません。 【重要】 不定期更新。超絶不定期更新です。

戦神の星・武神の翼 ~ もしも日本に2000馬力エンジンが最初からあったなら

もろこし
歴史・時代
架空戦記ファンが一生に一度は思うこと。 『もし日本に最初から2000馬力エンジンがあったなら……』 よろしい。ならば作りましょう! 史実では中途半端な馬力だった『火星エンジン』を太平洋戦争前に2000馬力エンジンとして登場させます。そのために達成すべき課題を一つ一つ潰していく開発ストーリーをお送りします。 そして火星エンジンと言えば、皆さんもうお分かりですね。はい『一式陸攻』の運命も大きく変わります。 しかも史実より遙かに強力になって、さらに1年早く登場します。それは戦争そのものにも大きな影響を与えていきます。 え?火星エンジンなら『雷電』だろうって?そんなヒコーキ知りませんw お楽しみください。

日英同盟不滅なり

竹本田重朗
歴史・時代
世界は二度目の世界大戦に突入した。ヒトラー率いるナチス・ドイツがフランス侵攻を開始する。同時にスターリン率いるコミンテルン・ソビエトは満州に侵入した。ヨーロッパから極東まで世界を炎に包まれる。悪逆非道のファシストと共産主義者に正義の鉄槌を下せ。今こそ日英同盟が島国の底力を見せつける時だ。 ※超注意書き※ 1.政治的な主張をする目的は一切ありません 2.そのため政治的な要素は「濁す」又は「省略」することがあります 3.あくまでもフィクションのファンタジーの非現実です 4.そこら中に無茶苦茶が含まれています 5.現実的に存在する如何なる国家や地域、団体、人物と関係ありません 以上をご理解の上でお読みください

征空決戦艦隊 ~多載空母打撃群 出撃!~

蒼 飛雲
歴史・時代
 ワシントン軍縮条約、さらにそれに続くロンドン軍縮条約によって帝国海軍は米英に対して砲戦力ならびに水雷戦力において、決定的とも言える劣勢に立たされてしまう。  その差を補うため、帝国海軍は航空戦力にその活路を見出す。  そして、昭和一六年一二月八日。  日本は米英蘭に対して宣戦を布告。  未曾有の国難を救うべく、帝国海軍の艨艟たちは抜錨。  多数の艦上機を搭載した新鋭空母群もまた、強大な敵に立ち向かっていく。

土方歳三ら、西南戦争に参戦す

山家
歴史・時代
 榎本艦隊北上せず。  それによって、戊辰戦争の流れが変わり、五稜郭の戦いは起こらず、土方歳三は戊辰戦争の戦野を生き延びることになった。  生き延びた土方歳三は、北の大地に屯田兵として赴き、明治初期を生き抜く。  また、五稜郭の戦い等で散った他の多くの男達も、史実と違えた人生を送ることになった。  そして、台湾出兵に土方歳三は赴いた後、西南戦争が勃発する。  土方歳三は屯田兵として、そして幕府歩兵隊の末裔といえる海兵隊の一員として、西南戦争に赴く。  そして、北の大地で再生された誠の旗を掲げる土方歳三の周囲には、かつての新選組の仲間、永倉新八、斎藤一、島田魁らが集い、共に戦おうとしており、他にも男達が集っていた。 (「小説家になろう」に投稿している「新選組、西南戦争へ」の加筆修正版です) 

【架空戦記】炎立つ真珠湾

糸冬
歴史・時代
一九四一年十二月八日。 日本海軍による真珠湾攻撃は成功裡に終わった。 さらなる戦果を求めて第二次攻撃を求める声に対し、南雲忠一司令は、歴史を覆す決断を下す。 「吉と出れば天啓、凶と出れば悪魔のささやき」と内心で呟きつつ……。

劉禅が勝つ三国志

みらいつりびと
歴史・時代
中国の三国時代、炎興元年(263年)、蜀の第二代皇帝、劉禅は魏の大軍に首府成都を攻められ、降伏する。 蜀は滅亡し、劉禅は幽州の安楽県で安楽公に封じられる。 私は道を誤ったのだろうか、と後悔しながら、泰始七年(271年)、劉禅は六十五歳で生涯を終える。 ところが、劉禅は前世の記憶を持ったまま、再び劉禅として誕生する。 ときは建安十二年(207年)。 蜀による三国統一をめざし、劉禅のやり直し三国志が始まる。 第1部は劉禅が魏滅の戦略を立てるまでです。全8回。 第2部は劉禅が成都を落とすまでです。全12回。 第3部は劉禅が夏候淵軍に勝つまでです。全11回。 第4部は劉禅が曹操を倒し、新秩序を打ち立てるまで。全8回。第39話が全4部の最終回です。

勇者の如く倒れよ ~ ドイツZ計画 巨大戦艦たちの宴

もろこし
歴史・時代
とある豪華客船の氷山事故をきっかけにして、第一次世界大戦前にレーダーとソナーが開発された世界のお話です。 潜水艦や航空機の脅威が激減したため、列強各国は超弩級戦艦の建造に走ります。史実では実現しなかったドイツのZ計画で生み出された巨艦たちの戦いと行く末をご覧ください。

処理中です...