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隠された牙
日吉台
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春とは名ばかりの、冷たい風が吹き荒れる
1945年3月下旬の徳山沖。瀬戸内海の穏やかな水面も
この日ばかりは重苦しい鉛色に染まっていた。
秘密裡に整備が進む日本海軍の残存艦艇、特に、奇跡的に温存された空母群の巨体が
まるで幽霊船のように闇の中に浮かび上がっている。
しかし、その威容とは裏腹に、艦隊全体を覆うのは
言葉にできないほどの重苦しい沈黙と、迫りくる終焉への予感だった。
この日、日吉台の厳重な警備下に置かれた海軍施設の一室では
大日本帝国の命運をかけた最後の御前会議が開かれていた。
畳敷きの広間には、陸海軍の最高幹部たちが居並び、顔をしかめていた。
誰もが分かっていた。この国の未来が、あと数ヶ月、いや数週間で決まることを。
「……沖縄戦況は、絶望的と言わざるを得ません」
重苦しい沈黙を破ったのは、軍令部作戦課長の声だった。
資料が配られ、出席者たちの視線がそれに落ちる。
米軍の猛攻により、沖縄の防衛線は既に限界に達しつつあった。
玉砕は時間の問題であり、次なる戦場は本土
すなわち日本の心臓部となることが明白だった。
「陸軍は本土決戦に向け
全兵力を動員し、決号作戦を発動する所存であります」
陸軍参謀総長が、低い声で続ける。その言葉には
もはや勝利への確信ではなく、国土と国民を守るための最後の抵抗への覚悟が滲んでいた。
しかし、海軍からは異論が噴出した。
「本土決戦と申されても、このままでは本土上陸を許すまでもなく
我々は制空権も制海権も失う。
陸上戦力のみで、あの米軍を迎え撃つことなど到底不可能!」
海軍軍令部次長が、机を叩いて声を荒げた。誰もが理解していた。
日本海軍は、度重なる消耗戦でその主力を失い
かつての栄光は見る影もなかった。航空機もパイロットも
燃料さえもが枯渇寸前。この状況で、いかにして「決戦」を挑むのか。
そこで、軍令部作戦課が立案したのが、先の戦いで残存した艦艇
特に戦艦大和を中核とした「菊水作戦」だった。
当初、その案は、大和を囮として沖縄へ突入させ
米艦隊に一矢報いるという、事実上の特攻作戦としての色合いが濃かった。
大和は、その巨体ゆえに航行するだけで燃料を大量に消費する。
復路の燃料は考慮せず、文字通りの「片道切符」であった。
しかし、その提案に対し、海軍航空畑出身の将校たちが
猛然と異を唱えた。その筆頭が、かつて機動部隊を率いた経験を持つ
ある中将だった。彼は、痩せこけた頬を紅潮させ、毅然とした態度で発言した。
「お待ちください! 菊水作戦が
単なる死に場所を求める特攻であるならば、私は断固として反対する!」
場が凍り付いた。特攻は既に神聖化されつつある戦術であり
それを公の場で否定することは、一種のタブーとさえなっていたからだ。
しかし、中将は怯まなかった。
「我が海軍には、まだ翼がある! 奇跡的に温存された空母があるではないか!
瑞鶴、翔鶴、そして、完成すれば世界最大となるはずだった
信濃までもが、今工事を進めながら徳山沖に秘匿されている!」
彼の言葉に、周囲の将校たちの顔にわずかな動揺が走る。
彼らは、空母群が温存されていることは知っていたが
それが「使える」戦力として認識されていなかった。
「信濃は未完成。瑞鶴、翔鶴も度重なる被弾で満身創痍。天城、葛城も然り。
艦載機もパイロットも不足している現状で、いかにして空母を使うというのか!」
懐疑的な声が上がる。中将は、それでも熱弁を振るった。
「確かに、満身創痍である。だが、我々は最後の総力を挙げて整備し
再編を急いだ。第601海軍航空隊、第653海軍航空隊の若者たちが
昼夜を問わず訓練を重ねている! 基地航空隊の203空、306空も
我々と連携すれば、これまでとは異なる戦い方ができるはずだ!」
彼は続けた。
「我々は、単なる肉弾となって敵に突っ込むのではない。
これは、正規の航空決戦である! 米機動部隊を誘い出し
我が空母群の艦載機、そして本土の基地航空隊
陸軍航空隊の総力を結集して、一斉に叩くのだ!」
「目標は、米空母だ。空母を沈めれば、奴らの航空攻撃は止まる。
制空権を奪い返せば、大和の巨砲も生きる。沖縄への増援を断ち
本土防衛のための時間稼ぎをする。そして、奴らに多大な損害を与え
戦意を挫くのだ! これが、我々が最後にできる
唯一にして最善の、そして勝ちうる可能性を追求する戦いだ!」
彼の言葉は、会議室に新たな空気を吹き込んだ。単なる玉砕ではない、
「勝利の可能性」という言葉に、将校たちの目に微かな光が宿る。
しかし、それには極めて厳しい条件が付随した。
「燃料は、片道分しか捻出できぬ。帰還は、ほぼ不可能となる」
軍需担当者が、苦渋の表情で告げる。中将は、静かに頷いた。
「承知している。だが、それは特攻とは違う。
我々は、生きて帰る術を模索し、最後の最後まで戦い抜く。
そして、たとえ叶わずとも、その戦いの結果を
必ず次の世代に繋ぐ。これが、我々が最後に果たせる使命だ」
長い沈黙が会議室を支配した。天皇の「国体護持」という大義名分の下
最終的にこの「最後の機動部隊決戦」としての菊水作戦が承認された。
それは、単なる「特攻」ではない。日本海軍が持つ最後の総力を挙げた
正規の航空決戦としての戦いが、この時、決定されたのだった。
会議が終わり、将校たちは重い足取りで部屋を出ていく。
日吉台から見える横須賀に停泊する艦隊を見下ろす高台に立った中将は
冷たい風に髪をなびかせながら、遠くを見つめていた。
彼の脳裏には、自分が指揮しそして帰らなかった若き搭乗員たちの顔が浮かんでいた。
彼らに託した、死ではない。祖国と未来を守るための希望の翼だった。
信濃の巨大な影が、夜明け前の徳山湾の薄明かりの中にぼんやりと浮かび上がる。
未完成の巨艦は、この作戦の象徴でもあった。
果たして、この最後の「正規の航空決戦」は
日本の運命を変えることができるのだろうか。誰もがそれを信じたいと願いながらも
その道のりの厳しさを痛感していた
1945年3月下旬の徳山沖。瀬戸内海の穏やかな水面も
この日ばかりは重苦しい鉛色に染まっていた。
秘密裡に整備が進む日本海軍の残存艦艇、特に、奇跡的に温存された空母群の巨体が
まるで幽霊船のように闇の中に浮かび上がっている。
しかし、その威容とは裏腹に、艦隊全体を覆うのは
言葉にできないほどの重苦しい沈黙と、迫りくる終焉への予感だった。
この日、日吉台の厳重な警備下に置かれた海軍施設の一室では
大日本帝国の命運をかけた最後の御前会議が開かれていた。
畳敷きの広間には、陸海軍の最高幹部たちが居並び、顔をしかめていた。
誰もが分かっていた。この国の未来が、あと数ヶ月、いや数週間で決まることを。
「……沖縄戦況は、絶望的と言わざるを得ません」
重苦しい沈黙を破ったのは、軍令部作戦課長の声だった。
資料が配られ、出席者たちの視線がそれに落ちる。
米軍の猛攻により、沖縄の防衛線は既に限界に達しつつあった。
玉砕は時間の問題であり、次なる戦場は本土
すなわち日本の心臓部となることが明白だった。
「陸軍は本土決戦に向け
全兵力を動員し、決号作戦を発動する所存であります」
陸軍参謀総長が、低い声で続ける。その言葉には
もはや勝利への確信ではなく、国土と国民を守るための最後の抵抗への覚悟が滲んでいた。
しかし、海軍からは異論が噴出した。
「本土決戦と申されても、このままでは本土上陸を許すまでもなく
我々は制空権も制海権も失う。
陸上戦力のみで、あの米軍を迎え撃つことなど到底不可能!」
海軍軍令部次長が、机を叩いて声を荒げた。誰もが理解していた。
日本海軍は、度重なる消耗戦でその主力を失い
かつての栄光は見る影もなかった。航空機もパイロットも
燃料さえもが枯渇寸前。この状況で、いかにして「決戦」を挑むのか。
そこで、軍令部作戦課が立案したのが、先の戦いで残存した艦艇
特に戦艦大和を中核とした「菊水作戦」だった。
当初、その案は、大和を囮として沖縄へ突入させ
米艦隊に一矢報いるという、事実上の特攻作戦としての色合いが濃かった。
大和は、その巨体ゆえに航行するだけで燃料を大量に消費する。
復路の燃料は考慮せず、文字通りの「片道切符」であった。
しかし、その提案に対し、海軍航空畑出身の将校たちが
猛然と異を唱えた。その筆頭が、かつて機動部隊を率いた経験を持つ
ある中将だった。彼は、痩せこけた頬を紅潮させ、毅然とした態度で発言した。
「お待ちください! 菊水作戦が
単なる死に場所を求める特攻であるならば、私は断固として反対する!」
場が凍り付いた。特攻は既に神聖化されつつある戦術であり
それを公の場で否定することは、一種のタブーとさえなっていたからだ。
しかし、中将は怯まなかった。
「我が海軍には、まだ翼がある! 奇跡的に温存された空母があるではないか!
瑞鶴、翔鶴、そして、完成すれば世界最大となるはずだった
信濃までもが、今工事を進めながら徳山沖に秘匿されている!」
彼の言葉に、周囲の将校たちの顔にわずかな動揺が走る。
彼らは、空母群が温存されていることは知っていたが
それが「使える」戦力として認識されていなかった。
「信濃は未完成。瑞鶴、翔鶴も度重なる被弾で満身創痍。天城、葛城も然り。
艦載機もパイロットも不足している現状で、いかにして空母を使うというのか!」
懐疑的な声が上がる。中将は、それでも熱弁を振るった。
「確かに、満身創痍である。だが、我々は最後の総力を挙げて整備し
再編を急いだ。第601海軍航空隊、第653海軍航空隊の若者たちが
昼夜を問わず訓練を重ねている! 基地航空隊の203空、306空も
我々と連携すれば、これまでとは異なる戦い方ができるはずだ!」
彼は続けた。
「我々は、単なる肉弾となって敵に突っ込むのではない。
これは、正規の航空決戦である! 米機動部隊を誘い出し
我が空母群の艦載機、そして本土の基地航空隊
陸軍航空隊の総力を結集して、一斉に叩くのだ!」
「目標は、米空母だ。空母を沈めれば、奴らの航空攻撃は止まる。
制空権を奪い返せば、大和の巨砲も生きる。沖縄への増援を断ち
本土防衛のための時間稼ぎをする。そして、奴らに多大な損害を与え
戦意を挫くのだ! これが、我々が最後にできる
唯一にして最善の、そして勝ちうる可能性を追求する戦いだ!」
彼の言葉は、会議室に新たな空気を吹き込んだ。単なる玉砕ではない、
「勝利の可能性」という言葉に、将校たちの目に微かな光が宿る。
しかし、それには極めて厳しい条件が付随した。
「燃料は、片道分しか捻出できぬ。帰還は、ほぼ不可能となる」
軍需担当者が、苦渋の表情で告げる。中将は、静かに頷いた。
「承知している。だが、それは特攻とは違う。
我々は、生きて帰る術を模索し、最後の最後まで戦い抜く。
そして、たとえ叶わずとも、その戦いの結果を
必ず次の世代に繋ぐ。これが、我々が最後に果たせる使命だ」
長い沈黙が会議室を支配した。天皇の「国体護持」という大義名分の下
最終的にこの「最後の機動部隊決戦」としての菊水作戦が承認された。
それは、単なる「特攻」ではない。日本海軍が持つ最後の総力を挙げた
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会議が終わり、将校たちは重い足取りで部屋を出ていく。
日吉台から見える横須賀に停泊する艦隊を見下ろす高台に立った中将は
冷たい風に髪をなびかせながら、遠くを見つめていた。
彼の脳裏には、自分が指揮しそして帰らなかった若き搭乗員たちの顔が浮かんでいた。
彼らに託した、死ではない。祖国と未来を守るための希望の翼だった。
信濃の巨大な影が、夜明け前の徳山湾の薄明かりの中にぼんやりと浮かび上がる。
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