異聞坊ノ岬沖海戦      此れは特攻作戦に非ず

みにみ

文字の大きさ
2 / 35
隠された牙

徳山沖

しおりを挟む
徳山沖の瀬戸内海は、春の盛りにもかかわらず
その水面には重く冷たい空気が漂っていた。呉という東洋一の軍港から少し離れた
島の影に隠された静かな入り江に、日本の最後の希望と絶望が秘匿されていた。
そこには、世界最大の戦艦と謳われた大和が
まるで深海の怪物のごとく鎮座し、その周囲には
本来であれば太平洋の藻屑となっていたはずの航空母艦群――
瑞鶴、翔鶴、そして半完成ながらも巨体を誇る信濃
さらに中型空母の天城と葛城が、ひっそりと身を潜めていた。

「奇跡」という言葉は、本来軽々しく使うべきではない。
だが、この艦隊の存在は、まさに奇跡としか言いようがなかった。
マリアナ沖で、レイテ沖で、幾度となく壊滅的な打撃を受けながらも
これほどの航空戦力が、この1945年3月下旬まで温存され得たこと自体が
信じられない事態だったのだ。それは、本土決戦を見据えた軍令部の周到な計画か
あるいは単なる運命のいたずらか。
いずれにせよ、彼らは今、最後の任務を課せられようとしていた。

艦隊の整備は、極秘裏に、そして急ピッチで進められていた。
夜間は偽装網でその姿を隠し、昼間も作業員の数を最小限に抑え
通常の軍港活動を装った。しかし、艦内では文字通り昼夜を問わず
最後の力が注ぎ込まれていた。

「おい、そこの弁! もっと締めろ! 油が漏れてるぞ!」
「すみません! これが限界です、もう工具もろくに……」

大和の主機室の熱気に包まれた空間では
痩せこけた機関兵たちが、黒い油と汗にまみれながら
必死にスクリューを回すタービン機関の調整に当たっていた。
配管は錆びつき、計器類も満身創痍。予備部品も底を尽きかけていたが
彼らは残された全ての資材と技術を駆使して
機械の息吹を取り戻そうとしていた。大和艦長・有賀幸作大佐は
自らも工具を手に取り、現場の兵士たちを鼓舞していた。
その顔には、疲労と覚悟が深く刻まれていた。

飛行甲板では、整備兵たちがボロボロの作業服で
艦載機の最終チェックを行っていた。第601海軍航空隊と
第653海軍航空隊の零戦や彗星、天山が所狭しと並べられている。
塗装は剥げ落ち、機体には無数の銃弾痕が残る。だが
その一機一機が、再び大空を舞うための最後の整備を受けていた。

「これで、本当に飛ぶのかねぇ……」

瑞鶴艦長・貝塚武男大佐が、修理中の機体を見つめながら独りごちる。
彼の隣にいた若い整備兵は、無言で機体のネジを締め上げていた。
彼らに与えられた任務はただ一つ。この朽ちかけた機体を、もう一度、戦場に送り出すこと。

最も深刻な問題は、やはり燃料だった。徳山沖には
最後の決戦に必要とされる重油が、わずかばかり備蓄されていた。
それは、本土決戦において、海軍の航空機や特殊潜航艇を動かすための
最終備蓄を、無理やり転用したものだった。
つまり、この燃料を使い切れば
二度と日本の艦艇が自力で動くことはなくなるだろう。

「復路の燃料は、一切考慮しない」

上官のその言葉は、乗組員たちの胸に重くのしかかった。
「片道切符」。その言葉が持つ意味は、誰の目にも明らかだった。
それは、生きては帰れない、死を前提とした作戦を意味しているように思えた。

しかし、今回の「菊水作戦」は、単なる死に場所を求める特攻作戦とは
明確に一線を画すと、会議で決定されていた。
このことは、直ちに各艦艇、各航空隊へと伝達された。

「諸君、今回の作戦は、決して玉砕を強いるものではない!」

大和の艦橋で、第二艦隊司令長官・伊藤整一中将が訓示を述べた。
その声は、重厚な船体に響き渡り、乗組員たちの耳に届く。
「我々に与えられた使命は、本土防衛のための時間稼ぎであり
 米軍に多大な損害を与え、奴らの戦意を挫くことにある。
 そのために、我が艦隊は全力を出し尽くす! 我が空母の翼は
 米軍の傲慢を打ち砕くための、最後の鋭鋒である!」

彼の言葉は、将兵たちの間に波紋を広げた。特攻の覚悟を強いられてきた若者たちは
その言葉に戸惑いを覚えた。しかし、ベテラン兵たちは
その言葉の裏にある「生きて帰り、報告する」という
わずかな、しかし確かな希望を感じ取っていた。

「勝ちうる可能性を追求する最後の戦い」

その言葉は、彼らの心に強く響いた。
それは、単なる死への覚悟ではなく、あくまで勝利を目指すという
軍人としての最後の矜持を示す言葉だった。

信濃の艦内では、急ピッチで内装工事が進められていた。
本来戦艦として設計され途中で変わった巨体は、半完成のままだ。
しかし、その広大な格納庫には、これまで秘匿されてきた
大量の零戦や彗星が搭載され、臨時の整備場と化していた。

「この信濃は、まだ実戦経験がない。だが、その巨体こそが、多くの機体を運ぶ最後の砦となる」

信濃艦長・阿部俊雄大佐が、整備中の搭乗員たちに語りかける。
彼らは、未完成艦ゆえの不安を抱えながらも
この巨艦が多くの仲間を戦場に送り出せるという事実に、かすかな希望を見出していた。
大和型の重装甲を受け継ぐ信濃なら耐え切れるのではないかとも希望を抱く

各空母の格納庫では、第601空司令・森田隆義大佐と
第653空司令・植木貞夫大佐の指揮の下、搭乗員たちが連日連夜
猛特訓を重ねていた。練度不足は深刻だった。
着艦フックがワイヤーを捕らえられず、甲板に突っ込む機体もあれば、
編隊飛行中に衝突しそうになることもあった。だが、彼らは諦めなかった。

「もう時間はない! 一度でも多く飛べ! 一発でも多く当てろ!」

熟練の教官が、喉を枯らして叫ぶ。彼らの指導は厳しく
時には感情的になったが、それは若者たちに生き延びてほしい
そして戦果を挙げてほしいという、切なる願いの表れだった。
パイロットたちは、疲労困憊の体で、それでも必死に操縦桿を握り続けた。
彼らは知っていた。自分たちがこの艦隊の、そして祖国の最後の翼なのだと。

ある夜、瑞鶴の飛行甲板で、若い搭乗員が夜空を見上げていた。
故郷の空とは違う、重く厚い雲が
まるで未来を暗示するかのように垂れ込めている。
彼は懐から、幼い妹が描いた拙い絵を取り出し、そっと撫でた。

「……生きて帰るんだ」

彼は誓った。単なる玉砕ではない。勝ちうる可能性を追求し
この戦いを未来へと繋ぐ。そのために、自分は今、この空にいるのだと。

艦隊全体に漲る空気は、悲壮感だけではなかった。
そこには、絶望の淵から這い上がろうとする、日本人の最後の意地と
誇りが宿っていた。燃料は片道分。だが、その一滴一滴が
未来への道しるべとなる。彼らは、単なる死に場所を求める特攻隊ではない。
「全力を出し尽くす最後の決戦」に挑む、誇り高き戦士たちだった。
沖縄の空へ、そしてその先の未来へ
彼らの最後の翼が今、まさに羽ばたこうとしていた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

世界はあるべき姿へ戻される 第二次世界大戦if戦記

颯野秋乃
歴史・時代
1929年に起きた、世界を巻き込んだ大恐慌。世界の大国たちはそれからの脱却を目指し、躍起になっていた。第一次世界大戦の敗戦国となったドイツ第三帝国は多額の賠償金に加えて襲いかかる恐慌に国の存続の危機に陥っていた。援助の約束をしたアメリカは恐慌を理由に賠償金の支援を破棄。フランスは、自らを救うために支払いの延期は認めない姿勢を貫く。 ドイツ第三帝国は自らの存続のために、世界に隠しながら軍備の拡張に奔走することになる。 また、極東の国大日本帝国。関係の悪化の一途を辿る日米関係によって受ける経済的打撃に苦しんでいた。 その解決法として提案された大東亜共栄圏。東南アジア諸国及び中国を含めた大経済圏、生存圏の構築に力を注ごうとしていた。 この小説は、ドイツ第三帝国と大日本帝国の2視点で進んでいく。現代では有り得なかった様々なイフが含まれる。それを楽しんで貰えたらと思う。 またこの小説はいかなる思想を賛美、賞賛するものでは無い。 この小説は現代とは似て非なるもの。登場人物は史実には沿わないので悪しからず… 大日本帝国視点は都合上休止中です。気分により再開するらもしれません。 【重要】 不定期更新。超絶不定期更新です。

土方歳三ら、西南戦争に参戦す

山家
歴史・時代
 榎本艦隊北上せず。  それによって、戊辰戦争の流れが変わり、五稜郭の戦いは起こらず、土方歳三は戊辰戦争の戦野を生き延びることになった。  生き延びた土方歳三は、北の大地に屯田兵として赴き、明治初期を生き抜く。  また、五稜郭の戦い等で散った他の多くの男達も、史実と違えた人生を送ることになった。  そして、台湾出兵に土方歳三は赴いた後、西南戦争が勃発する。  土方歳三は屯田兵として、そして幕府歩兵隊の末裔といえる海兵隊の一員として、西南戦争に赴く。  そして、北の大地で再生された誠の旗を掲げる土方歳三の周囲には、かつての新選組の仲間、永倉新八、斎藤一、島田魁らが集い、共に戦おうとしており、他にも男達が集っていた。 (「小説家になろう」に投稿している「新選組、西南戦争へ」の加筆修正版です) 

裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する

克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。

暁のミッドウェー

三笠 陣
歴史・時代
 一九四二年七月五日、日本海軍はその空母戦力の総力を挙げて中部太平洋ミッドウェー島へと進撃していた。  真珠湾以来の歴戦の六空母、赤城、加賀、蒼龍、飛龍、翔鶴、瑞鶴が目指すのは、アメリカ海軍空母部隊の撃滅。  一方のアメリカ海軍は、暗号解読によって日本海軍の作戦を察知していた。  そしてアメリカ海軍もまた、太平洋にある空母部隊の総力を結集して日本艦隊の迎撃に向かう。  ミッドウェー沖で、レキシントン、サラトガ、ヨークタウン、エンタープライズ、ホーネットが、日本艦隊を待ち構えていた。  日米数百機の航空機が入り乱れる激戦となった、日米初の空母決戦たるミッドウェー海戦。  その幕が、今まさに切って落とされようとしていた。 (※本作は、「小説家になろう」様にて連載中の同名の作品を転載したものです。)

九九式双発艦上攻撃機

ypaaaaaaa
歴史・時代
欧米列強に比べて生産量に劣る日本にとって、爆撃機と雷撃機の統合は至上命題であった。だが、これを実現するためにはエンジンの馬力が足らない。そこで海軍航空技術廠は”双発の”艦上攻撃機の開発を開始。これをものにしして、日本海軍は太平洋に荒波を疾走していく。

対米戦、準備せよ!

湖灯
歴史・時代
大本営から特命を受けてサイパン島に視察に訪れた柏原総一郎大尉は、絶体絶命の危機に過去に移動する。 そして21世紀からタイムリーㇷ゚して過去の世界にやって来た、柳生義正と結城薫出会う。 3人は協力して悲惨な負け方をした太平洋戦争に勝つために様々な施策を試みる。 小説家になろうで、先行配信中!

戦国終わらず ~家康、夏の陣で討死~

川野遥
歴史・時代
長きに渡る戦国時代も大坂・夏の陣をもって終わりを告げる …はずだった。 まさかの大逆転、豊臣勢が真田の活躍もありまさかの逆襲で徳川家康と秀忠を討ち果たし、大坂の陣の勝者に。果たして彼らは新たな秩序を作ることができるのか? 敗北した徳川勢も何とか巻き返しを図ろうとするが、徳川に臣従したはずの大名達が新たな野心を抱き始める。 文治系藩主は頼りなし? 暴れん坊藩主がまさかの活躍? 参考情報一切なし、全てゼロから切り開く戦国ifストーリーが始まる。 更新は週5~6予定です。 ※ノベルアップ+とカクヨムにも掲載しています。

幻の十一代将軍・徳川家基、死せず。長谷川平蔵、田沼意知、蝦夷へ往く。

克全
歴史・時代
 西欧列強に不平等条約を強要され、内乱を誘発させられ、多くの富を収奪されたのが悔しい。  幕末の仮想戦記も考えましたが、徳川家基が健在で、田沼親子が権力を維持していれば、もっと余裕を持って、開国準備ができたと思う。  北海道・樺太・千島も日本の領地のままだっただろうし、多くの金銀が国外に流出することもなかったと思う。  清国と手を組むことも出来たかもしれないし、清国がロシアに強奪された、シベリアと沿海州を日本が手に入れる事が出来たかもしれない。  色々真剣に検討して、仮想の日本史を書いてみたい。 一橋治済の陰謀で毒を盛られた徳川家基であったが、奇跡的に一命をとりとめた。だが家基も父親の十代将軍:徳川家治も誰が毒を盛ったのかは分からなかった。家基は田沼意次を疑い、家治は疑心暗鬼に陥り田沼意次以外の家臣が信じられなくなった。そして歴史は大きく動くことになる。 印旛沼開拓は成功するのか? 蝦夷開拓は成功するのか? オロシャとは戦争になるのか? 蝦夷・千島・樺太の領有は徳川家になるのか? それともオロシャになるのか? 西洋帆船は導入されるのか? 幕府は開国に踏み切れるのか? アイヌとの関係はどうなるのか? 幕府を裏切り異国と手を結ぶ藩は現れるのか?

処理中です...