10 / 24
10.氷の王太子
しおりを挟む
(ここを訪れるのは何年ぶりかしら。やはり威厳が違うわ)
離婚が成立してから数日後。
用意していた隠れ家に篭り、傷を癒したアイリスは、この国で最も高貴な人々が住まう場所ーー王宮を訪れていた。アバンドール家に嫁いで平民となってからは、一度も訪れたことはなかったが、遡れば王家に連なる古い家柄の出なのだ。幼い頃は、何度か王宮の門を潜ったこともある。
意を決してやってきたアイリスではあるが、荘厳な扉の前で怯んでしまいそうになる。中にいる人物のことを思えばなおさらだ。が、怖気付いている場合ではないと、アイリスは自分を叱咤した。
「どうぞ中へ、レディ」
侍従と近衛兵に礼を告げると、緊張を押し殺してアイリスは部屋の中へ足を踏み入れる。
(一人で生きるためのチャンスなのよ。さあ、自信を持つの)
顔をまっすぐあげ、内心の不安など微塵も感じさせない表情を作り上げる。伝令を出してすぐに、来訪を許すと答えが来たのだから、望みが無いわけでは無いだろう。
「久しぶりだな。まさか貴女から訪ねてきてくれるとは」
秀麗な顔に微笑をたたえ、アイリスを出迎えたのは、この国が誇る次代の国王、ルシフェル王太子である。
常に冷静沈着、怜悧な頭脳とその冴えざえとした美貌から、氷の王太子と評される若者。
そんな世間の評価を聞くたび、幼い頃はあんなに可愛かったのに…と不思議に思う。ロイと結婚してから一度も会っていないのだが、その間に随分変わってしまったようだ。
「ご無沙汰しております、王太子殿下」
「畏まらなくていい。僕と貴女は幼馴染ではないか」
幼馴染…皮肉なものね、と自重気味な気分がアイリスの心に浮かぶ。幼馴染に夫を奪われた自分が、幼馴染という存在を頼ってここにいるのだから。
けれど、頼れるものは何でも頼ると決めたのだ。実家の父母も弟も、喜んで迎えてくれるだろうが、一人で自立して生きたいのだった。
「ありがとうございます。もう随分と遠い日のように感じますわね。ともに田園の中を走り回ったあの日が」
懐かしさのあまり口に出したが、すぐにアイリスは後悔した。
ルシフェルは、軽々しく情に訴えることを最も嫌うという。思い出を利用して自分に取り入る浅ましい人間、そう思われてしまったのではないか。
けれどアイリスの不安をよそに、ルシフェルは懐かしそうに目を細め、静かにつぶやいた。
「そうかな。僕には昨日のことのよう思えるよ。僕は…」
何か言いかけて、口をつぐむ。
鋭利な刃物のように言葉を操るこの男が、アイリスのことにだけは唯一煮え切らなくなる。だが当のアイリスは知りもせず、王太子の周りの者たちはみな、密かに不憫に思っているのだった。
「殿下、あの……」
「あっ、ああ、つまりだな、あの日々は私にとっても良い思い出だ。だから貴女は、何も遠慮することなどないんだよ、レディ・アイリス……アバンドール」
ルシフェルにとって、アイリスの名に他の男の家名を付けて呼ぶなど、耐えがたい苦痛だ。だが、気づいた時には他の男と結婚していて、黙って受け入れるしかなかった。そのあたりも、母后から情けないと嘆かれるのだが。
(よかった。世間の噂を聞くと不安だったけれど、殿下は変わっておられないわ)
「ありがとうございます、ルシフェル殿下。でしたらお言葉に甘えて、ひとつ訂正させていただいてもよろしいでしょうか?」
自分は何か言ってはならないことを口にしてしまったのだろうか。アイリスのこととなると、途端に自信を無くす王太子は、気が気ではない。
「訂正?かまわないが……」
ルシフェルの内心などつゆ知らず、正念場だわとアイリスは気を引き締める。
結婚前のことではあるが、妹姫の話し相手兼教師役として仕えないか、とルシフェルは話をくれたことがあった。今も望んでもらえるのなら、ぜひお仕えしたいと伝えなければ。
「ありがとうございます……私、今の名前はアイリス・ド・ラ・グリネッドでございますのよ」
「……え?……え、どういうことだ?旧姓…?」
(ま、まさか!いや、落ち着け、落ち着くんだ。実家を継ぐために姓を戻すとか、可能性は他にもある。だが、だが…)
「ええ。離縁いたしましたの」
「りっ、りっ、離縁っ?!」
離婚が成立してから数日後。
用意していた隠れ家に篭り、傷を癒したアイリスは、この国で最も高貴な人々が住まう場所ーー王宮を訪れていた。アバンドール家に嫁いで平民となってからは、一度も訪れたことはなかったが、遡れば王家に連なる古い家柄の出なのだ。幼い頃は、何度か王宮の門を潜ったこともある。
意を決してやってきたアイリスではあるが、荘厳な扉の前で怯んでしまいそうになる。中にいる人物のことを思えばなおさらだ。が、怖気付いている場合ではないと、アイリスは自分を叱咤した。
「どうぞ中へ、レディ」
侍従と近衛兵に礼を告げると、緊張を押し殺してアイリスは部屋の中へ足を踏み入れる。
(一人で生きるためのチャンスなのよ。さあ、自信を持つの)
顔をまっすぐあげ、内心の不安など微塵も感じさせない表情を作り上げる。伝令を出してすぐに、来訪を許すと答えが来たのだから、望みが無いわけでは無いだろう。
「久しぶりだな。まさか貴女から訪ねてきてくれるとは」
秀麗な顔に微笑をたたえ、アイリスを出迎えたのは、この国が誇る次代の国王、ルシフェル王太子である。
常に冷静沈着、怜悧な頭脳とその冴えざえとした美貌から、氷の王太子と評される若者。
そんな世間の評価を聞くたび、幼い頃はあんなに可愛かったのに…と不思議に思う。ロイと結婚してから一度も会っていないのだが、その間に随分変わってしまったようだ。
「ご無沙汰しております、王太子殿下」
「畏まらなくていい。僕と貴女は幼馴染ではないか」
幼馴染…皮肉なものね、と自重気味な気分がアイリスの心に浮かぶ。幼馴染に夫を奪われた自分が、幼馴染という存在を頼ってここにいるのだから。
けれど、頼れるものは何でも頼ると決めたのだ。実家の父母も弟も、喜んで迎えてくれるだろうが、一人で自立して生きたいのだった。
「ありがとうございます。もう随分と遠い日のように感じますわね。ともに田園の中を走り回ったあの日が」
懐かしさのあまり口に出したが、すぐにアイリスは後悔した。
ルシフェルは、軽々しく情に訴えることを最も嫌うという。思い出を利用して自分に取り入る浅ましい人間、そう思われてしまったのではないか。
けれどアイリスの不安をよそに、ルシフェルは懐かしそうに目を細め、静かにつぶやいた。
「そうかな。僕には昨日のことのよう思えるよ。僕は…」
何か言いかけて、口をつぐむ。
鋭利な刃物のように言葉を操るこの男が、アイリスのことにだけは唯一煮え切らなくなる。だが当のアイリスは知りもせず、王太子の周りの者たちはみな、密かに不憫に思っているのだった。
「殿下、あの……」
「あっ、ああ、つまりだな、あの日々は私にとっても良い思い出だ。だから貴女は、何も遠慮することなどないんだよ、レディ・アイリス……アバンドール」
ルシフェルにとって、アイリスの名に他の男の家名を付けて呼ぶなど、耐えがたい苦痛だ。だが、気づいた時には他の男と結婚していて、黙って受け入れるしかなかった。そのあたりも、母后から情けないと嘆かれるのだが。
(よかった。世間の噂を聞くと不安だったけれど、殿下は変わっておられないわ)
「ありがとうございます、ルシフェル殿下。でしたらお言葉に甘えて、ひとつ訂正させていただいてもよろしいでしょうか?」
自分は何か言ってはならないことを口にしてしまったのだろうか。アイリスのこととなると、途端に自信を無くす王太子は、気が気ではない。
「訂正?かまわないが……」
ルシフェルの内心などつゆ知らず、正念場だわとアイリスは気を引き締める。
結婚前のことではあるが、妹姫の話し相手兼教師役として仕えないか、とルシフェルは話をくれたことがあった。今も望んでもらえるのなら、ぜひお仕えしたいと伝えなければ。
「ありがとうございます……私、今の名前はアイリス・ド・ラ・グリネッドでございますのよ」
「……え?……え、どういうことだ?旧姓…?」
(ま、まさか!いや、落ち着け、落ち着くんだ。実家を継ぐために姓を戻すとか、可能性は他にもある。だが、だが…)
「ええ。離縁いたしましたの」
「りっ、りっ、離縁っ?!」
1,194
あなたにおすすめの小説
彼女よりも幼馴染を溺愛して優先の彼と結婚するか悩む
佐藤 美奈
恋愛
公爵家の広大な庭園。その奥まった一角に佇む白いガゼボで、私はひとり思い悩んでいた。
私の名はニーナ・フォン・ローゼンベルク。名門ローゼンベルク家の令嬢として、若き騎士アンドレ・フォン・ヴァルシュタインとの婚約がすでに決まっている。けれど、その婚約に心からの喜びを感じることができずにいた。
理由はただ一つ。彼の幼馴染であるキャンディ・フォン・リエーヌ子爵令嬢の存在。
アンドレは、彼女がすべてであるかのように振る舞い、いついかなる時も彼女の望みを最優先にする。婚約者である私の気持ちなど、まるで見えていないかのように。
そして、アンドレはようやく自分の至らなさに気づくこととなった。
失われたニーナの心を取り戻すため、彼は様々なイベントであらゆる方法を試みることを決意する。その思いは、ただ一つ、彼女の笑顔を再び見ることに他ならなかった。
幼馴染と夫の衝撃告白に号泣「僕たちは愛し合っている」王子兄弟の関係に私の入る隙間がない!
佐藤 美奈
恋愛
「僕たちは愛し合っているんだ!」
突然、夫に言われた。アメリアは第一子を出産したばかりなのに……。
アメリア公爵令嬢はレオナルド王太子と結婚して、アメリアは王太子妃になった。
アメリアの幼馴染のウィリアム。アメリアの夫はレオナルド。二人は兄弟王子。
二人は、仲が良い兄弟だと思っていたけど予想以上だった。二人の親密さに、私は入る隙間がなさそうだと思っていたら本当になかったなんて……。
【完結】愛しい人、妹が好きなら私は身を引きます。
王冠
恋愛
幼馴染のリュダールと八年前に婚約したティアラ。
友達の延長線だと思っていたけど、それは恋に変化した。
仲睦まじく過ごし、未来を描いて日々幸せに暮らしていた矢先、リュダールと妹のアリーシャの密会現場を発見してしまい…。
書きながらなので、亀更新です。
どうにか完結に持って行きたい。
ゆるふわ設定につき、我慢がならない場合はそっとページをお閉じ下さい。
婚約破棄した王子は年下の幼馴染を溺愛「彼女を本気で愛してる結婚したい」国王「許さん!一緒に国外追放する」
佐藤 美奈
恋愛
「僕はアンジェラと婚約破棄する!本当は幼馴染のニーナを愛しているんだ」
アンジェラ・グラール公爵令嬢とロバート・エヴァンス王子との婚約発表および、お披露目イベントが行われていたが突然のロバートの主張で会場から大きなどよめきが起きた。
「お前は何を言っているんだ!頭がおかしくなったのか?」
アンドレア国王の怒鳴り声が響いて静まった会場。その舞台で親子喧嘩が始まって収拾のつかぬ混乱ぶりは目を覆わんばかりでした。
気まずい雰囲気が漂っている中、婚約披露パーティーは早々に切り上げられることになった。アンジェラの一生一度の晴れ舞台は、婚約者のロバートに台なしにされてしまった。
わたしは夫のことを、愛していないのかもしれない
鈴宮(すずみや)
恋愛
孤児院出身のアルマは、一年前、幼馴染のヴェルナーと夫婦になった。明るくて優しいヴェルナーは、日々アルマに愛を囁き、彼女のことをとても大事にしている。
しかしアルマは、ある日を境に、ヴェルナーから甘ったるい香りが漂うことに気づく。
その香りは、彼女が勤める診療所の、とある患者と同じもので――――?
信じてくれてありがとうと感謝されたが、ただ信じていたわけではない
しがついつか
恋愛
「これからしばらくの間、私はあなたに不誠実な行いをせねばなりません」
茶会で婚約者にそう言われた翌月、とある女性が見目麗しい男性を数名を侍らしているという噂話を耳にした
。
男性達の中には、婚約者もいるのだとか…。
壊れていく音を聞きながら
夢窓(ゆめまど)
恋愛
結婚してまだ一か月。
妻の留守中、夫婦の家に突然やってきた母と姉と姪
何気ない日常のひと幕が、
思いもよらない“ひび”を生んでいく。
母と嫁、そしてその狭間で揺れる息子。
誰も気づきがないまま、
家族のかたちが静かに崩れていく――。
壊れていく音を聞きながら、
それでも誰かを思うことはできるのか。
姉の婚約者と結婚しました。
黒蜜きな粉
恋愛
花嫁が結婚式の当日に逃亡した。
式場には両家の関係者だけではなく、すでに来賓がやってきている。
今さら式を中止にするとは言えない。
そうだ、花嫁の姉の代わりに妹を結婚させてしまえばいいじゃないか!
姉の代わりに辺境伯家に嫁がされることになったソフィア。
これも貴族として生まれてきた者の務めと割り切って嫁いだが、辺境伯はソフィアに興味を示さない。
それどころか指一本触れてこない。
「嫁いだ以上はなんとしても後継ぎを生まなければ!」
ソフィアは辺境伯に振りむいて貰おうと奮闘する。
2022/4/8
番外編完結
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる