その優しい人は、特別なお客様でした。

紬 祥子(まつやちかこ)

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第二章

【第8話】戸惑いに揺れる、心の行方

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 俊輔と手をつないだ、あの日の夜以降。
 亜矢香の胸には、常に小さな戸惑いが渦巻いていた。

 仕事中も、自宅で家事をしている間も、ふとした瞬間に俊輔の穏やかな微笑みや、つながれた手の温もり、そして頬に優しく触れた感触がよみがえる。

(私……どうしたんだろう)

 カフェで働き始めてから――いやそのずっと前から、家族と生活のため仕事に集中してきた。家族への仕送りを送った後は、ほぼ最低限の生活費しか残らない。暮らしはカツカツで、生きていくことだけで精一杯の毎日だったはず。
 当然、恋愛なんて、自分には関係ない世界の話だった。少なくとも、ついこの間まではそう思っていた。

 けれど、俊輔と「お試し」の付き合いを始めてから……特に先日以降は、何かが心の中で確実に変わりつつある。自分のその変化を、亜矢香は自覚せずにはいられなかった。

「桜田さん、最近なんか、すごく雰囲気柔らかくなったね」

 ある日の夜、閉店後の休憩室で着替えている時、三好が呟くようにそう言った。
 思いがけない言葉に、亜矢香はドキリとせざるを得ない。

「えっ……そうですか?」
「うん、お客さんへの接し方とか、自然体になってる感じ。もちろんいい意味でよ。最近何か、いいことあったの?」

 好奇心まじりの冗談めかした口ぶりに、つい目をそらしてしまう。

「い、いえ。特に何もないです」

 慌てて否定したものの、頬にじわりと熱が上るのが、自分でもわかった。

「ほんとに? もしかして、彼氏とかできたんじゃない?」
「……っ」

 とっさに反応を返せなかったことが、三好の想像を確信に近い推測に変えたらしい。

「やっぱり! ね、どんな人なの」
「……そ、その。まだそういう、彼氏とかでは」
「お付き合いし始めってこと? なるほど。桜田さん、ウブそうだもんね。あ、悪い意味じゃないのよ」

 んふふ、と楽しそうに微笑む三好とは対照的に、居たたまれなくなった亜矢香は「すみません、失礼しますっ」と逃げるように休憩室を後にした。

 ――あんなふうに気づかれてしまうくらい、自分は変わってきているのかもしれない。

 考えてみれば、最近はよく笑っているかもしれない、と亜矢香は思った。
 仕事は以前と変わらず忙しいが、気持ちは少し軽い気がする。俊輔と会う日やその翌日は特に、自然と笑みがこぼれているのを時折感じていた。


 帰宅後、夕食と片付けを済ませてからテレビを観ていると、スマホの通知音が鳴った。
 画面を見ると、俊輔からのメッセージが届いている。

『次の休日は、食事をしてから映画に行きませんか。候補は『〇〇』と『△△△』で』

 文面を読んだ途端、心臓が大きく跳ねる。
 先日の散歩で、確かに映画の話は出ていた。けれど、それがこんなに早く実現するとは思っていなかった。

 すぐにでも返信しようと思うのに、指が画面の上で震えてしまう。緊張なのか期待しすぎるせいなのか、どちらとも判断がつかなかった。
 何度か深呼吸してから、ようやく返信メッセージを打ち始める。

『はい、ぜひ。できれば『△△△』が観たいです。楽しみにしています』

 送信ボタンを押して完了表示が出た瞬間、胸の奥が甘い期待でざわめいた。

(これって……本格的なデート、だよね)

 一度目は食事を一緒にしただけ。
 二度目は、忙しい合間を縫っての公園散策。

 デートらしいデートが三度目にして、ということになる。

 まだ「お試し交際」期間なのはわかっているし、それに……俊輔は自分のような平凡な女性を、本気で好きになったわけではないのかもしれない、と思う時もあった。年齢の差以上に、彼との立場の違いを感じると、なんだか居たたまれない気持ちにもなる。

 けれど、つないだ手の感触を思い出すと鼓動が速くなり、次に会える日を待ち遠しく思っている自分がいることにも、気づいていた。

(もしかして私、もう……)

 はっきりとした答えの出ない問いが、亜矢香の胸を埋め尽くしていく。
 俊輔への感情が「好意」だと認めることは難しくない。だけどそれ以上に進んでいると考える勇気は、まだなかった。

 スマホが再び震え、亜矢香は画面をのぞく。

『よかった。映画の後は、またゆっくり話ができたらと思っています』

 言葉のひとつひとつに俊輔の誠実さを感じて、胸が温かくなった。
 この気持ちを、今の段階で恋だと言い切れるほど、亜矢香の人生経験は豊富ではない。

(……できればもう少し、このままでいたい)

 今はただ、この甘い戸惑いに浸っていられればいい。そう思った。
 普段は少し寂しい、部屋の中の静けさが、今は有難いものに感じられた。
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