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第二章
【第9話】近づきすぎた距離で
しおりを挟む週末の午後、約束通り俊輔と映画館で待ち合わせた。
選んだ作品は軽いコメディタッチの恋愛映画。
亜矢香にとって、映画館に足を運ぶのは学生時代以来だった。ポップコーンを分け合いながら笑ったり、隣で聞こえる小さな息遣いに胸が高鳴ったりしているうちに、二時間あまりの上映はあっという間に過ぎていった。
「面白かったですね」
「ええ。正直、あんなに笑うとは思わなかったです」
亜矢香は心地よい会話と、穏やかな沈黙に包まれながら、駅前の繁華街を歩く。
隣にいる俊輔の歩幅に、自然と合わせている自分にふと気づき、頬が少し熱くなった。
その瞬間、手元にすっと差し出されたのは、炭酸水の冷えたボトル。
「飲みますか?」
「あ、ありがとうございます。……用意、いいですね」
「映画の後は暑くなりがちだと思って、さっき待ってる間に買ったんです」
さっき、というのは終演後に亜矢香がお手洗いに行っていた時だろう。
何でもないように笑う俊輔の横顔は、いつもより大人に見えた。十年分の経験差はこういう時に表れるのかもしれない。
駅に向かっていた足が、途中で止まる。俊輔が唐突に立ち止まったからだ。
「……その、もしよかったら、うちに来ませんか?」
「え?」
思わず聞き返すと、俊輔は照れたように眉と視線を下げた。
「どこかの店で食べるのもいいけど、たまには家で料理するのもいいかな、と思って……実はいちおう、材料を用意してるんです」
いつも控えめで、慎重すぎるくらいの俊輔が、今日はなんだか積極的に感じる。それを、亜矢香はほんのりと嬉しく思った。
「じゃあ――お言葉に甘えて」
うなずくと、俊輔は嬉しそうに笑う。その子供のような笑みに、亜矢香は心臓がきゅんと鳴るのを感じた。
「今日は、僕に全部まかせてください」
そう言って、俊輔はどこかから取り出したエプロンを着けた。
シンプルなグレーのエプロン姿が思いのほか様になっていて、亜矢香は思わず見とれてしまった。
「本当に、慣れてらっしゃるんですね」
「ひとり暮らし長いですからね。外で食べるより、家で作る方が落ち着く時もあるので」
キッチンに立つ彼の背中を見ながら、亜矢香は緊張を感じつつダイニングテーブルに座る。
初めて来た俊輔の住まいは、想像を超えていた。
遠くからしか見たことのない、駅直結のタワーマンション。まだ築十年ほどの、その最上階に彼の住む部屋がある。こんな所に住む人はいったいどういう暮らしをしているのかと、かすかな憧れとともに考えたものだ。
整えられた玄関に、温かみのある色合いの内装。リビングダイニングの空間だけで、亜矢香のささやかなワンルームよりも広いのではないかと思う。
広さには圧倒されたが、雰囲気には意外と生活感が漂っている。玄関の一輪挿しには生花が飾られていたし、品のあるデザインで統一されたインテリアも豪奢なものではなくシンプルで、使い込まれた風合いがあって、少しほっとした。
漂ってくるオリーブオイルとバジルの香りの中で、亜矢香は考える。
こんな広い部屋で一人暮らしなんて、寂しくはないのだろうか。掃除は自分でやっているのか、それともハウスキーパーを頼んだりしているのか――
「お待たせしました。はい」
その声に、はっと我に返る。
ダイニングテーブルに俊輔が、パスタを盛りつけた皿を置こうとしていた。
トマトソースをからめ、バジルのみじん切りを振りかけたパスタは、食欲をそそる香りを立ち上らせている。その横にはベビーリーフやレタス、紫玉ねぎのサラダを入れたガラスボウルが置かれた。
料理番組に出てきそうな仕上がりに、亜矢香は思わず、軽く拍手してしまった。
「すごい! お店みたいですね」
「ええ、気合い入れました。どうぞ召し上がれ」
いただきます、とそろって手を合わせた後、フォークに巻き付けたパスタを口に入れる。広がるトマトの酸味と甘さ、ガーリックの香ばしさに、考えるより先に言葉が出ていた。
「おいしい!」
「よかった。その言葉が聞きたかったんです」
「え?」
「好きな人の『おいしい』が」
さらりと言われて、フォークを持った手が止まる。
――好きな人。
この人は、自分を「好き」だと言ってくれる。こんなふうに何気ない会話の中でも。実感に理解が追い付いて、胸の奥が甘く、せつなく疼く。
「ほ、ほんとにおいしいです。お料理、上手なんですね」
「ありがとう。いつもは一人だから、そう言ってもらえるの、嬉しいです」
本当に嬉しそうな声に、少し寂しげな響きが混ざっているのを聞き取り、亜矢香の胸がざわつく。副社長として忙しい彼の生活を思えば確かに、家でも外でも、一人で食事をとることが多いのだろう。
そう考えると、今こうして自宅に招かれていることが、特別に思えた。
食後、俊輔とともに食器を片付けてから、リビングのソファに並んで座る。
テレビニュースを流しつつ、アイスティーのグラスを手にしていると、ふと、隣の俊輔との距離がいつもより近いことに亜矢香は気づく。途端、心臓が落ち着かなくなった。
騒ぐ胸を押さえながら、なんとか気を紛らわそうと、亜矢香は話題を探しながら口を開く。
「あ、あの……今日はありがとうございました。本当に楽しかったです。映画館で、あんなふうに笑えたの、久しぶりでした」
やや不自然な速さで切り出した話題を、俊輔は訝しむことなく受け止め、そして微笑んだ。
「それは僕の方こそです。あなたが隣にいてくれたからですよ」
正面から向けられた穏やかな笑み。視線が絡んだまま、ふいに沈黙が落ちる。
変わった雰囲気に抗えないかのように、俊輔の顔が近づいてきた。
「……っ」
唇が触れる。最初は軽く、確かめるように。だが次第に熱を帯び、深くなっていく。肩を抱かれ、背に回された大きな掌に体が包み込まれる。
鼓動が高鳴りすぎて息苦しい。けれど逃げようとも、逃げたいとも思わなかった。
むしろ――このまま委ねてしまいたい。
ソファに押し倒される体勢になり、俊輔の指先が頬から首筋へと滑り落ちる。全身が熱に包まれ、亜矢香の視界が揺らぐ。
その刹那。
「……いや、だめだ」
彼の声が、甘い熱を帯びた空気の中、低く響いた。
腕の力が緩み、距離が戻される。荒くなった呼吸を整えようとする俊輔の表情には、葛藤の色があった。
「ごめん……今は、まだこれ以上進んじゃいけない気がする」
「……え」
「お試しだから、とかじゃなくて……君を、大切にしたいんです。雰囲気に流されて触れただけで、終わらせたくない」
彼の誠実な言葉に、亜矢香の胸の奥が締めつけられる。
止めてくれたことへの安堵に、先に進めなかったかすかな物足りなさが入り混じって、どう返事をしていいかわからなかった。
「……ありがとうございます」
かろうじて絞り出した声は震えていた。
俊輔は小さく笑い、亜矢香の髪を撫でるだけにとどめた。
玄関先で別れの挨拶をする時も、お互いにまだ、頬が赤らんでいた。
「今日は来てくれてありがとう。――また、すぐにでも会いたいです」
「……はい。こちらこそ、ありがとうございました」
行儀良い言葉とお辞儀を返して、亜矢香は部屋から、夜風が吹く外に出る。
背中に残る温度と、唇が触れ合った感触が、いつまでも離れない。
(もしかしたら、もう少しで……本当の恋人になってしまうかも、お試しじゃなくて)
そんな予感に胸を震わせながら、亜矢香は最寄り駅へ向かって歩き出した。
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