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第五章
【第21話】秘密の綻び
しおりを挟むその朝、会議室には張りつめた空気が漂っていた。
俊輔は手にした資料を参照しつつ、淡々と報告を終える。そこでふと、刺すような視線を向けられていることに気づいた。
視線の主は、重役席の右端。社長の姉であり顧問役の、桐谷和子。義理の伯母にあたる女性である。
彼女の目は鋭く、まるで、隠しごとを見透かしてでもいるかのようだった。
「報告に不備でもありましたか、桐谷顧問」
「いいえ、問題ないわ。いつも通りの良い仕事ぶりね」
「恐れ入ります」
唇に笑みは浮かべているが、目は変わらず鋭い。
普段から厳しく隙のない人物ではあるが、いつにも増して、雰囲気が尖っている気がする。
俊輔が心の中で首を傾げていると、そういえば、と話題を変えるようにこう言われた。
「最近、ずいぶんと表情がやわらかくなったわね。俊輔くん」
「……そうでしょうか」
「ええ。そう思いません? 皆さん」
和子の問いかけに、居並ぶ面々が順次、うなずきや同意の短い言葉を返す。
「もちろん悪いことではないわ。社の幹部に親しみやすさが感じられるのは、イメージアップにはむしろ歓迎だけれど――副社長という立場にふさわしい、誰に見られても恥ずかしくない行動は大事よ。それを忘れないでね」
にっこりと、一見穏やかな笑みの奥に、冷たい刃のようなものが感じられる。
それは周囲も同じだったようだ。会議室の空気が一瞬、凍った。
――噂が、届いている。
俊輔はそう、直感で察した。
カフェか、あるいは別の場所で、関係者の誰かが見たのか――亜矢香との交際がここにいる面子に伝わっているのだ。
おそらくは、大企業の副社長がしがない女性店員に入れ込んでいる、とかなんとか――そんなふうな、立場の差を揶揄するような言い方でささやかれているのだろう。
「――肝に銘じます」
「そうしてちょうだい。特にあなたは、特別な存在なのだから」
ゆっくりと一部分を区切るように言い、和子は社長に会議の終了を促した。
会議室を出てからも、俊輔の背筋には冷たいものが残っていた。
長年尽くしてきた「会社」という器が、急に窮屈なものに感じられる。
境遇と立場にがんじがらめに縛られている自分自身を、俊輔は、今さらのように認識せざるを得なかった。
同じ日の夕方。
俊輔は亜矢香が新しく勤める、ファミリーレストランの近くまで来ていたが、店には入らなかった。
ガラス越しに見える彼女の姿を、遠くから見つめる。
笑顔で接客しながらも、少し疲れたような表情。
きっと、新しい職場に慣れるために必死なのだろう。
『Caféワイズ』で働いていた亜矢香も、出逢った頃はそうだった。やっと仕事に慣れたところだっただろうに、転職するしかない、と思うような事態に追い込んでしまった。
自分が彼女を巻き込んでしまったのではないか――そんな悔恨が、俊輔の胸を締めつける。
そのタイミングを見計らったかのように、スマートフォンがメッセージの着信を告げた。送信者は桐谷和子。
通知のポップアップに全文が表示されるほどの、短い文面。
『あなたの立場を軽んじてはいけない。会社も、家も、あなた一人のものではないのよ』
冷たい刃物で突き刺すような、容赦のない言葉。街なかの喧騒が、俊輔の周りだけ遠ざかる。
画面を消し、深く息を吐く。
「……いや、違う。もう誰かの思い通りには生きない」
つぶやいた声は、自分でも驚くほど低く聞こえた。
◆ ◆ ◆
夜、レストランの閉店後。
店の外で待っていた俊輔に気づき、亜矢香の目が大きく見開かれた。
「俊輔さん……! どうしたんですか?」
「ああ、少しだけ顔が見たくなって」
素直な気持ちが乗せられた言葉。それだけで心が緩むのを感じる。
だが、彼の表情の奥には、どこか曇りがあるようにも思えた。
「何かあったんですか?」
「いや……まあ、会社で少し、いろいろあってね」
言葉を選ぶようにゆっくりと言い、俊輔は笑う。
けれどその笑顔は、無理をして作っているのが、今の亜矢香には伝わる。
ひとけの少ない道を、二人は駅まで並んで歩いていく。
亜矢香は、彼のスーツの袖をそっとつまんだ。
「私、聞くことしかできないけど……それでも、話してもらえたら嬉しいです」
「……ありがとう。でも、今はまだ。もう少し整理してから話すよ」
俊輔の言葉に頷きながらも、亜矢香の胸はちくりと痛んだ。
彼の世界の中には、自分が踏み込めない場所がある。
それが「社会」や「会社」なのだと、わかっていても苦しく感じた。
(私がもっと、力を持てる立場だったら……)
今よりも何かの役に立てるのだろうか。そんなふうに考えて、亜矢香は軽く首を振る。
俊輔はたぶん、そういうことは求めていない。
そばにいて、支えること。彼が亜矢香に望み、亜矢香にだけ許されていること。
袖をつまんだまま、彼より半歩遅れて歩くうち、駅にたどり着いた。
別れ際、俊輔はふと、亜矢香の頬に触れる。
その指先がほんの少しだけ、震えていた。
「大丈夫。何があっても、君のことは守るから」
「……はい」
そう言ってもらえて、素直に嬉しく感じる。
けれど、と同時に亜矢香は思う。
――守られるだけではいけない。
彼の隣に胸を張って立てるように、もっと強くならなくては。
秋の夜風が吹き抜ける道で、街灯が、二人の影をそっと重ねていた。
◆ ◆ ◆
桐谷和子は、役員フロアの窓際に立ち、眼下の街を見下ろしていた。
夜のビル群は整然としていて、無駄がない――本来、組織もこうであるべきだ。
「……感情で動く男ほど、危ういものはないわ」
つぶやいた和子の脳裏に浮かぶのは、吉羽俊輔の顔。
ここ数カ月の変化は、和子の目にはあまりにも明らかだった。
以前よりも表情が柔らぎ、人好きがするようになったこと。判断に情が混ざるようになってきたこと。
それらは経営者として、決して褒められる変化ではない。
俊輔は優秀だ。養子として吉羽家に入ってからの二十数年、期待に応え続けてきた。
だからこそ、今さら余計なものに足をすくわれるわけにはいかない。「正しい」軌道修正が必要だった。
(拾われた身であることを、忘れさせるわけにはいかない)
口に出さずとも、その思いははっきりしている。
待遇を与えた分だけ、責任も背負わせる――それが、吉羽家に連なる者としての務めだ。
デスクに置かれた資料に、再び目を落とす。
『桜田亜矢香に関する調査報告書』
――先月まで『Caféワイズ』に契約社員として勤務。現在は某レストランチェーン所属。
実家には病弱な母親と就職したばかりの弟妹。特別な後見や親族は見当たらない。
「副社長の伴侶としては、やはり論外ね」
和子は静かに資料を伏せた。
これは断じて個人攻撃ではない。
会社と家を守るための、当然の判断だ。
「俊輔くん、あなたがどちらを選ぶのか……しかと見せてもらうわ」
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